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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   4/23 戸塚伝道師:八日後の恵み ヨハネ20:19〜29
☆聖書箇所 ヨハネ20:19〜29
   19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
21イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
22こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
   24十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒に入た。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

☆説教  戸塚伝道師:八日後の恵み

今日は「ペテロのいる風景」をちょっとお休みいたしまして、
イースターの余韻に浸りたいと思いまして、今日は「八日後の恵み」と題して、
ヨハネの福音書20章の19節〜29節。ここから共に恵みを分かち合いたいと思います。
3つの視点で、聖書の言葉を思い巡らしていきます。

先ず(ヨハネ)20章の24節の言葉に目を留めていきたいと思います。
お読みいたします。

   24十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。

1)なぜ、(トマスは)彼らと一緒にいなかったのか?

ということについて思い巡らしをしていきたいと思います。
前から、この聖書の箇所を読む度に、なぜトマスだけ、この大事な場所にいなかったんだろうか?(という疑問がありました)。
私(戸塚伝道師)は一つの仮説を立てました。
《トマスは復活されたイエスさまを捜しに出かけていた。》
この仮説に基づいて、今日のお話を進めていきたいと思います。

復活されたイエスさまを捜しに出かけていたというのは、私の勝手な空想や想像なのでしょうか?
でも、その裏付けとなりそうなみことばを二つ見つけました。
その二か所のみことばを共に開いてみたいと思います。
お手元に聖書がありましたならば、ヨハネの福音書11章の16節です。
新約聖書の205ページ、上の段の真ん中です。

最近(※コロナ禍ゆえ)説教を短くするために、もう聖書箇所をこうやって丁寧に開くということをなかなかしないで、もうすっ飛ばしていたようなものですけれども、私(戸塚伝道師)反省させられました。
折角重い聖書を家から持って来たのに、折角教会に大事な厚い聖書を置いているのに、ほとんど開かないで終わってしまうというのは本当に申し訳ないなぁと思います。
(藤本)満先生のように、(画面に)映すこともできずに。
だから共に聖書を開くということを、少し時間はかかるかも知れませんが、心していきたいと思います。
ご自分の聖書だったらば、線を引いたりメモをしたりして結構ですけれども、みことばを丁寧に読んでいきたいと思います。

<ヨハネ11:16>(※読む)
16そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

トマスがこのように言ったわけですね。
「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」――ほんとに威勢のいい言葉です。
これはどういう経緯でこういう風に言ったかと言いますと、(ヨハネ)11章の7〜8節にイエスさまはこのように言われました。

<ヨハネ11:7〜8>
7それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。

これはラザロが病気であると聞いて、ラザロを何とかしようと思って、ユダヤに行こうと決心されたところですね。8節――

8弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」

イエスさまにそのような身の危険が迫るような場所にイエスさまが行くということに、弟子たちはびっくりしたんですね。
そして14節、その病気のラザロが――

14そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。

ラザロが死んでしまった。
そして、死んだ後に、「さあ、ラザロのところに行きましょう」と弟子たちを誘うわけですね。

その時に言ったセリフが、先程お読みしました(ヨハネ)11章の16節なんです。
イエスさまが命がけで、ラザロのところに行こうとされていた。
でもそのラザロは死んでしまった。死んでしまったのに、さらに命がけで、イエスさまはラザロの所に行こうとした。
「ああ、私たちも、そんな身の危険の迫るところに行くイエスさまを、何とか守らなければいけない。」
決死の覚悟で、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」とトマスは言ったわけですね。
自分もイエスさまと一緒に死ぬ覚悟なんだ。
実際その場面に来たらば、ほんとに死ねたかどうかは分かりません(笑)。ペテロのように逃げちゃったかもしれない。
でもここでは、イエスさまのことを真剣に考えているトマスの姿が読み取れるわけです。

もう一つ、復活されたイエスさまを捜しに出かけたと思われる、裏付けとなるみことば。
それはヨハネの福音書14章の4節です。
新約聖書213ページの下の段の真ん中のちょっと後です。14章の4節、先ずイエスさまの言葉。
<ヨハネ14:4〜6>
4わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」
5トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

イエスさまが、「わたしがあなたがたのために場所を用意したらば、また迎えに来る。だから、その間よろしくお願いしますね」という決別の言葉を語られた。
「イエスさまはいなくなってしまうんだ」と思った弟子たちの中で、トマスだけがイエスさまに、「主よ、どこに行かれるのか、私たちには分かりません」と申し上げたんですね。
「どうしたら、その道を知ることができるんでしょうか?イエスさま、どこに行っちゃうんですか?どこに行っちゃうの、イエスさま。その道を教えてください。」
その時に、イエスさまが答えられたのが、有名な6節の言葉ですね。

6イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

でもトマスには何のことだか分からなかったでしょう。
トマスには「イエスさま、どこに行っちゃうの?」これが二つ目のみことば。

一つ目のみことば――「イエスさまと一緒に死のう」
二つ目のみことば――「イエスさま、どこに行っちゃうの?」
この二つのみことばからトマスの思いは、《イエスさまの後にどこまでもついて行きたい》という思いだった。
さらに《イエスさまと一緒にず〜っと居たい》――そういう思いでいっぱいだった。
恐らく聖書にこういう記述があるということは、トマスのイエスさまに対する思いというのは、人一倍だったのではないだろうか?と思うんですね。

そういうような思いを持っていたトマスが、マリアからこういう言葉を聞きました。
20章に戻っていただきます。
(ヨハネ)20章18節に、お読みいたしませんでしたけれども、イエスさまとお会いしたマリアが弟子たちにこう言っている所が書いてあります。

<ヨハネ20:18>
18マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。

「これらのこと」というのは、イエスさまが父なる神さまのところに昇る、ということですね。
トマスもそのことを聞くわけですよ。
「ああ、マリアはイエスさまに会ったんだ。そしてもうすぐ、父なる神さまの所へ昇って行っちゃうんだ」
それを聞いたトマスは、「イエスさまが父なる神さまの所へ昇る前に、急いで会いたい」と思ったわけですね。
そこで《捜しに出かけた説》が出て来るわけですよ。

捜しに行った。マリアのその話を聞いて、(トマスは)捜しに行った。
でも、どこを捜しても、イエスさまに会えなかった。
当然ですよ。その時イエスさまはほかの弟子たちのところに現れていました。
ほかの弟子たちはどうだったか?
(ヨハネ)20章の24節――
   24十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25そこで、ほかの弟子たちは彼に、(***というのは、イエスさまが去った後でしょうね、と説明)「私たちは主を見た」と言った。

ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た〜!」と言ったわけですよ。
「私たちは主を見た〜!」――もう感激のあまり、感動のあまり、この言葉を発したんです。
「ト―マス、おまえ、どこに行っていたんだよ〜。さっき俺たちは主を見たんだよ〜。」
で、恐らく弟子たちは興奮のあまり、その見た様子を克明に話されたでしょうね。

19節から23節の聖書の言葉を、そのまま恐らく弟子たちは再現したと思うんです。
ドアに鍵をかけて、ユダヤ人が来ないようにびくびくしていた時に、イエスさまがおれたちの真ん中に来てくださったんだよ。
そしてこう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
こう言ってイエスさまは、手と脇腹を俺たちに示してくださった。
手には穴が開いていた。まだ血だらけで、かさぶたになりつつあった――そんなこと書いていませんけれどね(笑)。
脇腹も見せてくれたんだよ、服を捲って。槍が刺された跡の傷が痛々しかったよ。
そして弟子たちは、主を見て喜んだ。興奮状態でしょうね。

2)これらのことを聞かされたトマスの心情を想像してみたい

この時のトマスになりきって、行間から心情を読み取っていきたいと思います。
もし自分がこの時のトマスだったら、どのように思うでしょうか?

私(戸塚伝道師)だったら、へそ曲げます(笑)。
弟子たちが喜んで興奮すればするほど、へそ曲げる。
ほかの弟子たちへのジェラシー・焼きもち――その時、自分だけがそこにいなかった。
トマスはこう思ったかもしれないですね。
「あ、そう。そりゃ良かったね」――拗ねてしまっている、トマスは。
そして「先生、酷いじゃないか!こんなにあなたのことを思い、あなたと一緒にどこまでもついて行きたいと思っていたのに。
こんなにあなたのことを捜していたおれを差し置いて、なんで俺と会ってくれなかったんだよ〜!」って気持ちでしょうね。

そして何と言ったか。20章の25節――

25・・・・・・しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。

「決して信じません。」「決して信じません。」
私たちは今まで、トマスは《疑い深い》、そういうイメージでトマスを見て来ました。
でも果たして、今までのこのみことばを読んでみると、トマスはイエスさまの復活を果たして疑っていたのだろうか?
「疑っていた」という言葉は一言も聖書に書いてないんです。一言も書いてない。
私はトマスはイエスさまの復活を信じていたと思う。
でもほかの弟子たちが異常なまでに喜んで興奮しているのを見て、へそを曲げてしまった。
だから、「私は信じません」と言った。

こんなことを話すと、聖書学者の先生方からお叱りを受けるかも知れません。
でも申し訳なくも私(戸塚伝道師)は不勉強で、充分聖書のことは分かってないのは百も承知の上で、人間理解に立った聖書の読み方をすると、このように読まざるを得ないんです。先生方。
トマスの気持ちに立ったらば、このように読める、ということもお許しいただきたいんですけれど、先生方(と、笑顔でカメラ目線で大胆に発言)。

