☆聖書箇所 へブル3:7〜19 7ですから、聖霊が言われるとおりです。 「今日、もし御声を聞くなら、 8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。 荒野での試みの日に 神に逆らったときのように。 9 あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、 わたしを試し、 四十年の間、わたしのわざを見た。 10 だから、わたしはその世代に憤って言った。 『彼らは常に心が迷っている。 彼らはわたしの道を知らない。』 11 わたしは怒りをもって誓った。 『彼らは決して、わたしの安息に入れない。』」 12兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。 13「今日」と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。 14私たちはキリストにあずかる者となっているのです。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、です。 15 「今日、もし御声を聞くなら、 あなたがたの心を頑なにしてはならない。 神に逆らったときのように」 と言われているとおりです。 16では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。 17神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。 18また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。 19このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。
☆説教 へブル(8)主の声に心を開く
今日はへブル人への手紙の3章の7節からご覧いただきました。 先週は「誇り高きキリスト者」と題して、3章の初めのところを見ていただいたんですね。 ちょっと映してみますのでご覧ください。3章の初めはこういう風になっています。 【画面:へブル3章1節「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」と「使徒であり大祭司であるイエス」に黄土色のハイライト。「考えなさい」に水色のペンで囲み。6節「私たちが神の家です」「確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば」に黄土色のハイライト】
<へブル3:1、6> 1ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。 6しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなるのです。
私たちは皆、「天の召しにあずかっている聖なる者たち」(1)です。 そういう私たちが、「神の家」(6)とも呼ばれています。 そして、6節の最後の行からですね、「もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば」(6)、私たちは神の家であり続ける、という話をいたしました。
格別に「希望による誇りを持ち続ける」――そういう意味で、私たちの教会員で、お仲間で、人生最後の道をコロナ禍を耐えて、天国に近づきつつある石井寛(ひろし)さんのことをお話をいたしました。 教会との接点が多くあった方ではありませんでした。 でも本当にこういう中でこそ信仰が生かされ、みことばに生かされ、賛美を歌い、みことばを毎日声を出して読み上げながら、人生最後の道のりを行くという信仰―― それこそ「希望による誇りを持ち続けさえすれば、誇り高きキリスト者である」(6)、というお話をいたしました。
で、今朝はその続きの(へブル3章)7節から、ここからもう一回読んで行きますね。 7 ですから、聖霊が言われるとおりです。 「今日、もし御声を聞くなら、 8 あなたがたの心を頑なにしてはならない。
ここからお話をしていきたいと思います。 3つのポイントで、お話しいたします。
1)引用されているずっとあるその一段は、詩篇95篇からの引用です。
出来事は、エジプトを脱出したイスラエルの人々が約500kmの約束の地に向かって、歩いて旅をする。 一か月もあれば到着できる距離なんでしょうけれども、なんとそこを40年かかったという。 荒野の40年と言いますが、しかも当時の人々は誰一人として、ヨシュアとカレブ以外は生き残って約束の地に入ることはできなかった、という記事が民数記に記されています。 後で見ていただきます。 約束の地に入るために、エジプトを脱出したんです。そしてそこに向かっていたんです。 しかし約束の地に入る前に、一生を荒野で過ごす、ということになりました。 だとしたら、それは神さまの約束が真実でなかったからでしょうか?いつの間にか、神さまが彼らから離れてしまったからなのでしょうか?
