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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/20 戸塚伝道師:ペテロのいる風景K「あなたはすべてをご存知です」ヨハネ21:9〜17
☆聖書箇所 ヨハネの福音書21章9〜17節

9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
10イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
11シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
13イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現わされたのは、これですでに三度目である。
 15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
17イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景K「あなたはすべてをご存じです」

皆さんおはようございます。高津教会の礼拝に良くお出でくださいました。また会堂にはいらっしゃらない(※カメラに向き直って)オンラインで共に礼拝に参加されている方々、こうして恵みの時を共に過ごすことができることを感謝いたします。
早速みことばに目を留めていきたいと思います。

「ペテロのいる風景」の今日は第12回目。お読みくださいましたヨハネの福音書21章の9節〜17節、このみことばから恵みを分かち合いたいと思います。
ヨハネの福音書21章は、ペテロのために後から追加された箇所だと言われています。
読めば読むほど味わい深い箇所で、私(戸塚伝道師)は読めば読むほど、この21章の世界にはまり込んでしまう位、この21章を繰り返し繰り返し読まされています。
読めば読むほど、次から次へと、神さまの恵みが溢れ出て来るような章だなぁということを感じさせられることですけれども、以前この箇所から6年前と2年前に二回説教をいたしました。
今日はまた新たな立ち位置から、みことばを読んで行きたいと思います。

21章の初めには漁師ペテロの姿が描かれています。
ほかの弟子たちと小舟を出して、漁に行くも、何も捕れなかった。
その後、イエスさまによって大量の魚が捕れる、そういうシーンですね。

ルカの福音書の5章にも似たような場面が描かれています。
どちらも大量の魚が捕れた後、イエスさまは、ペテロの人生の方向転換を迫るようなお言葉をペテロに語っておられる。
この(ヨハネ)21章の方は、復活されたイエスさまがペテロに語られている――そこがルカの福音書5章とは違う所であります。
そのイエスさまとペテロとの語り合いを、丁寧に読み取っていきたいと思います。
3つの視点で、みことばの思い巡らしをいたします。

1)イエスさまはペテロとの語り合いの場所を用意されました。

場所はガリラヤ湖の岸辺であります。
ヨハネの福音書21章の9節をもう一度お読みいたします。
(※続けて12節前半まで読み進まれる)

9こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
10イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
11シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
12イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」・・・・・・

漁の後、ペテロを含めて弟子たちを食事に招きます。
ペテロもその席に着きました。
目の前にはイエスさまによって、さっき捕った魚が焙られています。
イエスさまが炭火の上で、魚を焙っている姿。
恐らくその手には、イエスさまの十字架の傷跡があったんでしょう。

前回「神さまの手のひら」と題して、「イエスさまの手のひら」ということをお話しししましたけれども、でも、ある方から指摘を受けました。
釘は手のひらには刺されていないと。(※ご自分の左手を上げて見せて、右手の指で手のひらと手首を指して説明する戸塚伝道師)
「刺されていなくて、手首に釘が刺されていた。もし手のひらだけだったらば、イエスさまの体重に耐えられない。だから、イエスさまの十字架刑は手首に太い釘が打ち込まれた。」
そのように教えていただきました。
ああ、なるほどな、と思いましたが、そうすると穴が空いていたのは手のひらじゃなくて、手首、この辺でしょうね(笑)。

ま、どっちでもいいですよ。とにかくイエスさまは魚を焙っていたわけですよね。
焦げないように、裏返しにしながら。
そしてその下には、赤く光る炭火があった。炭火焼きの魚であります。

この「炭火」という言葉は、新約聖書にはたった二回しか出て来ません。
もう一箇所は、ヨハネの福音書の18章の18節に、大祭司の家の中庭で、ペテロが1回目にイエスさまを否定した後に、こう書かれています。
お開きいたしませんが、(ヨハネ)18:18、お読みいたします。

<ヨハネ18:18>
18しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。

ここにも「炭火」という言葉があります。
大祭司の家の中庭で、ペテロがイエスさまのことを初めて否定した、そのすぐ後に、しもべたちや下役たちが起こした「炭火」ですね。
その炭火の前で、同じ「炭火」の前で、ペテロは一緒に立って暖まっていました。
あの時の「炭火」です。

