☆聖書箇所 へブル人への手紙6:1〜8
1ですから私たちは、キリストについての初歩の教えを後にして、成熟を目指して進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、 2きよめの洗いについての教えと手を置く儀式、死者の復活と永遠のさばきなど、基礎的なことをもう一度やり直したりしないようにしましょう。 3神が許されるなら、先に進みましょう。 4一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、 5神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、 6堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。 7たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、 8茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。
☆説教 へブル(14)たびたび降り注ぐ雨
今朝は先週の続きで、へブル人への手紙の6章から見ていただきました。 プロテスタント教会には一つの原則があります。 それは「聖書はその通りに読めば、誰でも分かる」という原則なんです。
この原則には理由があります。 中世のカトリック教会は、ラテン語のウルガタ訳一つでありました。 ラテン語のウルガタ訳一つ、読むことができるのは、特別な教育を受けた人たちだけでありました。 ですから宗教改革者ルターは、初めて母国語のドイツ語で誰でも聖書を読むことができるようにギリシャ語から翻訳いたします。 その時、彼は人々の口を覗き込むようにして、人々が使っている言葉を探して翻訳したという程、誰でも分かるように聖書を翻訳するということに拘りました。
ルターはそういう風に誰でも聖書を読んで分かるように、という風に翻訳し、そういう原則で私たちは聖書を読んでいます。 つまり、聖書というのは学者である必要はない、一般人誰でも読むことができる。
しかしながら、聖書にはなかなかそうはいかない箇所が沢山あります。 どんな箇所でも、読めばその通りに分かる。文字通りに受け止めれば、それで良し、と考えていたら、ま、大変なことになりますよ、ということを、先週ちょっと話しました。
それは先週の箇所ですと、「信仰の初歩を後にして完全へと進みなさい」(6:1)と書いてありましたけれども、よく考えてみると、 ここに書いてある「信仰の初歩」というのは、ユダヤ的な教え。 つまり《へブル人への手紙の記者にとって》――へブル人というのは、ユダヤ教からキリスト教に回心した人で――《信仰の初歩というのは、非常に旧約聖書的な教え》なんだということを話しました。 で、ついついキリスト教から、自分がもといたユダヤ教的な教えに、元に戻ってしまう。
そういうことをしないで、卒業して、キリスト教的な教えに入って行きなさいと。 私たち日本人にとって、じゃ「初歩の教え」って何だ?って言われますと、 日本人はついつい規則的、比較的、白黒はっきりさせる、 《良いものは良い、悪いものは悪い、という風に自分の判断を放棄して、誰かに良し悪しを決めてもらう》という《日本人的な体質》があるんだと。 そこはどうしても《律法的な世界》になってしまい、業績が問われるとか、他人の目が気になるとか、「自由」とうのはそういうものではない。 私たち日本人が初歩的な教えを後にして、そして成熟に進むとしたら、5章の14節、ちょっとOさん、映してください。
【画面:へブル5章14節「固い植物は」に赤ペンで囲み。「善と悪を見分ける感覚を〜大人のものです。」に緑のハイライト】 <へブル5:14> 14固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。
ということは、私たち自身が見分ける感覚を経験によってつけていかなければいけない。 勿論他人に聞くのも一つでしょう。 だけど教会で言われたから、牧師に言われたから、それが正しいとは限りませんよ。 そういうお話をいたしました。
1)さて今日は、もっと気をつけていただきたい、この言葉に注目したいと思います。 ここですね。
【画面:へブル6章6節「 そういう人たちを〜できません」に緑のハイライト】 <へブル6:5〜6> 5 神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、(***つまり福音を体験したうえで、と説明) 6 堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。(***もうそれで終わりだと、説明)彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。
この言葉を、文字通りに受け止めてしまいますと、これずいぶん厳しいなぁと。 一旦キリスト教を信じておいて、しばらく教会から離れたら、二度と戻れない。 つまり「キリストをもう一回十字架に架けて、さらしものにするような者だ」という風に言われますと、なにかこう絶望的なものを感じますよね。
言いたいことは良く分かるんです。 それは一度イエスさまを信じて離れることの残念さ。 でも少し厳しすぎますよね。
二度と悔い改めることはない(6)。福音の良さを一旦味わったうえで離れていくのなら、その人は、イエスさまをもう一度十字架につけるようなものだ。 これね、さらりと口にしない方がいいです。 なぜならイエスさまのことばとは合わないからです。
イエスさまはマタイの福音書の18章で、こう仰っています。 <マタイ18: 21〜22> 21そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」 22イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七を七十倍するまでです。
7を70倍するというのは、無限に赦しなさい、という意味です。 勿論、それは相手が悔い改めたのなら、です。 でも7を70回するまで赦しなさいということは、それ位悔い改めのチャンスはあるって意味じゃないですか? イエスさまは明確にそのように仰っているわけですけれども、へブル人への手紙の6章の6節は、そのような機会がないかのように記されているから。
一旦信仰をもって、それを離れるなら――確かに大きな問題です。 それは教会では背教と言います。教えに背く。或いは棄教とも言います。教えを捨てる。 しかしイエスさまの教えを考えるならば、背教した者が悔い改める時に、もう一回赦されることになりますでしょう。 それでは虫がいいんでしょうか? それでは、教えとして甘いんでしょうか? 真実な教えはもっと厳しいんでしょうか?
