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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   9/10 へブル(17)祝福は子々孫々に至るまで へブル7:1〜19
☆聖書箇所 へブル7:1〜19

1このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
2アブラハムは彼に、すべての物の十分の一を分け与えました。彼の名は訳すと、まず「義の王」、次に「サレムの王」、すなわち「平和の王」です。
3父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。
 4さて、その人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムでさえ、彼に一番良い勝利品の十分の一を与えました。
5レビの子らの中で祭司職を受ける者たちは、同じアブラハムの子孫であるのに、民から、すなわち自分の兄弟たちから、十分の一を徴収するように、律法で命じられています。
6ところが、レビの子らの系図につながっていない者が、アブラハムから十分の一を受け取り、約束を受けたアブラハムを祝福しました。
7言うまでもなく、より劣った者が、よりすぐれた者から祝福を受けるものです。
8十分の一を受けているのは、一方では、死ぬべき人たちですが、他方では、生きていると証しされている人です。
9言うならば、十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して十分の一を納めたのでした。
10というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだ父の腰の中にいたからです。
   11民はレビ族の祭司職に基づいて律法を与えられました。もしその祭司職によって完全さに到達できたのなら、それ以上何の必要があって、アロンに倣ってではなく、メルキゼデクに倣ってと言われる、別の祭司が立てられたのでしょうか。
12祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません。
13私たちがこれまで語ってきた方は、祭壇に仕える者が出たことのない、別の部族に属しておられます。
14私たちの主がユダ族から出られたことは明らかですが、この部族について、モーセは祭司に関することを何も述べていないのです。
15もしメルキゼデクと同じような、別の祭司が立つなら、以上のことはますます明らかになります。
16その祭司は、肉についての戒めである律法にはよらず、朽ちることのない、いのちの力によって祭司となったのです。
17この方について、こう証しされています。 
  「あなたは、メルキゼデクの例に倣い、
   とこしえに祭司である。」
18一方で、前の戒めは、弱く無益なために廃止され、
19――律法は何も全うしなかったのです――もう一方では、もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは神に近づくのです。

☆説教 へブル人への手紙(17) 祝福は子々孫々に至るまで

へブル人への手紙の7章の1節〜19節、かなり難しいです。
なるべく簡単に話せたらと思いますが、ぜひゆっくり聖書を見ながらついて来ていただきたいと思います。

今日お話をする前に、主の御前にまた皆さんの前に、私は謝らなければいけない、と思っております。
先週の午後、私はしばらくして、牧師生涯でこれほど落ち込んだことはない、という位落ち込みました。
それは自分が講壇で発した愚かな言葉のゆえでありました。
「私はいま本を書くために、いのちを削っている」という話で、「説教は億劫で土曜日の最後に後回しにしている」と。
なんであんな愚かなことを言ったんだろうなと思います。

私は全文原稿ですから、全文原稿が確かに仕上がるのが、土曜日の夜の11時位です。
T・Yさんにそれを送って、寝る支度をするのが習慣でありますけれども、
やっぱりああいう軽率なことを言ってしまうというのは、牧師の傲慢なんだろうと思います。
ま、そういうものに知らず知らずのうちに陥って行く自分と言うものに、非常に悔い改め、心を打たれ、
「ああ、もう40年牧師をしていて、人間というのはそういう風になっていくんだ」ということを心から反省をいたしました。

就任した1986年の6月から全部の説教は、きれいに日本語で、一字一句原稿にしています。
それは勿論愚かなことを言わないためなんですけれども、しょっちゅう原稿から離れます(笑)。
離れると大体そういう顛末になる、ということをお許しいただきたいと思います。

いのちを削っているのは、本のためだけではありません。へブル書の講解(説教)のためにも、いのちを削っています。
私は、生涯でへブル書を講解することはない、と思っていました。それほど難しい。とっつきにくい。皆さんはまさにその中にありますので、
どうか、読めば読むほど真理の深い書物でありますけれども、聖書を見ながらおつき合いいただきたいと思います。

