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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/16 へブル(6)多くの子たちを栄光に導くために へブル2:10〜15
☆聖書箇所 へブル人への手紙2:10〜15
 10多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。
11聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
12 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、
       会衆の中であなたを賛美しよう。」
13また、
  「わたしはこの方に信頼を置く」
と言い、さらに、
  「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」
と言われます。
14そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

☆説教 へブル(6)多くの子たちを栄光に導くために

先に聖書を見ていただきたいと思います。
前回は(へブル2章の)5節〜9節まででございました。――「ただ、イエスのことは見ています」。
で、今回は(10〜15節)――「多くの子たちを栄光に導くために」。
少し間が空きましたので、前回の復習をいたします。

【画面:へブル2章8節「万物を彼の足の下に置かれました」「すべての物が人下に置かれているのを見てはいません」に赤の傍線。「万物を人の下に〜残されませんでした」に水色の傍線。「それなのに」「いません」に赤線の囲み。「それなのに」には黄色のハイライトも。】

この部分を見ていただきました。
大切だったのは、この8節の「それなのに」という言葉でした。
8・・・神は、万物を人の下(***つまりキリストの下、と説明)に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人(***キリスト)の下に置かれているのを見てはいません。

つまり霊的な現実において、キリストはあらゆるものの上にあるお方であり、私たちはそのキリストに守られ、導かれているにもかかわらず、今なお私たちは苦悩の中にある、ということは多々あるということですね。

そして私たちは、聖書で9節に注目をいたしました。
【画面:へブル2章9節「ただ」「イエスのことは見ています」に緑のハイライト。「ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています」にピンクのハイライト。「イエスは死の苦しみのゆえに」にオレンジのハイライト。「その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです」にオレンジの傍線。】

9ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。・・・・・・

つまり、「それなのに」(8)、今なお私たちは、いつも苦しみの中に、苦悩の中にあるかも知れないけれども、「ただ、キリストのことは見ています」。
この方は、《十字架なしに冠なし》と。冠を受けるために、権威を受けるために、十字架を忍ばれた方である。
そのキリストに見倣って、私たちも今なお様々な苦闘の中にあれど、キリストに信頼をしていく、というところを見ていただきました。

で、今日はこの(ヘブル2章)10節からなんです。
また引き続き聖書で申し訳ないんですけれども、この部分を今日の説教のタイトルにしました。
「多くの子たちを栄光に導くために」(10)【画面:赤ペンで囲み】
ちょっと見ていただきますとね、読んでいただきました最後に、15節――

15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

ここは実は一つのセクションになっていまして(※親指と人差し指で、10節〜15節の幅を押さえる)「栄光に導くために」(10)という言葉と、「人々を解放するため」(15)という、
【※「ために」で始まり「ために」で閉じられているセクションです】

つまり《キリストという存在は、私たちのためにある》というのが基本的なテーマです。
キリストに述語(の修飾)がつくとしたら、「あなたのために」「私たちのために」――そう言ったのはルターであり、そして現代ではボンヘファー(ルター派の牧師)でありました。
キリストという存在は、いつも、どこでも、「あなたのために」という言葉がくっついてくる。
それを今日3点見ていただきたいと思います。

1)キリストが「あなたのために」という時に、二つの意味がある。

英語ではfor youですよね。ラテン語では、プロノビス。
「プロ」という言葉、「for 」という言葉がくっつきます。
英語でも日本語でもそうだろうと思いますが、「あなたのために」という時に、<あなたに代わって>という意味と、<あなたを代表して>という意味。
神学的に言いますと、
@代わって償う――つまり代償という意味と
Aあなた(たち)を代表して、という意味の
二つの流れがあります。そしてこれは分けることができないんですね。

キリストの十字架と復活は、あなたに取り代わって、あなたにできないことを、キリストが成し遂げてくださった。
だから私は何もしなくてもいい、ということでは終わらない。
取り代わってだけでは終わらない(笑)。
キリストはあなたを代表して十字架に架かり、代表して復活されたんだから、その代表者に関わる信仰を持った時に、私たちもまた十字架に架かり、私たちもまた復活にあずかる、というこの両方があるということを覚えていただきたいと思うんですね

代表者になるために、14節、こういう風にありますでしょう。
【画面:へブル2章14節「子たちがみな血と肉を持っているので」以下全文に緑の傍線。「イエスもまた同じように」「死の力を持つ者」「悪魔をご自分の死によって滅ぼし」に緑のハイライト】