私小学校二年生の時に、友だちに誘われて近くの教会学校に行きました。クラスの女の子に誘われて行きました。
日曜学校に、女の子と一緒に誘われて、そして毎週熱心に通った。その女の子と一緒に行けるから。
綺麗なカードを毎週もらいました。
クリスマス会の時にも一緒に行きました。
クリスマス会で、その教会学校というのは、幼稚園付属の教会学校でした。
いつもよりそのクリスマス会の時には、子どもたちが沢山集まっていたんですね。
「皆さんよく来ましたね。じゃあ、最後にプレゼントあげますよ〜」って、プレゼントをみんなもらった。

でも私の所には来なかった。
そのプレゼントをもらえるのは、幼稚園の卒園生だけだった。
私の友だちの女の子も、その幼稚園の卒園生だった。
私の所に来なかった。
みんな包みの中から出していました。きれいなコップでした。
キャラクターがついている、可愛い、きれいなコップをみんな持って、嬉しそうに、
「ああ、良いの貰った〜」という感じで見ていました。

私の気持ちはこの時のトマスです。
「良かったね、貰えて。」(※いじけて無理につぶやいている調子)
私がしょんぼりしているので、その女の子が「大丈夫よ。良いプレゼントがあるから」って言って、先生の所へ行ったらば、
「先生、戸塚君何ももらってないんだけれど」
そしたら、その先生はクリスマスカードのきれいなのをくれたんですけれど、
私は「要らない」って言いました(大笑)。
この時のトマスですよ。
「私は決して信じません」ですね。いえ、「要らない」です。

それ以来、日曜学校には行きませんでした。
その時聖書も讃美歌も買ったんですよ。いまだにあります、その聖書は。
あの時の女の子、もし(この動画を)観ていたらば、(※カメラ目線で)今こうなっています(※ご自分の顔を指して、笑)。

で、八日後です。八日間へそを曲げたままのトマス。
私はまだへそを曲げているかもしれない(笑)、その幼稚園に対して。
でも、そのへそを曲げたままのトマスにとって、この八日後、とても大事な八日後がやって来るわけですね。26節――

26八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。

八日後、とても大事な八日後がやって来ました。
イエスさまは、弟子たちの前に現れました。八日前と同じように。
八日前と同じように、同じ台詞を弟子たちに掛けられているイエスさまです。
ここがポイントですよね。トマスのためにです。
トマスのために、八日前と同じように現れてくださった。それで早速トマスに――

27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

復活されたイエスさまは、八日前にへそを曲げて口走ったトマスの捨て台詞をちゃ〜んと聞いておられました。
トマスの捨て台詞、それは何か?
それは――「私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」
この捨て台詞を、そのまま、ちゃんと聞いておられて、イエスさまは――
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と仰ったわけです。

そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とイエスさまは仰った。
これはトマスを責める言葉ではありません。
「信じる者になりなさい」と命令でもありません。
「わたしが復活したことをあなたは信じてなかったでしょう」という、そんな言葉でもない。
これはイエスさまの「おお《よしよし、よしよし》トマス、おお《よしよし》」だったんです。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。おお、《よしよし、よしよしよし》」――トマスへの《よしよし》です。

トマスはここで、そんなイエスさまと出会い直しをするんですね。
「思っていた通り、あなたはやっぱり復活したんですね。
そしてこの私だけのために、特別に今ここに来てくださったんですね。
あなたは確かに、私の救い主です。キリストです。」
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とイエスさまに《よしよし》されたトマスは、何て言ったか?28節――

28トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」

「私の神よ」と告白したのは、弟子たちの中でトマスだけだったのではないでしょうか?
「私の神よ。イエスさま、あなたは私の神です。」

私たちも毎日大変ですね。イエスさまにもっと《よしよし》してもらいたいですね。
《よしよし》もっとしてもらいたい。いや、イエスさまに《よしよし》してもらわなければ、やっていけません(笑)。やっていけない。
イエスさま、もっと《よしよし》して〜って(笑)。
(※心の底からしんみりと)
情けない信仰ですよ。本当に罪深い者ですよ。すぐ傲慢になって、すぐ人を裁いて。
弱い者ですよ。
(※調子を変えて、叫ぶように声を大にして語る戸塚伝道師)
だからイエスさま、十字架に架かってくださったんです。私のために。
だからイエスさま、十字架の上で「完了した」と仰ったんです。そして息を引取られたんです。
そんなイエスさまにもっと《よしよし》して――甘っちょろい信仰でしょうか?
いいえ、イエスさまに徹底的に《よしよし》してもらう信仰が、どこが甘っちょろいんですか!
もっとイエスさまに甘えたい。徹底的にイエスさまに甘えたい。