今日で17回を数えています。よくおつき合いくださいました。

1)まず状況をお話しいたします。

へブル書の記者は、イエス・キリストを大祭司として描いている、ということはずっとお話しして来ました。
大祭司というのは、私たちを神さまの御前に立たせてくださる存在です。
しかし――大祭司というのは、アロンの系図、レビ人の系図なんですけれども――あえてそれとは違う。
旧約聖書にわずか二回しか出て来ない、メルキゼデクの話を、へブル人への手紙の記者はいたします。

創世記の14章(***18節)に出て来て、次に出て来るのは、詩篇の110篇(***4節)だったと思います。
創世記14章をもじって、へブル人への手紙の6章の20節――「イエスはメルキゼデクの例に倣って、とこしえの大祭司となられたのです」と。
「倣って」とありますけれども、これは「メルキゼデクこそがイエスである」という論法です。
メルキゼデクにイエスが倣ったのではない。アブラハムをあの時祝福したメルキゼデクは、実はイエスであった。

(へブル書)7章の1節に「サレムの王」とあります。
「サレム」という言葉は、「シャローム」という言葉があるように、平和という意味ですし、
サレムという場所はエルサレムです(***詩篇76:2)。
ですからエルサレムの王であった、という意味があります。
メルキゼデク――ゼデクというのは、義、正義、神の義(※メルキはヘブル語で王の意味)
そういう意味で、義と平和の王が、アブラハムを祝福した。

物語の流れはこういうことです。
ちょっと私(藤本牧師)話している間に、皆さん創世記14章を開いていただけると感謝でありますけれども――
アブラハムの甥にロトという人物がいました。そのロトの家族、アブラハムの家族・しもべたち同士の間に争いが絶えないので、アブラハムの方から提案をして、「別々の道を行こう」と言った時に、ロトの一族はアブラハムから分かれてソドムに住みました。
創世記の14章ですね。
ところが、そのソドムに敵国連合軍が攻め入って、ソドムの人々と財産を奪って行きました。
その中にロトと家族も入っていました。
ちょっと聖書を映していただいたら、分かると思います。(***11〜16節を読み進める)
【画面:創世記14章11節全文に黒ペンで傍線。12節「ロトはソドムに住んでいた」、14節「アブラムは」「三百十八人を」に緑のハイライト、「自分の親類の者が」以下全文に黒の傍線】
<創世記14:11〜12、14〜16>
11四人の王たちは、ソドムとゴモラのすべての財産とすべての食糧を奪って行った。
12また彼らは、アブラムの甥のロトとその財産も奪って行った。ロトはソドムに住んでいた。
(***で、アブラハムは追撃をします、と説明)
14アブラムは、自分の親類の者が捕虜になったことを聞き、彼の家で生まれて訓練された者三百十八人を引き連れて、ダンまで追跡した。
15夜、アブラムとそのしもべたちは分かれて彼らを攻め、彼らを打ち破り、ダマスコの北にあるホバまで追跡した。
16そして、アブラムはすべての財産を取り戻し、親類のロトとその財産、それに女たちやほかの人々も取り戻した。

(***そして帰って来ます。帰って来たときに、と説明を加えて)
【画面:創世記14章18節「王」「祭司」に黒ペンで囲み「パンとぶどう酒を持って来た」に黒ペンの傍線。「いと高き神の祭司」、19節全文、20節「アブラムは〜彼に与えた」に緑のハイライト】
<創世記14:17〜20>
   17・・・ソドムの王は、シャベの谷すなわち王の谷まで、彼を迎えに出て来た。
(***同時に、ソドムの王だけでなく、と説明を加えて)
18また、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。
19彼はアブラムを祝福して言った。
  「アブラムに祝福あれ。
  いと高き神、天と地を造られた方より。
20 いと高き神に誉れあれ。
  あなたの敵をあなたの手に渡された方に。」
(***とサレムの王はアブラハムを祝福します、そして――)
アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。

