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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   8/27 へブル(15)神は忘れない、私の信仰と忍耐を へブル6:9〜20
☆聖書箇所 へブル6:9〜20

 9だが、愛する者たち。私たちはこのように言ってはいますが、あなたがたについては、もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。
10神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。
11私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、
12その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。
 13神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、
14「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
15このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。
16確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。
17そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。
18それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。
19私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。
20イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。

☆説教 へブル(15)神は忘れない、私の信仰と忍耐を

へブル人への手紙を学んでおりますので、今日はその続きになります。
6章の9節から読んでいただきました。
で、実は前回の分からちょっと復習したいと思いますので、ちょっと映していただきたいと思います。
前回ここですね。6章のこの厳しい言葉ですね。4節(※から読んで行く)
【画面:へブル6章6節「そういう人たちを〜できません」に緑のハイライト】
<へブル6:4〜6>
4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、
5 神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、
6 堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。

「一度」(4)〜「立ち返らせることはできません」(6)――この言葉の解釈を巡って、色々お話をいたしました。
へブル人への手紙が、正典が成立する390年頃、新約聖書27巻の正典に入るか入らないかで、かなりの論争があり、実に最後の方に入っていったんですね。
すばらしい教えが書いてあるにもかかわらず、そして多くの人はパウロが書いた書簡であると判断したにもかかわらず、
なかなか正典に入れなかったのは、いまの厳しい教えのゆえだったんですね。

なぜ、そうであったのか?
ちょうど390年頃に、あの迫害を受けていたキリスト教がローマ帝国の国教になります。
すると、迫害時代に教会から離れていた人々が教会に戻って来ます。
すると、今まで必死に耐えていた人たちは、それはできない。
へブル人への手紙に書いてあるように、「二度と悔い改めることはできない。そういう人たちは、キリストをもう一度十字架に架けたに等しい」と。

で、私(藤本牧師)は話しましたよね。
戦後、誰一人として戻ることはできなかった。それ位、私たちは主の御名を恥じ、主に背を向けてしまった日本の教会なんです。
イエスさまは、「7を70倍まで赦す」と仰いました(***マタイ8:22)。それは「真実に悔い改めるなら」というその言葉がついています(***ルカ17:4)。
ですから、戦後日本の教会にとりまして、戦争責任の告白を出すかどうか、なんとそれを出すまでに20年もかかってしまいました。
とうとう出たということの意味、遅過ぎましたけれども、
《自分たちが起こした太平洋戦争の責任を教会自ら負う。その天皇制国家主義に加担してしまった自分たちを反省させるということの大切さ》
それを日本の教会は、ま、産みの苦しみでありましたけれども、乗り越えて行ったわけです。

ですから前回は、(へブル6章)7節にあります、「たびたび降り注ぐ雨を吸い込んで」というこのみことばに注目いたしました。
神さまは「帰って来なさい」と、放蕩息子のように人生のどん底で、「われに返りなさい」と、私たちに何度も、「たびたび雨を降り注いで」(へブル6:7)くださいます。
それを吸い込むような、実に弱い者、何か一つ二つプレッシャーがかかりますと、主のもとから離れるような者かもしれませんけれども、
せめて弱いなら弱いなりに、柔軟な柔らかな心を与えてくださり、涙と共に悔いる真実さを与えてください、というお話をいたしました。
それが前回です。いいですか。

で、(へブル6章)9節をご覧いただきますと、「だが、愛する者たち」とこう始まります。
今日は、ここから学んでいきたいと思います。
「だが、愛する者たち」というのは、いま礼拝に来ておられる皆さんのことです。
今離れていなくて、多くの人たちがもしかしたら離れて行ったのかもしれない。
しかし離れていなくて、「礼拝共同体に繋がっている、神の愛と手を伸ばして、握っていただいているあなたがたは」というポイントなんですよね。
で、そこから2点でお話をいたします。

1)神さまという方は、様々な中でつながっている私たちのことを、特別な目で見ていてくださいます。

以前、私たちが属するホーリネス系の教会が、格別に弾圧に遭いました。
それは申し上げましたように、「再臨」ということを声高に旗を上げていましたので、キリストが再臨した時に、天皇とキリストとどっちが偉いか?みたいなことが憲兵から吊し上げられ、100人を越えるホーリネス系の牧師が投獄され、私たちのインマヌエルの蔦田二雄(つただ・つぎお)先生もその一人でありました。

