☆聖書箇所 マルコ14:27〜36
27イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。 『わたしは羊飼いを打つ。 すると、羊は散らされる』 と書いてあるからです。 28しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」 29すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」 30イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」 31ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。 32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」 33そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、 34彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」 35それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。 36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景I 弱さのうちに現れる恵み
今日は「父の日」の聖日ということで、去年も私(戸塚伝道師)父の日にこの講壇に立たせていただいたんですけれども、去年何をお話ししたか、調べてみました。 「父の日」のための特別な話をしていませんでした。「ペテロのいる風景」の第二回目、「あなたは人間を捕る漁師になる」ということで、ルカの福音書の5章の1〜11節から恵みを分かち合ったことが記録に残っていますので、 あ、今日も「父の日」なんですけれども、いつものように、「ペテロのいる風景」シリーズをそのまま続けていきたいと思いますので、お父さん方(笑)、お許しいただきたいと思います。
今日はその第10回目です。「弱さのうちに現れる恵み」と題しまして、マルコの福音書の14章の27〜36節からみことばを、恵みを分かち合いたいと思いますが、 今日はそのお話に入る前に、もう一か所聖書の個所をお開きしたいと思います。
第二コリント12章9節、(新改訳2017)新約聖書の371ページ上の段です。 お読みいたします。 <Uコリント12:9> 9しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。・・・・・・
このカギ括弧の中、神さまのお言葉です。 「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」 もし、ご自分の聖書で線が引いておられない方は、もしできれば線を引いていただけるとよろしいかと思いますが、 今日のお言葉、このお言葉がこの一週間のための心の糧として皆さんの心に残るとするならば、私(戸塚伝道師)の拙い説教はここで終わりにしていいと(笑)思うんです。 このお言葉を分かち合いたい、今朝。このお言葉から今朝の説教題を採りました。
3つの視点で、先程読んでいただきましたマルコの福音書14章27節〜36節から、神さまの恵みを思い巡らしたいと思います。 では、ここに(Uコリントの方に)何か挟んでおいていただいて、そしてもう一度マルコの福音書の14章の27節からのところに戻っていただきたいと思います。 またここを開けるようにしていただきたいと思います。
1)十字架前日のペテロとイエスさまの姿
ペテロは強気でしたね。本当に強気でした。
(マルコ14章)27節に―― 27イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。・・・ このようにイエスさまは語られた。 どこで語られたかと言いますと、最後の晩餐の後、賛美の歌を歌ってから、十二弟子はオリーブ山に行った。 その時に、イエスさまが語られました。「あなたがたはみな、つまずきます」。
ところが29節を見ますと―― 29すると、ペテロがイエスに言った「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
30節は、さらに強気なことが書いてあります。
30イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」 31ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。
ペテロは言い張った。 しかも「決してあなたを知らないなどとは申しません」――かなり強気でした。 さらに、ペテロが言った後、「皆も同じように言った」とありますので、 他の弟子たちは、その場の雰囲気で同じようなことを口走ったのかもしれません。
ペテロの同じような強気の発言は、いま開きませんけれども、ヨハネの福音書の13章の36節と37節にも書かれています。お読みします。
<ヨハネ13:36〜37> 36シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」 37ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」
強気ですねぇ。(※力を込めて)本当に強気です。 「皆がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29) 「あなたを知らないなどとは決して申しません。」(マルコ14:31) 「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(ヨハネ13:37)