いえいえそうではありません。決定的な出来事がありました。 イスラエルの民が、約束の地に近づいた時に拙攻隊を送って、現地を調査して来ました。 そこは確かにすばらしい所でした。 民数記の13章20節に、「季節は初ぶどうの熟するころであった」と。 そして23節に、「ぶどうが一房ついた枝を切り取り、二人で棒で担いだ」と。 「ぶどうが一房ついた枝」って、今売っているぶどうは(※両手で)せいぜいこんなもんですね。 巨峰であってもこんなもんですけれども、あれは勿論きちっと切り取って、出荷できる状態だからあのサイズですが、ぶどう園に行きますと、もっと大きなサイズがありますよね。
しかし同時にその地を獲得するための困難も見えて来ました。 その困難の方が具体的に記されています。 ちょっと見てみましょうか?民数記の13章の23節ですね。(旧約聖書261ページ) 画面を見ていただければ分かるんですが―― 【画面:民数記13章20節「その季節は初ぶどうの熟するころであった」に茶色のハイライト傍線。23節「ぶどうが一房ついた枝を切り取り、二人で棒で担いだ。また、ざくろやいちじくの木からも切り取った」にも、同色のハイライト傍線】 <民数記13:23> 23彼らはエシュコルの谷まで来て、そこでぶどうが一房ついた枝を切り取り、二人で棒で担いだ。また、ざくろやいちじくの木からも切り取った。
こんなに豊かな地だと。ところが、より明確に彼らが見たものは、この土地の難しさでありました。 ここに、(※28節を押さえて)「ただ」とありますでしょう? 【画面:民数記13章28節「ただ」に茶色のハイライトと同色の囲み。27節に「確かに」に同色のハイライト】 「ただ」の前に――(※27〜31節を読む) <民数記13:27〜31> 27彼らはモーセに語った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこには確かに乳と蜜が流れています。そして、これがそこの果物です。 28ただ、その地に住む民は力が強く、その町々は城壁があって非常に大きく、そのうえ、そこでアナクの子孫を見ました。 29アマレク人がネゲブの地方に住んでいて、ヒッタイト人、エブス人、アモリ人が山地に、カナン人が海岸とヨルダンの川岸に住んでいます。」 (***悪いニュースばっかり具体的に上がって来ます、と説明) 30そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます。」 31しかし、彼と一緒に上って行った者たちは(***というのは、他の10人です。他の10人で行きましたから、と説明)言った。「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い。」
という報告をするんですね。 つまりここで(※27節を押さえて)見ました「そこには確かに乳と蜜が流れています」という言葉と、 「ただし、その地は攻略するのに難しい」という、具体的なことがざ〜っと書いてあります。 そして最終的な結論を見ていただきますと、14章の1節にこうありますでしょう。 【画面:民数記14章1節全文に茶色の傍線】 <民数記14:1> 1すると、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
と書いてあるじゃないですか。 私たちの人生って、恐らく全部がこうだろうという風に思いますね。 神さまが約束されている私たちへの祝福というのは、確かで、そして非常に大きなものです。 しかしそれを見つめていますと、それを獲得するための困難も沢山見えて来ます。 そして困難の方がより具体的です。経済的に厳しい。時間的に余裕がない。そしてそこに多くの努力を注ぎ込まなければいけない。 神さまが与えてくださったという地を獲得するためには、 「神さま、棚ぼたなら大丈夫です(笑)。でも私たちの手足が関わらなければいけないとすると、到底私には無理です」という結論に、大体なってしまうんですね。
つまり考えれば考える程です。そして自分たちで確認したわけではない。 でも「民全体は夜通し、泣き明かす」(へブル14:1)という事態に陥ってしまいます。 屈強なアナク人が山中に住んでいる。 ヒッタイトというのは鉄を作った文明ですよね。アモリ人が山地に住んでいる。 どこから攻めても、どういう風に攻めても、その地は私たちのものにならない。 勿論カレブとヨシュアは言いますよね。 「その地は私たちのものになる。なぜなら、神さまが私たちのものとしてくださると約束してくださったからだ。」 でも実際見に行った時に、「ああ、これは無理だな」という風に思ってしまうわけです。
偵察隊12名の名前は13章に全員書いてあります(4〜16)。 その中にカレブとヨシュアの名前もあります。 でも残り10名は否定的でありました。 民はどちらの声に聞き従ったのか? それは当然マイナスの声でありました。
2)間違った声を聞いてはいけない.