あの時の炭火が、今、復活されたイエスさまの前にある。
そしてペテロは、その炭火の前に招かれている。
ペテロをその炭火の前に、イエスさまは招くわけですね。
ペテロにとって、思い出したくないような炭火の前に、もう一度イエスさまが、ペテロを招こうとしているわけです。

炭火が起こされていた大祭司の家の中庭、その時、その炭火の前でペテロは何をしたのか?
イエスさまを否定しました、三度も。
ペテロとの語り合いの場所を用意されたイエスさま、それは炭火の前でしたけれども、
その「炭火」によって思い起こされるペテロの嫌な過去は――イエスさまのことを三度も「知らない」と言ってしまった過去でありました。

2)このイエスさまとペテロとの語り合いのキーワード、【三度】について拘ってみたいと思います。

イエスさまは炭火の前で魚を焼きながら、そしてこの後食事をしながら、そして食事をした後、どのような語らいをされたのでしょうか?
そこに至るまでのプロセスを、【三度】という言葉に拘って読み取っていきたいと思います。

T.【ペテロがイエスさまを否定した回数が三度】――これが今申し上げた通りであります。

ルカの福音書22章の34節にこういうみことばがあります。
「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
イエスさまの予告の言葉ですね――「三度わたしを知らないと言います」。
で、実際、三度、「知らない」とペテロは言ってしまった。

ヨハネの福音書は、この三度の「知らない」発言とは別の表現が見られます。
それは(ヨハネ)18章に描かれていますけれども、大祭司の家の中庭で門番をしていた召使いの女性から、こういう質問をペテロはされます。
「あなたは、あの人の弟子ではないでしょうね?」
「弟子ではないでしょうね?」という質問に対して、ペテロは三度、「弟子ではない」という否定の発言をしています。
「弟子ではない」――三度の否定。

「知らない」と言うのか「弟子ではない」と言うのか、内容はともかくも、三度イエスさまを否定した、この【三度】。

U.【イエスさまが復活されて、弟子たちに現れたのが、三度目】

(ヨハネ)21章の14節にこのようなみことばがあります。
14イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現わされたのは、これですでに三度目である。

この【三度目】に、この岸辺でイエスさまはペテロに話しかけられるわけです。

V.【ペテロにイエスさまが「あなたはわたしを愛していますか」と三度問いかけられた】

イエスさまが復活された後、初めて、ここでもう一度ぺテロに語られたその言葉は、
「あなたはわたしを愛していますか?」という言葉でした。
恐らくゲッセマネの園での祈りの時の会話が、イエスさまが十字架につけられる前のペテロとの会話だったのだろうと想像いたします。
その先、ず〜っとイエスさまとの会話なしに、ここまで来てしまっていたのでしょう。
復活された後も、イエスさまと親しく語り合ったということは、なかなか想像できないみことばばかりです。
ここで初めて、イエスさまはペテロに個人的に三度問いかけられているわけです。
では、そのイエスさまとペテロとの問答を丁寧に読んでいきたいと思います。

@第1回目のQ&Aは、(ヨハネ)21章の15節に描かれています。お読みいたします。

15彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」

このイエスさまとペテロとの会話。私(戸塚伝道師)は何回か読む内に、不自然さが気になりました。
「ヨハネの子シモン、あなたは、この人たちが愛する以上に――恐らくほかの弟子たち以上に――わたしを愛していますか?」と質問されて、
ペテロは「はい、主よ」と答えている――この「はい」が、すごく私(戸塚伝道師)にとって不自然に思えたんです。
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
そしてイエスさまは、彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」

この不自然さを抱えながら、何回も読んでいる内に、(※下の注に)*がついていることに気がつきました。
イエスさまが15節の中で、「あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか」の質問――この「愛していますか」のところに*がついていて、その下のところにギリシャ語「アガパオ―」と書いてあります。
「愛する」という言葉が「アガパオ―」というギリシャ語で表現されている、この「愛」。
この「アガパオ―」というギリシャ語の意味は、神さまに対する無条件降伏の.愛です。
命がけの愛です。神さまに対する命がけの愛。
そうすると、イエスさまはペテロに「わたしを愛していますか?」って質問した時に、
「あなたはわたしを、命がけで愛していますか?」って質問されたのと同じだということです。
つまり、「あなたはわたしの弟子ですか?無条件に従って来るわたしの弟子ですか?」という意味でもあります。

