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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   7/30 戸塚伝道師:神さまの手のひら イザヤ49:13〜18
☆聖書箇所  イザヤ49:13〜18

13 天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。
  山々よ、歓喜の声をあげよ。
  【主】がご自分の民を慰め、
  その苦しむ者をあわれまれるからだ。
14 しかし、シオンは言った。
  「【主】は私を見捨てた。
  主は私を忘れた」と。

15 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
  自分の胎の子をあわれまないだろうか。
  たとえ女たちが忘れても、
  このわたしは、あなたを忘れない。
16 見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。
  あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
17 あなたの子どもたちは急いでやって来る。
  あなたを破壊し、廃墟とした者たちは、
  あなたのところから出て行く。
18 目を上げて、あたりを見回せ。
  彼らはみな集まって、あなたのところに来る、
  わたしは生きている――【主】のことば――。
  あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身に着け、
  花嫁のように彼らを帯に結ぶ。

☆説教 戸塚伝道師:神さまの手のひら (※マスクなしで)

皆さん、おはようございます(※軽く三方にお辞儀)。高津教会の礼拝に良くおいでくださいました。
早速みことばに心を留めてみたいと思いますが、第五聖日も私(戸塚伝道師)が説教をするということになりました。どうぞよろしくお願いいたします(笑)。
藤本満先生の「へブル人への手紙」の連続講解説教も佳境に入っておりまして、「あ、今日、あの続きを聴きたいな」と期待して来られた方(笑)、申し訳ございません。ほんとに申し訳ございません。
先週予告できればよかったんですけれども、それでも神さまのみことばに心を留めてまいりたいと思います。
イエスさまの導きだと信じてここに立っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
ちなみに第五(聖日)は10月と大晦日にありますので、どうぞよろしくお願いいたします(笑)。

それでは、今日はお読みくださいました旧約聖書イザヤ書の第49章の13節〜18節まで、ここから「神さまの手のひら」と題して恵みを分かち合いたいと思います。
◇先ず時代背景
・預言者イザヤの書かれたイザヤ書
・イザヤが活躍していた時代は紀元前740年頃〜700年頃だと言われています。
・当時、国が北と南に二つに分裂していました。
@北の王国はイスラエル――アッシリア帝国によって滅ぼされてしまい、囚われの身となって連れて行かれる人々が生じていたような時代でありました。
A南王国はユダ――ユダも同じくアッシリア帝国の圧力が加えられていた。

そういう(国の)危機的な状況にあって現れたのが、このイザヤ書の預言を書いたイザヤです。

◇イザヤ書のイザヤは、南王国のユダの預言者であります。
このような状況の中で預言された恵みのメッセージ、それが特にこのイザヤ書の49章〜57章に集中して描かれています。
この章の中には《主のしもべ》《メシアなるイエスさま》のことが預言されている箇所が幾つも出て来る。
それがこの49章〜57章ですね。その一番最初の49章は、《やがて来るメシアによってもたらされる救いの希望》を預言する呼びかけで始まっています。
そして、この1節〜13節はイザヤの感激と喜びに溢れる賛美がず〜っと書かれています。
13節にはこうあります。

13 天よ 喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。
  山々よ、歓喜の声をあげよ。
  【主】がご自分の民を慰め、
  その苦しむ者をあわれまれるからだ。

いよいよメシア、イエス・キリストの預言がこの後ず〜っと続くわけですけれども、
そのお方のすばらしい救いの希望がこの後ず〜っと続くわけですね。
しかし14節、ご覧ください。

14 しかし、シオンは言った。
  「【主】は私を見捨てた。
  主は私を忘れた」と。

あまりにも厳しい現実。
アッシリア帝国が目の前にまで迫っているような、南ユダ王国のこの現実を目の辺りにする時に、
「ああ、このままではもうだめだ、私たちは。」
「神さまの臨在の場所であるシオン、エルサレムがもう滅亡するのではないだろうか?」
その神殿は破壊され、神さまに見捨てられたような、そんな気持ちでいっぱいになってしまう――そういう思いで、人々は生活していたのでしょう。
「【主】は私を見捨てた。主は私を忘れた」といわざるを得ないような状況が、目の前で繰り広げられていたわけです。

