☆聖書箇所 へブル3:1〜6 1ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。 2モーセが神の家全体の中で忠実であったのと同様に、イエスはご自分を立てた方に対して忠実でした。 3家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。 4家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。 5モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。 6しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。
☆説教 へブル(7)誇り高きキリスト者
今朝はへブル人への手紙の3章を見ていただきました。 実は長く読んでいただいたんですけれども、時間の関係で、メインでお話しするのは3章の1節(と6節)。 <へブル3章1節と6節> 1ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち(***私たちのことですね、と説明)。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。 6しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。
説教のタイトルは、「希望による誇りを持ち続ける、誇り高きキリスト者」ということで、短くお話をいたします。
元旦礼拝から数えますと7回目になりますけれども、元旦礼拝では、「人とは何ものなのでしょう」――そこから始まって、「人の子とは、すなわちキリストとは、何ものなのでしょう」ということをずっと学んでまいりました。
キリストは真(まこと)の神であられるのに、人のかたちをとって、私たちの兄弟となってくださった。 これは前回学びました。 私たちの罪を荷うためだけでなく、私たちの代表となって、死をもって死を打ち破り、神の子どもとしてくださり、ご自身に信仰をもって繋がる者を、みな神の栄光に導くためにというのが、(へブル)2章の10節に書いてあります。
神の栄光に導くために、キリストはこの世に来てくださった。 それで申し上げたことは、「キリストは、いつでも、あなたのために」です。 私たちのために存在しておられるのが、キリストですね。
へブル書を理解する時に、「人の子、キリストとはいったい何ものなのでしょう?」という疑問から始まりまして、「この方に自分の人生の焦点を合わせていく、合わせて生きていこう」という一貫したメッセージが聞こえて来ます。 この方に焦点を合わせて行こうという時は、やっぱりこの方を中心に世界を見ていく、というものの見方がとても大切です。
ですから、2章の9節の時に学びましたよね。 2章の9節、ちょっと映しますね、ここに。 【画面:へブル2章9節「ただ、イエスのことは見ています」に緑のハイライト。「ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています」にピンクのハイライト】
<へブル2:9> 9ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。・・・・・・
「イエスのことを見る」――人生、この世界、様々なことがあります。色々なことに判断を求められます。 しかし《私たちはひたすら、イエスのことを見る》ということですね。
今日ご覧いただきました3章の1節は―― 【画面:へブル3章1節「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」「使徒であり大祭司であるイエス」に山吹色のハイライト。「考えなさい」に緑のペンで囲み】 <へブル3:1> 1ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。
「考えなさい」という言葉はギリシャ語で、カタ・ノエオーです。 ノエオーというのが「考える」、カタというのは強調語で、「じっと」「ひたすら」。 ですから「じっくり考えなさい」 《キリストのことをあなたの人生の中で、じっくり考えなさい》というメッセージですね。
他にもありますけれども、時間が許しません。 ですから、そこで代表的な12章の2節、これは開くのは二回目になりますけれども、これも見ておきたいと思います。 【画面:へブル12章2節「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」にオレンジのハイライト】 <へブル12:2> 2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。・・・・・・
