☆聖書箇所 へブル6:13〜20
13神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、 14「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。 15このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです。 16確かに、人間は自分より大いなるものにかけて誓います。そして、誓いはすべての論争を終わらせる保証となります。 17そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました。 18それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。 19私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、また幕の内側にまで入って行くものです。 20イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。
☆説教 へブル(16)たましいの錨
へブル書の手紙の今日は16回目です。 6章を3回に分けて読んでまいりました。
1回目は(へブル6章)6節の《一旦信仰を持って、それ以降一度脱落してしまったら、再度悔い改めることはできない》という厳しい表現をどういう風に理解すべきか? これが聖書が正典になる時に、へブル書が正典の中に入る時の一番の問題点であったという歴史的な事情もお話をいたしました。 勿論、真実な悔い改めのある所には、必ず回復があります。 そして《神さまは、イエスさまは、私たちの悔い改めをはるかに超えた愛を注いでくださるお方である》ということは、戸塚先生のあのペテロの「あなたはわたしを愛するか」というあの説教(※8/20)で聞くことができました。 ですから、7節にありますように、「たびたび降り注ぐ雨を吸い込む」ような優しさと素直さを私たちの心に与えてください、というお話をいたしました。
2回目は先週でありました。 (ヘブル6章)9節の「だが、愛する者たち」に始まる、《脱落した者ではない、いま教会に連なっている、今日礼拝を守っている、愛する者たち》。 10節にこうありますよね――「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません」と。 信仰生涯を貫くための労苦も気遣いも、また小さな犠牲を一つ一つ神は忘れることなく、私たちのために覚えていてくださる。 ですから、私のような弱い者でも、最後までその信仰を全うして生き抜くことができる、というお話をしました。
今日は3回目であります。 《私たちが最後までこの信仰生涯を守って行く、そしてその中にあった犠牲も労苦も愛も、コップ一杯の水を信仰者に差し出して来た、その愛の働きも、忘れることはない》。 《神さまは絶対に忘れない》というこの確信を、この手紙を書いた記者は、一体どこから引き出しているのか? なぜそんなに確信をもって言えるのですか?って言った時に、13節をご覧ください。
1)神の約束です。
13神は、アブラハムに約束する際、ご自分より大いなるものにかけて誓うことができなかったので、ご自分にかけて誓い、 14「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と言われました。
という神の約束。 へブル人への手紙の記者は、《神は信じる者を祝福すると約束されている》と(論証しているのです)。
アブラハムというのは、「信仰の父」と呼ばれていますけれども、神の約束――それは必ず果たされる。 ま、なかなか難しいと思います、約束を果たすということは。 私たちは約束したことさえ忘れますし、 意図的でないかも知れませんけれども、しかし「そこまで約束したことは覚えてない」という言葉も口にしますし、 或いは「それはあくまで口約束」であった(のであまり意味がない)というものの言い方もします。
ですから約束されたことが実効されるように、ありとあらゆる手段を周囲は尽くします。 重要なのは、たとえば保証人ですね。 本人がこの約束を守る事ができなかったら、誰かが代わりに保証してもらいます、という文書を取り交わしたりもします。
神さまはアブラハムに約束をされました。 14節に「確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたを大いに増やす」と。 ところが、最初の子どもが一向に与えられないんですよね。 アブラハムが86歳の時に、妻サラの女奴隷ハガルと交わって、イシュマエルという男の子が与えられました。(***創世記16:1〜3) そしてこの子がきっと自分の世継ぎになるに違いない、と考えましたけれども、神さまは「いや、その子ではない」と。(***創世記17:19)
最終的にイサクという男の子が生まれますが、なんとそれはアブラハムが99歳の時でありました。 これほど忍耐をした人はほかにいないと思います。
アブラハムは「信仰の人」と呼ばれ――勿論、その前にノアという信仰の人はいますけれども――《信仰というのは忍耐と深く関わっている》ということは、アブラハムが自分の信仰をもって実践したようなものです。 ですから(へブル)6章の15節に、「このようにして、アブラハムは忍耐の末に約束のものを得たのです」と書いてあります。 「信ずれば約束のものを得る」というだけではちょっと不十分です。 アブラハムでもこれ程の忍耐を必要としていた、というその現実を私たちもよく考えながら、《信仰プラス忍耐》或いは《信仰というのは、時には忍耐そのものになる》ということを心しておかなければいけないと思います。