しかし神さまは、私たちのことを忘れてしまったのではない。
それが15節から書かれています。

15  女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
  自分の胎の子をあわれまないだろうか。
  たとえ女たちが忘れても、
  このわたしは、あなたを忘れない。

神さまの慰めと励ましと希望のお約束を預言したイザヤでありました。

しかしこの預言は、その通りになりました。
イザヤが老年になった紀元前701年、アッシリア帝国の軍隊は、エルサレムの城壁の前で神さまからの天使によって、食い止められ滅ぼされるわけです。
16節に、「あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」と預言されていますけれども、
エルサレムの頑丈な城壁は神さまの前にまさしくあった。だから大丈夫だった。
アッシリア帝国からエルサレムは守られ、救われるわけですね。
列王記第二の19章の35節から、このことがず〜っと書かれていますけれども、
まさにイザヤが預言された通りのことが、ここでこの後起こるわけです。

《神さまは絶対に私たちのことをお忘れにならない》――この希望への確信がこれらの時代背景を超えて、2700年の時空を超えて、今日も私たち一人一人にも語られている。
これがこのイザヤ書のみことばです。

この朝格別に心を留めたいみことばが16節です。
「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」
このみことばから3つの視点で、思い巡らしをしてまいります。

1)神さまの手のひらに刻まれている私たち

「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:16)
神さまの手のひら――象徴的で分かり易い表現ですね。
手のひらというのは、自分のからだの一部です。
そして(※ご自分の左手のひらを立てて会衆に向け見せて、右手の指で何か書くようなしぐさで)ある程度スペースがあります。
(※今度は右手をじっと見て)しかもすぐ見ることができる。

教師にとって「忘れものをなくす」というのが永遠の課題です。
教師ですら忘れものがあるんですから、どうにもなりません(笑)。
どうしたら子どもたちの忘れ物を減らすことができるだろうか?
今も明日の持ち物を先生が黒板に書いて、それを連絡帳に写して、一年生はその写した連絡帳を先生が一人一人点検をする――それぐらい慎重にやっています。
それでも、忘れ物はなくならない。

今は一人一台ノートパソコンが与えられている時代になりました。
ノートパソコンを開けば、明日の持ち物が先生がちゃんと打ってくださっている。
それを見れば大丈夫だという、そういう時代になりました。
それでも忘れ物はなくならない。

もう面倒がる子どもは連絡帳だけじゃなくて、絶対忘れちゃいけないものを油性マジックペンで手に書くわけです。
特に忘れ物の常連っていう子がいますけれども、油性マジックペンで、手のひらだけじゃなくて、もうこういう所(※手の甲から腕にまで登らせ書くしぐさ)にもいっぱい書いている。
パッと見て、「教科書の何ページから何ページまで」とか、「漢字ドリルのどこからどこまで」とか。
すごいですね。そこまでして忘れ物をなくそうとしている。
でも私(戸塚伝道師)は言いたい。「手のひら見るのを忘れないでね」(笑)。
さらに言いたい。「見ても忘れないでね」(笑)。

でも考えてみれば、そんなことしなくても、忘れ物を絶対しない子がいるんですよ。
すごいですね。連絡帳にも書かないっていう子がいます。それでも忘れ物しない。
でも色々な手を使って、忘れ物を何とかなくそうと、子どもたちも努力をしている。
油性ペンの効果はなかなかで、石鹸で一回洗っても落ちません。
それぐらい、だから子どもたちは油性ペンを使うんでしょう。