先程の(へブル)2章の9節の《この方を見なさい》 (へブル)3章の1節の《この方のことをよく考えなさい》。 そして全部まとめて12章の2節の《信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい》。 「イエスを見る」(へブル2:9)という時に、「このイエスはあなたの信仰の創始者ですよ」と。そして「なおかつ完成者です」(12:2)と。 自分の信仰がどこから始まったのか?そして自分の信仰の人生が最終的にどこに行くのか?――「そのことすべてを導いてくださるイエスから目を離さないように」(12:2)、「じっとひたすらイエスを考えるように」(3:1)。 「キリストのすばらしさ」という漠然としたことだけではないです。 その大祭司という働きがいったいどのようなものなのか? 《この方が私たちを救うのですから、この方が私たちを導き助けるのですから、この方から目を離さない》――これがへブル人への手紙のメインのメッセージです。
今日は、ちょっと違う視点から、お話をいたします。 で、(へブル3章)6節にかかるんですけれども、へブル人への記者はもう少し具体的に、この手紙を読んでる読者の置かれた状況を知っているんですね。 読者の状況というのは、当時ローマ帝国は迫害の最盛期でありました。 ローマ帝国の迫害の中で、ユダヤ教徒はローマ帝国の公認宗教ですから迫害されることはありません。 ただユダヤ教の中からイエス・キリストを信じてキリスト教になった人々、同じ神なんですけれども、キリストの十字架を信じてキリスト教になった人々だけが迫害を受ける。 そういう中で、当時のクリスチャンには、ユダヤ教に戻ろうとか、或いは当時のユダヤ教が教える天使に魅力を感じる人々が多くいました。
そういう中で、へブル人への手紙の記者は、圧倒的にキリストのみを考え、 「あなたの信仰はそもそもキリストに始まり、そしてキリストにおいて完成されるんだ」ということを見続ける、考え続ける。 自分の人生の中心点をキリストに合わせるということを強調していくわけですよね。
私たちの生きている世界は、このキリストから目をそらすために、ま、ローマ帝国の迫害ではないですけれども、もう様々な流れがあります。 ですから聖書の2章の1節を見てみますとね、こうありますでしょう。 【画面:へブル2章1節全文に薄い肌色のハイライト】 <へブル2:1> 1こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
「押し流されないようにしなければならない」ということは、いつの間にか押し流されている。
私(藤本牧師)、以前この話はだいぶ前、何度もしたことがあります。 私はカリフォルニアではなく、ニュージャージーに住んでおりました。 ニュージャージーに日本からお客さんが来る度に、車で9時間連れてナイアガラの滝に行きました。 ナイアガラの滝というのは、世界三大瀑布の一つで、私はそこしか見たことがないんですけれども、カナダ側から見るとすごいんですよね。 その滝もすごいんですけれども、そこから10q先に、なんと滝が落ちた川が90度に曲がる所があるんですね。90度に。 それはそれは広い幅で、絶壁のまま滝から真っ直ぐ10q走って、90度曲がるんですよ。
その上にロープウェイがついていまして、向こうの岸壁まで行って戻って来るというのが当時二千円位で乗れたんですね。 で、私(藤本牧師)はナイアガラの滝を見る以上に、その直角に曲がるっていうその場所がとても好きでした。 ものすごい量の水が直角に曲がるんですから、どこでももう一つ大きな大きな渦ができているんですね。 最初に行った時に、私は鳴門の渦のようなものを想像していましたので、ガイドの人に「大したことないねぇ」(笑)っていう話をしたんですね。 「日本には鳴門の渦というのがあって、そこはあらゆるところの竜巻が回っているんだ」と。 「でもここは、そこから見ると、渦が回っているように見えない。実に速やかに、すべての水が直角に曲がっている、という風にしか見えない」と。 そしたら、ガイドさんが 「いや、そうでもないんだよ。あの滝から落ちて、様々な葉っぱや流木で、あの90度に曲がる地点で、下に沈まないものは一つもないんだよ。一つもない。 ゆっくり見えるかも知れないけれども、浮いている全部のものは一旦下に沈み、引き込まれて上がって来るものもあれば、上がって来ないものもある」と。
世の中っていうのはそういうものだと思います。 私たちの生きている日常というのは、何も動いてないように見えますけれども、 しかし「流されないように気をつけなさい」(へブル2:1)という言葉にありますように、 流されてない人は一人もいないです。 こういう厳しい状況の中に、へブル人への手紙の読者たちはいる。
ですから実はへブル人への手紙の中には、厳しい言葉が沢山あるんです。 温かい言葉だけでなくして、たとえば2章の3節、見ていただきます?これも共に学びましたよね。 【画面:へブル2章3節「すばらしい救い」「ないがしろにした場合」にオレンジのハイライト】 <へブル2:3> 3こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を免れることができるでしょう。・・・
「ないがしろにする」というのは、注意を払わない、という風に言われると、私たちはしょっちゅう、このすばらしい救いをないがしろにしていますよね。 まるでその度ごとに、私たちは処罰を免れることができないかのように、脅されている雰囲気になるんです。
