☆聖書箇所 へブル5:11〜6:2
11このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。 12あなたがたは、年齢からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。 13乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。 14固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
1ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、 2きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。
☆説教 へブル(13)やり直したりしないように
へブル人への手紙の5章の11節〜6章の2節までを読んでいただきました。 へブル書の学びで、前々回が4章の終わりから、私たちの弱さに同情できる大祭司を学びました。 この方のゆえに、私たちは大胆に折にかなって恵みを求めるために、神の御前に出ることができる。
前回は、さらに深めて、5章の2節を見ていただきました。 大祭司というものは、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができる。すばらしいことです。 しかしながら、この「優しく接する」というのは、ギリシャ語で、「メトリオパセオー」という動詞で、メトリオという所に「適度な」という意味があります。 《適度に優しく》というのは、人である大祭司は、人に優しく接しますけれども、自分の人生を投げ出す程迄には、優しく接することはできない。
それに対して、イエスさまという大祭司は、同情する「スンパセオ―」心を一つにするという意味ですね。 5章7節に、「大きな叫び声と涙をもって、祈りと願いをささげた」イエスは、 私たちの叫びと涙に重ねてくださる。共に叫び、共に涙を流し、 そして賀川豊彦の生きざまを引用して、私たちの死線というものがあるとしたら、 イエス・キリストは共に私たちの死線を越えて、私たちを生かしてくださる大祭司だというお話をしました。
へブル人への手紙は、ここから伝説の大祭司メルキゼデクとイエスを比較しようとします。 しかし、ちょっと話を違う方向に持って行きます。 メルキゼデクの話が出て来るのは7章ですので、6章はちょっと違う題材で、それなりに学んでいきたいと思います。 今日はちょっと難しいです。
私は昨晩1時まで格闘して、11時半にT・Yさんに原稿を送り、もうこれで諦めました。どういう風に、わずか25分位の中にまとめられるのか?は、ほぼ不可能に近いと思いました。 それで、よくまあ、難しくてよく分かんない説教というのは、しょっちゅうやって言っているわけですけれども、 「今日は特によく分からない」という時に、ま、そういう日もあると単純に思ってくだされば、私も気が楽ですので、 「今日はあの先生、ことごとく失敗したなぁ」(笑)と思わないで、「そういう日も多々あるじゃないか」と思いながらも、 聖霊は皆さんに何らか、とても重要なことを伝えてくださいます。 なぜなら、私がこれほどまでに苦労したのは、とても重要な箇所だからです。 それを一緒に見ていただきますね。
1)11節から――聞くことに成長してほしい
5章の12節から読んで行きます。ここの部分はとっても分かり易いですよね。 【画面:へブル5章12節「年数からすれば」「固い食物ではなく、乳が必要になっています」13節「幼子なの」14節「善と悪を見分ける感覚〜訓練された大人のものです」に緑のハイライト。12節「神が告げたことばの初歩を〜必要があります」に赤ペンの傍線、14節「固い食物は」に赤ペンで囲み】 <へブル5:12〜14> 12あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、 神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。 (***福音の初歩を教えてもらう必要がある、と説明)。あなたがたは固い食物ではなく、乳(***ミルク、と言い換えて)が必要になっています。 13乳(***ミルク)を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。 (***いまだ赤ちゃんです、と言い換える)。 14固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