一方イエスさまはどうだったか? イエスさまはすべての人の罪を贖うために、十字架に架かる時を前にして、とても弱気になっているということが、みことばから分かります。
ゲツセマネの園での祈り、イエスさまはお祈りする前に、先ずこのような状況がありますね。 マルコの福音書14章の32節です。 32さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」 33そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。・・・
イエスさまはお祈りするとき、一人だけじゃ嫌だったんですね。この三人を連れて行きたかった。そして一緒にいてほしかった。 さらに33節の最後の行、「イエスは」という所から読みます。
33・・・イエスは深く悩み、もだえ始め、 34彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」 35それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マルコ14:34) どんな悲しみだったのでしょうか? 肉体的な苦しみではなかった。それはあったのでしょう。 でもイエスさまは「苦しみのために」とは仰らなかった。悲しみのために、「悲しみのあまり死ぬほどです」(同14:34) 精神的な、霊的な悲しみだった。 私たちには分からない悲しみを味わわれたと思われます。 そして地面にひれ伏しました。そして、「この時が自分から過ぎ去るように」(同35)と祈られました。 イエスさまは十字架に架かりたくなかったんです。 「父なる神さまからの使命だ」と言われても、実際すべての人の罪を負って十字架に架かるという、その使命を負い切れなかったんだと思うんです。 十字架に架かりたくなかった。そして恐れや、弱さや、そういう様々な不安を覚えるまま、イエスさまのもだえの祈りを天の父に注ぎ出される姿がここに描かれていますね。36節――
36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。・・・
「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」――これこそが、大小様々な問題課題の中にある、私たちがいつも祈っている内容ですね。 「どうか、この杯を私から取り去ってください」――《苦しい時の神頼み》という言葉がありますね。 《苦しい時の神頼み》っていう言葉は、大体あんまりいい例えでは使われていない。 でも私(戸塚伝道師)は開き直りたい。なぜいけないんですか?――《苦しい時の神頼み》――苦しいから神頼みをする。 堂々と、苦しい時の神頼みをしたい。なぜか?イエスさまがそうされているからです。 弱気なイエスさまの姿。十字架に架かりたくない。
《弱気のイエスさま》と、《強気のペテロ》の姿を見て来ましたけれども、その後の様子が(マルコ)14章の53節に書かれています。 イエスさまは大祭司のところに行きました。ペテロは大祭司の庭の中に行きました。 14章の53節から延々と続くのは、二人とも同じような取り扱いを受けているということが分かります。
イエスさまは裁判を受けておられました。 大祭司からの尋問、(マルコ)14章の61節、このように尋問されていますね、カギ括弧の中――「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」 イエスさまの本性を暴く問いかけがなされます。 弱気だったイエスさまは、それに対して答えます。62節―― 「わたしが、それです。」 「それ」っていうのは、キリストだっていうことですね。「わたしがキリストです」。
ペテロもふるいにかけられていました。 大祭司の召使いの女の一人から、こういう質問がなされていますね。 66節〜67節の中で――「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね」 と本性を暴く問いかけが、この召使いの女の一人からなされました。 強気だったペテロの答えが68節に書いてあります。 68節――ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」。
さらに、召使いの女性はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた、と69節にあります――「この人はあの人たちの仲間です。」 すると、ペテロは再び否定した。
さらに71節――ペテロは、嘘なら呪われてもよいと誓い始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。 こういう反応をペテロはするわけです。
弱音を吐いたイエスは、自らがキリストであることを告白しました。 強がりを言っていたペテロは、イエスさまのことを否定しました。 ペテロとイエスさま――明確なコントラストが、はっきりここで浮かび上がって来ることが分かります。
2)強気なペテロが、なぜイエスさまを否定したのか?
「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29) 「あなたを知らないなどとは決して申しません」(同14:31) 「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(ヨハネ13:37)
この言葉をペテロが語った時、ペテロは脅えていたのに強がりを言っていたのでしょうか?――そうではないように思えるのです。 自分に言い聞かせるように告白したのでしょうか?――そうとも違うのではないでしょうか? この時点では、本当につまずかないことに自信がありました。 本気で、イエスさまのためにいのちを捨てるつもりだったと思う。