へブル人への手紙の読者たちは、ローマ帝国の迫害に遭っています。 教会から離れていく人も、ユダヤ教に戻る人も沢山いました。 しかし、そこに踏みとどまっている人々、約束の救いをキリストにあっていただくために、大祭司キリストにしがみついている人々に、実際に求められていたのは信仰だけではない。 それは忍耐でありました。
神さまは、何度もアブラハムに約束の言葉を語ります。 「海の砂のように、空の星のようにあなたの子孫を増やす。あなたを祝福する」と。 しかし、先ず一番最初の《一番目の子どもが与えられないというこの現実》に、アブラハムは苦闘いたしました。
2)《約束》というものは言葉だけではありません――これが今日のメインのテーマであります。
そこには約束を守るという《誓い》が加わります。 ですから(へブル6章)13節に「神は、・・・ご自分にかけて誓われた」とありますし、 16節に、普通人間同士では自分にかけて誓っても仕方がない。そこで自分よりも大きな存在を持ち出し、私たちは「神にかけて誓う」というものの言い方をしますよね。 でも神が誓うとしたならば、自分より大きな存在はおられないわけですから、神はご自身にかけて誓う以外にはない。 17節ご覧ください。 <へブル6:17> 17そこで神は、約束の相続者たちに、ご自分の計画が変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されました
《約束は誓いをもって保証されている。》
その誓いを創世記で一緒にご覧いただきたいと思います。 ここから少し創世記を映していきますので、オンラインの方々も目で追っていただきたいと思うんですが、 【画面:創世記15章8節「何によって分かるでしょうか」に緑のハイライト】 <創世記の15章の8節>にこうありますよね。 8アブラハムは言った。「【神】、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」
という疑問は「確かにあなたは約束してくださいました。しかしその約束が実効されるということが、何によって分かるのでしょう?」 その時、神さまはこういう提案をされます。ちょっとよく見ていただきたいんですが。
【画面:創世記15章10節「真っ二つに切り裂き〜鳥は切り裂かなかった」12節「深い眠りがアブラムを襲った」「大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った」にピンクのハイライト】
9すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」 10彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし鳥は切り裂かなかった。 11猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。 12日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。 13主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。
――とず〜っと続いていきます。 そして17節ですね。下の段になりますけれども―― 【画面:創世記15章17節全文と18節「その日、【主】は〜言われた」にピンクのハイライト】 17日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。 18その日、【主】はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。・・・・・・
(※17節を読んで)《これが約束の誓い》でありました。 これはいったい何なのか? 以前アブラハム物語でお話しした時、当時の契約と言うものを説明しました。 当時の契約というのは――古代の文書に残っているわけですけれども――契約する者同士が向かい合って、真ん中に動物を二つに切り裂いて、そこに置きます。 これが契約を結ぶ儀式ですね。
現代社会では、契約を結ぶ時に契約書を書いて、双方がサインする、或いは捺印するというのを、私たちは国の要人で見ることができます。 でも古代の社会において、契約というのは紙に書くものではない。 《契約は切り裂くもの》です。 ヘブル語で「契約」というのは「切り裂く」という意味です。
神さまはアブラハムに仰いました。 「わたしの約束の言葉が確かであるために、契約を結ぼう。動物を用意しなさい。」 アブラハムも神さまの意図が分かっていました。 その動物を切り裂きます。
その時、17節に、ここに出て来る「煙と火――たいまつのようなもの」とは、神ご自身が現れて来る時のサインです。 旧約聖書で神は燃える芝の中からモーセに語りかけ、神は煙の柱をもって、イスラエルの民を導きました。 ですから、煙立つかまど、燃えるたいまつ、それが切り裂かれる動物の間を通ったということは、神ご自身がその動物の間を通った。
それは一体どういう意味なのか?というのは、もう様々な学者が論じています。 それは「もしわたしが約束を破ったら、わたしはこういうことになる」ということをアブラハムに神ご自身が証明されたんです。 つまり《神さまはご自分の存在をかけて、アブラハムに誓った。》 《わたしがもしあなたへの約束を守らなかったら、わたしがこのように切り裂かれても構わない》という契約の儀式を、神さまは実行されたわけです。