イエスさまは仰いました。 「わたしの所に来る者をわたしは絶対に捨てません」(ヨハネ6:37)。 「だれでも疲れている者、重荷を負っている者はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます」(マタイ11:28)というイエスさまの圧倒的な招きの言葉。 そして様々に罪深き者、様々に病んでいる者、悪霊を宿している者を、イエスさまは両手を広げて迎え、一緒に食事をし、ザアカイの家では泊まっておられますでしょう。 イエスさまと一般の人々、イエスさまと罪深い、一般の社会では非常に底辺にあると思われるような人々との接触はもう頻繁ですよ。
ところがこういうヘブル人への手紙を見ると、「救いをないがしろにしたら処罰を受ける」とか、またしばらくしたら、厳しい言葉が出て来ます。 で、簡単に考えますとね、こういう風に言う人もいます。 「イエス・キリストの時代と、その迫害の中で新約聖書が書かれた、ま、紀元70年80年は時代が違う。段々キリスト教が道徳宗教化して、そして厳しい教えが登場する」 というのが、歴史家から見た視点ですね。
私たちは歴史家として聖書を読んでないです。 現代にも語りかける神の言葉です。 ですからほんとに優しい柔らかな本当に憐れみに満ちたキリストの言葉ばかり読んでいると、私たちはこういう厳しい言葉を避けるようになってしまいます。 でも覚えておいてください――聖書を読みますと必ず厳しい言葉には、その理由があって、 またその厳しさを和らげる言葉もあるんですね。 それを前回ですか、前々回ですかね、紹介いたしました。(へブル2章)4節ですね――
【画面:へブル2章4節「そのうえ神も」に赤のペンで囲み。「救いを証ししてくださいました」に赤ペンで傍線「聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証しして」に薄い肌色のハイライト】 <へブル2:4> 4そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。
とあるように、神さまがご自身の力を私たちに示して、「しるしと不思議と様々な力あるわざを示すことによって」、救いをないがしろにしていくような私たちを、ご自身のもとに引き戻してくださる。
全てのことが順調でありますと、私たちはついつい福音のことを忘れてしまいがちです。或いは自分の罪深さを忘れてしまいがちです。 でも私たちの人生には、様々な出来事が起こります。そして自分の弱さを嫌という程体験します。 その時神は、不思議としるし、奇跡をもって、力をもって、私たちの信仰を引き戻してくださるという約束もついています。 ですから厳しい言葉ばかりに注目すると、これもまた良くないです。 優しい言葉ばかりに注目するのも良くないし、厳しい言葉の意味を知らないのも良くないです。
正直言いますとね、カルトの教会に行きますと、厳しい言葉ばかり引用されますよ。 だからしっかりしろ。だからちゃんとやれ。だから奉仕の義務を果たせ。 でないと処罰され、救いから落ちるぞ――というような言葉ばっかりを聖書から引用してくるんですね。 そうすると、もっと頑張らなければ、もっとちゃんとしなければと―― キリストの十字架に安らぐという平安よりも、機関車のように前へ前へと奉仕に出ていくようなキリスト者の人生というのは、私(藤本牧師)は惨めだと思います。
自分の努力なんて、神さまの憐れみに比べれば、塵に等しきものですよ。 私たちは自分の努力のゆえに、神さまに認めてもらうのではない。 私たちの小さな信仰とこの愚かなキリスト者の人生でも、主はしっかりと私たちを留めてくださる、というお話を今日は残りにして、終わりにしたいと思います。
1)今申し上げましたのは、イエスを見続けることの大切さですね。目を離さない。
でも「よく考えなさい」とか、「よく見なさい」とか、「あなたの信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」とか――それって、あんまり修行ではないですよね(笑)。 「イエスを見ていなさい」というのは、そんなに大きな努力ではない。
でもすごく大きくて、たとえば福音書の中で、湖の上を歩いたペテロの話を思い出しますね。(***マタイ14:22〜33) 大胆に踏み出して、イエスに近づいていくんですけれども、 しかし波が高くなった時に、その波に目を奪われて、イエスから目を外す。 すると、彼は溺れそうになりますでしょう。 その時イエスさまは、彼を引き上げて、「信仰の薄い者よ」とこう仰って助けてくださいました。 イエスさまはその時「信仰の薄い者よ。おまえなんか溺れてしまえ」(笑)とは仰いませんでした。 「薄い者よ」と言いながらも、イエスさまは引き上げてくださるお方だということを、やっぱり心に留めておいていただきたいと思うんですよね。
私たちの教会で、礼拝があり、賛美があり、祈りがあり、大した力量が求められているわけではないんです。 ただキリストを見続けるために、私たちはやっぱり賛美を歌う。 自分の信仰がどこから始まり、どこへ行こうとしているのかというのを確認するために、私たちは祈り、賛美を歌い、聖書を読む。
