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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/12 献児式、へブル(4)神の力あるわざによって へブル2:1〜4
☆聖書箇所  へブル2:1〜4
1 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
2 御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、
3 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
4 そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。

☆説教 へブル(4)神の力あるわざによって

今日はへブル人への手紙の2章の1節〜4節、この記事を見ていただきます。
元旦の日にも開きました。

1 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。

私(藤本牧師)はこの「押し流される」という言葉を、この聖句に目を留める度に、「屋根の上にバイオリン弾き」という映画を思い出します。
日本では長くミュージカル(※森繁久彌主演)でなされていました。

ユダヤ人の映画で描かれているのは、第二次大戦の前、帝政ロシアを追われて行くユダヤ人の姿ですね。
どこにあっても、どの時代でも、ユダヤ人たちは伝統的な価値観、ものの考え方を守って来ました。特に親の代というのはいつもそうです。
でもそれを打ち破って、それぞれ散って行った世界の、今の感覚で生きていきたい、という若い世代のこの葛藤を描くのが、「屋根の上のバイオリン弾き」です。

伝統を守ろうとするテビエというお父さん。
そしてそこから離れていく娘たちです。

映画というのは、屋根の上でバイオリンを弾く男から始まります。
それが主題歌 "Sun Rise Sun Set"(日は昇り、日は沈む)という曲。
弾いている人間はシルエットしか出て来ませんけれども、アイザックスターンという有名なバイオリニストです。
屋根の上というのは、ほんとにバイオリンを弾くような場所ではない。
滑り落ちてもおかしくない(鋭い傾斜の屋根です。)
でもそこで名演奏を弾くことができるのは、どこかで自分が何者であるのか、というその意識を忘れていないからです。

ですから「押し流されないように気を付けなさい」というこのみことばは、
私たち誰にとっても、どんなに急流の世界に叩き込まれたとしても、自分は神さまに愛されている者である、キリストに贖われた者である、というこのアイデンティティーを失わないように、という思いを込めて、このみことばを読むことが多いです。

今日はちょっと違う角度で、話をしてみたいと思います。

1)手紙の読者が置かれている状況

手紙が記されているのは、恐らく紀元80年、90年と言われて、ローマ帝国の有名な皇帝ネロの迫害が終わって、まだまだキリスト教が弾圧されている頃です。
この手紙には、いきなり論説文章から始まって、挨拶がありません。
パウロの手紙には、いつでもパウロは自分は誰で、あなたがたは誰なんだ、という書き手と宛名が記されているのが、当時の手紙の形式でありました。
それではないので、パウロが書いた手紙ではない、という風に言われています。

でも内容から、誰に対して書かれた文章なのかは、推察することができます。
恐らくユダヤ人であって、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々。
当時キリスト教が迫害にある中、ユダヤ教は別格でありました。
ローマ帝国が課す徴兵制からユダヤ人は外されていました。
それから皇帝崇拝をしなければいけない、という帝国の決め手からもユダヤ人たちは免れることができました。税金さえ納めていれば。
そしてローマ帝国に反逆しなければ、ある程度庇護のもとにあったのが、ユダヤ教です。
しかし、そこから全く分かれてしまったキリスト教は、そうではありませんでした。
 
しかも、初期のパウロがそうであったように、初期のキリスト教は、イエスの再臨がすぐにやって来るものだと思っていました。
でも時間が経過するだけで、自分たちは迫害され、まるで取り残されたかのように、この世にあって、こんなに迫害を受けて、試練の中にあって、果たしてこの信仰でいいんだろうか?という疑問が、ユダヤ人でキリスト教に改宗した人々の心の中にはあったのです。

そういう風潮の中で、「押し流されてはいけません」というのが、この手紙の趣旨で、
ですからイエス・キリストというお方が、ユダヤ教の天使や旧約聖書の天使、それらにはるかに勝ってすぐれた救い主であるということが、これからゆっくり学んでいくことができます。