ちょっとその先を見ていただきたいと思うんですが、17章の11節なんです。 その神さまは、アブラハムにこういう風に提案されます。 【画面:創世記17章11節「自分の包皮の肉を切り捨てなさい」にオレンジのハイライト】 <創世記17:11> 11あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。 (***この「切り捨てる」という言葉も契約ですよね、と説明) それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。
わたしは切り裂かれた動物の間を通り、そしてもし約束を破れば、わたし自身が切り裂かれてもよいという、誓いをあなたに示した。 その誓いを覚えておくために、あなたがた自身のからだの一部にしるしをつけろと。 これが割礼の一番最初です。
割礼というのは、成人男性がすれば、それは大変ですけれども、小さな子どもがすれば、それは麻酔もかけずに、割礼儀式、儀式ではないですね。 アメリカでは、今でもそうですけれども、病院で赤ちゃんが生まれますと、男の子の場合直ぐ訊かれます。 この儀式といいますか、「こういうことをしますか?」と。 「はい、します」と言った時に、それは赤ちゃんには可哀想なんですけれども,、麻酔一本ないです。 メスでさっと切り取って、暫らく包帯に包まれておきます。
イスラエルの人々にとって、自分が神の民であるという最大のしるしが、この割礼なんですよ。 そしてその最大のしるしを、彼らは毎日見るんです。 それを見ている内に、その割礼の意義さえ分からなくなってしまうのが、イスラエル民族なのでありましょう。 しかし、それを身体に刻んでいるということはどういうことか?というと、 神はご自身が為した約束を、ご自身のいのちをもって誓って、それを実行されるというしるしが、自分のからだの一部となっている、という意味なんですね。
「わたしはあなたを祝福する」という誓いのしるしを、イエスさまは最後の晩餐で(弟子たちに)杯を回して仰った。 「これが、あなたがたのための、わたしの契約の血です」と。 今日は聖餐式ではないんですけれども(笑)、聖餐にあずかる度に、それは神の子どもとされている、神の祝福にあずかる契約のしるしなんです。 十字架、洗礼、聖餐、それが神の約束の保証なんですよね。
「わたしは、決してあなたの働きと愛を忘れていない。 あなたの真実な信仰を忘れてはいない。 あなたを救う。あなたを祝福する。あなたと共にいる。あなたに報いる。」
3)さて、へブル書に戻っていただいて、6章の16節を一緒に見ていただきたいと思います。これで説教を閉じます。
これが今日の説教題にもなっています。 今まで強調してきました、あのへブル人への手紙の強調ですね。 それは、《約束と誓い》ですね。 それを新約聖書流に言えば、もちろん旧約聖書流に言ってもいいわけですけれども、 画面に映していただきますと――
【画面:へブル6章18節「前に置かれている希望を捕らえようとして」「約束と誓いという変わらない二つのものによって」「その二つについて、神が偽ることはあり得ません」19節「たましいの錨のようなものであり」に緑のハイライト】
<へブル6:18〜19> 18それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、 (***その二つのものによってというように、約束と誓いがペアになっていますでしょう。ペアになってますよね。その上19節に、と19節に飛ぶ) 力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはあり得ません。 19私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなものであり、 (***ということは、神の約束の言葉と誓いのしるし、ま、言うなれば聖餐はペアになってたましいの錨のようになっている、と説明)また幕の内側にまで入って行くものです。
ごめんなさい。私いつも皆さんに言うんですけれども、説教を作るのは、土曜日の夜なんですよね。 「そこまでさぼることないだろう」っていつも家内に言われるんですけれども、やはりいつも、一番嫌なものが一番最後なんですよ(笑)。 それでコロナになって、金曜日に作ろうと、2020年の説教は全部金曜日に作ったんです。 でもやっぱり2021年からもう一回もとに戻ってしまって、ここに(画面)に出る字幕は全部Iさんが作っておられるんですけれども、私はIさんのタイミングを考えながら、説教箇所を決めるっていう連絡をするのが、いつも土曜日の夕方で、あの時、私は腹を決めて取り掛かるんですね(笑)。 もう連絡したからには、ここで勝負するしかないという風に(笑)、腹をくくるんですが、そこからやるものですから、ほんとに貧しい説教しかできないんですけれども。
私(藤本牧師)は錨(いかり)で検索したんですよ、昨日。 この二つが錨になっているって、どういうことだろう? 出て来たのが、2018年の9月4日、台風21号が大阪を襲いましたね。 一隻のタンカーが関西空港に繋がる連絡橋に衝突しましたよね。 で、空港は長期間機能停止し、多くの人が連絡橋に船がぶつかったために、戻れなかったじゃないですか。 そして関西空港に閉じ込められましたよね。