と言われたら、パウロはコリントの第一の3章で同じようなことを言っていますね。 固い食物を食べるクリスチャンと、いつまでも柔らかい食物しか食べられないクリスチャンの話をしていますので、これは何となく想像がつきますよね。
これは、誰もが抱えている共通の問題だと言ってもいいと思います。 みるみる成長する人もいます。でもどこかで突然信仰のスランプに陥るんですね。 成長が遅いなぁ、いつまで経っても変わらない、という人が特別な試練を通して、急激に成長する人もいます。
しかし問題は、自覚しておくべきこと、11節の最後に出て来ます。 ちょっとこれを映しますね。 【画面:へブル5章11節「聞くことに対して鈍くなっているから」に緑のハイライト】 11節の最後にこうありますでしょう。 「聞くことに対して鈍くなっているからです」 つまり成長のどんな段階であろうと、聞くことに対して鈍くなりますと、私たちは神さまの声が聞こえない。 そしていつの間にか、自分が飲んできた飲み易いミルクばかり飲んでいる、という事実に陥ってしまいます。 つまり幼子の食事というのは、どういうものか? 自分の食べ易い、好きな食べ物を、そればかり食べている。 なかなか次の段階に進んで行かない。好きな食べものを好きなように食べている。 好きな聖書の個所を好きなように解釈している。 そして私たちは「信仰によって聖書を読む」と口では言いますけれども、要は好きな聖書の個所を好きなように読んでいる、というのが、多々あることですね。
2)手紙の記者は手紙の読者であるヘブル人に勧めます
へブル人っていうのはどういう人なのか? それはね、ユダヤ教からキリスト教に回心したユダヤ人をへブル人と言うんです。 ヘブライオン。ユダヤ教、もとは。でもそこから福音伝道に触れて、キリスト教に回心したユダヤ人ですよね。
6章の1節をちょっと映しますね。 【画面:へブル6章1節「初歩の教えを後にして」に緑のハイライト。「初歩の教えを後にして〜進もうではありませんか」に赤ペンの傍線】
1ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。・・・
「初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もう」の成熟は「完全」という風に訳すこともできます。 で、インマヌエルも、たとえばナザレンもきよめ派ですから、この聖句から専ら教えられてきたことは、 「信仰によって罪赦され、神の子どもとなったという福音の初歩的な教えを後にして、キリストの十字架の血潮によって聖められることを目指して、もっと精進しましょう」 という風に読んじゃうんですよね。 そういう意味では全然ないです。という話を、今日ちょっと説明しますね。
なぜかと言いますと、へブル人への手紙の記者は、ここで「初歩の教え」(6:1)の例として、ここに出て来ますよね。 【へブル6章2節「基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう」に緑のハイライト】 (※1節〜2節にある基礎的な教えを5つ、指で押さえながら説明) @死んだ行いからの回心、A神に対する信仰、Bきよめと洗いについての教え、C手を置く儀式、D死者の復活と永遠のさばきなど―― これが彼らにとっての基礎的な教えなんですよ。
でも言えば、私たち日本人キリスト者にとって、これ全部難しいですよね。決して簡単なことではないです。 まして「きよめの洗い」とか「手を置く儀式」とか、「永遠のさばき」とか、それは私たちはほとんどそういう世界に生きていませんもの。 ところがヘブル人は、まさにそういうことが基本的に既に心の中に入っていた者たちなんですよね。
@「死んだ行いからの回心」というのは、 へブル人は、ユダヤに住んでいたのではない。ギリシャ世界に住んでいました。 そこはヘレニズムの文化と文明が、自分の周りをおおっている。 ギリシャ・ローマの偶像、そして価値観というものが自分の周りをおおっている世界。 時にそれらに染まって生きていました。 ですから、ここで言う「死んだ行いからの回心」というのは、「偶像から離れろ」っていうことで、何度も新約聖書に出て来ます。 世的な価値観、当時のギリシャ、ローマの生き方から離れて、A「神に対する信仰」に立ち戻るように。 ということは、へブル人にとっては、よくよく小さい頃から教えられて来た当然のミルクなんです。
