☆聖書箇所 ヨハネの福音書13章1〜9節
1さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。 2夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。 3イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。 4イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 5それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。 6こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」 7イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」 8ぺテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」 9シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景H「互いの間に愛があるなら」
今日のみことばは、ペテロのいる風景のシリーズの第9回目です。 「互いの間に愛があるなら」と題しまして、ヨハネの福音書13章1節からのみことばを通して、恵みを共に分かち合いたいと思います。
イエスさまが、このヨハネの福音書13章の一番最初に、二つのことを知っておられた、とあります。 何を知っていたのか?ヨハネの福音書13章の1節からお読みします。
1さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。・・・
《この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たこと》を知っておられた。 3節をご覧いただきたいと思います。もう一つイエスさまが知っておられたこと――
3イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
1節と3節のこれらのみことばを読みますと―― 《父のみもとへ行く》ことを知っておられた。そして《神に帰ろうとしている》ことを知っておられた、ということが分かります。 これは十字架を意識して、イエスさまはこの時を過ごされていた、と想像することができるのではないでしょうか。
今日は3つのポイントで、聖書の記事から思い巡らしをしていきたいと思います。 そのような状況の中で、一つ目――
1)イエスさまは、弟子たちの足を洗いました。
(ヨハネ)13章の4節〜5節まで丁寧に読んで行きます。言葉に拘って読んで行きます。 先ず、時はどういう時だったか? 「夕食の席」(4)とあります。 その席からイエスさまは「立ち上がった」(4)とあります。 ということは、食べている時は、座っていたのか?横になっていたのか? そしてその次、「上着を脱いだ」(4)――イエスさまは上着を着ておられた、その上着を脱いだ。 さらに「手ぬぐいを取って、腰にまとわれた」(4)。 どこに手ぬぐいがあったんでしょうか?その辺にあったんでしょうね、それを腰にまとった。 そして「たらいに水を入れた」と5節に書いてあります。 「弟子たちの足を洗った」(5)と書いてあります。 そして最後「腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた」(5)。
そういうような動作一つ一つを見ますと、あ、イエスさまが完全にセルフサービスをされている行動なんだなということが分かります。 ペテロのところに来ました。 ペテロとイエスさまの問答が(ヨハネ13章)6節〜10節に書かれています。
6こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
ペテロは言っています――「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」(6) 8節には――「決して私の足を洗わないでください。」 ペテロの気持ち、分かるような気がします。もし自分の足を誰かに洗ってもらう――なんかすごい抵抗感を感じます。 よっぽど心を開かないとできないことだと思います。自分の足を誰かに洗ってもらう。 その誰かがイエスさまだったら? イエスさまだったら、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか?」
でもイエスさまには使命がありました。8節の後、イエスは答えられた。 「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」(8)と。 この「関係がない」という言葉に反応したペテロは焦りました。 そして何と言ったか?9節――
9シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