3)この言葉に着目する。

最後――イエスは彼に言われた――29節の言葉です。

29イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

「見ないで信じる人たち」ってだれのことでしょうか?
それはこの後の人たち。イエスさまを主と信じた、イエスさまが復活したということを信じた人たち全てですね。
「見ないで信じた」人たちです。
そして現代の私たちも含め、そして私たち一人一人のことも含め、「見ないで信じた人たちは幸いなんだ。」

見て信じたペテロもこう書いていますね。
開きませんけれども、第一ぺテロの1章の8節と9節。

<Tペテロ1:8〜9>
8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、」とペテロはそのように書いてますね。
私たちはイエスさまを見たこともない。でも信じているんですよ。
(※力を込めて)よく信じられたと思いますよ。
ま、クリスチャンの家庭で、そういう環境で育てられた方々は、信じるのは楽だったかも知れない。
(※頭を振って)でも私(戸塚伝道師)は苦労しました。(※力を込めて)ほんとに苦労しました。
でもよく信じられたと思う。聖霊の働きでしょう。
でも私が頑張ったからではない。イエスさまが出会ってくださったから。

見ないで信じた人たち――もう一人見ないで信じた人がいます。
誰でしょう?それはトマスです。
え、トマス?? だって、トマスにこのセリフ言ったんじゃないの?
でも、私(戸塚伝道師)はそう読んだ。そう読んだ(※と笑って繰り返す)。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか」――これ、私(戸塚伝道師)はトマスに言っているんじゃないと思うんです。
トマスに言いながら、このイエスさまの言葉は本当は、トマス以外のそこにいたほかの弟子たちに向けて語られた言葉ではないだろうか?
なぜか? ほかの弟子たちはイエスさまに出会ったとき、イエスさまに傷まで見せられて信じたからです。
ほかの弟子たちはみんな見て信じたんですよ。
でもトマスだけは見ないで信じたんです。
へそ曲げてましたよ。へそ曲げて「信じません」って言いましたよ。
でもほんとは信じてたんです。
(※カメラの方に向き直り、聞いてもらいたい口調の戸塚伝道師)
こんなこと言うと、聖書学者の先生方から張り倒されそうですけれども(笑)。
間違ってたら、教えてください。あ、間違ってますか?すいません(笑)。
でもそう私には読めるんですよ。だって、イエスさまって、そういう方ですもの。

イエスさまはトマスにこう言われるだろうと思います。
「トマス、この八日間、ホントに辛かったねぇ。あなたはわたしのことを、八日前のあの日に、復活したわたしに会いたいとず〜っと捜していたんだよね。
わたしが復活したことを見ないのに信じていたんだよね。わたしには分かっていたよ。
もう大丈夫。復活したわたしは世の終わりまで、いや、その先にあなたが復活してからも、いつもあなたと共にいるよ。」

この言葉はそのまま、今の私たち一人ひとりへのイエスさまからのメッセージだと思います。
イエスさまを信じていても、まるでイエスさまがいないかのように思い、
人と比べたり、現実に縛られたり、トマスのようにへそを曲げたり、悶々として、不安で、不平だらけで、自分を責めてしまい易い、辛い状況の中でどうにもならない私たちに、
イエスさまは私たちにこのように語られるんだろうと思います。
「辛かったねぇ。わたしには分かっているよ。」
イエスさまが私に寄り添い、私のことをすべてご存じのイエスさまが、私をケアしてくださる。
「おお《よしよし》、おお《よしよしよし》、ああ、辛かったねぇ。忙しいねぇ。大変だねぇ、苦しいねぇ、痛いねぇ。おお《よしよしよし》」
その「おお、《よしよし》」したイエスさまの手には釘の穴がある。傷がある。
その《よしよし》したイエスさまの声は、「わが神、わが神、なんでわたしを見捨てたのですか?」という、辛〜い、辛〜い経験をされたイエスさまの声。
私たちにも、ある日突然、復活のイエスさまが目の前に来られて、特別な「おお《よしよし》」を私たちにも与えてくださいます。
八日後、それは神さまの最善の恵みの時です。

☆お祈りをいたします――戸塚伝道師

イエスさま、いじけるトマスにあなたが特別扱いされたように、私たち一人一人の現状をすべて分かっておられるあなたが、私にも寄り添い、慰め、励まし、終わりまで共に歩いてくださることをありがとうございます。また自分では今どうしたらいいか分からない時、あなたはいつも先回りをして、私にとっておきの八日後の恵みを用意してくださるお方です。ありがとうございます。

目には見えませんが、復活され今も生きておられるあなたが、今週も様々なことが起こる私たちの日常の生活のど真ん中に来てください。そして見ないで信じる者の幸いを、その喜びを味わわせてくださいますようによろしくお願いいたします。愛するあなたのお名前でお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2023.04.23 - 20:40
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