私たちの人生、ほとんど間違った声を聞いているわけですけれども、間違った声に聞き従ってはいけない。 勝利は既に私たちの手の中にある、というのが、ヨシュアとカレブの声でありました。 神さまは祝福を与えてくださる、とこの二人は確信していました。
民はこの二人の言葉に耳を傾けるべきでありました。 しかし民の心は閉ざされてしまった。 現実の幾つかの困難さを見た途端、心が頑なになった。 「頑な」ってどういう意味なのか?それは神さまの約束に対して、開かれた心ではなく、現実のゆえに閉ざされてしまった。
ですから約束の声はもう彼らの心に届かない。 ですから悲観的に、一晩中、泣き明かすわけですね。 「あの民のところには攻め上れない。あの民は私たちより強い」と(民数記13:31)。
間違ったみことばに耳を傾ける。牧師の間にこういう笑い話があります。 若い二人が、牧師と一緒に結婚式のリハーサルをしていました。 もうあと30分で結婚式が始まるという時ですね。 新婦の方が「どうしよう、大丈夫かな」という所から始まって、まぁ結婚そのものにも不安を感じるようになって、とっても心配症だったんだと思いますけれども、牧師は提案いたしました。 「では式の最中に、仲人さんに聖書を読んでもらいましょう」と。 それが皆さんに響き渡った時に、仲人さんの聖書のことばを聞きなさい。すると、式全体もあなたの人生も、静かなものになります。 第一ヨハネの4章の18節――「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」という有名なことばです。 それが式のプログラムの中で仲人さんによって、大きな声で語られることによって、 「愛には恐れがありません。全く愛は恐れを締め出します」という雰囲気がこの式場を包むから、あなたは大丈夫だ、と。
式が始まります。そして、仲人さんの番が来ます。彼はそんなに慣れたクリスチャンではありませんでした。実は彼も緊張していました。 彼は慌てて聖書を開き、そして第一ヨハネの4章の18節でなく、ヨハネの4章の18節を開いてしまうんです(笑)。 一瞬えっと思いながらも、「読め」と言われたのですから読んでしまいました。
彼は声を大きく発生して言います――ヨハネの4章18節「あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではありません」(笑)。 あのサマリアの女にイエスさまが仰った言葉ですね。
私たちね、慌てて聖書を開きますと、とんでもないみことばが目に飛び込んで来ます。 しかも私たちはとんでもない解釈をするんですよね。 いや、聖書をよく読めば、そういうことは言ってないにも関わらず、自分自身が不安であればあるほど、不安なところに目が行きますし、 それを自分に当てはめて、本来そういう意味でないにも関わらず、「あ、自分はやっぱり駄目なんだ」という結論を考えてしまうんですよね。 聖書を読む時、そういう意味で気をつけていただきたいですね。
都合の悪いところは飛ばしてしまうという方がいらっしゃいますけれど、私(藤本牧師)は割と推奨します。 都合の悪いところばっかり読んでもしようがないですよ。ま、都合で読んじゃいけないんですけれどもね(笑)。 でもやっぱり、力と、勇気と、平安、愛を与えるみことばを、やっぱり中心的に読んでいかないと――読む度に天国から金づちで叩かれるようなみことばばかり拾い集めて読んでも――それは意味はないですよね。
「今日、もし御声を聞くなら」(へブル3:7)とありますけれども、福音の声はいつも同じです。 それはイエス・キリストから発せられる声で、 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。父(神)を信じ、またわたしを信じなさい。」(***ヨハネ14:1) というイエス・キリストの声ですね。 《圧倒的な神の愛》が十字架から流れ出、《圧倒的な勝利》が復活によって私たちを包む、と福音の大きな看板があるにも関わらず、 私たちは妙に小さなみことばに心を留めて、心を騒がすわけですね。
へブル人への手紙の記者は、話を読者の置かれた状況に戻します。 ちょっと3章を見ていただいて、聖書を見ますね。 【画面:へブル3章7節「今日、もし御声を聞くなら」8節「あなたがたの心を頑なにしてはならない」にオレンジ色の傍線。「今日」に黒ペンで囲み。 9節「四十年の間、わたしのわざを見た」13節「日々互いに励まし合って」に緑色のハイライト。 12節「兄弟たち」に茶色のハイライトの囲みと「不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい」に同色のハイライト。 13節「今日」に黒ペンの囲み。「惑わされて」「頑なにならないように」に左半分に茶色の囲みのような感じ】