ペテロらしいですね(笑)。いかにもペテロらしいです。 「関係なくなっちゃうんだったら嫌です。じゃあ、ついでに全部お願いします」ということです。
イエスさまが足を洗ってくださった。人の足を洗うイエスさま。 恐らく当時の弟子たちは裸足じゃなかったらしいです。サンダルか何か履いていたようです。 でも土埃の中歩くわけですから――アスファルトの道路なんかないわけですから――足は汚れていたと思いますね。泥とかついていて。 しかも、毎日シャワーやお風呂に入ってないでしょうね。かなり臭ったと思うんですね。 元漁師の足ですからね、すね毛かなんかが生えていてね、がっちりとした足だったでしょう。 それをイエスさま、洗われるわけですよ。
皆さん、誰かの足、洗ったことありますか? ああ、お子さんのいる家庭では、赤ちゃんの足とかね、小さいお子さんの足を洗ったことがある、というようなことはあるのかもしれませんけれども、 でも誰かの足、大人の足。私(戸塚伝道師)は妻の足でさえ、洗ったことないです。 そんな場面に遭遇したことない。 もしかしたらこれから老々介護かなんかで(笑)、足を洗わざるを得ないような場面が出て来るかも知れませんけれども(笑)、でも人の足なんか、洗ったことない。 いや、洗いたくもない、という気持ちが本音かもしれない。
でもイエスさまが足を洗ってくださるというこの行為の意味は、これはいったい何なのでしょうか? イエスさまは罪深いペテロを、弟子たちを、さらには人間を、そしてこの私を、丸ごと愛し受け入れて、赦しきよめてくださるお方だということを、象徴している行為だと思います。 「わたしがあなたの足を洗わなければ、わたしとあなたとは関係なくなりますよ。 わたしがあなたの足を洗うということが、あなたのことを丸ごと受け入れ、赦し、きよめるという、その関係に結びつくのですよ」 イエスさまはそう言いたかったのかもしれません。 イエスさまに足を洗われる関係――それはイエスさまの十字架による罪の赦しの恵みをいただく関係だと言えると思います。
イエスさまが弟子たちの足を洗った後、何をしたか?イエスさまはこうされました。 先程お読みいただいた所から先になりますが、(ヨハネ13章)12節――
12イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て(***また上着を着るわけですね、と説明)再び席に着き、彼らに言われた。・・・
イエスさまのメッセージがここで語られます、弟子たちの足を洗った目的が語られます。その続き、12節の「 」から読みます。
12・・・「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。 13あなたがたはわたしを、『先生』とか『主』とか読んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。 14主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。 15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
《模範を示す》ということが、弟子たちの足を洗う目的でした。
2)ではこの「足を洗う」という行為を、13章全体から見ていきたいと思うのです。
13章全体に視点を移して見えてくるものがある。それはいったい何か?
以前藤本満先生が――「通奏低音」と言って、みことばの底流に流れている旋律――それを読み取るように、というようなことをお話しされたことがありました。 このヨハネの福音書13章の通奏低音、底流に流れていくものを見ていきたいと思います。 それはいったい何か? 手掛かりになるみことばを読んでいきたいと思います。
9つのみことばがありました。 @(ヨハネ)13章の2節――夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスさまを裏切ろうという思いを入れていた。
A10節――・・・あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。
B11節――イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
C18節――わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。
この聖書は詩篇41篇の9節を示しています。
D13章の21節――イエスはこれらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」
(ヨハネ)13章の通奏低音が何となく分かって来たかもしれません。
E26節――イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
F27節――ユダがパン切れを受け取ると、その時、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」
G30節――ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