(へブル書2章)3節をちょっと見ていただきます?
私(藤本牧師)ちょっとこの3節は映しますね。
【画面:へブル2章3節「すばらしい救い」「ないがしろにした場合」にオレンジのハイライト。】
<へブル2:3>
3 こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。・・・

「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を免れるでしょう」――この聖句にちょっと心を留めていただきたいと思っています。
言い方はかなり厳しいです。
ないがしろにしたら処罰されるという言い方。
こういう言い方は、たとえ聖書のことばであったとしても、気をつけていただきたい、と思います。

私は今日問題になっていることと重ねれば、いわば宗教二世というのがありますよね?
私も宗教二世です。親が信仰者で私は二世。皆さんの中には三世、四世の方もいらっしゃいますでしょう。
これが統一教会、宗教二世が被害を訴え、今はエホバの証人の宗教二世が被害を訴え、
これ、下手すると、キリスト教の宗教二世で誰かが訴えてもおかしくはない。
なぜなら、こういう聖書の言葉をそのまんま使おうとしますとですね、
神のみことばをもって、私たちの自由が奪われるかのように、やっぱり感じてしまいますよね。

根本的に宗教というのは、同じことが言えます。すなわち親が信じていたら、子どももまた同じ信仰を信じる。
親は親で、子どもは子どもで――小さい子どもはそういうわけにはいかないです。
統一教会にも、エホバの証人にも――ま、私(藤本牧師)は知りませんけれども――教会学校みたいなものはあるんだろうと思います。
礼拝は一緒にするんだろうと思います。

でも問題は、統一教会のように――親が家のお金をすべて献金してしまい、子どもは食べるものにも困ってしまう――そこまで親の信仰のゆえに家庭が犠牲になる、ということを宗教二世は訴えているわけですよね。
子どもの幸せを考えずに、ただただ宗教に熱心であるという家庭は、私はキリスト教にはないと思います。
でもエホバの証人は、一日7キロ歩いて伝道する、という義務があります。
ですからお母さんが子どもの手を引っ張って、まだまだ小さい子どもですけれども、7キロ歩かせられたと言われますと、

私(藤本牧師)も高津教会で路傍伝道があった頃、路傍伝道というのは高津の教会の前から始まる。
そして神学生がやって来て、ま、Nさんなんかもトロンボーンを吹いたりして、そして溝口の駅前まで路傍行進をして、そして路傍伝道をやるわけです。
特伝の時には、皆さん加わりますけれども、私学校に行きますとね、次の日に私の机の上に路傍伝道のチラシが置いてあるわけです。
そして友だちから「これって、おまえんちだろう?」って言われるわけです。
「俺んち」だよと。「おまえも来いよ」とはなかなか言えないですよ(笑)。
「誰でも来れるんだから、君もおいでよ」とは、教会学校とはちょっと話が違うんですよね。
キリスト教も同じような過ちに陥る可能性は十分にある、という意味で、ちょっと(へブル2章の)3節に目を留めていただきたいんですね。

もっとも正しい神の言葉っていうのは、実は聖書の中に沢山あります。
でも、こういうものの言い方は気をつけなければいけないということを、気をつけずに言っている場合もあります。
「こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。」
《処罰》というものの言い方をしています。
「キリスト教の救いをないがしらにしたら、処罰が待ってるぞ!」という言い方を、仮に私が自分の子どもにするとしたら、
それは「すばらしい救い」が《脅し》に変わりますよね?
私の真実な愛が、押し付けに変わりますよね?
「すべてはあなたのため、あなたが処罰を受けることがないように、どうか救いをないがしろにしないでほしい」と私が真実に言うとしたら、私の子どもはそれを若干、脅迫的なメッセージとして受け取りますよね?