14そういうわけで、子たち(***私たち、と説明)がみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。
(***というのは、イエスもまた人間と同じようになった、と説明)
それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の(***イエスご自身の、と言い換えて)死によって滅ぼし、

(※15節をまとめて)私たちを死の恐怖から解放するためであった。
これは@身代わりではないですよね。
こちら側は、A代表の方です。キリストが私たちと同じようになられたのは、私たちを代表する存在になるためであったと。
聖書の中に、実はこの代表人格、英語ではcorporate personalityと言いますけれども、それは二人しか出て来ません。

一人はアダムです。アダムが罪を犯したということは、イコール、アダムの子孫である私たち・人類皆が罪を犯したに等しいという。
これはアダムの存在、「第一のアダム」という風に、パウロは呼んでいますけれども、明らかに代表人格です。(***Tコリント15:21,22,45)
勿論歴史的な人物であろうと私(藤本牧師)は思いますけれども、そうであろうがなかろうが、つまり聖書から歴史的な人物と読み取ることは、そんなに簡単なことではないです。
聖書の物語はもっと巧妙にできていますので、私たちはどこどこに住んで、つまりエデンの園に住んでというのが、なかなかどういう意味で書かれているのか、というのは難しいところです。
ただ《最初の人間が神に背き、そしてそれ以降、私たちは皆その負い目を荷っている》という聖書の説明は真摯に受け止めなければいけないと思います。

パウロはキリストのことを「第二のアダム」と呼んでいます。
つまり《キリストが新しい道を切り開かれた時、罪に死に、神に対して生きるために復活され、死の力を滅ぼすためにご自分も十字架の死を経験された》という、これは@身代わりではなく、
つまりキリストの復活というのは、私たちに代わって復活したのではない。
《私たちをA代表して復活したのであり、そしてその復活の力に私たちもあずかるためである》という話を私(藤本牧師)は何度もして来たと思います。

第二コリントにこういう言葉があります。これは開かなくて結構です。
今日はちょっと開く所が沢山あるので。
<Uコリント2:14>
   14しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。

凱旋の行列というのは、当時で言えばローマ帝国が勝利を収めて、そして軍隊が帰って来るその勝利の行列ですよね。
その先頭に、ま、たとえて言うならばキリストがおられるのかもしれない。
その先頭に、将軍がいるのかもしれない。
これらすべてを指揮していた人物ですよね。
その行列の先頭に加えられているということは、イエス・キリストが仰ったように――
<ヨハネ16:33  第3版>
33・・・あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

《既に世に勝った方の凱旋の行列に私たちは加えられている》というのは、代表人格という意味です。

代表人格の典型的な聖書の個所をちょっと見ていただきたいんですけれども、
これも前に見ました。第一サムエルの17章です。
これは開いてくださってもいいかなぁと思うんですけれども、Tサムエルの17章、ゴリヤテのところです。

ちょっと映しますね。イスラエルとペリシテが、相対していた時の事でありました。
谷を向かい合わせにして、軍と軍が対峙している時に、ペリシテの軍隊からゴリヤテという巨人が出て来ます。
彼は10節でこう提案するんですね。
【画面:Tサムエル17章10節「一人をよこせ」に緑のハイライトと赤線の囲み】
<Tサムエル17:10>
10そのペリシテ人は言った。「今日、この日、おれがイスラエルの陣を愚弄してやる。一人をよこせ。ひとつ勝負をしようではないか。」

「一騎打ちにしよう。無駄な血を流してもしようがない。
おまえたちの中で最も強い奴をよこせ。私はそれを倒す、あるいは倒される。それをもって、勝負の決着をしよう」
と言った時に、23節を見ていただけます?
【画面:Tサムエル17:23「代表戦士」に緑のハイライト】
23ダビデが彼らと話していると、なんと、そのとき、あの代表戦士がペリシテ人の陣地から上って来た。・・・

ゴリヤテですね。
ダビデは鎧もかぶらず、剣も持たず(39)、川から滑らかな石を五つ取って来て(40)、石投げで石をゴリヤテに放ち、その石がゴリヤテの眉間に当たります(49)。
そのまんまうつ伏せに地面に倒れた(49)時に、彼は走って行って、ゴリヤテの剣を盗ってゴリヤテを打ち殺す(51)、という場面が続いていきます。

