☆聖書箇所 マタイ28:1〜10 1さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。 2すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。 3その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。 4その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。 5御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。 6ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。 7そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか。私は確かにあなたがたに伝えました。」 8彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。 9すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。 10イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」 ☆説教 イースター・聖餐式:私の墓石を動かしてください
今朝のイースターの説教の個所は、マタイの福音書の28章の1節〜10節。 「私の墓石を動かしてください」です。
1)復活の出来事は、お墓、墓場で始まっています。
十字架の記述の最後は墓で終わっています。 ちょっと27章の57節を見ていただきたいと思います。ちょっと映しますね。 57節から読んで行きますね。
【画面:マタイ27章57〜60節 特に印はなし】 <マタイ27:57〜60> 57夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。 58この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。そこでピラトは渡すように命じた。 (***ということは、イエスの遺体を十字架から降ろして、そして59節見てください。) 59ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 60岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入り口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。
この石には封印がされて、番兵が立ち、そして弟子たちがその遺体を盗むことがないように、墓に納められました。 人生というものは、墓で終わります。
先々週の土曜日ですね、一気に教会員の方々の3人の納骨式を教会墓地でいたしました。 1時、2時、3時と時間を分けていたしました。 ほとほと疲れ果てましたけれども(笑)、しかしこのようにして、コロナ禍三年間で15名の方々を教会墓地に納めることによって、私はますます実感いたしました。 私たちは誰一人として、何も持って死ぬことはできない。
《裸で生まれ、裸で死に、そして遺骨になって、教会墓地に入る。》 勿論教会墓地には、「復活」という大きな文字が刻まれていますが、しかし《それが私たちの人生であるという厳然たる事実》というものは、私たちから遠ざかることも私たちがそれを無視することもできないですね。 《この私たちに待ち受けている一番大きな事実に対して、キリストの復活がある》ということを覚えてください。
イエスは金曜日にその遺体が墓に納められ、そして土曜日のことは何も聖書は記していません。 日曜日の朝、やはり墓から始まります。 28章の2節を見ていただきますが、1節から(読む)。 【画面:マタイ28章1〜2節 特に印なし】
1さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。 2すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。
という風に復活の出来事が始まります。 「二人のマリアが墓を見に来た。すると大きな地震が起こり、なおかつ天の使いが降りて来て、墓石をわきに転がし、その上に座った。」 という記述で復活は記されているということを覚えてください。
二人のマリアが墓を「見に」行った、というのは、「じっと見る」という意味です。 単に様子を見に行くだけでなく、《イエスの遺体に香料を塗るために》という現実もあるでしょうし、 しかし《正にこの方はいのちを落とした。ここにあるのは遺体だ》という意味で、じっと見たのか知れませんし、 《自分たちの期待していたすべての人生が墓で終わってしまった、というその事実を受け止める》意味で、茫然としかしじっと墓石を見つめていたのかもしれません。 何をするでもなく、墓をじっと見つめて座っている二人の女性たち、その姿は非常に異様であり悲惨であろうかと思います。 愛する者の死の悲しみによって、心が砕けてしまった、 しかもそこには時間の差がわずか二日しかない――金曜日の夕方に亡くなり、そして日曜日の朝の出来事ですから――彼らの心は茫然としていて当然であります。 墓を見つめる以外、何もできない。
教会の墓地は、お花が絶えることがありません。 いつも誰かが墓地に墓参りに来て、そして花を活けておられるという事実、お墓はいつもきれいです。 私たちきょうだい三人(※戸塚祝さん、藤本満牧師、南場康子先生)も今年初めて、両親の墓参りに3月に行きました。 奈良から妹(※高田教会、南場長文牧師夫人康子先生)が来て。 初めて揃って集まり、お祈りをして感謝をし、一緒に食事をしました。 改めて、両親はいないんだ、という現実と、 それから、すべてから解放されて、天の御国で安らかにしていると、いう希望、 そして、私たちもまたその墓に入る、というこの事実を受け止めました。
