☆聖書箇所 へブル4:11〜13
11ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。 12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。 13神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
☆説教 へブル(10)神のことばは生きている
今日はへブル人への手紙の4章の11節〜13節を見ていただきました。 前回の続きであります。前回から4章に入りました。 前回のテーマは、「神の約束はまだ開いている。閉じられていない」というお話でありました。 で、この約束に入るために――ちょっと4章を映していただきますね。 この4章の1節(〜2節)を見ますと、こうありますね。
【画面;へブル4章1節「神の安息に入るための約束がまだ残っている」に茶色のハイライト「まだ残っている」に黒ペンで囲み。2節「よい知らせ」に黄色のハイライト「聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかった」に深緑のハイライト】
「安息に入るための約束がまた残っている」という所から始まって、そのためには2節の後半ですね。 この「良い知らせ」をここですね、最後「聞いた人たちに信仰によって結びつけられなければいけない」という。 つまり神のことば、神の約束を自分のこととして信仰をもって捉えて初めて、約束の安息に入ることができる、というお話をしました。
今日はその続きで、11節、ここから行きますね。 【画面:へブル4章11節「あの不従順の悪い例に倣って」に黄緑の傍線、「落伍しないように」に同色のハイライト】
11ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
1)落伍しないように――へブル4:11
不従順の悪い例というのは、エジプトを出たイスラエルの人々です。 折角エジプトの奴隷生活から救い出され、荒れ野をさまよいながら、約束の地を前にして、約束の地を偵察するための拙攻隊が戻って来た時に、12名のうちの10名が 「いや、やめときましょう。あそこの地に住んでいる敵は屈強そうな人々であった」と。 民は、残り二人ヨシュアとカレブの「絶対神さまは私たちに勝利を与えてくださいます」というその宣言よりも「あ、無理です」という方に耳を傾け、一晩泣き明かしましたね。 一晩泣き明かして、彼らが言った決断は「エジプトに帰ろう」です。 折角エジプトから出て来ていながら、「もう一回エジプトに帰ろう」と言うような傾向性が私たちにもあり得る、ということでへブル人への手紙は書かれている、というお話をずっとしてまいりました。
私たちの信仰生涯は洗礼で始まります。 キリストの十字架と復活の恵みにあずかり、そして罪と死の奴隷から救い出されて始まって行きます。
一番最初に、初期のキリスト教会で洗礼の時に、洗礼にあずかる人に求められたのは、「使徒信条」の告白でありました。
私たちが毎週日曜日に共に祈る「主の祈り」という時に、「天にまします《われら》の父よ」ですよね。 《われら》という風に、「主の祈り」は全部祈っている主体が複数形で、私たちなんです。 ところが次に告白する「使徒信条」は、全員で一致して告白していますけれども、「《われ》は信ず」と言うように、私です。
なぜ単数形になっているのか? それは初代教会の頃から、《洗礼の前にこの告白をして、洗礼にあずかる》というのが習慣だったからです。
告白ということの意義をパウロはローマの10章の10節で「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」と言う。 口で何を告白するのか?勿論信仰でありましょう。 でももう少しその信仰の中身を深めていった時に、初代教会の人たちは、「使徒信条」というあの項目、格別に主イエスの部分が非常に長いんですけれども、この主イエスに対する信仰を告白したのです。