この「代表戦士」という言葉が、私(藤本牧師)以前紹介いたしました、英語の欽定訳聖書(17世紀初頭に作られた聖書)の言葉では、「チャンピオン」という言葉です。 

2018年に、この「チャンピオン」という言葉でこんな話を私はしています。
それは、大江健三郎さんがお書きになった「チャンピオンの定義」という文章があります。
大江さんは高校一年生の時にお兄さんから、コンサイス・オクスフォード・ディクショナリーを買ってもらった。これは定番の辞典ですよね。

大江さんはひたすらそれを読みふけっていた。夕食の時間になっても、それを読んでいた。
夕食に呼ばれて、「あ、ごめんね。待たせてしまって」と言って座った時に、兄さんがとりなしてこう言ったんですね。
「何か、面白い言葉を見つけたのか?」と。
兄さんはなかなかしっかりした兄さんで、
「新しい言葉というのではなくて、言葉の説明が面白い言葉を見つけたのか?一つ例を挙げてごらん」

ここはやっぱり大江健三郎さんですよね。大江さんが挙げた言葉が「チャンピオン」でした。その定義が面白かった。
「チャンピオンとは、ある人のために代わって戦ってくれる人、ある主義主張のために代わって議論してくれる人」

大江さんはこう記しています。
「ぼくはこれまで、チャンピオンという言葉から、大切なことを他の人の代わりにやる役目を思いついたことはなかった。(***普通チャンピオンって、そう考えませんものね、とご自分の共感を入れる藤本牧師)しかし妙に、この説明に何かしっくりするものを感じた。」

ダビデが代表戦士となり、ゴリヤテがペリシテの代表戦士となった時に、その勝利或いは敗北というものは、軍全体の勝利・敗北になるんですね。
それが代表という言葉の意味で、イエス・キリストが私たちの代表者として十字架に架かった時に、私たちが十字架に架からないでいいのではない。架らないんですけれどもね。
勿論殉教によってかかる場合もあるでしょう。

でも大切なのは、パウロが言ったように、
キリストの十字架というのは罪に対する死であり、キリストの復活というのは、神のいのちに対する復活なんだ。
それにあなたがたは参加しないわけにはいかない。
代表者がその死と復活を体験したのであるならば、私たちもまた勝利の凱旋に加わり、キリストと共に死に、キリストと共に復活する。

その代表的なものが洗礼だと。
私たちの教会では滴礼(てきれい)という形を使いますけれども、
他の教会では例えば、水の中に沈めて起こすというやり方をしますよね。
水の中に沈める時、あなたがたは一旦死ぬ。罪に対して死ぬ。
しかしそこから起き上がる時に、あなたがたの人生はもはや以前のようではない。
あなたがたの人生の根本的な源泉にキリストのいのちがあって、自分自身がキリストのいのちによって生かされている、ということを意識してほしいと、そういう風に見なしてほしい、とローマ人への手紙の6章に記されています。

主は私たちを代表して勝利を得ました。
罪に対する勝利、死に対する勝利、恐れも、飢えも、裸も、病も、すべて主がチャンピオンになってくださったということですね。

すると信仰は、単にこの方を信頼する、という意味だけではない。
イエスさまがヨハネの福音書で繰り返して仰ったように、
「わたしにとどまりなさい」と(***ヨハネ15:4)。
わたしにくっついていなさい。わたしから離れてはいけない。
悪魔は何とかして私たちを、(イエスさまから)引き離そうとしますよね。
《でもあなたは、わたしに、教会に、人生がどうであれ、とどまっていれば、その道は栄光へとつながっていく》。
なぜならわたしが代表戦士だから、多くの子たちを栄光に導くために、救いの創始者は多くの苦しみを通して完全な者になったのです。
――というのが(へブル2章)10節ですね。

2)私たちの兄弟

さて、二番目に目を留めていただきたいのはこの言葉ですね。
【画面:へブル2章11節「みな一人の方から出ています」「呼ぶことを恥とせずに」に緑のハイライト。「イエスは彼らを兄弟と」に緑の傍線。「兄弟」に赤線の囲み】
(へブル2章)11節――
11聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。
(***一人の方というのは神です。聖とする方というのはイエスです。イエスも私たちも、みな神から出ています、と説明)。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。