もう一つ、B「きよめの洗い」というのは、レビ記に出て来ますけれども、洗礼もそうなんですね。 その「汚れたものから洗われる」と言うのは、旧約聖書で盛んに言われ、新約聖書もそれを取り入れ、ですからB「きよめのあらい」については、旧約聖書と新約聖書は繋がっているんですよ。 ですから新約聖書で新しく教えられなくても、へブル人たちはやはり同じように、幼い頃のミルクのようにこのことが分かっていた。
C「手を置く儀式」というのは、イエスさまが子どもの上に手を置いたり、パウロが手を置くと聖霊が降ったり、「手を置く」というのは、新約聖書で様々に実践されて来ました。 しかし問題はこの「儀式」という言葉です。 新約聖書に「儀式」と呼ばれるのは「洗礼式」と「聖餐式」しかありません。 ま、プロテスタントはそう考えていますよね。 カトリックはそれに加えて、死の前の儀式もありますし、或いは結婚式もその儀式の一つですし、 だけど私たち(プロテスタント)は洗礼と聖餐しか、儀式として考えていない。
ところがユダヤの世界、へブル人の世界は、年間に大きな祭りが三回あります。 のみならず、様々な儀式があります。 その儀式に参加するということが旧約の民のアイデンティティです。 日本だってそうじゃないですか。 お祭りがあって、お祭りとなるとその地域の人が全員駆り出されて、そこに参加するということが、その地域の住民である資格になるじゃないですか。 儀式というのは、例えば日本人であるならば、初詣に行くとか、「日本人であるならば」っていうその通過儀礼というのがありますよね。 儀式を守っているだけで、私たちは立派に日本的に生きている、という自覚になりますよね。
キリスト教というのは、そういうものではない。 キリスト教というのは、キリストを信じ、キリストの愛に生きるということに立たなければいけないにもかかわらず、 キリスト教的な儀式をしている、というだけで、自分がクリスチャンだと思うというのは、往々にしてヘブライ人にとってはそうなんですね。 (へブライ人には)儀式という言葉がとってもしっくり来るんですよね。
D「死者の復活と永遠のさばき」がその次に、基本的な幼子の食べ物として出て来るんですね。 これは旧約聖書の後半に出て来ます。 ユダヤ人がず〜っと他国の植民地となって、しかし終わりの時がやがてやって来る。 その時に救い主が到来して、私たちは他国の支配から解放されると同時に、 私たちを今まで弾圧して来た悪しき力は裁かれ、 悪しき力によっていのちを落とした正しき者たちは全部復活する、 というのがず〜っと紀元4世紀位から、ユダヤ教の中心たる教義に座ります。
ですから、へブル人たちは幼い頃からこれらの教えにも精通していて、 クリスチャンになった時に同じような感覚で、それらの教えを一番分かり易い食べ物、一番食べ易い食べ物として、食べていたわけですよね。 勿論日本人の私たちにとって、いま申し上げた教えは「初歩の教え」(6:1)ではないです。 だったら「初歩の教え」というのは、一体どういうことなのだろうか? へブル人にはへブル人の初歩の教えがあり、また日本人キリスト者には日本人キリスト者なりの初歩の教えがあるんでしょうね。
3) 6章の2節に、「もう一度やり直したりしないようにしましょう」
これが重要で、どこかで「初歩の教え」に戻ってしまう、というのがあります。 「初歩の教え」というのは、自分が一番キリスト教を信じるにあたって、入り易かった初歩の教え、そこから一向に出ない。
例えば私はきよめ派の牧師の家庭に育ち、小さな頃からすべての聖会に出席しましたから、へブル人への手紙の6章1節で、「初歩の教えを後にし」というのは、 《救われたという現実を後にし、完全を目指して、きよめを目指して進もうではありませんか》というのは、私にとってはミルクのような、アイスクリームのような教えですよね。すごくよく分かる。 そういうことではないんですよね。
へブル人にとって一番分からなかった教えを、へブル人への手紙の記者はここから先、説明していくんです。 先にちょこっとだけ言っておきますけれども、それは―― 《あなたの贖いにとって必要なすべてのことは、イエス・キリストの十字架の一発の出来事で全部完成されている》という事実です。