私たちにとって告白しているのは、何も「使徒信条」全体のことではないでしょう。 例えば「アーメン」という一言も、私たちの信仰の告白になりますし、 「主の御名によって祈る」と言うことも信仰の告白でありますし、 それから《カトリックの方々のように十字を切って祈る》というのも信仰の告白でありましょうし、 時に《もっと複雑な福音の教えの中に入り込んでいく》ということも、信仰を真実なものとして神さまからいただいていることの証しかもしれません。
でも「告白」「告白」と言いますけれども、実は信仰者の生涯は長いレースです。長いレースです。 告白することで始まりはしますけれども、告白で終わるわけではない。 つまりそこから始まる信仰者の長いレースというものを考えた時に、へブル人への手紙の記者が、「落伍しないように」(4:11)という言葉を入れているわけですよね。
落伍する理由は、非常に簡単です。 それはサタンが必死に、私たちを主イエスから引き離そうと頑張るからですよね。 私たちの人生には様々な誘惑があり、苦難があり、主イエスを信じるというその信仰から引き離すような場面は沢山あるからです。 時に疲れ果ててしまいます。
私(藤本牧師)は高校生の時に、一番嫌な体育の時間がありまして、あ、これだけはみんな嫌だろうなと。 皆さん、ありませんでした?1500m。 1500mというのはアスリートの方も仰ると思うんですよね、一番きついと。 ほぼ全力疾走で、それを400ではない、1500行くっていうのはものすごくしんどい。
私の行っていた高校のグランドは多分300m位の一周だったと思うんですよね。 楕円形で、そして4周半位周るんです。 楕円形のコースの一番端が、(校庭)の森に引っかかるんですよ。 それで、先生はこちら側にいるわけですけれども、ま、別に競争というわけではないんですが、よーいどんで走りますよね。 私たちは40人位一クラスにいますんで、考えるわけですよ。 1周目終わった段階で、この5人があの森の中に入ると(笑)。二周目にその5人がもう一回(レースに)入る。そして他の5人が休む、という順番で。 そうしますと最低でも、15人は休めるわけですよね。 私は休む側でした。いや、むしろ全力で4週走って自分の記録を狙いたい、という学生も沢山いるんですよ。 私には、全く(笑)そういう気持ちはありませんから、15人の中に入れてもらって、そして1周はせめて休む、というそういうシステムの中で走りました。
このストーリーは後々もう一回出て来ますけれども、1500mってのはしんどいです。 信仰生涯もいつも私たちは全力では走れないですね。 勿論誰かと競争しているわけではありませんから、自分のペースということを守って、決して負荷をかける必要はないかもしれません。 でも苦難に遭って、試練に遭って、負荷がかからない信仰人生っていうのはないわけです。 その時に、この「落伍しないように」(へブル4:11)という言葉がとても響いて来ます。
2)神のことばは生きている――へブル4:12
ちょっと12節を読んでいきます。12節にこうありますね。 【画面:へブル4章12節全文にオレンジ色の傍線「ことば」に黒ペンで囲み】
12神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣(***っていうのは、刃の両方が研ぎ澄まされている。日本刀や包丁は一方だけですよね。でも両方とも、西洋の剣はそうですけれども、非常に鋭い、と説明)そして、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
ちょっと聖書をそのまんま映していただいて、エレミヤの17:9(〜10)を見ていただきますと、心を見分けることの難しさというのが、書いてあります。 非常に有名な言葉なんですが、ちょっと見ますね。
【画面:エレミヤ17章9節全文と10節「わたし、【主】が心を探り」に黄色のハイライト。】 <エレミヤ17:9〜10> 9 人の心は何よりもねじ曲がっている。 それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。
***人の心は何よりも「ねじ曲がっている」――新改訳の以前の訳では「陰険であり、それは直らない」――それは癒やしがたい。 だれが、それを知り尽くすことができるだろうか、というのが人の心です。
10 わたし、【主】が心を探り、心の奥を試し、・・・
