☆聖書箇所 出エジプト33:12〜14
12さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。 13今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」 14主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
☆説教 ペンテコステ:わたしの臨在が、あなたを休ませる。
今朝はペンテコステのメッセージとして、格別に出エジプト記の33章のこの言葉、ちょっと映していただきますが、14節ですね。 【画面:出エジプト33章14節「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」に茶色のハイライト】 <出エジプト33:14> 14主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
という、聖霊こそが神の臨在なんですけれども、 「あなたとともに行き、あなたを休ませる」――このみことばに搾って物事を考えて行きますので、幾つか聖書の個所を開きますが、お開きになれるんでしたら開きながら、そうでなければ耳を傾けてついて来ていただきたいと思います。
戸塚先生の話(先週)にありましたように、教会の歴史の中で、教会暦の中で大切なものがクリスマス、受難週・イースター、そして3番目がペンテコステです。 イースターから数えて50日目、復活のキリストは天に昇り、地上に残されて祈っている弟子たちのところに聖霊が降り、そして教会が誕生いたします。
《彼らの上に聖霊が降る、聖霊が注がれる、彼らの内側に聖霊が住んでいる》というのは、ロマ書の8章の11節の言葉です。 今日はこのテーマでしばらくお話をいたします。
1)神があなたとともにおられる、というのは聖書のテーマです。
どれ位大きなテーマなのかを、ちょっとお話しいたします。 (※出エジプト記3章を説明する藤本牧師) それはモーセが、エジプトで奴隷として苦役に就いているイスラエルの民を率いて、そこから脱出させるように、神さまの召しを受けたのは、モーセがミディアンの荒野で羊を飼っていた頃でありました。 モーセは「自分としては、いきなり、そのような指導的な立場と責任を負うことができない」と散々断りますけれども、 神さまは、「わたしはあなたしか考えていない」と説得されます。 最後にモーセが言った言葉は、「せめてあなたの名前を教えてください」です。 「名前がなければ、あなたのことをお呼びすることもできませんし、神だけでは漠然としていますし、民が、どんな神がエジプトから連れ出してくださるのか、納得しません。」
そうして神さまは、ご自身の固有名詞を教えてくださいます。 それが出エジプト記の3章の14節、ちょっと開きますね。 神さまがご自分から、わたしはこういう者だ、と仰っています。 【画面:出エジプト3章14節「『わたしはある』という者」に青いハイライトで囲み】
<出エジプト3:14> 14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」・・・・・・
この言葉だけが聖書の神に与えられた、いや神がご自身からお伝えになった名前です。 聖書の神に固有名詞があるとしたら、――『わたしはある』という者。 これはヘブル語の聖書では、ヘブル語は子音が並んで、その子音にどういう母音を付けるかというのは、下に記号が出て来るんですけれども、 子音はYHWHです。 十戒の中に、主の御名をみだりに唱えてはいけない、と(教えられています)。
ところが聖書を読む度に、このYHWHに出会うわけですよね。新改訳(の旧約)聖書では太字になっている【主】がそれです。 すると彼らはそれを発音してはいけない。それで、「主」という一般的な、「主人」という一般的な「アドナイ」に読み変えて、そのYHWHを読んでいました。
そのうち、どんな母音の記号がつくのか、何百年も経過している内に分からなくなってしまいました。 一般的にずっと理解されてきたのは、Yの下にe、Hの下にo、Wの下にa だからイェホバですね(エホバ)。YHWでエホバ。英語ではジェホバになります。 長〜くそのように考えられてきましたけれども、
しかし今世紀に入りまして、ユダヤ教の研究者たちは判断を変えました。 Yの下にはa、Hの下にはa、Wの下にはe そうすると、ヤハウェになります。
ですから文語訳聖書ではエホバとなっていました。 それ以後の聖書では、大体彼らが言い換えていたアドナイ、日本語では「主」になりますけれども、それを太字にすることによって、ヤハウェを言い換えている。表現している。 文語訳聖書ではそのまんまエホバになっていましたけれども、今の聖書でも【主】という字が出て来て、それがゴシック体、太字になっています。