H31節――ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。
13章の底流に流れているもの――それは《イスカリオテのユダという存在》でした。 ユダは結果的に、イエスさまが《全人類の救いのための十字架への道》を切り開くために、用いられることになる。 そんな役目をユダが果たしている、ということが分かります。 ですから余計にイエスさまにとって、自分を裏切り、ユダヤ人に引き渡すイスカリオテ、ユダのことが、気になって気になって仕方がなかった。 このユダへの思いが、この13章の底流に脈々と流れていて、イエスさまの思いの大半を、いや100%占めておられるのではないだろうかと思われる程の印象を受けます。
そんなユダに対するイエスさまの思いを読み取った後、もう一度イエスさまが弟子たちの足を洗うシーンに戻ってみたいと思います。 13章の1節に戻ってみたいと思います。最後の2行。
1・・・世にいるご自分の者たち(***ユダをも含まれます、と説明)を愛してきたイエスは、彼らを(***ユダを、と説明)最後まで愛された。
「最後まで」という所に*がついていて、下(の注)に、【或いは「極みまで」】と書いてあります。英語ですと、to the end。 最後まで、極みまで、ユダを愛された。
5それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足(***ユダの足も、と説明)を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
イエスさまはユダの足もここで洗っている、ということが分かります。
そして弟子たちに言われました。イエスさまのメッセージです。 弟子たちの足を洗った意味、ユダの師匠という観点で、この13章の14節と15節をもう一度読み直してみたいと思います。
14主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を(***わたしを裏切ることになるユダの足も、と説明)洗い合わなければなりません。 15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
ユダのことが気になっていたイエスさまが、この言葉を語った、弟子たちに。 でもこれらの言葉は何のことなのか、弟子たちには全然分かってなかったと思います。 でもイエスさまのメッセージはシンプル。 「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい。赦し合いなさい。ユダのこともお願いしますね。」
3)最後に念を押すかのように、極めつきのメッセージをイエスさまは弟子たちに語られました。
(ヨハネ13章)34節をご覧いただきたいと思います。
34わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 これがイエスさまがくださった「新しい戒め」です。 「戒め」っていう言葉の意味には二つありまして、一つは、過ちを犯さないようにと、注意を与えること。 もう一つの意味は、悪いことに対する罰であるということ。 でもイエスさまは「罰を与える」という意味でこの「戒め」という言葉を仰ったのではないと思います。でも「注意」という言葉もちょっと違和感がある。 「新しい戒め」この戒めというのが、「教えを守るように諭すこと」と理解したいと思うんです。
「新しい戒め」――この特徴は2つあります。 1つは、《模範のある愛》であることですね。模範がある。 「わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネ13:34)という模範ですね。 さらにはその前です。 「イエスさまが私の汚い足を洗って拭いてくださった」(同1〜9)という模範です。 そういう模範に従って、お互いに足を洗い合う愛。 さらに言うならば、相手の汚れを受け止める愛。 《模範のある愛》――それが「新しい戒め」の特徴の1つ目ですね。
2つ目は《行動が求められる愛》です。 自分の感情に反して、忍耐をもって足を洗う愛です。13章の17節― 「互いに足を洗い合いなさい」と語られた後で、イエスさまは17節でこう仰っていますね。
17これらのことが分かっているなら、そしてそれを行うなら、あなたがたは幸いです。
「行うなら、あなたがたは幸いです」――《行動が求められる愛》 具体的に何をするかは、それは人それぞれかもしれません。 でもイエスさまの「新しい戒め」の中に、行動が求められることは確かだ、ということが言えると思います。 イエスさまがこのことを語られた背後に、自分を裏切るイスカリオテ、ユダへの思いがありました。 イエスさまはイスカリオテのユダをも愛されました。 「わたしのことを裏切るイスカリオテ、ユダのことを、わたしが愛したように、赦したように、あなたがたもユダを赦してあげてほしい」 というメッセージを、ここでイエスさまは「新しい戒め」を通して示されたのではないかと思います。