アメリカの有名な先生からこんな証しを聞いたことがあります。 大きな大学に講演に招かれて、講演が終わって、(夕方から雨になり、食事を終えて)ゲストハウスに一晩泊まることになった。 ビクトリア調の非常に古い大きな屋敷で、寒くて、濡れていて、その大きな屋敷に一人で、 全部の電気を点けるのはもったいない。点けてもそんなに明るくはない。 何とも薄気味悪い雰囲気に、背筋が寒くなったと仰っていました。
部屋に落ち着いてもその雰囲気は取れない。 それで、部屋を歩き回りながら、みことばを復唱した、と言うんですね。 彼の証しは、ちょっと読みますけれど―― ――※ここから証し―― 「私はびっくりした。部屋の中を歩きながら、沢山のみことばが次々に出て来る自分に、驚いた。 (この時、初めて、私が読んで来たみことばの力が分かった。 あっという間に、家に明るさが戻った。)」 ――※ここまで―― これはイエスをいつも考え、イエスを見ている人だから、そういう状況になった時にみことばが次々に出て来るわけですよね。
みことばが全然出て来ないって場合もありますよ。 私も急にお祈りをお願いされて、祈りながら考えるわけですね。 今の状況において一番適切なみことばは何だろうか?と思いながら、きちっと出て来ない場合があります。 「みことばを下さい」と言われて、一生懸命聖書を開くんですけれど、この言葉、一体どこにあったのかなぁ?と思って、パラパラパラパラ捲る時もあります。 今は検索がありますから、ちょっとググれば(笑)、ね、一発でそのみことばは出て来るわけですけれども。
みことばがどれ位あなたの心に蓄えられているか、というのはイコール、私たちがどれほどイエスを見ているか、どれほどイエスを中心に置いているか、という所にかかるんだと。 時には私たちは、薄気味悪い部屋に泊まるようなこともあるのかも知れない。 でもそんな時こそ、自分でも驚く程みことばが次から次に自分の心から出て来たというような人物になりたいですね。 それほどイエスのことをじっくり考え、イエスを仰ぎ見るような自分でありたいと思います。
さて、二番目、これで最後なんですけれども、これが今日のメインのお話です。 ちょっとページをまたぎますから難しいんですけれどね、ちょっと映していただいて、 3章の6節にこうありますね。
2)3章の6節――私たちが神の家なんですよ。
【画面:へブル3章6節「私たちが神の家です」「誇りを持ち続けさえすれば」に山吹色のハイライト。「もし確信と、希望による」に同色の傍線】 <へブル3:6> 6しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなるのです。
私たちが神の家なんですよ。この私たちが。 そしてこの私たちが神の家であるために――このページをめくると出て来るように――私たちには確信と、希望による誇りを持ち続けて行かなければならない。 《私たちがキリストにある救いの確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、あなたは神の家です》という。 神の家です。
この「希望による誇りを持ち続ける」というのがどういうことなのか、ということに、私(藤本牧師)は先週心が留まりましたので、それをお話しして終わりにいたします。
(へブル)3章の1節に、「天の召しにあずかっている」自分という言葉がありますね。 あなたがたは天の召しにあずかっている。 天の召しにあずかり(1)、あなたがたは神の家であり(6)、であるがゆえに、確信と希望による誇りを持ち続けろ(6)。
先週水曜日に、二子新地の施設に入っておられるIHさん、お訪ねしました。 コロナ禍で全然入れてもらえずに、お嬢様もそろそろ施設を移らなければいけないと。 礼拝にいらっしゃいまして、(Iさんの)奥さまが高津教会員で教会墓地ですから、お父様の方もこちらでやっていただきたいと。 お嬢さまはカンバーランド長老教会という大きな教会の教会員なんですね。 でも両親はここでよろしくお願いします、ということだったんですね。
コロナ禍以前も、Kさんが訪ねてくださったり、Yさんが電話をしてくださったり、Iさんとのコンタクトを失ったわけではなかったんです。 毎週、週報と説教原稿を送り、手紙も何回か書くわけですけれども、私(藤本牧師)はあまり上手にIHさんを牧会できなかった、と実は反省しています。 ま、そもそも圭子(夫人)のように手紙を書く人間ではないですし、 母(故藤本幸子牧師)は昔私に、牧師のなり立ての頃によく言っていました。 「教会は水やりが大切だ」と。 「種を蒔いて芽が出ればいいというものではない。教会は水やりが大切なんだ」 とよく言っていました。 私は教会に置いてくださったTさんの鉢でさえ(笑)、水やりができないわけですから、もうたましいを枯らしてしまう、鉢を枯らしてしまうような人間ですので、 そういう意味で、Iさんに負い目を感じていました。
奥さまと二人で、晩年になって二子新地の施設に移られたのですね。 そこからIさんは奥さまの信仰のために、礼拝のために、車いすを押して毎週来ておられましたけれども、Iさん自身は一度も教会に入ることはなかったんですよ。 何年間か押して来られるんですけれども、ご自分は入らないんですね。