このYHWHをどういう風に発音するか以上に、はるかに意味を持っているのは、それは一体どういう意味なんだ?(ということ) 「わたしはある」という者、「わたしはある」――神さまが自らご自身の名称を名乗ったんですけれども、あまりにも哲学的で、「わたしはある」。 一般的に考えられているのは、その意味は(出エジプト記)3章の12節に出て来ると言われています。 【画面:出エジプト3章12節「わたしが、〜あなたのためのしるしである」に青色の傍線。「あなたとともにいる」に同色のハイライト】 <出エジプト3:12> 12神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。・・・・・・
つまり「わたしがある」という「ヤハウェ」というのは、実際は「あなたとともにいる」という意味ではないかというのが一般的な理解です。 このテーマがどれほど大きなテーマなのか、これを一緒に今日は考えていただきます。
神さまの本質というものを考えると、聖書はどのように捉えて来たのか? 一番大きなものは「愛」でありましょうけれども、 しかし旧約聖書以来、聖書の「聖」、「きよい」という言葉が強調されて来ました。 「わたしは聖なる者である」――ヘブル語では「カドーシュ」という言葉を使いますけれども、 そもそもの意味は、人間世界から格別されている、分離されている、超越している、はるかに及ばない、というのが、「カドーシュ」という言葉の意味です。 つまり聖書の「聖」、聖なる神の「聖」。
預言者イザヤが「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た」(イザヤ6:1)と、イザヤ書の6章に書いてありますね。 そして天使が「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】」(同3)という賛美を歌っているのをイザヤは見ます。 その高く上げられたところに座しておられる神が、「愛なる、愛なる、愛なる、万軍の【主】」ではないんです。 「聖なる、聖なる、聖なる」というのは、人間の世界と格別された、分離された、超越された、はるかに及びもつかない神、を見た時にイザヤは言いますね。 「ああ、私は滅んでしまいます(――ああ、われ滅びなん、ですよね、と説明)この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる」(同5)。
つまり神が私たちよりはるか別の世界におられればおられるほど、この世界との隔たりが生じます。 ですから聖書では、偶像というものがあれ程までに嫌われている。 エジプトの神々は牛であり、ワニであり、朱鷺(とき)という鳥であり、インドの神々であれば牛やゾウが神々です。 聖書は徹底して言いますよね。 「動物を像に刻んでそれを拝んでいる人間というのは、わたしが作った人間のあり方とは違う」と、 「人間は神のかたちに造られていて、あなたがたは上を見上げ、隔たってはいるが、あなたがたを愛し導くことができる、わたしに耳を傾けよ」 というメッセージが何回も何回も繰り返されていますでしょう。
ところが高く上げられている神が、大よそ私たちの及びもつかないにもかかわらず、 「わたしはある」「わたしはあなたとともにいる」というのが、 昔で言うとエホバ、主、ヤハウェという神さまの固有名詞の意味であります。
1)出エジプト記の33章に戻ってみますが、33章の5節をちょっと見てください。
読んでいただいた箇所よりちょっと上なんですが―― 【画面:出エジプト33章5節「あなたがたのただ中にあって〜立ち滅ぼしてしまうだろう。」に青色の傍線。「飾り物を身から取り外し」に同色の囲み】 <出エジプト33:5> 5【主】はモーセに次のように命じておられた。「イスラエルの子らに言え。『あなたがたは、うなじを固くする民だ。一時でも、あなたがたのただ中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、飾り物を身から取り外しなさい。そうすれば、あなたがたのために何をするべきかを考えよう。』」