へブル人への手紙の記者は昔の人です。
昔の人の親子の会話、或いは子どもの扱い方というのは、パウロは「子どもを怒らせてはいけない」(***コロサイ3:21)と言っていますが、基本的に子どもは親の所有物というものの考え方があります。
勿論親は子どものために熱心に思って、そう言っているんですが、《厳しい処罰》というものの言い方を、たとえて言うならば、イエスさまはなさいませんでした。

放蕩息子の話(***ルカ15:11〜24)を考えてみたらよく分かりますよね。
親の財産を先に貰い、それをすぐに金に換えて遠い国に出かけて行って、そして遊女に尽くして、やがて豚の世話をして、反省して家に戻って来ますよね。
その時、このものの言い方だと、「あなたはすばらしい救いをないがしろにしたんだから、そう簡単に家に入れると思うなよ」というのが、普通のものの言い方じゃないですか?
息子もそれを考えたのでありましょう。
父親の顔を見ると、言いました。
「私は天に対して、お父さんに対して罪を犯しました。もう子どもと呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください」
「雇人の一人でいいから、お父さん、私はもう人生底をつきました」と言っているわけですよね。
でもイエスさまの譬え話では、父は処罰するどころか、大喜びで帰って来た息子のために祝宴を催すんですよね。

そうすると、聖書の中には、厳しいものの言い方も色々登場しますけれども、
神の愛のおおらかさ、神の愛の偉大さ、というのは、どう考えても私たちは否定できないですね。
「すばらしい救い」のいったいどこがすばらしいのか?
それは神が御子イエス・キリストを、私たちの罪のために、十字架に送られ、私たちの罪の代わりとして、御子イエス・キリストはいのちを捨てられた、という所がすばらしいんです。

でも、すばらしさはそれだけではない。
そのすばらしさが今ひとつピンと来ない人も、そのすばらしさが時にないがしろにしてしまった私をも、神さまはあわれんでくださり、その愛の腕の中から私を離そうとはしない。
イザヤ書に出て来ますよね。
あなたはわたしの子であるにも関わらず、わたしの背中で暴れたという表現が。
イザヤ書63章でしたかね、子どもですから親に背負われているんです。
だけどその背負われているという現実を嫌がるかのように、子どもは暴れるんですよ。
そしてやがて子どもは気がつくんですよね。「自分は若しかしたらもうだめかもしれない。私の罪は木の葉のように吹き荒れて、そして果たして私は救われるんでしょうか?」という訴えを神さまに投げかけるんです。
「果たして私のような者が一体救われるんでしょうか?」という問いは、人類最大の問い、そして聖書最大の問いですよ。
そして返って来る答えはいつも同じです――「あなたもまた神の救いの中にあります」。

私たちと神さまというのは、何かどこかで対等の関係にあるかのようで、
私が背を向ければ神さまもそっぽ向く。私が慕えば神さまも慕う――そんな大した存在じゃないんですよ、私たちは(笑)。
でも神さまは、そんな幼子の口を通してご自身の栄光を現すことができるという程、こんなちっぽけな私を、神さまは存分に用いることができる。
でも私の意志など簡単に神さまは丸めてしまうことができる程の力を持っておられる方で、私がないがしろにしたことなど神さまはすっと包んで、私を愛してくださる程、その「すばらしい救い」を持っておられるんですね。

私、ちょっと自分では覚えてないんですけれど、数か月前にそういう話をしたんですね。
ある方から、どういう言い方だったのか、クリスチャンホームで今は離れてしまった子どものために――(※思い出したように)そうですね、「そういう存在をも、神さまは家族として見なしてくださる。あなたのゆえに」というメッセージを私はしたんですよね。
後に、どなたかからメールをいただいて「胸の重荷が取れたような思いがしました」と。

教会は、子どもの頃には熱心に来ていた子どもたちが、やがて部活で忙しく、様々なことがあり、礼拝を休むようになる。
この現実をすべての教会は体験しているんですね。その度ごとに、その子に《まるで処罰を受ける者になってしまった》かのように、《すばらしい救いをないがしろにしてしまった》かのように、嘆きながら、自分の人生を送って行く親というのは不幸ですよ。