ホーリネス教団の鵠沼(くげぬま)教会が「小羊の声」というパンフレットを作りました。そのパンフレットは、当時の戦争の記録、牧師・信徒が書いた物を集めたんですけれども、
高崎の教会を牧会していた若い先生の手紙が出て来ます。
その先生は召集令状を受けて、千葉の部隊に入りました。
またベトナムに送られることになり、その前に、成田山の新勝寺(しんしょうじ)に、全部隊が集められて、参拝に出かけて行きます。
そこで彼は牧師ですから、拝礼を求められたんですけれども、受け入れないで、頭を下げないままでありました。

そのため、各班をたらい回しにされ、鼓膜が破れてしまうほど殴られたそうです。
話は軍法会議にかけられる(と言われ)、いやいや、信教の自由は憲法に保証されているではないかと抵抗して、軍法会議は免れられました。

(ホーリネス教団の鵠沼教会が作成した「小羊の声」というパンフレットの中に)その手紙が入っています。
つまり、天皇制国家主義に呑まれたとは言え、美濃ミッションのように頑なに伊勢神宮参拝を断った、拒否した小さな群れもあれば、
様々な所でこの軍のやり方、戦争のものの考え方に抵抗したキリスト者は、様々にいたということです。

例えて言うならば、修学旅行の子どもたちにも言えるでしょう。
私は小学校三年生の時にぜんそくで桑名に疎開いたしました。
当然遠足は伊勢神宮ですね。
あの頃は本当に真面目な親に育てられたクリスチャンの息子という(笑)、ま、今はちょっと違いますけれども(笑)、あの頃は少なくとも、真面目な親に育てられたクリスチャンの息子で、子どもの頃から神社の祭りには何ら関心がなかったですね。

でも夜店には100%の関心がありましたよ(笑)。
どうしたら親の目を盗んで、日曜日の夜、夜店に出かけるか?ですね。
それは伝道会の前であるのか、伝道会の後であるのか、私にとっては夜店というのは、今で言うゲームセンター以上の輝きを持った世界で、
それは「金魚釣って何になるの?」って話なんでしょうし、「焼きそば食べてどれだけ美味しいの?」って話なのかもしれませんけれども、
あの参道に一列に並んだ夜店の輝きっていうのは、ものすごく魅惑的でありました。
私(藤本牧師)は結構行きましたよ、夜店には。

私の子どもたちが小さい頃、子どもが引く神輿が教会の前を通ります。
それがちょうど日曜日の午後なんですよね。
小さな子どもたち二人は庭に出て、それを眺めている。
太鼓を叩いて、そして子どもたちがそれを引っ張って行くんです。
その神輿がちょうど、この角で止まるんです。
角で止まった時に、後ろの子どもたちもずら〜っと並んで、そこでお菓子を貰うんですけれども、私の子どもたちは庭のゲートから一歩も外に出ない。
でも理解してくださる町内の人は、「あなたたち二人もね」という風にお菓子をくださって、それを喜んで子どもたちは持って帰って来ました。

圭子(夫人)が役員をしていた時に、祭りの手伝いがありました。
で、「もう手伝いやったら?」と私は言いました。
そしたら役員会の方々が、「奥さん、いいよ。教会の人でしょう」と。
そこで圭子は無理なくして、祭りが終わってから社務所の掃除に、日曜日の夕方に出かけて行きました。
近所のOさんなんかも、同じような思いを何度もされたと思います。

私は以前聞いたことがあります。
神社の関わりが非常に強い町内のおつき合いを断って、そして当然、町内会の酒の席にも付き合わず、やがてのけ者にされ、そのことを思い悩んでノイローゼになって自殺をした牧師がいる、という話を。

私はそういう話を聞きますと、ますますおおらかに振る舞います。
前々回でしたか、仏式の葬儀の焼香のこともお話ししました。
私はするもしないも、その場に合わせると宣言いたしました。
それを頑なに拒むことが信仰の証しとは、私は思っていません(笑)。
信仰の証しというのは(笑)、愛に生きることではないですか。
焼香するということが、死者に対する礼拝と、私は全く思っていません。
それは儀式の一部でありましょう。