いったいどういうことなのか? 神さまはモーセを先頭に、ず〜っと民を率いて、荒野から約束の地へと向かっておられました。 しかしその間に、モーセが十戒の板を受け取るためにシナイ山に登っている。それが40日以上かかった。 民は神がおられない。神が見えない。そしてモーセがいないということに不安を覚えて、自分たちがエジプトから持って来た金や銀の飾り物で子牛を造ります。 そしてなんとその(金の子牛の)周りを踊りながら、「この方こそが私たちの神だ」と踊っている姿を、モーセも神もご覧になります。 そして神は、(民を)裁かれます。 「わたしはもうこれから先はあなたがたと共に上って行かない。」 なぜなら、5節にあるように、「一時でも一緒にいたとしたら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼすことになる」というのは、 それほど、私たちの罪深さと神の聖さに隔たりがある、ということでもあります。
ところが、モーセは食い下がります。 「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。 しかし、12節見ていただきます? 【画面:出エジプト33章12節「さて」に青色で囲み。「だれを私と一緒に〜知らせてくださいません」に同色の傍線】 <出エジプト33:12> 12さて、モーセは【主】に言った。「ご覧ください。あなたは私に『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれを私と一緒に遣わすかを知らせてくださいません。・・・・・・
というのは―― 「あなたが一緒に行かないというのであれば、だれかをあなたは遣わしてくださらないと、私はとてもではないですが、この任に耐えることはできません。いったいだれを遣わすおつもりなんですか?」 と、モーセは食い下がるんですね。
モーセの気持ちとしては、「神の使いがいても、私は平安にはなりません」という意味ですよね。 それはね、ここにあるんですよ、11節に。 【画面:出エジプト33章11節「人が自分の友と語るように」「顔と顔を合わせ」に青色の囲み】 <出エジプト33:11> 11【主】は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた。・・・・・・
つまり神とモーセは、これまで会見の天幕の中で、荒野で、毎日モーセは神と「顔と顔を合わせるように」、親しく祈り、親しく語っていたんですね。 ですからモーセにしてみれば、その代わりになるような神の使いなんて、私は信用できない。
で14節に、改めて主は言われた。 【画面:出エジプト33章14節「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」に茶色のハイライト】 <出エジプト33:14> 14主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」
「では、わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」と。 「臨在」の上に*(星印)が書いてありますでしょう。これ文字通り、臨在ではなく、「わたしの顔が」なんです。 ですからこれまでと同じように、今までも、(※11節を指で押さえて)「顔と顔を合わせて、モーセは神と語ることができた」。 そしてこれからは、「わたしの顔があなたとともに行き、あなたを休ませる」ですね。
聖書のテーマは、一貫してこのテーマなんですね。 神は聖なるお方、そして私たちは罪深く、もし私たちがこの方の前に立とうものなら、一瞬にして滅びてしまう罪深き私たち。 そうして出て来る、もう一つの聖書の大きなテーマがあります。 それが私たちの罪を贖う。私たちの罪を赦してくださる。私たちの罪をきよめてくださる。 そして、大胆に神のみもとに近づくのにふさわしい者とされる、聖められる。
2)それでもはるかに遠くにおられる神です。でもそれが人の子となって、「人となって、(***人の子イエスとなって、と説明)私たちの間に住まわれた」と、ヨハネ福音書1章14節に書いてある。
イエスこそが、神が私と共に住まわれた。 マタイの福音書では、この主イエスが生まれる前から、「その名はインマヌエルと呼ばれる」です。(***マタイ1:23) インマヌエルというのは、「神、われらと共にいます」という非常に難しい名前です。 私たちの教団は、インマヌエル綜合伝道団なんですが、いつも銀行に行って法人の通帳を作ります時に、「これ入らないですよね」と言われる(笑)。 最初から言いますとね、正式名称が「インマヌエル綜合伝道団高津キリスト教会 代表役員 藤本 満」なんですね(※面白そうに笑って語る藤本牧師)。 それで「どう考えても入らないですよ」って、それを言われる前に、「インマヌエル」が分からないんですよね。 私のカタカナも下手くそですから、正式はイムなんです。イムマヌエル。 でも私たちはもう通称インマヌエルなんですね。カタカナでイムというのはないです。ですからインマヌエル。 この違いを、もうとうとうと(笑)銀行の方に説明するのが、しんどくてしんどくてしょうがない。 そこで私(藤本牧師)はもうインマヌエルもやめて、高津キリスト教会、この教会は「高津キリスト教会」でいいんじゃないかと言ってるんですけれども、