むしろ「自分の信仰のゆえに、自分の家族全員が主の恵みの中にある」ってどうして堂々と言わないのかと思う程、
私たちは自分の体験が神さまと繋がっているように、家族全員の体験が同じように熱心に神さまと繋がってほしいという願いがある。その願いは否定しません。
でも《その願いを越えて、神さまの救いは偉大である》ということを、「このすばらしい救い」の中に込めていただきたいと思うんですね。

2)「聞く」という言葉の限界

「聞く」という言葉は何回か出て来ますね。
(へブル)2章の1節に出て来ますでしょ?
「こういうわけで、私たちは聞いたことを〜」
(へブル)2章の3節に
「この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示した」

聞く。語る。読む。
紀元80年に語られていたとしたならば、イエスの十字架と復活から50年経過していますよね。
ですから、直にイエスの福音を体験したというよりは、もう「聞く」という体験の方が圧倒的に多かったわけです。もう世代は変わっていますから。
福音、神の言葉は、「聞く」というところで私たちは知ることができます。
しかしそれが「聞く」だけでは、従順に生きている時もあれば、「聞く」だけでは疑いを持つこともありましょうし、
「聞くだけでは十分でない」という時期を私たちは通って行くんですね。

正直、私自分自身がそうでありながら、牧師の息子がよく献身するなあと思います(笑)。
私は自分が偉いと思いますもの(笑)。
皆さんにお話ししたことがありますけれど、父がまだ(横須賀の)ケアハウスにいて、それが電車で一時間半ぐらい、(会堂では)父がそこに、一番前に座っているんですね。その後ろにY姉が座っていて、父に何かあったら世話をしてくださるんですが、
よくもまあ息子の説教を聞きに一時間半、来るなぁと思って、ほんとに偉い父だなぁと思った瞬間、私は逆にもしかしたら僕の方が偉いんじゃないかな(笑)と、その瞬間そう思いましたもの。

だって、中学生、高校生の時代、父の説教は「お説教」にしか聞こえないんですよ(笑)。
私はほとんど関心がなかったです。姉は結構恵まれていたようですけれども、
私は目の前にある聖書が、やっぱりどうしてもカレーライスに見えるんですよ。
それが時々、私が好きだったマグロの寿司に見えるんですね。
カレーライスに見えたら、お祈りをして、どうかこれがマグロの寿司に見えますように。
お祈りすると見えるようになるんですね。そうすると、どの順番から食べようかな、とそれほどリアルに昼ご飯、しかも到底かなわない昼ご飯に見えて来る程、私にとっては礼拝は苦痛でした。

なぜなら、講壇に立っているのは自分の父親ですもの。
そして礼拝が終わると、私は遊びに行くんですね。
すると父は必ず、「おまえ、どこに行くんだ?」って聞くんですよ。
今頃天国で笑っていると思うんですけれどもね。
「どこへ行こうと僕の自由だ、礼拝は終わっているんだし」
「いつ帰って来るんだ?」と。「夜の伝道会に間に合うのか?」みたいな。
「え、そういうものの言い方をするのか?」
「伝道会の前に路傍伝道があるんだけれど、おまえは路傍伝道の前に帰って来るのか?」と――そこまでは言いませんでしたけれどもね。
だけど、礼拝が終わってからでも「今日は聖日で聖なる日だから、おまえはどこへ行くんだ?」という言い方をされた人間が、よく牧師になったなぁと思います。

すると皆さん、なんとなく分かって来ますでしょう?
この宗教二世の問題だとか、こういう聖書の厳しいものの言い方というのは、そう簡単にポコッと当てはめるものではないです。
私の母は、非常に寛容な母でした。ま、厳しい人には厳しかったらしいんですけれども、私には決してそういうようなことは言いませんでした。
なぜなら、私にそういうことを言ったら、一発で反発する人間であるということを母は知っていたんだろうと思います。