この7節から11節までが詩篇95篇の引用です。 再びへブル人への手紙の読者に話を戻す時、「兄弟たち」とこう行きますよね。12節――
12兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。
コロナの一番最初の年(2020年)に、ゼカリヤ書を一緒に学びました。 ゼカリヤ書というのは、神殿の再建ですけれども、神殿を再建したところで、民は既にもう散らされているんですよね。 バビロンから戻って来て神殿の再建に携わったのは、ごくごく僅かです。 ユダヤ人というのは、もう当時のギリシャ、すなわちヘレニズムの世界に全部散っているんですよ。8割9割散っているんですよ。 それに対するメッセージが、ゼカリヤ書にある(***ゼカリヤ8章)。 「わたしはあなたがたを、北から南から、東から西から集める」というメッセージですよね。 今ほとんど人がいないこのエルサレムの町にも、老人もいれば、子どもたちもいて賑やかになるというメッセージですよね。
あの年に高津教会は共にゼカリヤ書を学んだということは、意味があったと思っています。 それは教会っていうのは、集まらないということを前提にあの年を過ごしました。 でもやがて集まる時が来る。その時が来た時には、オンラインの人もまた会堂の人も共に集まる。 私たちは小さな交わりをもってか、誰一人として周囲の者を知らない者はいない。
コロナの期間中に私たちの教会報「天の窓」は、特に新しい方々の紹介になりました。 ま、そもそもそれが多かったんですけれども、でもTさんご夫妻はあえて洗礼を受けた人、それから新しく加わった方々の証しを写真を載せてくださいました。 マスクを取った顔でないと分からないんですよね。だからマスクを取っていただくようにお願いして、その顔も載せました。 尤も彼らにしてみれば、私たちのことが分からないですよね。 彼らは新聞に載ったかもしれませんけれども、私たちは載ってませんから。
ですから新しい方々に目が合ったら、「どなたですか」って絶対に言わない。 「私は○○です」と、まず自分を紹介して、そしたら相手も紹介せざるを得ないですよね。 ぜひそういう状況を作って、なるべく「知る」ということを今年のテーマに考えていただきたいと思うんです。
それはこの(へブル3章)12節のこの言葉に代表されるからですね。もう一回読みますよ。 <へブル3:12〜13> 12兄弟たち。あなたがたのうちに、不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。 (***神さまから離れることがないように気をつけなさいと、説明) 13今日と言われている間、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされて頑なにならないようにしなさい。
3) 私(藤本牧師)が目を留めていただきたいのは、《「今日」と言われる間、日々互いに励まし合って、》という言葉です。
これがなかなか難しいんですよ。 で、へブル人への手紙で、「気をつけなさい」とか「頑張りなさい」とか「もう一回、弱った手と膝を強めて(***へブル12:12)、走り抜こうはありませんか」とか書いてありますけれど、基本は《互いに励まし合わない限りは、誰一人として走り切る者はない》という前提で記されているわけですね。
「人を励ます」っていうのは難しいですね。 私は割と人を励ますんですよ。自分としては、その人の良い所を見て、励ましているつもりなんですけれども、 周囲から言われることは、「藤本が言うことは、10分の1にして聞いた方がいい」(笑)という、「励まし過ぎだ」(笑)と「10分の1ぐらいに差っ引いて聞いた方がいい」と言われているのが私なんですが。
励まされて卑屈になる人もいます。 どうせという気持ちにね、「どうせ、私の気持なんかわかってないだろう」っていう。 しかし励まされた方が絶対いいですよ。 「いや、あなたには無理だよ。やめといた方がいい。やめといた方がいい」と言われるよりは、「できるかも知れないよ」と言われた方がいいに決まっているんです。
でも「慰め」と「励まし」っていうのは、キリスト教のキーワードですよね。 それは一つの共感力で、「慰め」って言った時に、その人が味わっている苦悩や悲しみと心を一つにすることですね。 「励まし」っていうのは、その人が揺れている心と心を一つにして、私たちは神の力に共感し、その人に「励まし」の力を授けるということで、 人間的なことではないんですよ。 神の力に共感し、もし神さまがあなたにそういう志をお与えになったとしたならば、 神さまは必ずそれを成し遂げてくださるという、神の力に共感して、 ひとことふたこと、言う力が私たちに与えられたらすばらしいだろうなぁと思います。