さて、今日はこれを考えていただきます。
2)少し、歴史的なお話をします。
私たちが持っている新約聖書は27巻の書物によって出来上がっています。 そこに至るまでに約350年の歴史がかかります。いいですか。
紀元108年に、ヨハネの弟子のポリュカルポスという人がいました。 彼は15の書物を新約聖書の正典として認識しています。まだこの時は15です。
紀元185年、エイレナイオスは、21の書物を正典として認識していました。
最終的には、紀元397年、教会のカルタゴ会議で27の書物を正典とみなします。 つまり紀元397年に至るまで、実はへブル人への手紙は正典に入ってないんですよ。
特に紀元370年〜380年代に、最終的に正典に入れるかどうか議論された書物っていうのは、ヨハネの手紙の第二、ヨハネの手紙の第三、ヤコブの手紙、そしてこのヘブル人への手紙、というのは大変な論争になります。
ここからよく聞いていただきたいんですよね。 ここまで学んで来て、こんなに素晴らしい書物は新約聖書にないという程、私たちは感動を覚えて来たと思うんです。 ところが、この書物が正典に入ることが、なぜそんなに難しかったのか? それは当時の歴史的な問題があったんですね。
キリスト教は長らくローマ帝国から迫害されて来ました。 その中で、これまで何度も話しましたよね。 ユダヤ教からキリスト教に回心したへブル人は、再度、帝国の公認宗教となっていたユダヤ教に戻ろうとしますよね。 で、へブル人への手紙の記者は、そういう人々を説得して、戻ってはいけないよ、ということを繰り返しこの書物で語っているわけです。
カルタゴ会議でへブル人への手紙が正典として入るかどうかで色々議論された時期、 その時期というのは、実はキリスト教がローマの国教になろうとしていた頃なんですよ。 つまりローマの皇帝がキリスト教に回心して、本当にキリスト教がローマの宗教になっていくわけです。 するとその途端に、棄教した人々、背教した人々、迫害に遭ってキリスト教を離れて来た人々が皆キリスト教に戻って来るんですよ。
そうすると、いのちをかけてキリスト教信仰を守って来た人々にしてみれば、そのようにして一旦捨てた人がもう一回戻って来る、というのはどうなんだろうか?という話になる訳ですよ。 へブル人への手紙というのは、もっと前に書かれているんですよ。もっと前に書かれているんですけれども、 その397年頃になって国教になろうとしたときに、大勢の棄教者がキリスト教に戻って来た時に、 「いや、へブル人への手紙にはこういう風に書いてあるよ、だからもう戻れないんだ」と言う人たちと、 「いや、イエスさまが仰ったように、彼らが真に悔い改めているのだったら、戻れるようになるはずだ」 という人たちで論争が起こったわけですよね。
歴史的にもう少し近づけますと、よく分かります。 それは太平洋戦争以降の日本の教会でありました。いいですか。 戦争中はキリスト教徒は売国奴と呼ばれて、教会は解散され、それを免れるために、キリストと天皇を並べます。 前に申し上げましたよね。「♪イエス君はいとうるわし」という「君」(きみ)というのは天皇用語ですね。御稜威(みいつ)、威光、そういう言葉も天皇用語ですよ。
キリスト教会というのは、戦争中、たとえばインマヌエルを創設した蔦田二雄先生の日本橋教会も、ちゃんと日本の国旗が立っています。 教会の正面には御真影が飾られています。 蔦田先生はやがて憲兵に捕らえられて、東京拘置所で二年半過ごします。
その最大の理由は、きよめ派というのは、再臨信仰を謳っていました。 「キリストが再臨される時に、天皇はもう不要だと、キリストこそがこの世界を治めるようになる」 と言われていた、このキリスト教徒のホーリネス系の人々というのは、 牧師約100人が獄死をしたり、拘置所に入れられたりしますけれども、 彼らもまた、頌栄を賛美する前に国歌を斉唱し、礼拝を始める前に宮城遙拝(きゅうじょうようはい)と言って、皇居に向かって一礼をして礼拝を始めていたんです。
日本基督教団のトップでありました――当時プロテスタント教会というのは日本基督教団しかないんですけれども――そのトップがわざわざ韓国に行って、宮城遙拝をするように、韓国の教会を説得しに行くんですよね。 韓国の教会の人々の中には、それに抵抗して、殉教した人々もいました。