キリスト教の葬儀なら、私は司会者として、「皆さんご起立いただいて、共に賛美をいたしましょう」と言いますもの。
そして一番最初の讃美歌ぐらい、或いは「いつくしみ深き」ぐらいは、皆さん口ずさんでくださいますもの。
或いは最近では、そのマナーにうるさく、インターネットがまだ普及していない頃でありましたら、「今週お宅で持たれる教会式の葬儀に行くんですけれども、その時特別に気をつけておくべきことはありますか?」という風に電話がかかって来るくらい、皆さん気をつけておられるんですよ。
そうしたら、私たちももう少し気をつけてもいいんじゃないかと思います。

さて、様々な苦労が宣教地日本にはあります。
それが川崎の溝口ならいいですけれども、お祭りが盛んな地方にあっては無言の圧力です。
以前私は、七尾という所で特伝に行きました。
特伝の最中に、お囃子の太鼓が過ぎて行くんですけれども、
「先生、こういうことって度々あるんですか?」
「七尾には年に三回祭りがあります。その祭りの準備もあります」と(笑)。
徳島でしたっけ、阿波踊りの練習のために、6月ぐらいから延々と毎週末集まって、皆さん練習するんですよね。
で、選手権のようなものを勝ち抜かないと、あの阿波踊りには出られないと。
だから、礼拝していても何していても、どこからともなくお囃子が聞こえて来るわけです。
ああ、そういう世界の教会って、歴史を振り返ってみたら、今は違うかもしれません、でも昔はまだまだ因習が深かったと思われます。

へブル人への手紙の6章。
前半ではね、前半では、一度救われてから、キリストのもとを離れてしまった人々が、再び帰れる可能性があるかどうか?ということを論じているんです。
(※それは、あります。悔い改めの可能性は最後まで残されている、またそれができる柔らかな心の持ち主でありたい。)

ところが後半の(へブル6章)9節からは、「だが、愛する者たち」そして9節の最後に「救いに繋がることを確信しています」と、いま繋がっているんですね。
そして後には、さらに良い、さらに優れた最後の救いに繋がるわけですけれども、
今日見ていただきたい御言葉は、ちょっと映していただきますが、ここです。

【画面:へブル6章9節「救いにつながることを」、10節「あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません」にオレンジのハイライト。】
 9・・・・・・もっと良いこと、救いにつながることを確信しています。
10神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。

ここですよ――「あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません」(10)
イエスさまを捨てて、どっかへ行ってしまった人が、もう一度戻れるチャンスは必ずあります。
でも(※イエスさまを一度も)捨てずに、今を頑張っているとしたならば、神さまは不公平な方ではないので、《いま頑張っている方々のその労苦、働き、忍耐、犠牲、愛というものを忘れたりはなさいませんよ》ということなんですよね。

ローマ帝国迫害の時代に、必死に耐え抜いたクリスチャンがいました。
勿論いのちを落とした者も沢山います。
イエスさまと同じように、十字架に架かり、あのローマから東に延びるアッピア街道に、十字架がざ〜っと両側に並んだという歴史的な記録さえある位ですよね。
キリシタン禁令のあの時代、生き残った隠れキリシタンは全国様々な所にいました。
今そうした研究も盛んになされていますし、中でも長崎の五島列島の隠れキリシタンは有名ですよね。

或いは、先程お話ししました戦時中の苦労も、また戦後日本、今に至るまで、キリストを信じたために負わなければいけない、背負う苦労というのはあると思います。
家族の理解がある場合もない場合もありますし、日曜日の朝の礼拝ですから、ご夫人の方々は特にご主人がクリスチャンでない場合、気をつけて早めに家に帰るということも、充分あったでありましょう。

そう考えますと、(へブル6章)10節の御言葉はとっても重たいです。
神は不公平な方ではない。
だから様々な犠牲を払いながら、配慮しながら、労苦しながら、
信仰を求め続け、持ち続け、追究し続けていった人々の働きや愛を、
忘れるような方ではない。格別に覚えていてくださる、ということですね。

ちょっと黙示録の3章の8節を見てください。
この言葉は、ここで連動して開かざるを得ないという御言葉なんですが、皆さんもよく知っておられます。ちょっと映しますね。
フィラデルフィアの教会に、イエスさまがヨハネを通して仰ったことです。