でもイエスさまにあって、ペテロになかったものがあります。 イエスさまにあったものとはいったい何か? 手掛かりとなるみことばが、(マルコ)14章38節です。
38誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
「霊は燃えていても肉は弱いのです」――肉は弱い。 イエスさまには、《所詮、人間は人間である、という認識》は十分ありました。 霊に燃えることはあります。でも肉は弱い。この肉っていうのは肉体だけではないと思います。 肉――人間の存在すべて。或いは人間の力。自分の力――それは弱い。 人間になられたイエスさまは、人間の弱さを認識していました。
一方、この時のペテロには、それがなかった。 《所詮、人間は人間という、その弱さの認識》がなかったと思われます。 「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29) 「あなたを知らないなどとは決して申しません」(同14:31) 「あなたのためなら、いのちも捨てます」(ヨハネ13:37) というその言葉の背後には、「肉は弱いのです」(マルコ14:38)という、その認識はどれほどあったのでしょうか? ほとんどなかったのではないかと思うのですね。
振り返りますと、私(戸塚伝道師)も若い頃は、よく霊は燃えていました(笑)。若い頃は。 ちょうど今から50年前の3月、大学受験。 信仰によるイメージトレーニングで強気でしたね。 あの時は、絶対合格してやるんだ、と思っていました。 御言葉が与えられた。詩篇の94篇の18節―― 「わが足すべりぬと言ひし時 主よ 汝の憐れみ われを支え給えり」 滑らない。私は絶対このみことばで滑らない。神さまが私の足を支えてくださる。 過去問をやったらば、99割は取れましたので、私は自信をもって、しかもあの時は一期校と二期校に分かれていたのですけれども、一期校をパスして二期校の東京学芸大学オンリーで、もう後ろを絶って受験に臨みました。合格するつもりで。
でも答案用紙を見たらば、いつもの過去問とは違う傾向の問題が出ている。焦りました。 そして、できない、できないという辛い思いで試験を終えました。 受験番号が2304番、なぜ覚えているかと言います(笑)と、妹が「兄さん、惜しいねぇ」っていつも言っていたからなんです(笑)。 ほんとにそうなっちゃったよ(笑)。合格発表の日、予備校の申込書を持ちながら、合格発表の会場に行きました。 そしたらば、2304番、あったんですよ。 ああ感謝します。霊は燃えていても肉は弱い。 強気で試験会場に入ったのに、とぼとぼと試験会場を後にし、合格発表まで「兄さん、惜しい」と言い続けられた、懐かしい思い出ですね、50年前の。
信仰を持っていれば大丈夫だ。信仰をしっかり持っていれば、どんなことでも太刀打ちできる。 私は本気でそう思っていました。 信仰はミラクルパワーだよ、って(笑)教会学校の子どもたちにも言っていました。 信じていれば強くなる。信じていれば心がきれいになる。 信じていれば、クラスでも明るい子どもになれる。いじめにも遭わない。 信じていれば、神さまが味方だ。
あの頃は数の多さっていうのがすごい価値観、ステータスでした。 教会学校、高津教会の教会学校が180名になったことがあるんですよ。 子どもたちがここに180名(笑)集ったっていう、そういう時代があった。 信じていれば大丈夫なんだ――霊は燃えていても、肉の弱さの認識がない信仰。 信仰の実体がない信仰。 だからいざという時、思った通りの結果が出せない時、思わぬアクシデントに見舞われた時、厳しい現実に向き合うことさえできない。 さらには、厳しい現実の中におられる方々への理解がほとんどない。 信仰さえ持ってれば大丈夫だ、という価値観を持ち続ける以上、そうなってしまうんだなぁと思いました。 これがペテロの姿であり、私の姿であり、私たち人間の姿です。 「霊は燃えていても肉は弱い」(マルコ14:38)
でも最近、霊も燃えていない自分を覚えることがありますね(笑)。 若い頃はそうだったけれど、今は霊さえ燃えていない。 ああ、高齢者になったんでしょうねぇ。自らの弱さを実感しながら、ほんとに「肉は弱い」の方が強くなっちゃった。 「霊は燃えていても、肉は弱い」――所詮私たちは人間です。 自分の心を、自分のからだを労わりたい。そしてそのような思いで、お互いを労わり合いたい――そういうような気持ちになった。 ある意味では、私が歳を重ねたことの一つの恵みだったのかもしれません。
3)「弱さのうちに現れる恵み」って、一体なんだろうか?
十字架を前に弱気になられたイエスさまの、ゲツセマネの園でのもだえの祈りをもう一度振り返ってみます。 (マルコ)14章の36節―― 36そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。・・・
イエスさまは自分ではどうにもならない辛さを痛感しました。 でもこの時、イエスさまは直ぐに優等生的な信仰のイメージで、頑張ろうとはされませんでした。 苦しみと悲しみのどん底の中に置かれていたイエスさま――それを存在全体で味わいながら、最後にイエスさまがお祈りされていた言葉がこれですね。 先程お読みした、その続きです。(※マルコ14:36の続き)
36・・・しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
新改訳2017の訳はこのように訳されていますが、新改訳の第3版では、同じ場所がこう訳されていました。
36・・・しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