2)神さまは、墓石を転がす
天の使いが降りて来て、石をわきへ転がして、その上に座りました。 単純に考えて、誰のためにそうなったのか? 誰のために、天の使いは墓石を転がしたんだろうか? 中に入っているイエスさまを外に出すためなのか? いえいえ、死を克服した主は、もう既にこの墓の中にはいないんですよね。 彼らが入ってみると、もう墓は空っぽですから。 すると、天の使いがあえて墓石を退かしたのは、中が空っぽだよということをこの二人の女性に見せるためですね。 明らかにこの二人のマリアのために、墓石をわざわざずらして、墓石の上に座っていたわけです。 二人が中に入って、イエスの遺体がないということを確認させて、《死者を復活させる神の力を味わうために》、墓石を退かしてくださった。
神さまは天からこの二人を見ておられました。 ゴルゴタの丘で、最後イエスが墓に納まるのを見ているこの二人。 そして絶望の中を、暗い中で墓に向かうために歩いている二人を。 そして墓を前にして茫然とたたずむ二人を、天の神は見ておられました。
そして墓石を動かすことによって、 私たちの人生にそのようにして封印していく重たい重たい墓石を、 「わたしはいつでも動かすことができる」と。 私たちの人生を阻む所の墓石のような困難の重さ、それら一つ一つを神は除いて、転がすことができる。 「見てごらん、復活というのは、わたしの栄光の力だ」と。
神さまは、主イエスのみならず、私たちの人生に、行く手を阻むように、私たちがただ茫然と見つめるしかないような絶望的な出来事を、墓石を動かすことによって、事態を好転させてくださる。 天の使いを送って、実は墓はほとんど意味がない。 (マタイ28章)6節にこうありますね。 【画面:マタイ28章6節、特に印なし】
6ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。 「さあ、納められていた場所を見なさい」と。 そこにはもう、イエスの遺体はないんですね。 十字架につけられたイエスというのは、私たちの日常で言えば、いったい何だったんだろうかと思います。 それは必ずうまくいくはずだと思っていた期待が、完全に封鎖されて、そして墓の中に納められ、これでもうだめだという、自分はこれ以上もう前に進んで行く意味がない、という程の絶望的な体験。 その規模は大きいかもしれない。いや、ものすごく小さいかもしれない。 でもものすごく小さかったとしても、私たちの人生には不安や困難というものが山程あり、私たちはその一つで躓く。 その一つを見つめる。小さな出来事にも関わらず、その一つを見つめることによって、私たちは自信を失い、 果たしてやっていけるんだろうか?という深〜い落胆に包まれていきますね。
子どもたちが進級します。 進級して送り出す、たとえばお母さんの思いがあります。 或いは転勤していきます。この新しい年度に転勤した時、地域に馴染むんだろうかという問題もあれば、 職場の人間関係が新しくなるということで、ものすごいストレスがかかります。 部署が変わり、さらに大きな責任がのしかかりますと、私たちは一遍で果たしてやって行けるんだろうか?という思いに陥ります。 それはすべて私たちのいのちを墓に閉じ込め、そこに蓋をしてしまうような墓石です。 神さまは天の使いを送って、私たちの墓石を退かしてくださる。 それだけで、世界が変わります。 そういう思いで、今朝の聖餐にあずかっていただきたいと思います。
アメリカの話ですけれども、ある学校の先生が地域のボランティアをしようと思って、それを病院に申し出ました。 「私にできることがあれば、何でもさせてください。」 病院のスタッフは、 「だとしたら、あなたの職業は先生ですから、中学校の男の子がいま入院しています。どうかその男の子に勉強の手伝いをしてあげてください。(回復した時にあまり遅れを取らないためです。)」
行ってみますと、その男の子は沢山の包帯を巻かれて、まさに瀕死の状態で病室に寝ていました。 先生は思うんですね。 「この子に勉強を教えろって、一体どういうことなのだろうか?」 火事で身体の60%がやけどで、ぐるぐる巻きの包帯であります。 酸素ボンベも付けていますし、先生は躊躇しましたけれども、背を向けて帰るわけにはいかず、 先生はベッドの傍らに椅子を置いて、自己紹介をして、それから画用紙を出して、黒板に見立てて、マジックで英語の文法を教えました。 先生は少年に言うんですね。 「大丈夫だよ。私は学校の先生なんです。病院でボランティアをしていてね、今日は君の所に来て、宿題を手伝うように言われたんだ。」
少年はあまりの痛みに、返事もできません。顔にも包帯が被っています。 「自分のボランティアにいったい何の意味があるんだろうか?」 先生は、冷や汗をかきながら、40分教えました。
そして次の回、もう一回行きますと、夕方病院に着くと、やけど病棟の看護師さんに呼び止められました。 「先生、あの子にいったい何をしたんですか?」 先生は直ぐに謝りました。 「申し訳ありません。意味なかったですよね。あの子を却って疲れさせましたよね。私もなんであんなところで、英語の文法を教えたのか、自分で良く振り返ってみて、訳の分からないことをしてしまいました。」
すると看護師さんは、謝る学校の先生を、笑顔で遮って言いました。 「いやいや、そういうことではないんです。あれほど人生に諦めていた少年が、あの日から元気になりました。」