19世紀のイギリスの最悪の悪、奴隷売買というのがありましたね。 当時、大英帝国はカナダやオーストラリアに至るまで――メインはカリブ海諸島ですけれども――奴隷を送り込むというんですかね、アメリカもそうですけれども。 その売買を禁止したウィリアム・ウィルバーフォースという人がいます。 彼は恐らく政治の世界、世界史の世界では、19世紀のヒーローと言われていますね。
21歳で政治の道に入ります。 26年後の1787年に奴隷の実体を議会で暴くんですけれども、誰一人として信用しない。 確かにそういう船が港に停まっていたことはあるだろう。 だけど私たちのような国が、よその大陸で人を買って閉じ込めて、それを売買するなんていうことは、私たちは絶対そういうことはしないと、(言われる)。 ウィルバーフォースは様々な調査を図面にして提出しますけれども、ほとんど20数年間誰一人認めてくれませんでした。
そうした苦難の中にあるウィルバーフォースのことを、ジョン・ウェスレーは耳にするんですね。 そうして彼に手紙を書こうとするんですけれども、1791年、ウェスレー自身世を去る六日前、彼自身ほとんど力は残ってない。 しかしどうしても励ましの手紙を書きたいということで、書いた手紙がウェスレーの手による最後の文章になります。 ウェスレーは苦闘しているウィルバーフォースを励ますんですけれども、その真ん中にある聖書の言葉は、「善を成すのに疲れてはなりません」という言葉です。 ガラテヤの6章の9節の言葉ですよね。
「善を成すのに、疲れてはいけない」――疲れて疲れて、ウェスレー自身は死にそうなんですけれども、 「しかしあなたはまだ若い。そして神さまは、若き日にあなたに奴隷解放のための使命を与えてくださった。」 今ちょうど真ん中ぐらいに来て、彼は大変辛い苦闘の日々を重ねているんですけれども、「全メソジストはあなたの味方です」と。
ウィルバーフォースは戦い続け、議会で奴隷売買禁止法が成立するのを確認して、3日後に74歳で(ジョン・ウェスレーは)この世を去ります。 で、この禁止法が可決した時に、カリブ海諸島を中心に80万人のアフリカ人の奴隷が自由にされます。 それに至るまで何十万人も亡くなっているわけですけれども、実際80万人が解放されていきます。
ウィルバーフォースは、彼の人生一体何だったのか? ただこの一点です――奴隷売買禁止法を議会で通す。奴隷を自由にする。 このことのためだけに、彼の人生は注がれました。 何度挫折しても、立ち上がって戦い続けます。 彼はウェスレーだけではない、多くの人から励まされて、そして多くの仲間を励まして、戦っていくわけですよね。
善を成すのに疲れてはいけない。いやいや、絶対に疲れます。絶対に疲れ果てますね。 それで休みを取るんですよ。 でも休みを取ったら、また私たちは奮い立つように、頑張って行くんでしょう。 2年も3年も休むかもしれません。でも10年目に私たちは元気になるのかもしれない。 一番大切なのは、励まし合う。日々互いを励まし合う。 それはね、「頑張ってね」という励ましの言葉ほど空しいものはないかもしれないですね(笑)。 そんな言葉かけてくれるな、という位、「頑張ってね」はだめですよね。 時に「あなたのために祈っているから」というのも、妙に重たい響きに感じるかも知れませんね。 私(藤本牧師)は笑顔一つでいいんだろうと思います。 笑顔一つでいい。たまにはアイスクリーム一つ奢ってあげるだけでもいい(笑)。 それでも立派な励ましになる。
それはその人が通っている苦難を、自分もまた共感しながら、その人が祈れない分、自分が神に祈り、神のみことばをいただきながら、 死の床にあっても、手紙一通書いて彼を励ましてあげたい、という思いがあるなら、私たちはこの厳しい戦いを乗り越えることができる。 「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。」(へブル3:7〜8) 大体、苦難の時には頑なになるんですよね。 でももし、日々兄弟たちによって励まし合っていくなら(へブル3:13)、私たちはきっと立ち上がることができることを信じたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、心から感謝いたします。それぞれが十分な休養が取れたのか?逆に疲れたのか?しばし仕事場から離れることができた方もいらっしゃいますでしょう。
もう一度仕切り直して、新しくこの新年度をスタートしていきたいと思いますが、私たちを励ましてください。そのために日々あなたのみことばに心を傾けることができるように。そのために私たちの周りに励ましてくださる方々を用意してください。
また人に励まされることだけを期待するのでなく、人を励ますことができるような人物になることができるように、私たちに力を与えてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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