私は自分の息子・Nの信仰も立派だなぁと思っています。
Hさんに育てていただきました。
小学校の時代、彼は友だちを沢山連れて来まして、戸塚先生のクラスは子どもたちで一杯でありました。
でも高校時代、ほとんどHさんと一対一の教会学校でした。三年間、ほとんど一対一。
Hさんは忠実な方でいらっしゃいますから、もし自分が休んだら、Hさんを裏切ることになると(笑)。
ですからNは、もう必死になって教会学校に出ていました。

でもHさんも教会の皆さんも、本当にNによくしてくださいました。
Hさんは夫妻で、Nを色んな所に連れて行ってくださって、
やがて皆さんは社会人になって色んな問題を抱えたNの相談に乗ってくださり、
結婚して子どもが生まれましたら、奥さんの実家がHさんのお家のそばでありましたから、
一番最初に駆けつけてくださったのは、Hさんご夫妻でありました。

ですから、そのようにして、私たちは互いの子どもたちをケアし、大事にし、これは教会の子どもたちなんだ、という思いで、温かく迎えようとしているわけですよ。
ですから教会学校の営みも、単に聖書の教えを教えるだけでなくして、いかにしてその子を楽しませるか、ということに一生懸命になるわけじゃないですか。
このオンラインの時代というのは、子どもたちは可哀想でした。
そういう意味も含めて、「お遊び広場」を考えてくださったのです。
何かを教えて礼拝するのではない。

青山学院大学は駅伝で有名ですけれども、あの駅伝の最初に礼拝があるんですよ。
私よくやるなぁと思いますよ。正直(笑)ね、駅伝の前に、駅伝に勝つように神さまに祝福をと讃美歌を歌って、どなたかがお祈りをするんですよ。
そこまでしなくてもいいんじゃないかなあと思いますけれども、それがミッションスクールの使命なんでしょうね。
ミッションスクールでは毎日礼拝あるんですよ。
私(藤本牧師)、割とミッションスクールから嫌われていて、
私ミッションスクールで先生方に言うんですね――「よくまあ、毎日礼拝しますね」って。
「教会でさえ週に一回しかしないのに(笑)、それを毎日して、いったい子どもたちはどういう境遇に入るんでしょうか?」っていうことを、
私(藤本牧師)口に出して言ってしまうので、割と嫌がられるんですよね(笑)。

さて、3番目、最大の希望はここにあるんです。
9節――ここに今日は目を留めていただきたい。

3)希望は神の直接の介入です。

9そのうえ神も、しるしと不思議と力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。

救いを証ししてくださるのは神ですよ。
私たちは聞くだけかもしれない。
でも子どもたちはテストがあり、病気があり、やがて人生の難問があり、
でも神がしるしと不思議とさまざまな力あるわざ、また聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いのすばらしさを神が教えてくださる。
親は教えることができないかもしれない。
私たちは聞くだけになるかもしれない。
でも振り返ってみると、神が子どもたちの祈りに答えてくださり、わざを成してくださり、その救いがどんなにすばらしいものであるかということを、気がつかせてくださるというのは、いわば子どもの人生全体を通してです。
今ではないかもしれない。でも必ず神はそのすばらしさを分からせてくださる。
という所にすべての望みがあります。

☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、あなたのみわざに感謝いたします。こんな小さな私も、信仰に反抗するばかりでありましたけれども、あなたは見捨てず、祈りに答えてくださり、折にかなってその恵みを示してくださいました。

私たちの教会家族、時には(あなたを)ないがしろにしていることもあるのかもしれません。でもすべてはあなたの愛の大きさにかかっていることを信じています。どうか家族の者たちが祈る時に、或いは祈りを私たちに願う時に、私たちは祈りますので、どうかその祈りに答えてくださり、あなたの御力を現してください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2023.03.12 - 20:45
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