イエスは私たちを「兄弟」と呼んでくださる。
キリスト教会にはそういう習慣はありません。イエスさまを兄弟とはなかなか呼ばないですね。
福音書には、イエスさまは私たちを「友」と呼びました。
今までの師・弟子の関係ではなく、「あなたがたはわたしの友だ」と。
そして「友のために、わたしはいのちを捨てる」(***ヨハネ15:13〜15)という風に、イエスさまは宣言されました。

ところがこのヘブル人への手紙の記者は、「兄弟」と呼んでいるわけです。
どうして「兄弟」と呼んでいるかというと、ちょっともう一回聖書を見ていただきますとね、12節でこういう風に引用するわけです。

12 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、
       会衆の中であなたを賛美しよう。」

この12節は詩篇22篇からの引用です。ちょっとこれ見ていただけませんでしょうか?詩篇22篇です。
詩篇22篇というのは十字架の詩篇だと言われています。
そしてイエスさまもそういう風に意識しておられました。
ちょっと見ていただけます?22篇こういう風に始まりますでしょう。

【画面:詩篇22篇1節「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか」に黒ペンで囲み。】

1 わが神 わが神 
   どうして私をお見捨てになったのですか。
   ・・・

というのは、イエスキリストの十字架の上での最初の言葉ですよね。
福音書ではアラム語で記されていて、
「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(***マルコ15:34、マタイ27:46)
「わが神 わが神 どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

ず〜っと重苦しい重苦しい十字架の苦しみが22篇に描かれています。

ところがこの長い22篇、ここで変わるんですね。(※22節を指差して読む)
【画面:詩篇22篇22節全文に緑のハイライト】

22 私は あなたの御名を兄弟たちに語り告げ 
     会衆の中であなたを賛美します。

こういう風に変わるんですよ。
明らかにへブル人への手紙を書いた記者は、この詩篇22篇を知っているんですよ。
(詩篇)22篇を自分なりに解釈して、この前半部分はキリストの十字架。そしてここから変わる所。
つまり十字架のゆえに、この「私は」というのは詩篇では詩篇の記者です。
だけどヘブル人への手紙の記者にとっては、この「わたし」(へブル2:12)はキリストのことです。
キリストは父なる神の御名を兄弟たちに語り告げ――ということは、キリストは私たちのことを兄弟姉妹と呼んでいるということです。

私(藤本牧師)が二番目のポイントでお話ししたかったのは、キリストは代表戦士なんです。
でも《代表戦士である方が、私たちのことを兄弟と呼んでいる》ということです。
イエスさまは私たちのことを「友」と呼ばれ、「わたしはその友のためにいのちを捨てる」と。
でもいのちを捨てた結果として、詩篇22篇を引用しながら、へブルの記者は、
「あなたがたは、この代表戦士の兄弟なんですよ」と。

3)へブル人への手紙のこの箇所に戻って行きます。2章の13節。

また聖書からの引用ですね。
「 」の部分が旧約聖書からの引用なので、ちょっと大変なのですけれども、

13また、
      「わたしはこの方に信頼を置く」

という風になっている。
へブル人への手紙というのは、私(藤本牧師)も牧師生活39年目にして、初めて講解説教をしている位、厄介なんです。
様々な注解書を読めば、大よその意味は分かりますよ。
だからそういう意味で難しいのでなく、語るのに難しい。
どうやって、こういうぐしゃぐしゃした(笑)と言うと申し訳ないんですが、それを皆さんにお伝えできるか?
その時に私は、必ず3か所位、中心となる言葉を拾っています。
全部べたで読みますと、ますますもって分からなくなる。

今日見ていただきたかったのは――
(※ここまでのポイント2つをおさらいして)
1)キリストは私たちのために存在していて、そのキリストは私たちを栄光に導くということです。
2)栄光に導くと同時に、この方は私たちを兄弟と呼ぶ。代表戦士でありながら、私たちのことを兄弟と呼ぶ。

3)ですから、「わたしはこの方に信頼を置く」(へブル2:13)です。

さて、これで最後にします。
この言葉が最後のポイントで、これはイザヤ書8章の引用で、これは見ていただきます。
【画面:イザヤ8章16節、17節全文に緑のハイライト】

<イザヤ8:17>
17 私は【主】を待ち望む。
  ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。
  私はこの方に望みを置く。