すると、日本の教会って一体何だったのかと言いますと、全員棄教したんですよ。 全員というのは、少し語弊があります。 私の母の出身であります美濃ミッションというのは、最後まで伊勢神宮に参拝することを拒否しました。 それがゆえに石を投げられ、教会は解散され、美濃ミッションは日本人扱いをされない程の迫害を受けて来ました。 でもそれ以外の教会、戦争中も日本の教会、豊かにありますよ。 だけど、たとえば青山学院は神武天皇生誕何千年祝っていうのを、青山学院で盛大にやるんですよ。 (ミッションスクールの)青山学院にも、立教大学にも、関西学院にも、御真影と教育勅語を安置していた建物、小さなお宮のような建物というのは、キャンパスのどこかにあるわけですよ。
ていうことは、一言で言いますとね、ローマ国教の時代ではない、戦中の日本というのは、すべからく棄教した。 「いや、棄教はしていなかった。心の中でイエス・キリストを信じていた」と言うかもしれない。 しかし立派に天皇にそれなりの崇拝をしていたと言って間違いないですし、 私たちが今色んな意味で献金をしますけれども、教会で一番奉げられた献金は、戦闘機献金です。 戦闘機献金――ゼロ戦を造るために、教会を挙げて献金をしていたんですよ。
するとね、当時、紀元390年頃のキリスト教の論争以上に、本来日本はね、そういう教会がもう一度キリスト教会になれるかどうか、議論されるべきだったんです。 だけど、日本の教会は議論しなかった。 理由は単純で、全員棄教したからですよ。 全員キリストに背を向けて、天皇を向いていたから、あえて議論する必要がなかった。 全員戻って来たんです。
そしてマッカーサーを中心として、キリスト教優遇措置が取られるじゃないですか。 キリスト教の伝道団体に、沢山のお金が注ぎ込まれますよね。 そしてサンフランシスコ講和条約が結ばれるまで、赤坂御所で毎週日曜日に礼拝が持たれるわけです。 そしてキリスト教の伝道集会が持たれるたびに、近隣の神社の神主さんやお寺のお坊さんがやって来られて、果たして私たちは潰されてしまうんでしょうかと脅える位、マッカーサーは日本をキリスト教化しようと思っていたんですよ。
となりますとね、いったん戦争中に棄教した人たちが、みんな教会に戻って来る時代、みんなが棄教していたがゆえに、紀元390年頃の論争さえない程、日本はみんな棄教したんですよね。 日本基督教団が正式に戦責告白という戦争の責任を反省して告白を出したのは、戦争が終わってから20年後、1966年です。 どうしてそんなに遅かったのか? ドイツは直ぐに戦責告白を出しました。 日本の教会はどうしてそんなに甘い姿勢を取ったのかということで、今に至るまで靖国神社問題とか、キリスト教では声を上げている先生方が多いんですよね。
戦責告白がなぜそんなに大事なのか? なぜなら、それこそが悔い改めの真実が問われているからです。 戦責告白を公にしない限り、悔い改めたという真実が明確にならない。 悔い改めたという真実が明確にならない限り、赦されて背教から再び教会に戻ることはできないでしょう、というのが正論じゃないですか? 正論ですよね。 その正論を日本の教会はことごとく無視した、というのが現実でありました。
3)悔い改めはできるんです。
へブル人への手紙は、ユダヤ教に戻ることを何とか阻止するために、熱心にこのような表現をいたしました。これから先は聖書を映していただきます。
【画面:へブル6章6節「そういう人たちを〜できません」に緑のハイライト。7節「たびたび」に赤ペンで囲み。7節全文に赤ペンで傍線。8節「茨やあざみを生えさせる土地は無用で」と「最後は焼かれてしまうのです」に緑のハイライト】 <へブル6:5〜7> 5神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、 6堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。(***立ち返らせることができるんです。なぜなら――7節に移動して説明)彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。 7たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで、耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、 8茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがて呪われ、最後は焼かれてしまうのです。
(7)「たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで耕す人たちに有用な作物を生じる土地」というのがあるんですよね――そういう土地は柔らかな心です。 たびたび降り注ぐ雨を吸い込むだけの土地はあるんです。 「その土地は神の祝福にあずかりますが、」 (8)「茨やあざみを生えさせる土地は」――頑なな心です。 「無用でやがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです。」