こう訳されていました。個人的にはそっちの方が気に入っている訳だったのです。 厳しい現実を見据え、弱気になり、悲しみ悶えながらも、最後は天の父なる神さまにお任せする祈りを、イエスさまは捧げました。 すべての人の救いのために、十字架に架かると、腹をくくる祈りができた祈りがこれだった。 「あなたのみこころのままを、なさってください。」 その時、天の父から、腹をくくる恵みが与えられて、そして、 「わたしが、それです」(マルコ14:62)と、裁判の席で返事をすることができたイエスさまでした。 「わたしがキリストです。すべての人の罪を贖うために、これから十字架に架かろうとしているキリストです。」
「わたしがキリストなのだ」――私たちも、このイエスさまの姿勢にあやかりたいと思う。 ここではイエスさまの姿勢にあやかるあやかり方は―― イエスさまの優しさでもなく、イエスさまの聖さでもなく、イエスさまの勇敢さでもなく、イエスさまがしもべとなって人に仕える姿でもなく―― ここであやかりたいイエスさまの姿は、イエスさまの弱さです。 イエスさまのように弱く――イエスさまは100%私たちと同じような人間になってくださった。 罪は犯されませんでしたけれども、《100%私たちと同じような人間になってくださった》ということは、《私と同じような弱さを抱える存在になってくださった》ということです。 私の弱さを100%ご存じだということです。 だからこそ、私たちは自らの弱さを見据えることが可能になるのです。 自らの弱さ、肉体の弱さや、精神的な弱さや、信仰の弱さや、性格的な弱さや、人間関係の弱さ、色々な弱さを抱えている。 ちょっとしたことで不安になる弱さとか、何か見聞きしてすぐいらいらするような弱さとか、様々な弱さを抱えている。 でもその弱さに徹して、イエスさまのように自らの弱さをしっかりと見据えることは恵みですね。 そして祈りのうちに、全面的に神さまにお委ねする。 「私の願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 でも委ねることが無理ならば、 「委ね切れないこんな自分を、どうぞよろしくお願いします」と、お祈りする。 お祈りすることさえ、できなければ、誰か傍にいて祈ってもらう。イエスさまと同じように。
「弱さのうちに現れる恵み」――それは何でしょうか? 弱さこそが、今まで味わえなかった信仰の深みへと、私たちを導いてくださる。 弱さこそが、同じ弱さを抱えておられる方々と、心を通わせるきっかけともなり得る。
最後に星野富弘さんの詩を紹介して終わりにします。 星野富弘さんが、このような詩を書いておられます。(※『菊』の花の絵だったと思います)
「よろこびが集まったよりも 悲しみが集まったほうが しあわせに近いような気がする。 強いものが集まったよりも 弱いものが集まったほうが 真実に近いような気がする。 しあわせが集まったよりも ふしあわせが集まったほうが 愛に近いような気がする。」
星野富弘さんだからこそ、生み出された言葉ですね。 喜び、強いもの、幸せにではなく、悲しみ、弱いもの、不幸せの中に、幸せや真実や愛を見出だす心を、星野さんは与えられたんです、イエスさまに出会って。 特に「弱いものが集まったほうが 真実に近いような気がする」って、これは星野富弘さんの心からの実感でしょう。 弱いものが集まったほうが 真実に近い――本物だ、それこそが。嘘臭くない。本質的だ。かっこつけなくていい。リアルだ――弱いものが集まったほうが。 高津教会はそのような家族でありたいと思う。
さらには、「弱さ」というものにはすばらしい恵みが秘められている。 私たちが知らない恵みが弱さの中にはある。 私たちは、弱さが強められていくということに、価値を見出しがちですけれども、 《弱さそのものが価値である。》 弱さそのものが価値である、ということが本当に分かった時に、イエスさまと同じような弱さを味わう恵みを私たちも知ることができるのではないかと思います。 そして弱さの持つ価値を一番ご存じなのは、十字架の苦しみを経験されたイエスさまです。
というわけで、今日の説教の冒頭に戻ります。 後にイエスさまは、ペテロにではなくパウロに、こう語られました。 先程「挟んでおいてください」と言った、第二コリント12:9のみことばを読んで終わりにしたいと思います。
<Uコリント12:9> 9・・・「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」・・・
感謝いたします。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、ペテロのように、現実の厳しさが分かっていないまま、何とかなると思い込み、きれいごとを並べてしまい易いような者でございます。イエスさま、あなたはペテロとは反対に、十字架という現実を受け止め切れずに、呻くのみでしたね。ご自分の弱さを天の父と弟子たちの前に隠しませんでした。
私たちも霊は燃えていても、肉は弱いものです。どうか目の前の様々な課題にも、自らの罪にも、自力では太刀打ちできないものであることに、もう一度気づかせてください。そしてみこころがなるように、全面的にあなたに委ねる祈りを私たちにも教えてください。
今週も日々の生活のただ中で、私たちの弱さのうちに現れるあなたの力を実感させてくださり、あなたの恵みが私に十分であることに感謝できますように、救い主イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
|
|
104.28.157.26 - Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; Win64; x64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/114.0.0.0 Safari/537.36 Edg/114.0.1823.51
|