心が「ねじ曲がっている」という言葉ですけれども、ヘブル語でアーコーブですね。 アーコーブという言葉からヤコブという、あのヤコブの名前が出て来ます。 ヤコブの名前の由来は、聖書に書いてありますよね。「かかとをつかむ」と。(***創世記25:26) 双子の兄であるエサウの先を越されまいと、エサウのかかとを掴んで生まれて来るヤコブは、やがて兄になりすまして、父の死に際に、兄が猟に行っている間に、兄の長子の権利を奪い取りますよね。(***創世記27章) 変装して、兄に扮装して奪い取るんですね。それが人の心なんですね。
私たちは誰も責めることができない。 私たちの心というのは、そのような闇の部分があり、陰険な部分がない人はいないです。ない人はいない。
イエスさまが、イエスさまの奇跡の物語の中に、ゲラサ人に宿っている悪霊を追い出した。(***マルコ5:1〜13) 彼は墓場に住み、鎖でどれだけ繋がれてもそれを引きちぎり、そして墓場で叫ぶ程凶暴な男でした。 イエスさまは、彼が悪霊につかれているということを見抜いて、 「悪霊よ、この人から出ていけ」と言いますね。 で、悪霊に「おまえの名は何か?」と言った時に、悪霊は 「私の名はレギオンです。多くの者たちですから」と。 レギオンというのは、当時のローマ帝国の一個師団です。 人数から言うと、記録から言えば、600〜2000の間でローマ兵の一個師団というのは出来上がっています。
少なく見積もって、じゃあ600だとすると、600の悪霊が私たちの心の中に入る程、実は私たちの心には沢山の小部屋があるわけですよね。 それを見通すことのできる人間というのはいません。
心理学は例えば試みをします。ですから心理学っていうのは尊い学問ですね。 潜在意識というのがありますけれども、潜在意識はいわば心の地下室ですね。 そしてその地下室の部分が幼い頃の体験で、見えはしないけれども、実は建物の中の上側の心の内側を決定している、というフロイトの心理学ですね。
心の小部屋が一体幾つあるんだろうか、ということを私たちは意識しながら、 ま、様々な聖会、修養会――退いてゆっくりと神のみことばに聞きながら、祈りつつ、心の内側を聖霊によって探っていただく―― ってことを私たちは一年の内に何回かして来るわけですよね。 それは聖霊の力によってのみ、その心の骨と筋が通るように光を当てられ、私たちの罪が分かる。
そう言いますとね、何かこの「神のことばは生きている」というこのフレーズが、非常に恐ろしいように思いますよね。 私(藤本牧師)は恐ろしく感じて当然だろうと思います。 神さまが恐るべき方だという意味で、神聖な思いで神さまの御前に立つ、というのは一体どういうことか? それは、神はあなたの心の隅々まで見通しておられる。 いや、見通すだけでなく、みことばの剣を突き立てて、その心の奥にあるものを、あなた自身が自覚することができるようにしてくださる。
ただ一つ考えておかなければいけないのは、(へブル4章)12節の「神のことばは生きている」の「生きている」は、ギリシャ語でエネルゲオです。エネルギーですね。 「神のことばはエネルギーである」と言った時に、それはマイナスのエネルギーであるはずはないです。 それはプラスのエネルギーで、神のことばは希望になり、いのちとなり、愛となり、力となり、勇気となる。
みことばのエネルギーは私たちを殺すためにあるのではない。 私たちを生かすためにあります。 そこを私たちは勘違いしないようにしなければいけないです。 色々みことばによって示される。みことばによって自分自身の過ちが分かる――と言った時に、それはいつでも私たちを殺すためにではなく、私たちを生かすために、みことばは私たちに語りかけをいたします。 世にあって世に染まらず、神への信頼と愛を何とか貫く力を、エネルギーとしてみことばは与えてくださる。 それが、「神のことばは生きている」という意味です。
で、このエネルギーを使うためには、先週の中心的な聖句に戻りますが―― これ映していただくと、やっぱりここですよね。やっぱりここですよ。 【画面:へブル4章2節「良い知らせ」に黄色ハイライト。「みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかった」に深緑のハイライト】