でもペテロはイエスさまのこの思いを、全くと言っていい程理解していませんでした。 イエスさまのこんな「互いに愛し合いなさい」なんていう言葉はそっちのけで、 イエスさまがどっかへ行っちゃう、ということを聞いた時に、「主よ、どこにお出でになるんですか?」と(ヨハネ13章)36節に問いかけていますね。そして 「なぜ、あなたのところについて行けないのですか?私はこんなにまであなたのことを思っているのに」――もうそういう思いで一杯だったということが分かります。
さらに、ユダが裏切ったということが分かった時に、ユダに対する怒りが煮えくり返ったのかもしれないです。 「イエスさまを捕まえに来た大祭司のしもべに、剣で切りかかって右の耳を切り落とした」ということが、ヨハネの福音書18章10節に書かれています。 ほんとはユダに対する怒りの腹いせを、その大祭司のしもべに向けたのかもしれない。 全然分かっていなかった(笑)、ペテロは。
さらに、イエスさまが昇天された後、ペテロは、十二弟子が十一人になってしまった、 そのことが気になって仕方がなかった。 ユダのことが気になったというよりも、十二人が十一人になってしまったことが、気になって仕方なかった。 そしてイエスさまさえ命じておられないのに、弟子の欠員を補充しようとしていました、 しかも、くじ引きで。 その時、ペテロが何を思ってこういうことをしたのか、私(戸塚伝道師)には理解しかねる。
しかもペテロはこんなことまで言っているんですね。 お開きいただかなくて結構です。使徒の働きの1章の15節から読んでいきたいと思います。
<使徒の働き1:15〜20> 15そのころ、百二十人ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って、こう言った。 16「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした。 17ユダは私たちの仲間として数えられていて、その務めを割り当てられていました。 ――(18と19節を)飛ばします20節―― 20詩篇にはこう書いてあります。 『彼の宿営が荒れ果て、 そこから住む者が絶えますように。』 また、 『彼の務めは、ほかの人が取るように。』
なんとユダに対して――自分は赦されたにもかかわらず、そして「新しい戒め」を13章でしっかりと聞いていたにもかかわらず――ユダに対して、よくこんな言葉で裁くペテロの姿がここで見受けられます。 自分が赦されたということは全然頭になかったかどうか、それは分かりませんけれども、こういう言葉が言えてしまうペテロでした。 そして(強引に)くじ引きでユダの代わりを、「彼の務めはほかの人が取るように」という聖書の言葉に基づいて、強引にユダの欠員を補充しました。
「新しい戒め」――実行することになんと困難を覚えることでしょう。 私たちも同じです。 私たちはユダの足を洗えるでしょうか? お互いの足を、見知らぬ人の足を、洗えるでしょうか? 或いはユダに、足を洗ってもらうことができるでしょうか? 「ああ、無理ですね。洗えません」って言いたくなってしまうかもしれない。 「あんな人は到底愛することはできない。あんな人は神さまの御心に背いている。到底あの人の足を私は洗えない」
キリスト教会の歴史がそれを物語っています。 キリスト者同士でなんと醜い争いが繰り広げられてきたことでしょうか? 教会同士の争い、教派同士の争い。 私たちの日常生活はどうでしょうか? 「ああ、またあの人と出会わなければならない」とか「あの人は赦せない。あの人は絶対に赦せない」
日常生活はまだしも、教会生活はどうでしょうか?いや、高津教会ではそういうことはない(笑)、と信じていますけれども。 でも、「あの人がいるから、あの教会には行けない」とか。 教会って聖人君子の集まりではない、弱い人間の罪人の集まりなんですけれども、 何かを期待して、求めて、そして「ああ、躓いた」「ああ、傷ついた」。 もしかしたら、「ああ、傷ついた」と仰る方が誰かを傷つけていたかもしれない。それは分からない。
じゃあ、天国に行ったら大丈夫だろうか? いや、天国にもあの人がいるかも知れません。え〜、天国って悲しみも涙もないところじゃなかったの? そうでしょう。そうでしょう。互いに愛し合うことができれば。 ダメな辛いこの世からの避難場所が天国じゃない(笑)。 天国にもあの人がいるとすると、だからイエスさまは「互いに愛し合いなさい」と新しい戒めを私たちにくださったのかもしれない。 でもこの「新しい戒め」は最強の証しになります。最強の証し。
(ヨハネ)13章の35節をお読みしたいと思います。 イエスさまが「新しい戒め」を語られた後、こうあります。
35互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」