【画面:黙示録3章8節「わたしは、だれも閉じることができない門」「少しばかりの力」に緑のハイライト】

<黙示録3:8>
8 わたしはあなたの行いを知っている。
(***不公平な方ではないです)
見よ。わたしは、だれも閉じることができない門を、あなたの前に開いておいた。
(***祝福の門、救いの門)
あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
(***この「少しばかり」というのはミクロスです。現代的に言うならば、顕微鏡で見ないと分からない程の小さな小さな力。
普通の小ささではない。ものすごく小さな力なんでしょう。)

それでもわたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかった、そのことのゆえに、あなたのためにわたしは、誰も閉じることのできない門を、救いの門を、祝福の門を、あなたのために開いてある、というのは、大きな励ましですよね。

神さまは忘れていないんです。
小さな出来事かも知れない。
或いはキリストの名のゆえに、小馬鹿にされたというような、小さな嫌な体験なのかもい知れない。
暑い日に、教会学校の奉仕のために全力で歩いて来た、というそのこともあるかも知れませんし、
キリスト教になかなか理解を示してくれない家族のために、もう配慮に配慮を尽くして、疲れ果てた、というような小さな場面かも知れませんし、
振り返って見ると、なかなかこう思い出すことができない、山のようにある、
《キリストのための労苦》っていうのがあるんですよ。

「水一杯でも差し出して来た」(***マタイ10:42)、その犠牲というのがあるんですよ。
私たちの教会は、世界各地で困った人が出ると、献金を募りますよ。
献金、それは小さな額かも知れない。
私たちは自分がいくら入れたかも忘れているかもしれない。
でもそうしたこともすべて、神は覚えておられる。
神は不公平な方ではない。
ですから必ず報いてくださるんですよね。

2)ここからは、二番目にね、私も昨日考え込んでしまって、料理というとあれですけれども(笑)、さばきようのない御言葉なんですね。

6章の11節から。(※読んで行く)
<へブル6:11〜12>
11私たちが切望するのは、あなたがた一人ひとりが(***今日礼拝にあずかっておられる一人一人が、と説明)同じ熱心さを示して、最後まで私たちの希望について十分な確信を持ち続け、
12その結果、怠け者とならずに、信仰と忍耐によって約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となることです。

私たちが切望するのは、一つ一つ行きますよ。
あなたがた一人ひとりが――今日礼拝にあずかっておられる一人一人が、
同じ熱心さを示して――
最後まで――最後までですよ。
私たちの希望について十分な確信を持ち続け――これ連続ですよね、断続ではない。
その結果、怠け者とならずに――
信仰と忍耐によって――
約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となる――

立派に信仰生涯を貫き通した人に倣う姿勢を持ちながら
今の労苦を様々な形で忍耐する一人ひとりが、
同じ熱心さを示して、最後まで、希望と確信を共に持ち続け、怠け者にならず、約束のものを受け継ぐ人たちに倣う者となる。

一つ一つ語るだけで、どう語り尽くしたらいいのか?
皆さんが通っておられる様々な労苦を考えますとね、
こういう言葉って、講壇からサラっと言えないですね。
もし皆さんの中に、病と闘って迷っておられる方がいらっしゃったならば、
もし皆さんの中に、今まさにこういう苦悩の中を通っておられたら、
折角イエスさまを信じたのに、結果的に自分の人生はさらに難しくなったというような状況は、ざらにありますもの。

そういう人たちに向かってね、講壇から「このみことばはみことばとして書かれているから、ストレートに」って、
何か信仰の偉大な人、たとえば内村鑑三、たとえば賀川豊彦を挙げて、
「そういう人たちに倣おうではありませんか」と言ったところで
「じゃ、先ず、先生は倣ってない」(笑)って言われるのが関の山ですよ。
説教ってそういうものではない。

ただこの言葉の目標を解決する方法を、私(藤本牧師)ちょっと考えてみた。
あ、きっとこういう風に行けば、この志高き目標を達成できるのではないかと。

以前、随分前にお話ししたことがありますが「千個のおはじき」という話があります。
なかなか興味深い話なんですけれども、
まだアマチュア無線の時代で、一人の男が、ま、世界の様々な人と、アマチュア無線でつながることができるんですよね。
無線の相手から聞かせてもらった話というので、どこかの本に投稿されていました。

彼は、アマチュア無線の相手に、自分の人生を語り始めるわけです。
「なあ、俺はある日、書斎に座って簡単な算数をやってみた。
男の平均寿命を75歳とする。それを越えて生きる者もいれば、それに満たないで死んでしまう者もいる。
でもそれを基準に、75歳を基準に自分の人生を考えてみた。