「みことばが益となりませんでした」とあるように、みことばが益となるためにはどうすればいいのか? それは聞いた私たちが、信仰によってそのみことばを自分のこととして受け取らない限り、みことばはエネルギーにはならないですね。
私たちはそのようにしてみことばを聞いているんだろうか? 勿論、そこで助けを得るのは聖霊なんです。 聖霊が働かない限り、みことばは私たちのものとなりませんし、聞いた私たちの信仰がみことばと結びつくというのも聖霊の働きであります。 ですから、みことばを読む前に、すっとこう一瞬祈って、聖書を読む方もいらっしゃいますよね。
「聖霊よ、どうか私に、これから読むみことばが生きる力となりますように。」 生きる力というのは単に元気づけるだけではないです。 私に過ちがあれば、それを正すことができるように、 私が正しく振舞うことができるように、 私が落伍者となることのないように、 ――何回転んでも、倒れても、暫らく離れていたとしても―― どうか私を助けてください、ですね。
3)みことばのエネルギーにとって、最大の邪魔者、それは私の傲慢さです。
みことばにとっての最大の助けが、素直な信仰と聖霊の力であるとすると、 最大の問題は、私の傲慢さです。 ちょっと13節を映しますね。これで最後にしますが、13節――
【画面;へブル4章13節 特にハイライトなし。「申し開き」に黒ペンで囲み】
13神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。
というのは、これ、「申し開き」できるのか、ですよね。 私(藤本牧師)ここ(※黒ペンで囲みの部分、つまり12節の「ことば」と13節の「申し開き」を指二本で押さえて)丸でつなぎましたけど、これもロゴスですね。
ですから、《神のロゴスの前で、私たちは自分のロゴスを出す、申し開きをする》と言ったときに、申し開きができるものなど一つもないです。 すべてが裸であり、さらけ出される、というのはどういうことなのか? それは先程私が申し上げましたように、高校の頃に、ね、約4周あれば1周は林の中で休んでいる、というのは、学校の先生には見えませんよ。 だけど神さまは見ているということですよね。
私たちは様々なことを隠しますが、しかし、神さまが見ていて、 その神さまの前で「あなたのことばを聞かせろ」と言った時に、申し開きの出来る人など一人もいないと思います。 で、私たちは申し開きをする代わりに、開き直るわけです――それを傲慢と言います。 ですから、みことばを自分自身につなげて受け取ろうとした時に、 最大の問題は私の内にある「神など要らぬ」というような傲慢な思いですね。
「神のみことばが生きて働いておられる」とすると、 私たちは神のみことばの前で説明責任がある。 自分の責任を申し開きする、説明する責任が、やがてやってくる。 それが無理であるということを、私たちは痛感しなければいけない。 ですから私たちは《神の恵みにより頼む》以外にない。 《無力を痛感する》ことはキリスト教で「悔い改め」と言います。 《神の恵みにより頼む》ことを、キリスト教で「信仰」と言います。
「悔い改め」というのは、罪深さを悔いることだけではない。 もっとも大切なことは、《この方の前で申し開きをする力は、私にはない》ということを、素直に認めることですね。 信仰が生きるためには、神のことばのエネルギーが、私たちの上に及ぶためには、 到底申し開きができない自分というものを、開き直るのではなく、遜って認め、神の恵みにすがる者となる、ということです。
私(藤本牧師)先週にね、非常に面白い体験と言いますか、面白い会話がありまして、 ある青年からバイトでの失敗を聞かされたんですね。 すっごく尊い失敗で、で、私たちが話したことは、 「人生の成功体験って何にもならないよね。人間としては何にもならない。 ただ歩いて、歩いている内に溝口に着きました、っていうのが人生の成功体験であって、 人生の失敗こそが私たちを賢くし、私たちを練り、私たちの人物を整えていくんですね。 でもその失敗の体験っていうのは重いよね」という話をしたんです。 で、彼はその話をしてくれて、 「いや、僕もね、今から15年ぐらい前の話なんだけど、いまだに思い出しただけで気持ち悪くなる失敗がある。」