へブル人たちは、毎年いけにえを捧げ、毎年きよめられ、毎年祭司に懇願し、そして毎年責め苦を感じ――そうではない。 キリストはただの一度の十字架に架かり、その血をもって天国に上げられ、今もなおその血をもって私たちのためにとりなしをしてくださる。 つまり《私たちにとって必要なことは、ただキリストのみ》であって、 そのキリストに繋がる、キリストを信じるということが、いかなる儀式、いかなるものの考え方、いかなる習慣にまして大切なんだ、 ということをこれから一緒に学んでいきますけれども――
そこにへブル人は進めないんですよね。 《ただの一度ですべてが完成する》ということが、彼らには考えられない。 むしろ何回も申し上げて来ましたように、当時キリスト教はローマ帝国の迫害に遭いますよね。 ユダヤ教の方は、逆にローマ帝国の公認宗教で優遇されますよね。 すると、彼らは「もう一回ユダヤ教に戻ろう」という風になるわけです。 「もう一回ユダヤ教に戻ろう」――この手紙の記者は、そういうことをしないように、という意味で、「そういうことを後にしろ、そして前に進め」 或いは「そういう基礎的なことをやり直すな」と言っているわけですね。
私たちにとりまして、何が初歩的な教えなんだろうか? それを考えている内に、私はやっぱり日本人皆さんにとって、一人一人初歩的な教えって違うんだろうなと思いました。 ただ私(藤本牧師)のようなクリスチャンホームに育った人間にとりまして、一番初歩的な教えというのは、「真面目に教会に行く」ということです。 それが一番初歩的な教えですね。
それは私だけではない。恐らく日本人全員に当てはまると思いますが、 日本人っていうのは、規則に順応することを教えられます。 周囲の評価を気にします。何かにつけて成績も付けられますし、 もうちょっと嫌味な言い方をしますと―― 自分で善悪を判断する、そして行動するよりも、他人から指示してもらう方が楽です。 自分の信念を貫くよりも、社会常識を大切にした方が楽です。 社会常識の中に、自分の個性、自分の独特な考え方を埋没させる方が、全然楽に生きることができます。 すると真面目で四角四面で、白黒はっきりしていて型にはまった、自分で考えたり判断もしない、教えられたことをそのまんまする信仰に、私たちはあぐらをかいてしまう。 それが日本人キリスト者にとって、「初歩の教え」になるかなぁという風に思いました。
例えばパウロを見ていただきたいと思いますが、パウロにとって規則というものがないんですよ。 第一コリントの10章を見ていただきますでしょうか? Tコリントの10章は新約聖書の341ページですね。23節、ここにこういう言葉がでてきますね。 【画面:Tコリント10章23節全文に緑の傍線】 この言葉を読む前に、10章のテーマを紹介しますとね、25節にこう書いてありますでしょう。 <Tコリント10:25> 25市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
でもその市場で売っている肉の中には偶像に捧げられた肉もあるわけですよね。 【画面:Tコリント10章28節「これは偶像に献げられた肉です」にオレンジのハイライト】 でもパウロは最終的に――肉は肉だろうと。どこに献げられても、腐った肉でなければ食べていいんじゃないの――なんですが、 《偶像に献げられた肉が、それを食べたから、周囲の信仰者が躓くようなら食べない方がいい》と、微妙なことを言い始めるわけです。それが23節で――
23「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
これ難しいんですよ。難しい。 すべてのことが許されているが、すべてのことが人を育てるわけではない。
私(藤本牧師)はよく訊かれます、洗礼を受ける人に。 「洗礼を受けたら、仏教の葬儀で焼香していいんでしょうか?」と。 私はしますよ。私は何とも思わずします。 それは神学的にも、経験的にも、そういう風に考えているんです。
でも前、Wさんと一緒に葬儀に行った時に、車の中で出ようとした瞬間に、 「Wさん、どうする?焼香する?しない?」と訊いたら、 「私はしません」と言うので、 「僕、合わせます」と(※笑って本人の方を向いて) Wさんに合わせて、焼香しなかったことがありましたよね?