ある日、自分が一番好きな曜日は土曜日。仕事も休み、ゆっくり自分の好きなことをして・・・・・・
一年に土曜日が52回あるとして、それが75年で3900回の土曜日。
それだけ自分の人生はともかく楽しめる。」
男は続けるんですよね。
「さて、ここからが大切な所。
この数の意味を悟るに至るまで、55年の歳月を既に使ってしまった。
その時点で既に2800回の土曜日を過ごしてしまった。
残るはあと約1000回。
そこで俺は、近くのおもちゃ屋さんに行って、おはじきを千個買って来た。
それをガラスの瓶に入れて、それからの人生、毎週土曜日、おはじきを一つ取り出して、捨てて行った。」

最初は55歳の時点で、千個買って来たおはじきが入っているんですけれども、
それを一個ずつ毎週取り出していった。
おはじきは着実になくなって行くのを見ながら、じっと自分の人生を、ま、彼は過ごして行ったわけですね。

それから、男は少し間をおいて、アマチュア無線のラジオを通して、見知らぬ男に告白しました。
「それでな、俺は昨年のある土曜日、最後のおはじきを瓶から出して捨てたんだ。
その時に、新しい決意が生まれた。
これから先は神の恵みだ。
だから、俺は、瓶の中に毎週ひとつ、新しくおはじきを入れることにした。」

そして入れる度に、人生に様々なことがある。
落ち込むことも、終ってしまうことも、コロナの苦労も、家族を失うことも、教会を変わることも、家庭が難しくなることも、大きな手術をすることも、色んなことがある。
そこを歯を食いしばって耐えて来た。
でも毎日思うことは、毎日、毎週、神の恵みは十分私にある、という意味で、
私は《おはじきを取り出すことから、おはじきを入れるという発想に》人生を変えてみた、と言うんですね。

聖書の中にありますね。
神の恵みは偉大で、朝毎に新しい(***哀歌3:22〜23)。
神の恵みは、あなたが求めるにしたがって、日々加えられる(***インマヌエル讃美歌「移り行く時の間も」2節の歌詞、Tテモテ1:14)。
人生というのは、20年スパンで考えられるものではない。
私たちが終わりまで行くというのは、今日の一日、今週一週間のことなんですね。

イエスさまも仰いました。
「一日の苦労は一日にて足れり」(***マタイ6:34)と。
その一日一日の感謝と、忍耐と、信仰と、愛を実践して初めて、最後まで保ち続ける、という言葉に至るのであって
いきなり最後まで保ち続けるみたいな話をしても、それは何の意味もないじゃないですか。

私たちはこれから先の自分の人生で、ま、若い人は別として、私のような年齢になりますとね、おはじきが無くなって行くのを眺めるだけですよ(笑)。
そして、もう一つ別の瓶を用意して、そこには日々新たなおはじきを入れていって、
「外なる人は破れども」で、(※左側に瓶を抱えるような格好で)こっちの瓶は段々空っぽになっていくかもしれない。
でも(※右側に同じことをして)「内なる人は日々新たなり」で、こちらの瓶は日々おはじきが増えていく(***Uコリント4:16)。
そしてやがて、「神は不公平な方ではない。神はあなたの働きと愛を覚えておられる」(へブル6:10)という所にまで行き着くことができるかなぁと思います。

☆お祈りをいたしましょう――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、最後まで生きるのかと、最後までこの信仰を同じようにして保つことができるのかと、最後を見れば見るほど、それが遠い世界であって、到底私たちのミクロスの力では無理だなと思います。

しかしあなたは、「あなたがたにはわずかな力があって、わたしの名を否まなかったがゆえに、誰も閉じることのない門を開いておいた」(黙示録3:8)と仰るほど、私たちを見ていてくださる方です。私たちを守っていてくださる方です。私たちに「無理をするな」と声をかけてくださる優しい方です。私たちが倒れそうになる時に、真っ逆さまに倒れないように、私たちの背中を支えてくださる方です。死の陰の谷を行くような時があるとしたならば、私の手を握ってくださるお方です。

毎日、毎週、恵みのおはじきを自分の人生に加えていくことができるように、そしてむしろ空っぽになりつつある瓶でなく、増えていく瓶を見つめて生きることができるように、力を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2023.08.27 - 20:43
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