神さまは、「わたしは手のひらに油性ペンであなたを書いた」とは仰らない。
「あなたを刻んだ」と仰る。
油性ペンはなかなか消えない。でも「刻んだ」と神さまは仰っている。
《刻む》というのは、《彫る》ことです。入れ墨状態です。
タトゥーを入れるような。神さまが私をタトゥー状態にしている。神さまの手のひらの中で。
神さまが手のひらに、私のことを入れ墨された。もう絶対に消えません。
神さまの一部です。神さまと一体化されています。
100%神さまのものになっています。

高津教会に3〜4回お呼びしましたアーサー・ホーランド先生、もう最近はエスカレートして、全身タトゥーだらけです。
なんでそんなに全身入れ墨するのか?十字架を入れ墨したかったからですよ。
もうイエスさまの十字架とか御言葉とか、色々な象徴的なデザインをされているものをもう身体全体にタトゥー。
イエスさまと一体化されてたんでしょうね、アーサー・ホーランド先生は。
絶対に神さまは忘れない(イザヤ49:15)。私たちは神さまと一つになる。
だから神さまは、「わたしはあなたのことを絶対に忘れない」と宣言される、そういうお方なのですね。

2)では神さまはいつから、私のことを手のひらに刻まれたのでしょうか?

いつから神さまに覚えられていたのでしょうか?
洗礼を受けた日からでしょうか?
いや、その前のイエスさまを救い主と信じて、救いの恵みにあずかったあの日でしょうか?
いや、その前の私が初めて教会に来た日のことでしょうか?
クリスチャン家庭で育った方々は、「気がついてみたら、あ、教会にいた」というあの日曜日の教会学校の朝の出来事だったでしょうか?
いや、その前に私がこの世に誕生した時でしょうか?

「自分の乳飲み子を忘れるだろうか」と「自分の胎の子をあわれまないだろうか」とここ(イザヤ49:15)に書いてありますけれども、
あの日、母親に初めて抱かれたあの時に、私は神さまの手のひらに刻まれたのでしょうか?
しかしみことばをよく読むと、《私が生まれる前である》ということが書かれている箇所があります。

エレミヤ書の1章の4節には、お開きしませんけれども、エレミヤが預言者になる神さまからの呼びかけの言葉が書かれています。神さまはこう仰ってます。
<エレミヤ1:4〜5>
 4次のような【主】のことばが私にあった。
5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から
  あなたを知り、
  あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、
  国々への預言者と定めていた。」

これは直接的には預言者エレミヤに言われたことなんでしょうけれども、
でも同じ人間として「母の胎に私たちが形造られる前から、私たちのことを神さまはご存じだった」ということですね。
この世に存在しない前から、私はあった。
神さまに知られていた。覚えられていた。
そして手のひらに既に刻まれていた。この世に存在する前にですよ。

さらには、イザヤ書の43章の1節にこういうみことばがあります。
<イザヤ43:1>
1  ・・・
   「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ、
  わたしはあなたの名を呼んだ。
  あなたは、わたしのもの。

神さまから、私たち一人一人の名前を呼ばれた。
でも名前を付けられたのは、生まれた後ですよね。
でも生まれる前から、私たち一人一人の名前、どんな名前だったんでしょう?
それは分かりません。
私たち一人一人に既に、神さまの方では特別な名前を付けておられたらしい。
その名前を呼んだ。「あなたはわたしのものだ」と。

一人一人に与えられている人間としての尊厳、かけがえのない価値ある存在としての私。
私は神さまにあって、存在して良い人間なんだ。神さまに望まれて、この世に生まれて来た一人一人。
そのような一人一人が今朝、共に教会に集まって、私たちを造られた神さまを、このように礼拝しているわけです。

私たちの教会も、そのような方々ばかりですね。かけがえのない一人一人です。
そのような一人一人が、今日同じ神さまを礼拝しているわけですね。
そのようなお一人お一人が、「ああ、この方は本当に神さまの手のひらに刻まれていたんだなぁ」ということが一番分かるのは、その方が召された時です。
相澤京子さん、もうお話が出ました。