しかし、実は(インマヌエルは)すばらしい名前なんです。 それはこの教会を創設された蔦田二雄先生が、戦争中、軍国主義に弾圧に遭い、東京拘置所の中でお一人であり、しかしどんな境遇でもどんな状況でも、「神、われらと共にいます」という確信を受けて、この教団にそういう名前を付けようと決意されたんです。 ですからものすごく尊い名前ですね。
ヤハウェがインマヌエルになった。 そしてインマヌエルである主イエス・キリストが、十字架を前に、弟子たちにお話しになります。 「わたしは去って行く。・・・」 これは見ていただきたいと思いますね。ヨハネの福音書の14章の16節から読んで行きます。 【画面:ヨハネ14章16節「父はもう一人の助け主」に青い線で囲み。「あなたがたとともにいるようにしてくださいます」に同色の傍線。】 <ヨハネ14:16> 16そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
「助け主」――聖霊のことですね。これは英語ではthe Comforterです。 ラテン語のコムフォルテからきていますけれども、 「助け主」というのは、Comforter「慰め主」とも訳しますし、 でも、その「慰め主」というのは、ラテン語の考えですとコムフォルテですから、共にいて力を与えるという意味ですよね。ですから「力づける者」。 イエス・キリストが神にお願いし、天からもう一人の「慰め主」「力づける者」を送ってくださり、その「助け主」がいつでもあなたがたと――出て来ますね――共にいるように【(してくださいます)※16節のみことばを指で押さえながら説明】
ですから、モーセが父なる神に尋ねました。「あなたのお名前は何ですか?」と。 【「わたしはある」という者であると(神はモーセに仰せられた、出エジプト3:14)】――「わたしはあなたと共にいる者だ」と。 イエス・キリストが地上で誕生するという瞬間、この方はインマヌエル(神、われらと共にいます)と呼ばれる。(***マタイ1:23)
しかしこの方が天に向かう時に、もう一人の「助け主」を送る。その聖霊はあなたと共にいるんですが、17節見ていただけます?真ん中。 【画面:ヨハネ14章17節「ともにおられ」「うちにおられるようになる」に青色のハイライト】 <ヨハネ14:17> 17・・・この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
ですから(※神と人間の)距離感がどんどん縮まるんですよ。 モーセが尋ねた神は聖なる神で、共にいるんだけれども、モーセが会見の天幕に入らない限り、民は神に近づくことはできないです。 ですから顔と顔を合わせて神と語ったのはモーセだけで、民だれ一人としてそういうことはできませんでした。 しかもモーセが神と語るとモーセの顔は輝いて、誰も見ることができなかった(***出エジプト34:30)と聖書に書いてありますね。 一度だけモーセが、「あなたの顔を見たい」と言った時に、「いやいや、見ることはできないよ」と、モーセを岩の間に隠して、神はその上を通り過ぎて、その後ろだけモーセは見ることができます。(***同33:18〜23)
ですから、「顔と顔を合わせる」というのは文字通りの言葉ではなくて、比ゆ的な表現ですね。 ですからモーセに再び神さまが「わたしの臨在がともに行く」というのは、それでいいんです。 原語では「わたしの顔がともに行く」んですけれども、そういう意味ではなくて、 《それほど近しく、わたしはあなたと一緒にいつもいる》と。
イエス・キリストは人の子となり、私たちの間に住まわれ、 しかしそれでも、私たちの内側に入るというよりも、《私たちと共に歩み》、 でも「もう一人の《助け主》を遣わす」と言った時に、《その方はいつもあなたと共にいるだけではない。あなたの内におられる》。
ペンテコステというのは、そういう意味で《聖書の大きなテーマが、最終的に、「神はあなたの内におられる」という言葉に結実する》っていうんですかね、そこに終着するっていうんですか。 そういう意味で、ペンテコステ以降の私たちは、これまでのどんなにすばらしい恵み以上に、《聖霊が私たちの内側におられる》。
ま、一つ言うならば、その「聖霊を悲しませてはいけません」(***エペソ4:30)、とパウロは言うんですね。 なぜ悲しませるのか?簡単に。それはその方が私たちの内におられるからですね。 遠くにおられるのであったら、それほどの悲しさを体験せずに、「あ、藤本はまたやっている」で済むのかもしれませんね。 だけど、私の内におられるがゆえに、私がみこころに適わないと、直に聖霊が悲しみを感ずる位、私たちの近くにおられる。