当日、付近に停泊していた船は13隻。流されたのは6隻。 錨を降ろしていながら流されるというのを、走錨(そうびょう)と言うそうです。 錨は確かに降ろしていた。しかし、想定以上の風と波で、船が流されて行く現象を、走錨(そうびょう)と言うそうです。 関西空港の連絡橋に衝突した船には、なんと錨は二つ付いていた。
しかし、船長はその一つしか降ろしていなかった(笑)。 そこの部分は、あまり私(藤本牧師)は報道では聞かなかったように思います。 業界では二つ錨があるのに、その一つしか錨を下ろしてないで流されるのを、単錨泊(たんびょうはく)と言うそうです。 単個の、錨を、降ろして停泊する船を単錨泊という。 「悪天候の時には錨は二つ降ろす」ということを基本的に船舶業界は呼び掛けているにもかかわらず、そしてやって来た台風が想像以上であったにもかかわらず、船長の判断ミスで単錨泊していた。
私は昨日ネットで検索して、この記事を思い出して、あ、この船には錨は二つあったんだ。でも降ろしていたのは一つだけだったんだ、という落度が指摘される記事に、非常に象徴的なものを感じました。 なぜかと申しますと、私たちの教会は、コロナ期間中で全部半ばロックダウンで、私たち牧師と(※配信の)Oさんだけで行った礼拝もあるんですよ。 でもそういう期間中でも、私たちは全部オンラインで聖餐式を守りました。
で、私はオンライン聖餐に関する論文も書きましたし、それからあれはクリスチャン新聞の方でしたかね――「先生のオンラインに関する聖餐の論評を書いてください」と頼まれて書きました。 説教がオンラインでできるなら、ある程度の交わりもオンラインでできるのなら、聖餐がオンラインでできないはずはない。
そりゃ、分かります、カトリックと聖公会のある一派は、司祭が直接手渡さない限り、それは聖餐にならない、と。 プロテスタントは、少なくともそうは考えてないはずなんです。 プロテスタントが聖餐式でお祈りをするのは、パンとぶどう液のためでなく、それを受け取る一人一人のために祈るんですよ。信仰のために祈るんです。 勿論、式文の文言の中には、「このパンとぶどう液を祝福し、聖別し」という文言は入っていますけれども、圧倒的に祈りは、式文の祈りは、受け取る皆様の信仰を更新して、さらに主の道に邁進することができるように、という祈りなんですよね。 だったらオンラインで、できないはずはない。私たちはコロナ前から、いらっしゃれない方のために、オンライン聖餐を実施して来たんですよね。
【※9/6追記:オンライン聖餐について、藤本牧師の姿勢がわかる箇所がありますので、「聖日説教」(新しいHPでは教会員のページ)にアクセスして、以下の記事を併せて読んでいただければ感謝に思います。 *「天の窓」58号1ページ「徳を積む」という編集Tの記事 *「天の窓」56号の6ページ「信仰の忍耐と信仰の想像力」という藤本牧師の寄稿】
私は海外の文献を一斉に調査して、そして同じような考えの文献を集めて論文を書きました。 それでも、ほとんどのプロテスタント教会は、聖餐を停止したまんまでした。 インマヌエルもそうです。私はインマヌエルの教報にね(笑)、牧師宛てに「オンラインで聖餐しましょう」って言ってるにもかかわらず、「いや、オンライン聖餐は無理です」。 無理なら無理の理由を聞かせろですよね。 出来るんですもの。神学的にできないというのはプロテスタントではないです。
私はそういう意味で、プロテスタント教会にとって一番大切なのは、説教と聖餐です。 その二つの錨を、しっかりとオンラインの方々も降ろしていただきたい。 私はオンラインだからと言って、聖餐をいい加減に扱ってほしくないです。 それはイスラエルの人々にとって、割礼が施されていたということが、それを眺める度に、神の契約をもう一度認識するしるしだったというのが、本来なんです。 それは小さな小さな傷なんです。 しかしそれは、大いなる神の契約のしるしだったはずなんです。 イエスさまは新しい契約のしるしとして、いま聖餐を行うと言った限りにおいて、みことばを聴いて恵まれるだけではない。聖餐にあずかるというもう一つの錨を降ろしておかないと、単錨泊。 船は予想以上の風と波に流されることは十分にあるだろうなと思います。
実は錨は二つだけではないです。 賛美も錨です。祈りも錨です。自分の人生が流されそうになる時に、ま、信仰の友人による交わりも錨の一つです。 神さまは、私たちが流されることがないように――へブル人への手紙の2章の1節ですね――「押し流されないようにしなければなりません」。 押し流されないように、気をつけなさいと。そのために多くの錨を持っている。 そして、いざという時のために、それを降ろして、流されてしまうことを留めることができるのが信仰者だ、ということを覚えておいていただきたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたのみことばが、あなたの約束がどんなに真実にあふれているか、私たちも良く知っていますが、アブラハムのように時に「どのようにそれを知ることができるのでしょうか?」と。神さま、あなたはご自身の存在をかけて、誓いを立てられ、儀式を行われました。主イエスはご自身を十字架の上で、そのいのちを流すことによって、私たちのための罪の赦しを保証してくださいました。
主よ、どうか同じように、私たちもいつの間にか単錨泊で想定以上の風に流されるのではなく、いただいているその錨をしっかりと降ろすことによって、嵐を乗り切ことができるように助けてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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