それで、「この先生いい加減だなぁ」と思うか、 「この先生、自由なんだけれども、人に合わせる自由、配慮を持っているのか」 と考えるかは、皆さんの自由です。 私は、様々なことに関して、おおよそ自由です。 だけど、それをすることが神の栄光になるのか、その人の徳を建てるのか、ということを考えるということは、結構大変なことなのです。 それはその聖書の箇所を、きちんと釈義して考えて、神学的にも自分なりの結論を出せと言われたら、一生懸命考えます、調べますもの。 で、それを長々と皆さんに説明するのもしんどいです。
でも手紙の記者はね、そういうことをへブル人への手紙で言っているんですね。 ちょっとへブル人への手紙に戻っていただきます。いいですか、開けますね。 5章の最後ですね。「固い食物は」って、説明していますね。
【画面:へブル5章14節「固い食物は」も赤ペンで囲み。以下「善と悪を見分ける感覚〜大人のものです」に緑のハイライト】 14固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
これなかなか難しいですよ。 「善と悪を見分ける」というのは――神のみこころであるのか、そうでないかを―― 「それを見分ける感覚を、経験によって訓練された大人のものだ」と言われれば、 パウロが言う、何がみこころで何がそうでないのかは、やはり識別する必要がある。 それは時と場合によって違う。 それは感覚的によって、一本の原則で通じないようなものでもある。 それを繰り返すことによって、或いは繰り返されてきた経験を重んじることによって、 自分で判断する感覚を磨いていく、っていうのは簡単なことではないですね。
私(藤本牧師)は昨年秋から、もう自分のありとあらゆる時間を、「LGBTQと聖書」という本を書くために、 6か所、7か所の聖書の個所の解釈を皆さんどうやっているんだろうか? 出版されて来た全部の本、全部の論文に目を通して、自分なりの考えをまとめているんですが、読めば読むほど、全く関係ない。 つまり同性愛にしろ、トランスジェンダーにしろ、或いは性的に定まらない人にしろ、聖書はそれらの人を前提に話してないですね。 私、礼拝で話しましたでしょう。ソドムの記事に同性愛を読むのは不可能ですよ。 だけど皆さん、平気で読みますよね。聖書にそう書いてあると。 パウロはロマ書で、女が先なんですけれども、「女は自然のものを自然に反するものに変え、 男は同じように自然のものを自然に反するものに変え」と。
あの「自然」という言葉は、紀元前1〜2世紀のユダヤ教、それからソクラテスに始まるギリシャ哲学、そして旧約聖書の伝統を引き継ぐユダヤ教の民、 頻繁にあの「自然」という言葉を使うんですよね。 何が「自然」なのか? 例えば、私たち想像つかないと思いますけれども、多くの文献を読みますとね、 性的な交わりにおいて男性が能動者、女性が受動者である時には自然なんですよ。 それが逆になったら、「自然に反する」なんですよ。 ギリシャの文化で言うならば、市民である自由人ギリシャ男性が、自分の妻、奴隷の女性,それから市民の少年を、自分のもとに抱えることは自然なことなんです。 法律的に認められているんです。
しかし市民であるステータスを放棄して、性的な行為の受け取る側に回る時に、 「それは自然に反する」っていう風に処罰の対象になるんですよ。 そういうことっていうのは、山程調べられている。 でもクリスチャンって、その山程研究されているものを読まないですよね。 そして「あの文章、素直に信仰的に読めば、そう書いてあるじゃない」って言ってしまうんですよね。
山内聡子さんという専門の女性の聖書学者がいるんですけれど、彼女は言うんですね。 「一般のクリスチャンは、素直に信仰的に聖書を読みたいと言うけれども、時に聖書を学問的に研究することも益になる」と。 勿論学問的な研究が偏見に満ちている、という場合もありますよ。 だけど、素直にそう読んでいるということが、実はそういう偏見に、小さい頃から浸って来たという場合もある。 ですから正しく聖書を読む時に、その信仰的で素直であることと同時に、学問的にどういう風に読むべきなのか、ということを引き出すことも大切だと。
すると、私(藤本牧師)焼香の話に戻しますけれども、 日本のクリスチャンは、天皇制国家主義の中で、この仏教的なものがキリスト教の中に入り込んで来るということを、非常に警戒しましたよ。 それは勇気ある信仰的な行動ですよね。 それは格別に勇気ある信仰的な行動というのは――ほとんどのクリスチャンが、ほとんどのキリスト教会が、天皇制国家主義に呑まれて、教会の正面に御真影を飾り、頌栄を歌う前に国歌斉唱をするわけですから、 そういう世界の中で、「キリスト教って一体どういうものかを守る」というのは、それはものすごく勇気の必要なことだったわけですよね。
でも今で言うならば、人によって確信は違うと思いますけれども、 自分の子どもを失い、母親の前で「ほんとに悲しくて言葉もありません。お線香の一つでもあげてやってください」と言われたら、 「私はクリスチャンですからお線香あげられません」って言えます? 私は言わないです。私はその悲しみに心を合わせます。 お線香をあげたことによって、私が仏教徒になったとも思いませんし、私は死者を礼拝しているとも考えてもいません。
そういうことっていうのは、きっと皆さんが私に訊いてくるのは、私がそれなりに勉強して経験を積み上げている、その感覚を教えてほしい、という意味で牧師に訊くわけでしょう? でも牧師が勉強もせずに、そういう経験も積まずに、自分はこういう風にして育ったという意味で、「いやいや、焼香は絶対ダメですよ」と言ったら、皆さんどうされます?