いみじくも、あの大祭司の家の中庭の門番をしていた女性が、質問していた言葉――
「あなたは、あの人の弟子ではないでしょうね」(ヨハネ18:17)
と同じ言葉を、イエスさまはここでペテロに投げかけるわけです。

そうすると、ペテロは「はい、主よ」――え〜っ、「はい、主よ」?そう言っちゃっていいんですか、ペテロ?(笑) そう言えるんですか、ペテロ?「はい、主よ」って。
でもよ〜く読むと、ペテロの返事の中で、
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」
「私があなたを愛している」の「愛して」というところに、二つの**がついていて、その下を見ますと「フィレオ―」という言葉が書かれています、ギリシャ語で。

そうすると、イエスさまが「愛していますか」という「アガパオー」というギリシャ語を使った質問と、
ペテロが返事をした「フィレオ―」という「愛しています」の答えとは、
(※愛の種類が)違ったものであるということが分かります。
この「フィレオ―」というギリシャ語は、どういう意味を表しているかと言いますと、
「友だちとして愛している」という意味です。
「命がけではない。友として愛しています」

そうしますと、ペテロは「はい」と答えていますけれども、実は「はい」ではない、ということが分かるんですよ。
イエスさまが
「あなたは、わたしを命がけで愛していますか?」
すると、ペテロは何と答えたか?
「いいえ、私はあなたを命がけでなんか愛せません。私はあなたを、友だちとしてなら愛しています。」
こう返事をしたことと同じである、というように読み取れるんです。

「私はあなたの弟子としての資格はない」と言っているのと同じでしょうね。
「命がけであなたを愛することなんか、できないものです。でも、単なるあなたの友です。友としてなら、あなたを愛することができます」ということです。

そう読み取るとするならば、ペテロはここでもイエスさまの問いに対して、否定していると言っても過言ではないのではないでしょうか?

A第2回目のQ&Aは、21章の16節――同じような質問をしています。

16イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

同じように、イエスさまは「わたしを命がけで愛しますか」と言ったにもかかわらず、
ペテロは「いいえ、私はあなたを友として愛しています」と返事をしました。

B第3回目のQ&Aはどうでしょうか?21章の17節。

17イエスは三度目もペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。・・・

ここに*がついていますけれども、三度目の「愛していますか」というのは、下を見ますと「フィレオ―」という言葉が書いてあります。
「イエスは三度目も」――「も」という言葉がついていますけれども――ほんとは「三度目は」なんですよ(笑)。
(イエスさまは)三度目は違う質問をペテロに投げかけている。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを友としてなら、愛していますか?」
と、イエスさまはペテロに問いかけるわけです。
三度目のイエスさまの問いかけが変わったんですね。

17(続き)・・・ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので
(***これもフィレオ―ですね――三度目も「あなたはわたしを愛していますか。友としてなら愛していますか?」と三度目はこのように言ったので、ペテロは、と説明して続ける)

17(続き)心を痛めて、イエスに言った。
「心を痛めた」って書いてあります。
(※戸塚伝道師、声の調子が強くなって)なぜ心を痛めたのか?
それは、ペテロが友としても、イエスさまを心から愛する自信はなかったのではないだろうかと思うんです。
何と答えていいか分からなかった。
そこで開き直って、思わず答えた言葉がこれでした。

17(続き)「主よ、あなたはすべてをご存じです。・・・

3)「主よ、あなたはすべてをご存じです。」

その後、ペテロは何と言ったか?
「(あなたは、)私があなたを愛していることを知っておられます。」
この「愛している」も「フィレオ―」、友としてです。
「あなたがすべてをご存じならば、私があなたのことを命がけで愛することなどできないことを、知っておられますよね?」という意味ですね。 

イエスさまのペテロへの熱い思いは、初めから、第一回目の問いかけから、変わりませんでした。
それでもイエスさまは、三回目に「友としてなら、愛していますか?」とペテロに言いました。
それでも、ペテロは心を痛めるほどだった。

もしかしたら、イエスさまはペテロに対して、こんな思いを持っておられたのかもしれません。
「わたしのことを命がけで愛することはできなくてもいいよ、ペテロ。
わたしのことを友として愛せるなら、それでいいよ。
それがもし無理だったとしても、それでもいいよ。
あなたのわたしへの愛はあなたのままでいい。それでいい。
にもかかわらず、わたしはあなたにどうしてもお願いしたいことがあるんですよ。」