相澤京子さん、7/19(水)の朝に天国へ旅立たれました。
すごい存在感のあられる方でしたので、いないと寂しいです。
そこでまだ座っていらっしゃるんじゃないかなと思う位、それぐらい存在感があるかたでした。
凛としたたずまい、いつも背筋がピ〜ンと伸びて、さっそうと歩いておられるあのお姿を今だに忘れることができません。
そしてとてもおしゃれでした。今日はどんな服装されて来るのかな?と楽しみでした。

ある時、相澤さんのすぐ後ろの席に座りましたら、ピン止めが目に入りました。
ああ、おしゃれなピン止めをされている。髪留めですか?髪留め。
あ、今日は蝶々だな。次の機会に見たらば、あ、今日は貝の髪留めをされている。あ、今日は魚の形。また楽しみになって来た(笑)。

好奇心旺盛。勉強家。自分の考えをしっかり持っておられる方。
相澤さんの独り言は怖いですよ。私(戸塚伝道師)が説教している時にも、「へぇ〜、そうかぁ、知らなかったぁ」とよく言います。「退屈〜」って言われたらどうしよう(笑)かと思いますけれども、「退屈だわぁ〜」って。
そして案の定、私が説教終った後、色んなことを教えてくださいました。色んなコメントをいただきました。
ああ、なるほど。そのような見方もあるのか。
独特な反骨精神でがんばりやという印象――これが相澤京子さんの生き様でした。

伺う所によると、東京音楽大学の前身である、東洋音楽学校の声楽科に進学されたと。
卒業後はバレエ団に入団されたと。幾つもの舞台に上がられたそうです。
ああ、あの背筋の真っ直ぐさはそこから来ているのか。
その後、ベビーシッターだとか、ヘルパーだとか、色々な所で尽力されたお方です。

ご主人の相澤広一さんが召されたのは、ちょうど30年前(※1993/2/14、67歳)。
高津教会で葬儀をいたしました。
相澤京子さんは「主人は洗礼を受けてないんですけれども、大丈夫でしょうか?」
藤本栄造先生は、「大丈夫です。教会に来ていますよね。そしてあなたも一生懸命お祈りされたでしょう?大丈夫です。葬儀しましょう」と言って、教会員共々に相澤広一さんを天に送ったことを覚えています。
相澤広一さんのお母様も、その後、高津教会で葬儀をいたしました。

お子様が三人おられます。
長女のMさん、次女のKさん、そして長男のTさんの三人。
特に次女のKさんの二人のお嬢さん、相澤京子さんのお孫さんですけれども、高津教会の夏のサマーキャンプにもうよく来ることができました。
毎年常連のように来ていました。
そしてこのサマーキャンプで救いの恵みにあずかって、洗礼に導かれました。
お孫さんたちが相澤さんの所に週末泊まるようにして、そして翌日日曜日には必ず二人のお孫さんと共に教会学校に来たのも覚えています。

晩年はMさんご家族と同じマンションに住み、コロナ禍でも礼拝にできるだけ通いたいと願って、ここにいらっしゃった方でした。
ですから、ああ、さぞ「礼拝にもう一回来たいなぁ」という気持ちは人一倍だったんじゃないだろうか?そういう風に思います。
でも今は、天ですばらしい礼拝をイエスさまの目の前で捧げておられることでしょうね。

相澤さんの証しの文章がありました。一部分ですが、ご紹介したいと思います。
1997年の文集「善き戦い」――高津教会創立50周年の記念として出された文集なんですけれども――そこに相澤京子さんのこのような証しの文章がありました。一部分ですけれども、お読みいたします。

――ここから読み始める――
私は今年2月24日で60歳の誕生日を迎えました。受洗させていただきましたのが、1977年ですので、ちょうど20年間信仰生活を過ごして来たことになります。
この20年間を振り返りますと、なんと様々なことがあったことでしょう。・・・・・・
でもこんな私を、主は恵みの中にお守りくださいました。何度も、御手の中に支えていてくださいました。そして、今日までお導きくださいました。感謝です。
今後、80歳まで、生かしていただくと致しますと、私の人生の日数は7300日になります。
私は、神さまのために何ができるでしょう。何もできません。神様はすでに御存知です。
でも朝夕のお祈りの中で、神様とのお交わりを楽しませていただきながら、残りの日々を送ることができたら、私にはそれで充分です。
――ここまで証しの抜粋、読み終わり――