それが私たちの教会の森廣さん、皆さんがいつも元旦に聖句の栞を貰う、あの書を書いてくださる森廣さんのお嬢さん二人、というのは私は良く知っているんですね。 二人とも洗礼を受けていて、そして教会学校熱心に来ていましたよね。
下の佳奈ちゃんが結婚した時に司式を頼まれまして、そして真奈佳奈ですから、これ、言い間違う可能性ありますよね。 それで私、ちゃんと全部の原稿にひらがなで「かな」って書いたんですよ、読み間違わないように。 そして誓約の時に、名前を呼びますよね。「かなさん」――私は「かなさん」って呼んだんですよ。 そして男性の方を呼びますよね。そうした時に、二人が何かクスッと笑ったんですよ。 この子たち、結婚式の誓約でどうして笑うんだろうって疑問に思いますよね。
そしたら横から係の方が、メモを渡してくださった。 そのメモは妻から来ているんですよ。 「あなた誓約の時に、かなって言わないで、真奈って言ったわよ」って。 「かな」って言わないで、私はお姉ちゃんの名前を呼んだんです。 間違えないように、「かな」ってひらがなで書いてあったにもかかわらず、私はお姉ちゃんの名前を呼んでしまったんですね。
それで皆さんにすぐその場で謝って、最後、結婚の宣言をします。 その時に、きちっと「かな」って言い直しましたけれども、後で、 「ま、私の失敗が皆さんの緊張を少し緩めて、これから楽しい披露宴がリラックスして開かれますようにお祈りしています」と言いました。
で、それを話した私の友だちがですね、 「先生、それって、笑い話になっちゃいますよね」って、 「あ、そういう風に受け取ってくれるとありがたいんだけれども、実は笑い話じゃないんだよ」 それはね、後で圭子(夫人)に会ったら、圭子の前の席の二人の若い女性が、その結婚をされた女性の友だちで、そしてあの二人がぼそっと、「あの牧師、一番大切な所で間違えるんだから」って言っていたと(※藤本牧師も思い出して、楽しそうに声を殺して苦笑)。 そう言われたらですね、私はその言葉が一生抜けないですね。 そして思い出す度に、も〜のすごい胸くそ悪い(笑)。それは言った人じゃないんですよ。 自分に対して胸くそ悪い。
そして私は一緒に話した青年と話したんですよね。 私がなぜそういう失敗をしたのか? 振り返って見ると、司式をしたのは30回目位だった。それは教会の中も外も30回目位で、大よそ余裕だった。 結婚式というのは、どんな式場でも合わせられる。 牧師はなかなか合わせませんからね。 式場の牧師でなくて外から雇いますと、厳しく時間的なものもチエックされるんですが、 私はもう最初から「大丈夫です。私に関する限りは」みたいな。 それ位の余裕をもって臨みながら、大失敗をするんですよ。
そのことを話したら、その青年は 「自分もそのバイトに随分慣れていた」と、 「考えてみると、慣れていたがゆえの傲慢だったかもしれない」 と、ぼそっと言っていました。
こういう失敗体験っていうのは、私たちの人生に残るべきです。 思い出すと胸くそ悪いような失敗というのは、私たちの心に残っているべきで、 それが人生の最後まで、傲慢な思いから私たちを守り、 聞いたみことばが私たちの心に繋がるようにしてくださる。 《聖霊は私たちの胸くそ悪い失敗を、最も高価なものとして用いてくださる》ということを、私たちは忘れないようにしたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、みことばを見る度に、自分事ではなく他人事として見過ごしてしまうような者たちであります。ただそっとその剣に触れるだけで、みことばの鋭さを痛感し、思わず身を引く程、それが生きて働いていることがよく分かります。
どうか背を向けるのではなく、聖霊によってみことばを通して心を照らしていただき、無力である自分を認め、申し開きの出来ない自分を想像し、いつでも「私たちを生かそう、強めよう、勇気を与えよう、平和を授けよう」と語りかけてくださるみことばに、心を寄せることができるように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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