W.【弟子としての資格がない、と思っているペテロに、それでもイエスさまは、
「わたしの羊を飼いなさい」とペテロに言われたのです。】

第四の三度目がここにある。
ここで三回――「わたしの子羊を飼いなさい」(15)「わたしの羊を牧しなさい」(16)「わたしの羊を飼いなさい」(17)――
三回もイエスさまが、ここで繰り返し仰っていること、これが第四の三度目でした。
人間を捕る漁師になるだけではない。
捕った人間を飼う使命があなたにはあるんだ。
お願いできますか?

これは、成就しました。
ペンテコステの日に、聖霊に満たされたペテロの説教で誕生した、エルサレム教会を牧会する使命をペテロが与えられるわけです。
でもすでにここで預言的な言葉を、イエスさまはペテロに語られました。
わが主を否定してしまったという、取り返しのつかない後悔と恥と罪、心の痛みや傷、そのようなものに直面するように、炭火の前に導かれたイエスさま。
この時、イエスさまが用いられたのは、「炭火」という場面設定と「三度」という言葉が象徴するペテロの過去の過ちでした。
ペテロが否定したその状況を、もう一度生きてみるように、イエスさまはチャンスを備えてくださった。
そして召命の言葉をペテロに与えてくださった。

恐らくこの時点でイエスさまは、ペテロのことをもう完全に赦しておられると思います。
ケアして、おもてなしまでして、一緒に食事までされて、そしてさらにペテロのことを丸ごと受け入れて、そしてペテロに大切なことをお願いしたいと仰るイエスさまです。

私たちも様々な過去を背負って歩んで来たことでしょう。
その過去の蓄積の結果が、今の私なのかもしれない。
その過去には、思い出したくないような出来事があるかも知れません。
特に他人からされたこと、思い出したくもないような、色々なトラウマとなるような出来事。

でもイエスさまはそのすべてをよく分かっておられる。
無理やりほじくり返すことはなさらないでしょう。
でも受けた心の傷が、ペテロのように、特に自分に原因がある場合、
良心の痛みをものすごく強く覚える罪や、取り返しのつかないと感じるような失敗や、
人様に多大な損害を与えてしまったような出来事や、自分で自分が許せないような状態、
人によって様々だと思うんですけれども、そのような場合、
イエスさまは過去と向き合うように、私たちを導かれることがある。

なんで思い出したくない炭火の前に、もう一度イエスさまはペテロを招かれたのか?
もう一度生きてごらん。もう一度生き直してごらん。わたしは最初から赦している。
イエスさまは私たちを赦され、愛され、そこからやり直せる希望を私たちに与えてくださるお方です。

そのために必要な恵みは、私たちの側にはない。
だからペテロはイエスさまに全面的に依りかかるわけですね。
そしてその全面的に依りかかる言葉が、
「主よ、あなたはすべてをご存じです」というこの一言だったわけです。

教会学校では、今週の暗唱聖句が毎週紹介されます。
今日は、どこでしたっけ?(笑)今日は創世記の12章の4節でしたっけ?」
でも、私たちは今週は、
「主よ、あなたはすべてをご存じです」(ヨハネ21:17)
このお言葉を口癖にしてみたいと思うんですね。
「主よ。あなたはすべてをご存じです」――なんという心強いお言葉でしょうか。
イエスさまに全面的にお委ねし切るお祈りです。
「主よ、あなたはすべてをご存じです。」
三秒の祈りです。「主よ、あなたはすべてをご存じです。」

お祈りが空回りしているなぁと感じることが、私にはしばしばあります。
祈りの言葉の限界を感じることがある。こんなお祈りでいいんでしょうか?(笑)
言葉の限界。心に思っていることと言葉とが結びつかないようなお祈り。
或いは形式的なお祈り。朝来て、また同じような言葉を繰り返してしまうような。
或いはどう祈ったらいいか分からない、そういうこともあります。
自分の言葉の拙さや、こんなことで神さまに分かってもらえるんだろうか?――勿論聖霊、大丈夫なんですけれども、でも
「主よ、あなたはすべてをご存知です」というこの祈りは、効果を発揮する祈りだと思います。
ぐだぐだ祈りながら、どう祈っていいか分からなくなっても、「主よ、あなたはすべてをご存じです」――これはすばらしい信仰の言葉です。
この言葉と「イエス・キリストの御名」で、すべてはオッケーなんです。