だから、って言っている内に説教分からなくなっちゃったでしょう?(大笑) こうやって分かんなくなっちゃったわけですよ(笑)。 それでね、私やっぱり(へブル5章)14節って大切だなぁと思うんですよ。 「固い食物」って何かって言うと、自分で考える。 それは聖書を素直に霊的に読む、ということも大切なんです。 でもそれを、何でも鵜呑みにしないで、一体この聖書の個所は聖書を全体から考えるとどう解釈すべきなのか、ってそんなものを調べたら、山程文献はあるんですよ。 そしてそういう専門家に訊いてみる、というのもいいと思います。
私(藤本牧師)先日、ある全然知らない方から、facebookのメッセージでいただきました。 「先生、電話していいですか?」と。 「ウェスレーの説く『キリスト者の完全』の『完全』ってどういう意味なんでしょうか?」 で、私は「あのう、ストレートに言えば、電話はお断りします」と。 「読める本も論文も沢山ありますので、それは添付いたしますけれども、電話で説明できるとは私は思いません」と。
でももし教会員である皆さんからそういう質問があったら、私は「ぜひ電話してください」と言いますよ(笑)。皆さんの牧師ですもの。 それはね、その分野で研究を重ね、その分野の様々な意見を消化した上で、研ぎ澄ませた感覚の一部を聞かせてください、という思いがあるなら、私は喜んでします。 でも聞いていただくためには、様々なことを考え、読んでいただかないと、 白黒はっきりできるような、アイスクリーム一本のような答えは出て来ませんよ。 それはあらゆることがそうなんですよ、と。
へブル人はやっぱりユダヤ教で育ちましたから、ユダヤ教って生まれた時から割礼ですよ。 国民は全員でお祭りですよね。 この儀式は通らなかったら、意味がない。 こういう食べ物を食べたら終わり。 こういう汚れたものに触れたら、もうそれだけで汚れる。 (※目の前に両手を伸ばして四角を作って)きち〜っとした枠の中で生きていますから、考える必要もないんですよ。 そのミルクだけ飲めば、それで立派な信仰者として成り立っている、という基礎から出て、大人の固い食物を食べることができるようにしなさいと。
福音はいったい何を語っているのか? 私(藤本牧師)ある本を読んでいましたらね、書いてありました。 「今のまま、LGBTQの性的マイノリティーの方を否定するような福音であるならば、福音というのは、異性愛者にとってだけの福音ですね」と。 同性愛者にとっては、福音にはならないんですね。なるほどなぁ、と考えたりもします。 勿論福音は、同性愛、異性愛に関する福音ではないです。 だけど福音を受ける権利は、だれにあるかと言われれば、すべからく皆にあるんですよ。 白人のための福音じゃない。それは黒人のための福音でもあるし、それは幼子のための福音でもあるし、ベッドで死を待つ人のための福音でもあるんですよ。 「真面目に教会生活をしてないから、私はこの福音にあずかれない」と言う人いますけれども、いやいや、そうではない。 「十字架の犯罪人は、その瞬間に福音にあずかっている。あなたは病院のベッドで今ここで洗礼を受けることができる」と、私たち言うじゃないですか。 それほど神の福音は、皆に与えられている、ということを聖書から読み取ってほしい。
それをへブル人への手紙の記者は「固い食物を食べられるように」それには感性を磨いていかなければならない。 パウロのように、自由なんだけれども、自由ではないみたいな(笑)。どっちなんだ。食べていいのか、悪いのか?(笑)。 いや、「すべてのことが神の栄光になるようにしなさい」というのがパウロの結論なんですけれども、それを考えるのは、なかなか難しいなぁと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、私たちはついつい自分の殻に閉じこもり、一生懸命聖書を読み、しかし聖書の中に入ろうとせず、なかなか難しいことは、全部自分のこれまでの考え方の踏襲で済ませてしまおう、と思うものです。
でも私たちの周りには、「善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された」(へブル5:14)方々がいますし、また自分たちもそのような試みをしますし、《キリスト者の自由をまことのキリストの愛の中で生きる》という福音の神髄を、私たちに教えてくださいますことをよろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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