3)でもその聖霊を、臨在を恐れる必要はない。 それが今日最後に触れます、出エジプト記の33章の14節「わたしの顔があなたとともに行って、あなたを休ませる」ですよね。
あなたを慰める。あなたを力づける。あなたを休ませる。 Comfoter 助け主は、あなたを真理に導く、という大きな働きもあります。 あなたの罪を認めさせる、という大きな働きもあります。 また、あなたを聖める、という大きな働きもあります。
でもイエスさまが呼ばれたのは、この方はあなたを慰め、あなたを力づけ、そしてあなたを休ませる、ですね。
今頃出て来るお花で、ペチュニアというお花がありますね。 割とお安くて、丈夫で可憐できれいで、雑草に花が咲いたように、2カ月ぐらいペチュニアはきれいに咲いていますよね。 花言葉は「あなたといると心が休まる」です。
私は、その花言葉に拘っているわけじゃなくて、その花言葉って偉大だなぁって。 つまり「あなたといると、心が疲れる」っていうの、多いですよね(笑)。 「あなたといると、心が傷つく」っていうのも多いですよね。 「あなたといると、心が乱れる」「あなたといると、心が苦しい」「あなたといると、いらいらする」――わんさか、そういう「あなた」が、私も含めて周囲にいるんですよ(笑)。 誰一人として、あなたといると、心が休まる存在なんていないですね。
私(藤本牧師)今一人生活なんですけれども、一人生活をして、 さっきどなたかが、「圭子先生はイースター前にアメリカに行きましたよね?」って そう言われると、もう50日経っているんですよ(大笑)。 私はもう限界だと。50日はいくらなんでも限界だと思うようになりましたね。 最初の頃は「今晩何にする?」とか言わなくてもいいというのは楽です。 ひとり暮らしってこんなに楽なんだと。 「あ、お風呂先にいただきました」って言わなくてもいい。 好きな時に勝手に入って、勝手に栓を抜いて、掃除しておけばそれでいいって、ああ、これは楽だなぁと思いましたね。 だけど、その内、対話する相手がいないと自分はボケるんじゃないかと(大笑)思うようになりまして。 それで教会で皆さんに会うと、なんかやたら話をしている自分?小奈さん捕まえて、色々こう話をしてしまう自分というのは(笑)、やっぱり人間として健全なのかもしれないと。
そう思いますとね、伴侶者に先立たれて、お一人である皆さんが沢山いらっしゃいます。 ほんとに強く雄々しくなければいけないと思いますけれども、でもそれでもその人といると、疲れる、苦しい、乱れる、傷つく、いらいらする、っていう人がいないに越したことはないです。 そう思うとすごく反省させられる。 でも聖霊は、神は、キリストは、あなたを休ませるんですよ。 ね、励ます、真理に導く、きよめる、罪を悟らす、それを全部並べられるとね、却って苦しくなってしまうかもしれない。 でも主はあなたを休ませる、っていうこの真理にどっぷり浸ると、恐らく私たちは何もしなくても、罪も悟らされ、真理も分かるようになる。内側も聖められる。 でも一番最初に知らなければいけないのは、モーセと同じですよね。 「あなたのお名前は何ですか?」と。 「わたしはあなたと共にいる者だ。」 「イエスさま、あなたの名前は何ですか?」 「神、われらと共にいます。」 「聖霊さま、あなたはいったいどのような存在ですか?」 「わたしはあなたを休ませる。」
☆お祈りをして終わりにいたしましょう。――藤本牧師
天の父なる神さま、あなたといると心が休まる。どうか私を包んでください。教えてください。重荷を負ってください。いやその前に、重荷を降ろすことを教えてください。
もしあなたが私と共に一緒に行ってくださるなら、共におられるあなたと、モーセのようにお話をすることができますように。共に食事をすることができますように。共に様々なことを語り合うことができますように。
私たちはともしますと、共にいるのがテレビであり、本であり、PCであり、スマホである。いえ、私たちが共にいるのはあなたです。私の安らぎは祈りの中で、あなたと顔と顔を合わせてお話しできることです。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
104.28.157.28 - Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; Win64; x64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/113.0.0.0 Safari/537.36 Edg/113.0.1774.57
|