やがて帝京病院に長期入院されて、奥さまが召された時に、ご主人が「私が家内の代わりに来ます」と言っていらっしゃって、洗礼を受けて、なかなか立派な方でありました。 でも教会に来ておられた時期というのは、多分三年位だと思います。 なかなか足が上手に上がらなくなって、ま、沢山段差がありますので、そこにつまずくと怖いので、ということで礼拝に来なくなりました。
そしてコロナですよね。 今年に入ってIさんからお手紙をもらいました。 いつも教会の皆さんにお祈りをいただいていることを感謝いたします(※左手の親指を折って見せて)ということと、いただいた聖書の御言葉はいつも書いて、声に出して読んでいますっていう。 でも見たことないですから、どうやって書いているんだろう?とか、どうやって読んでいるんだろうか?とか思って、興味もありました。
行ってお部屋に入って、そして看護師さんがちょうど川崎の教会の信徒さんでしたから、「私も一緒に祈っていいでしょうか」ということで、三人で祈りました。 Iさんはファイルを持っておられて、そのファイルに週報の切り抜きが貼ってあるんですよ。 それで説教で気に入ったようなみことばを全部ノートに書いておられますよね。 だからノートには聖書の御言葉だけが、100位あるんですかね。 そして「隣のお部屋に迷惑にならないように、私は毎日声に出して、この聖書の言葉を読んでいます」と。
帰り際に、もう一人の介護士さんと一緒にエレベーターでした。その方が、 「Iさんは良くお風呂に入れると讃美歌を歌うんです。 教会で歌った讃美歌の一部を覚えておられるようで、良く歌うんです」 と仰ったんですね。 私(藤本牧師)はものすごく幸せになりました。
なぜかと言うと、自分として十分に牧会できなかったなぁという負い目があります。 (※また左手の指を語りながら一つずつ折っていく藤本牧師) そして信仰年限が割と短かったなぁという負い目もあれば、コロナ禍できちっと訪問もできなかったし、お会いできなかったし、私はIさんがどんな職業に就いておられたのか、どういう人生を送って来られたのか、そういうことも何も知らないんですよ。
でも聖書にありますよね。「育てたるは神なり」と。 神さまはああいう風に育ててくださっているんだ。
教会というのは、私は希望を失っているわけではないですけれども、コロナ禍で(希望を)失った方々もいるはずです。 三年間一度もコンタクトのない方々もいらっしゃいますもの。 でもIさんのように、一度もコンタクトがないにもかかわらず――ま、最近お手紙いただきましたけれど――どうしているんだろう、Iさん、どうしているんだろう、Iさんという状況の中で、私たちが送り続けた週報と説教の中から、きちっと聖書の御言葉を書き出して、それをファイルにして毎朝読んでいるというのはいったい何なのか? それは、希望による誇りを持ち続けている姿なんですね。
時々自問自答しなければいけないですよ。 「私にとって、キリスト者としての誇りというものはあるんだろうか?」と。 「何にもありません」――そんなはずない。 イエス・キリストはあなたの信仰をどこかで始めて、やがて完成してくださる。 その途上において、私たちにとって不十分なことは山程ある。 でもこの方は、「育てたるは神なり」(***Tコリント3:6〜7)ですけれども、私たちの信仰をどこかで育ててくださる。 不思議としるしをもって、私たちのために証しをしてくださる。 「わたしはいつもあなたのそばにいる」(***マタイ28:20、イザヤ41:10)) 「わたしは決してあなたを捨てない」(***創世記28:15,申命記31:6) 「あなたがたとえないがしろにしたとしても、わたしはあなたを取り戻す」(***ルカ19:10) よっぽどイエスさまにとって、私は大切な存在なんですよ。それを忘れない。
聖書は言うんですね――「あなたが神の家です」と(***へブル3:6、詩篇84篇)。 「あなたの内側にイエス・キリストは住んでおられる」と(***コリント6:19、コロサイ1:27、ガラテヤ2:20)。 その誇りを捨て去ったならば、分からなくなってしまったならば、あ、それは流されるよねと。 流されない人はどういう人なのか?それは、キリストに対する確信と、自分のキリスト者であるという希望による誇りを持ち続ける人でありたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、大した誇りもありません。しかしIさんのような、本当にわずかな水しかあなたから戴いてなかったかのようであり、でもそれをしっかりと吸収すれば、あすこまで誇り高きキリスト者になれるのかぁ、と考えさせられます。 日頃から多くの恵みをいただきながらも、圧倒的な世の流れに沈みそうになっている私たちをどうか憐れんでください。そして、私たちのうちに誇りを取り戻させてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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