後から分かるんですね。 少年は大きな大きなやけどを負って、生きる勇気を失っていました。 つまり少年は、その日から墓を見つめて、病院で治療を受けていたんです。 でもあの晩、あの夕方、先生が宿題を教えにやって来たということで、少年は思ったと言うのです。 「助かる見込みのない人間に、英語の文法は教えないだろう。ということは、自分は助かるんだ!」 という《希望が、この少年の中に芽生えた》。 「自分はやっていけるんだ。この傷は必ず癒されて、自分は学校に戻ることができるんだ! これから先、何度か手術を何度か受けなきゃいけないかもしれないけれど、自分は墓の中に閉じこもっている必要はない。」 《墓石はほんの少しでも動いた》ということです。
神さまは墓を見つめる私たちに、小さな石を動かしてくださいます。 そして希望の光をほんの少し、墓の中に入れてくださいます。 「終わりではない。これからだ」と言わんばかりに、石を私たちのために動かしてくださる。 キリストが死者の中からよみがえったのなら、そのキリストは私の人生を変えてくださる。必ず変えてくださる。 その意味するところがすべて分かるのは、やがて私たちが死を迎える時でありましょう。
その時私たちも復活の力のすべてを知ることができるでしょう。 今はわずかかも知れません。しかし、主は生きておられる。 天の父は御使いを遣わして、《私がじ〜っと見つめているその小さな石、そして自分自身を墓の中に閉じ込めている現状を、主は動かしてくださる》という希望を私たちは得る。 3)喜びなさい
ちょっと(マタイ)28章の8節をいま映しますね。 【画面:マタイ28章8節〜9節、しるしは特になし】指差しながら読む。
8 彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。
「大いに喜んで」という言葉があります。すると、9節に――
9すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。
この「おはよう」にアスタリスク・マーク(*星印)がついていますよね。 実はこの「おはよう」(9)という言葉と「喜んで」(8)という言葉は同じ種類の言葉です。 「おはよう」というのは、これギリシャ語で「カイロー」なんですが、 「カイロー」っていうのは、「喜べ」という意味です。 これは当時の挨拶の言葉で、朝ですから「おはよう」です。 天使がマリアに現れ、受胎告知をした時に、「おめでとう、マリア」って言っていますけれども、あれも「カイロ―」です。(***ルカ1:28) 「喜びの知らせ」を持って来ましたので、挨拶の言葉として「おめでとう」なんですね。
この場面(マタイ28章)では朝の出来事ですから、挨拶の言葉で「おはよう」という風に訳していますけれども、それはそもそもの意味は「喜べ」。 彼女たちはこの出来事に喜びを抱き、そしてイエス・キリストからも、弟子たちのもとに向かう途中、「喜べ」と言われています。 イースターは喜びの出来事です。
ちょっと10節を、最後、見ていただきますが―― 【画面:マタイ28章10節、特に印なし】指差して読む。
10イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」
「わたしの兄弟たち」というのは、イエスさまの弟子たちのことです。 福音書の中で、イエスさまがご自分の弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んだことはないです。弟子は弟子、師は師です。 しかし、復活のイエスは、「わたしの弟子たち」とは言わずに、「わたしの兄弟たち」と呼んでいます。
しかもこの兄弟(***弟子)たちは、イエスさまを捨てて、蜘蛛の子を散らすように、去って行った者たちです。 でもそれらの者の罪を赦すように、主は「わたしの兄弟たち」と呼び掛けてくださる。 私たちの罪を十字架に背負い、私たちの病をご自身の傷によって癒やされる方は、私たちに真実に「喜びなさい」と声をかけ、「兄弟たち」と仰ってくださる。
「わたしは十字架で、あなたの罪を荷った。 あなたは墓ばかりを見つめて生きるために、この世に置かれているのではない。 自分を墓に閉じ込めるな。 自分の墓の前に小さな石を置いて、その石ばかりを見つめて生きるな。 わたしがその小さな石を退かしてあげよう。そして、あなたにいのちを与える。 あなた自身があのラザロのように――イエスさまは呼びかけましたよね、「出て来なさい」と、ラザロに呼びかけられました(***ヨハネ11:43)――その不安から、その弱さから出て来て、一日一歩でいい、少しずつ前進して力を戻して行きなさい。
(だから「喜びなさい」――イエスさまはそう言って、私たちに出会ってくださる。それがイースター、それが今朝の聖餐式です。)
☆お祈りをいたします。 恵み深い天の父なる神さま、復活の朝、あなたはこのようにすばらしい天候を与えてくださいました。でも往々にしてこの復活の出来事は、学年度の変わり目にあり、新しい環境に飛び込んでいく者たち、或いは新しい課題に埋もれる者たち、時に私たちは病院で過ごし、自宅で悶々とすることも多いことでありましょう。 また人生に降りかかって来る問題は、人間関係から、家族の問題から、自分自身の弱さから、様々なことがあります。それゆえに、私たちは自分自身を墓に閉じ込めてしまうような者でありますけれども、どうか墓石を動かして、私たちの人生に喜びを与え、またそれだけでなく、「喜べ」と命じてくださり、聖餐にあずかることができるようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
☆聖餐式 司式は藤本牧師
●聖餐式の賛美
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