ここに出て来ますでしょう――「わたしはこの方に望み(信頼)を置く」(へブル2:13)

これ、見たら分かるように、最初の「待ち望む」と「望みを置く」というのは対になっていますので、同じ意味だということが分かります。
「私はイエスを待ち望む。イエスに望みを置く」っていう、この「私」はイザヤです。
で、イザヤはどういう状況に置かれていたのかというのは、16節を見たら直ぐ分かります。
で、16節にもラインを引いておきました。

16 この証しの書を束ねよ。
  このおしえを
  わたしの弟子たちのうちで封印せよ。」

という神の言葉は、何を意味しているのか?
イザヤはそもそもがウジヤ王の時代の王宮の預言者でした。
自分の下に沢山の預言者たちを持っています。

旧約聖書というのは、預言者と祭司は、実は対立構造になっているんですね。
祭司というのはいつも政府の側につきます。
その政府は偶像礼拝を勧めてみたり、貧しい者たちを虐げてみたり、敵に対して乱暴な働きをしてみたり、やっぱり国の運営として好き勝手なことをします。この政府にくっついているのが、祭司神殿です。
預言者というのは、そこから独立しています。
そして王のしていることに対して警鐘を鳴らし、批判的な言葉を発する。
そうするとずれるわけですよね。

預言者たちはいつも民の偶像崇拝と、迫り来る危機を語ります。
すると民は耳を塞ぎます。
イザヤは自分の弟子たちも含めて、神から与えられたメッセージに耳を塞いでいる人を前にして、
「一体自分の人生って何なんだろう?」というその葛藤の中をくぐるんです。
エレミヤもそうでした。

神さまは、イザヤに言うんです。
「この証しの書を束ねて、そして封印してしまえ。私たちの弟子たちのうちで」と。
というのは、「あなたの弟子預言者の中で、聞こうともしない、語ろうともしない者たちの前で、その預言の巻物を束ねて、封印してしまいなさい」。

どういう意味かと言うと、「やがて時が来たら彼らも悟る」。
「やがて時が来る。今彼らは耳を傾けていないかもしれない。でもやがて、わたしの言葉を聞く時が必ず来る。だから今は封印していなさい。」

《今とやがて》というのは、へブル人への手紙の、或いは私たちの人生で非常に大切な要素があります。
今は分からない。何のために、なぜ自分はこういう苦悩を体験しているんだろうか?
今この世界はどうなって行くんだろうか?

でももう一方で、主は既に復活され、代表戦士として私たちを栄光への道へと導く凱旋の行列を作っておられる。
私はこの方に望みを置く。もうすべての事に関して。日常の小さなことから、この世界の動きに至るまで、
私はこの方だけに望みを置く、と言っているヘブル人への(手紙の)記者。或いはイザヤ。
その取り巻く状況というのは、今の自分の苦難、今の矛盾、今の状況の混乱に心を閉ざしてしまって、もうイエスに対する信頼よりも――先週、前回やりましたよね。「天使を信じた方がいいんじゃないか?」(笑)と――ユダヤ教にもう一回戻ろうとするような流れに対して、
いやいや、そうではない。私たちがどれほどの苦難に遭ったとしても、勝利は既にキリストは勝ち取っていてくださる。
この勝利の凱旋から外れてはいけない。
私はこの方に望みを置きます。そういうメッセージでございます。

☆お祈りをして終わりにいたしましょう――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、イザヤの時代も、またへブル人への手紙の記者の時代も、多くの人々が、神さま、あなたから離れて行ったことでありましょう。キリストに望みを置く以上に、自分が信頼できそうな様々なものを見つけ、そして聖書のみことばに耳を傾けない、聞こうとしない、そういう中で、神さまあなたはイザヤに、「その巻物を束ねて封印してしまえ。でも何であれ、やがてわたしが語った、あなたが語ったことが真実である時が、みな分かる時が来る」と(語られました)。

私たちもそう思って、一つ一つのことをこなして行きます。あなたは私たちに必要な助けを随所に置いておられ、私たちがやっていることに時に意味を感じず、非常な虚しさを経験し、疲れたりすることもありますが、それでも《勝利の凱旋の中にいて、イエス・キリストはすべてのものをその足の下に置かれている》ということを思い起こすことができますようにどうか助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2023.04.16 - 22:34
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