「たびたび降り注ぐ雨を吸い込む」(7)心に、私たちは断ち戻ることができる。 聖霊はそのように私たちの心を変えることができる。 逆に、最後の最後まで、聖霊の働きかけを拒んで、「茨やあざみを頑として生えさせる」(8)心もある。 そういう心であるならば、二度と立ち返ることはない、ということは明白なんですね。
柔らかな心は、素直な心は、従順な心は、たとえ一度キリストを捨てるような行為をしたとしても、そういう信仰であったとしても、 「たびたび注がれる雨を吸い込む」(7)ようなことができる。 荒野のような心はその雨さえ、弾き飛ばしてしまう。 (つまり、背教の果てにあっても、神の恵みは届きます。その瞬間の心の状態が問われます。)
ということで、最後に一つ話をして終わりにいたします。
第二次世界大戦が終わった後に、有名なドイツのニューレンベルグにある戦犯収容所で、戦争犯罪人として死刑を待っていたヒットラーの右腕と言われた、ヘルマン・ゲーリングが自殺をいたします。
彼はヒットラーに並ぶドイツの最高指導者の一人でありました。 ゲーリングは裁判を受けていた間、たびたび牧師を呼びます。そして聖書の話を聞き、救いについての質問もしたそうです。 いよいよ刑の執行が迫ったある日、彼は牧師を呼んで、洗礼を授けてもらえるかどうか、尋ねます。
牧師が彼に尋ねます。 「それでは、あなたは天におられる父なる神さまの愛と、そしてあなたの罪のために、イエス・キリストが十字架に架かられた、ということを信じるんですね?」
ゲーリングはしばらく考えた後に、答えました。 「私は神がおられることは信じる。しかし、イエス・キリストの救いは信じることができない。 私のような者を赦してくださるという、キリストの十字架を信じることができない。」 牧師は「それでは、あなたに洗礼を授けることはできません」と言いました。
処刑の前日、牧師が重ねて先のことを尋ねますと、彼はこう言います。 「私は神を信じる。しかし神は偉大である。この惨めな取るに足りないこのヘルマン・ゲーリングのことなどは、何の関心もお持ちでない程偉大であると私は信じる。」 そしてその晩、彼は密かに隠し持っていた毒を飲んで、自殺したのです。
どういう心か?それは一滴の雨も吸収しない程、頑なに乾いた心です。 私たちは信じています。高津教会に関わったこれまでの誰一人も、そのような心は持っていない。 どこかで教会を離れてしまった方々は沢山いると思います。 でもたびたび人生のどこかで、恵みの雨が注がれた時に、 「神は偉大である。このゲーリングを憐れんでくださるとは到底思えない程、私は取るに足りない。その神が私を愛してくださるとは、私には信じられない」 とは絶対に言わない。絶対に言わない。
教会に一度関わったことがある教会学校の生徒も、どこかで人生の苦難に遭い、そして悔い改めの水の一滴を注がれたならば、乾いたスポンジのようにそれを吸収し、キリストの愛を悟ることができると、私たちは信じ祈っているということを覚えてください。 なぜなら、イエス・キリストは5章の7節で学びましたよね。 大祭司で大きな叫びと涙をもって、私たちを取りなしてくださる。 本当に荒れ果てた土地であったかもしれない。茨も生えているかもしれない。 でもそこに一滴の雨が注がれたならば、それを喜んで吸収できるような心になりたいと思います。
カルタゴ会議で、最終的にヘブル人への手紙は正典に入りました。 それはキリスト教は、真実に悔い改めた人たちを、一旦は背教したかもしれないけれども、喜んで教会に迎え入れたんです。 それは彼らが寛大であったからではない。 それはキリストの大祭司性がそれほど偉大であって、再び十字架に架けられたようなキリストでも、キリストはなおも私たちを許し、迎え入れてくださることの事実を語っていたんですね。
☆お祈りをして終わりにいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、もしかしたら私たちは日常的にあなたを何度も十字架に架けているような、愚かな者なのかもしれません。しかしそれでも、大きな叫びと願いによって、私たちのためにとりなしてくださるイエスさま、乾いた私たちの心に、たびたび恵みを降り注いでくださり、私たちに悔い改める所の光を与えてくださいますことをよろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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