残りの人生、60歳時点で7300日。計算されたんでしょうね。
80歳まで生かしていただくと、私の残りの人生の日数は7300日。
でも相澤京子さんは86歳まで生かされました。86歳までと言いますと、今年の2月24日までで、私(戸塚伝道師)計算しますと、6歳寿命が延ばされたということは、2190日プラスされました(笑)。
そうしますと、この時点からですと、9490日になるということですね。
ああ、一日一日を大切にして生きておられる方だったんだなぁということを、改めて教えられました。
相澤さんは神さまの手のひらに確かに刻まれていた。そして今、その神さまと共に天に憩っておられ、
このような相澤さんの生き様、そしてその信仰、私たちにも大きな励ましになることです。

三つ目の視点ですが、その視点に入る前に、私は一つの疑問が湧いて来ました。
なぜ神さまは、私のことを忘れることがないんでしょう?
それは神さまだからですよね。
「たとえ母親が自分の子どもを忘れても、このわたしは、あなたを忘れない」(イザヤ49:15)と仰る神さまだからですよ。
その神さまの手のひらに、私たち一人一人が刻まれている。

でも私(戸塚伝道師)は思いました――神さまともあろう者が、そんなことまでしないと私たちのことを忘れてしまわれるのだろうか?
手のひらに刻まなくても、(※左手のひらを立てて見せて、右手で触って)神さまは私たちのことを覚えておられるのではないだろうか?なぜだろうか?
これは私の一つの大きな疑問でした。
でもそんなことまでしないと、私たちのことを忘れてしまうお方ではない。
でも、なぜ神さまは私たちのことをわざわざ手のひらに刻まれたのでしょう?

象徴的な表現で書かれた聖書の言葉から思い巡らしますと、
私たちが神さまの手のひらに刻まれた時、私たちが神さまのものとさせていただいた時、刻まれた神さまの手のひらから、血が流れていたのではないだろうか?と思います。
これは、あくまでも象徴的な表現ですよ。
神さまの手から血が流れていた。
「見よ、」という言葉がありますね。「わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ49:16)。
この「見よ、」は何を見よ、か?――手のひらから流れる血です。

3)神さまが私のことを忘れることがない理由

それは神さまの手のひらに刻まれる時に、痛みがあったからでしょう。
私を刻む時の手のひらの痛み。神さまは痛みは感じられるのでしょうね、きっと。
父なる神さまの心の痛みかもしれない。
ひとり子を全人類の罪の贖いのために、十字架につけることになった痛み、悲しみ、そのようなものだったのでしょう。
手のひらから出る血潮とは、それを現しているのではないかと。

わが子を十字架につけなければならない、この痛み。
人間の親子関係とは、勿論別の次元なんでしょう。
でも、でも父なる神さまと子なる神さまは、深〜い人格的な、人格じゃないですね、神格的な(笑)かかわりがあったに違いない。切っても切れない。
だからイエスさまも仰いました。「わたしと父は一つです」(***ヨハネ10:30)と仰いました。
ひとり子を十字架につけなければならない、父の苦しみ、痛み。
このことを歌った賛美が、岩渕まことさんの「父の涙」ですね。

昨年の夏、ちょうど大体一年位前に、岩渕まことさん、高津教会に来てくださいました。
そして共に「父の涙」を礼拝で賛美したのを覚えています。

 1. 心に迫る 父の悲しみ 愛するひとり子を 十字架につけた
 2. 父が静かに 見つめていたのは 愛するひとり子の 傷ついた姿
<繰り返し>
 十字架から 溢れ流れる泉 それは父の涙