現実はそうなってないですね。 すべての人が私たちをキリストの弟子だと認めてくださっていない。それが現実です。 恐らく愛がないからでしょう。 愛がすべての人に伝わってないからでしょう。 私たちキリスト者の弱さですね、それは。どうにもならない。 ほんとに愛がない。すぐ裁き、すぐ妬み、すぐ人からの評価を受けたいと思い、承認欲求の塊。すぐいい気になって、すぐ高ぶって、ああ、愛がない私。 でもそんな愛のない私に、どうか愛をください。 イエスさまは、そのために《必要なものを約束》してくださいました。
来週ペンテコステの聖日を迎えますが、イエスさまがこの世を去られる時に、 イエスさまはヨハネの14章や16章を見ますと、 「父のみもとに行くわたしの代わりに、もう一人の助け主をあなたがたに与えます」(***ヨハネ14:16,16:7)と約束してくださった。それは聖霊ですね。 《聖霊を与えてくださる》という約束。 そして使徒の働き1章の8節――
8しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」
と書いてあります。 イエスさまはそのような約束を、最後にくださって天に帰って行かれました。 「わたしの証人となる」――わたしの証人――イエスさまの愛の証人。 「あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認める」(ヨハネ13:35)という証人ですね。
この聖霊を受けて、この後、ペテロは変えられて行きます。 恐らくすぐにではないでしょう。時間はかかったかもしれません。 辛い目に遭いながら、神さまによって変えられていく。
一癖も二癖もありそうなパウロでも色々なことがありました。 でもイエスさまの愛によって、少しずつ少しずつ変えられて、イエスさまの愛に生きることに目が開かれて行くわけですね。 「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」と(ヨハネ)13章の7節でイエスさまが仰いました。 多分、今は無理だなぁってことを前提で、イエスさまはこう語ったんだと思うんですが、 「後であなたたちは分かるからね、わたしがしたことが、わたしのした意味が。 わたしのしたことがどんなにすばらしいことか、後で分かるからね」 とイエスさまがここで言われて、「新しい戒め」を私たちにくださいました。
やがてペテロは、殉教を前に、こう言い残すことができる人に変えられました。 お開きいたしませんけれども、第一ぺテロの1章22節――
22あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。
このように言い残すことができる存在へと、ペテロは変えられていきました。 ああ、私たちも変えられたいです。 勿論マザー・テレサのようになれないでしょう。それは特別な神さまからの賜物がなければできないことなのでしょう。 イエスさまもそんなことは求めておられないと思います。 でもただ一つ、「新しい戒め」をイエスさまはくださいました。 聖霊の助けによって、私も変えていただきたい。 聖霊の助けによって、私も誰かの足を洗うような者とさせていただきたい。 聖霊の助けによって、イエスさまが私たち一人一人を愛したように、互いに一人一人を愛し合える恵みをいただきたいと思います。
先ずは私たちキリスト者の中で、「互いの間に愛がある」(ヨハネ13:35)かどうか――これが問われています。 すべての人はそれをちゃ〜んと見ておられ、そのために私たちがすることはいったい何でしょうか?何もできないです。 でもすべての人がこのイエスさまの愛を求めていることは確かです。 私たちはその愛を知っています。 私たちはどうしたらその愛を、一人一人に示すことができるでしょうか? 先ず私たち一人一人の心がイエスさまの愛に満たされますように。 そのことをお祈りしていきたいと思います。
イエスさまは言われました。 「互いの間に愛があるなら、(※もう一度繰り返して大きな声で)、互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります」(ヨハネ13:35)。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、ペテロの足を、ユダの足を洗われたあなたは、私の足をも洗ってくださるお方ですからありがとうございます。あなたは「新しい戒め」を与えてくださいました。あなたを裏切ったユダを赦す程の愛をもって、私たちも互いを愛し、足を洗い合えるようにと。感謝いたします。
「互いの間に愛があるなら、私たちがあなたの弟子であることをすべての人が認める」(ヨハネ13:35)と言われたイエスさま、来週のペンテコステの聖日を前に、どうぞ私たち一人一人に聖霊が豊かに働いてください。そしてこの一週間、教会でも、家庭でも、学校でも、職場でも、自らの愛の足りなさを実感させられるような時、圧倒されるようなあなたの愛で心を満たしてください。そして相手の足を洗えるような思いと行動に導いてくださいますように。愛するイエス・キリストのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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