先程、三浦洋子さんのことが紹介されました。
私(戸塚伝道師)は写真を拝見しても、こんな方いらっしゃったかなぁと申し訳なくも、記憶にございません(笑)。
(※2013年の写真名簿にも載っています。髪型が当時長かったから、雰囲気が違って見えるのかもしれません)
いらっしゃったんですよね。高津教会に三年程通っておられて、看護師をされて、退職後外国人に日本語を教える仕事をされた。
その後病気になられ、施設に入られ、そして息子さんから藤本満先生のところに、亡くなられたとの連絡があった。
なぜあったか?なぜ(藤本)満先生のところに、連絡があったのか
それは三浦さんが、生前遺言書を書かれていたから。

どんな思いで、この一筆を書かれたんだろうか?
「私の葬儀は高津教会でお願いしたい」――どんな思いだったんだろうか?
恐らく、教会で葬儀をしたい、しかも私が通っていた高津教会でしたい、という思いは当然あったと思いますけれども、もう一つの思いがあったに違いない。

それはイエスさまを知らない家族に、教会の葬儀に触れて、《お母さんは確かに天国に招かれたんだ》ということを感じとってほしい、という強い祈りがあったのかもしれない。
《復活による新しいいのちの希望が、お母さんには与えられているから、もう大丈夫なんだ。あなたにも同じ神さまを信じてほしい》という切なる願いが込められていた遺言書だったのでしょう。

この遺言書は、三浦洋子さんの祈りそのものでした。そう思います。
この祈りの背後に、もう一つの祈りがあったと想像いたします。それは――
「主よ、あなたはすべてをご存じです。
私の将来のことも、いつ召されるかも分からない。
でも私はいま遺言書を書いている。
あなたはすべてをご存知です。
この遺言書を誰が読むかも分からない。恐らく息子かもしれない。
私の葬儀の時、家族にも同じ希望を持ってほしい。
自分の切なる願い、今ある、それが成就するかどうか分からない。
でも主よ、あなたはすべてをご存知です。」

いま三浦洋子さんは、天国でイエスさまに対面されて、こう言っていると思います。
「主よ、やっぱりあなたはすべてをご存じだったのですねぇ。」(笑)
天国は時間も空間も超えている所です。
息子さんがどうなっているかも、既に分かっておられるところでしょう。
本当に私はイエスさまを信じて良かったと、心から感謝していると思います。
そんな希望を息子さんにも託して、そして神さまに託して、天に召されて行きました。

最後にこのことを付け加えて終わります。
ペテロはここで「主よ、あなたはすべてをご存じです」と、全面的にイエスさまに委ね切る言葉を申し上げました。
この後で――ルカの福音書5章と同じように――イエスさまはペテロに、さらにすばらしい人生の方向転換を新たに迫る、大切なメッセージを語って行きます。

ペテロは十字架で罪を贖い、死を打ち破って復活されたこのイエスさまの前で、
思わず口走った言葉――「主よ、あなたはすべてをご存知です」というこの言葉が、
どれほど重みのある、すごいものであるかは、まだ分かっていませんでした、この時点では。
それでもここから、ペテロの人生はさらに大きく変わろうとしていました。

☆お祈りいたします――戸塚伝道師

「主よ、あなたはすべてをご存じです」(ヨハネ21:17)。イエスさま、二千年前のあの日あの時、ガリラヤ湖の岸辺で、ペテロはあなたに言いましたね。「私があなたのことを命がけで愛せないことは、あなたがご存じです」と。イエスさま、私たちもペテロと同じ思いです。あなたのことを命がけで愛することなど、今の私にはできません。

にもかかわらず、すべてをご存知のあなたは、私の過去の罪も、受けた傷も、許せない感情も、どうしようもない弱さも、人には絶対言えないあのことも、丸ごと受け止め、何も責めずにもう一度やり直せる恵みを与えてくださり、導いてくださるお方です。心から感謝いたします。

今週も生活のただ中で、抱えている様々な重荷をあなたの御手に委ねさせてください。そしてあなたの暖かな愛に生きる者とならせてくださいますようによろしくお願いいたします。すべてをご存知であられる救い主イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

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