手のひらからの出血――それは父なる神さまだけではなかった。
ひとり子イエスさまの手のひらには釘が打たれていた――そこからも血が流れていた。
イエスさまの十字架の血の贖いのゆえに、父なる神さまの心に刻まれた痛みのゆえに、
私たちは赦され、救いの恵みにあずかりました。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(***ヨハネ3:16)

神さまのいのちで私たちは神さまのものになりました。
これほどまでに、私たち一人一人を覚えてくださり、100%理解してくださっている神さま。(※段々声に力が入る戸塚伝道師)
――私が神さまのことを忘れたとしても、神さまのことを意識していない時であったとしても、たとえ神さまが信じられなくなったとしても、神さまから離れたとしても――
私は神さまに、絶対に、忘れられない存在、忘れられるようなことはない存在です。

それは、人間の尊厳、神さまに望まれて生を受けた私たち一人一人。
それは、イエスさまにまだ出会っておられない方々も同じです。
クリスチャン、ノンクリスチャン関係なしに、神さまの憐れみと恵みは、何の資格もない者にも、とるに足らない者にも、既に与えられている。

さらには、人生のどん底の、どん底の、またその下に置かれたとしても、
今そのようにあったとしても、そんな私のすぐ下には神さまの御手が、手のひらが、いやその手のひらに、私たち一人一人刻まれている。
その手のひらが、どん底の下の下にある。
じゃ、神さまの手のひらの下は何があるでしょうか?――何もないです。
どん底っていうのは、神さまの手のひらの上です。

マザーテレサは言いました。
「たとえ私が地獄に行っても、神さまは共におられる。」
マザーテレサだから言えるんでしょうね(笑)。
でもそれぐらい神さまと一体化されていた。
私たちを命がけで愛し、救いたくてたまらないお方が私たちの神さま。

誤解を恐れずに申し上げるならば、すべての人を愛された神さまは、
すべての人を十字架の上に、あの一回の十字架の上に、もうすべての人をもう救ってしまっておられる位愛されている。
既にすべての人が、神さまの手のひらに刻まれている。
神さまの愛に漏れる人は一人もいない。

私たちは救われて洗礼を受けました。キリスト者になりました。
でも気をつけなくちゃいけないと思います。
私は救われた、でもあの人はまだ。私は救われた、でもあの人は手遅れ。
そんなこと、私が決めちゃいけない。それは神さまが決めることでしょう(笑)。
それは神さまが決めること。
神さまの方では、もうすべての人のための十字架がもうぜ〜んぶ用意されている。

今どうにもならない様々な問題課題、病、不安、怖れ、今週どうしようかというようなあのこと、色々なことを抱えておられるお方、私も含めて、お一人お一人。
でも今どんな状況にあっても、大丈夫なんです。
大丈夫、これきれいごとじゃありません。ほんとに大丈夫なんです(笑)。
だって、私たちのことをこんなにも大切にしておられる神さま、こんなにも愛されている神さまの手のひらに、私たちはイエスさまの十字架によって刻まれている。
もう大丈夫なんです。すべてを神さまに任せて、歩んでいきたいと思います。

最後に今日も、あの星野富弘さんの短い詩をご紹介して終わります。
「立っていても 倒れても そこはあなたの手のひら」

☆お祈りをいたします――戸塚伝道師
「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ」(イザヤ49:16)
神さま、こんな私でさえも、あなたの手のひらに刻まれていることを感謝いたします。私が刻まれた時のあなたの手のひらの痛みは、あなたの一人子イエスさまの十字架の痛みでした。それ程までに私のことを救おうとされたあなたの愛と憐れみに圧倒されることです。

あなたに生かされ、愛され、許され、存在している自分というこのかけがえのない価値にもっと気づかせてください。そして今週の歩みの中で、どのような状況にあっても、あなたの温かい手のひらに、私たち一人一人が置かれていることに、気がつかせてくださり、実感させてくださるようよろしくお願いいたします。あなたの一人子イエス・キリストのお名前でお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2023.07.30 - 21:08

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