(***その時に、21節にソドムの王もアブラハムに言うんですね――)
【画面:創世記14章22節「アブラムは」23節「糸一本」「何一つ取らない」に緑のハイライト】
<創世記14:21〜23>
 21ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」
(***と言った時に、「糸一本」――私、昔、こういう題名の説教しましたよね)
22アブラムはソドムの王に言った。「私は、いと高き神、天と地を造られた方、【主】に誓う。
23糸一本、履き物のひも一本さえ、私はあなたの所有物から何一つ取らない。それは、『アブラムを富ませたのは、この私だ』とあなたが言わないようにするためだ。
(***ソドムがどれほど邪悪な都市であるかを、アブラハムは良く知っていましたので、「糸一本でも、私はあなたから受けない。」
代わりにメルキゼデクから受けた祝福をもって、彼は戻って行きます。)

その時の内容を、へブル人への記者は引用しながら、
アブラムを祝福したメルキゼデクはサレムの王であって、パンとぶどう酒を持って来て、「この方はいと高き神の祭司であった」と(創世記14:18)。
そして祝福の言葉が、「アブラムに祝福あれ。いと高き神、天と地を造られた方より(19)」という(言葉)。

戦いに疲れ切って帰って来たアブラハム一族でありましょう。
メルキゼデクは祝福をもって労っています。
そしてアブラムの勝利というものが、神からの勝利だったということを告げ(19〜20)、
アブラハムは、ソドムの王から糸一本さえ、もらわない(23)。
しかし、自分の持ち物から十分の一をメルキゼデク、いと高き神の祭司に捧げる(20)、という出来事を、へブル書の記者は引用して来るわけですよね。
つまり明らかに、《あのメルキゼデクはイエス・キリストであった》と言っているわけです。

これが物語の背景で、もう一度へブル書に戻ります。
これがイエス・キリストそのものであったということは、よく分かりますね。

2)系図もない、いのちの終わりもない

7章の3節をちょっと見ていただけます?では、映しますね。(※押さえながら読む。)
【画面:へブル書7章3節「父もなく〜神に似た者とされ」に緑のハイライト】
<へブル7:3>
3父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっているのです。

《父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされて、いつまでも祭司としてとどまっている、メルキゼデクこそ――伝説の祭司こそ――イエス・キリストであった》ということを言いたいわけですね。

イエスさまの場合はまだマリアを母として系図がありますけれども、
メルキゼデクに関しては一切何も記されていません。

《永遠の大祭司メルキゼデク》と、へブル人への手紙の記者は、いわゆるイスラエルの宗教システムの中の《レビ族の祭司》を対象させているわけですね。
レビっていうのは、ヤコブの十二人の子どもの一人でありました。
そこからレビ族というのが生まれます。
いいですか。イエスさまはユダ族の子孫、ダビデの子孫として生まれますけれども、別にレビ族という祭司の部族がいるわけですね。

それはレビから何百年も経た後、イスラエルがエジプトで奴隷となり、モーセを先頭にしてエジプトから出て来た時に、荒野で彼らはモーセがシナイ山に上っている間、エジプトから奪って来た金で子牛を作り、(それを神として祭り)いつの間にか子牛の周りを歌って踊っています。
その祭りに加わらなかったのが、レビ族なんですね。

神さまはそれを高く評価して、
「これから約束の地に入った時に、わたしのために仕える部族を設けたい。それをわたしのことばに忠実であったレビ族にする」と仰ったんです。
そしてレビ族の筆頭でありましたモーセの弟のアロンを大祭司にしたんですよ。
ですからメルキゼデクとは全然関係ない。
レビ族という祭司の家系が、ず〜っと長い間、イスラエルの宗教システムを守って来た。

それとは全く関係のない、メルキゼデクの祭司の延長にイエス・キリストがある、ということを彼は強調したいわけですね。
一体、そこにどういう意味があるんだろうか?と思います。
神の恵みというのは、いま私たちのところに届いているんですけれども、
しかし初期キリスト教会では、非常に難しい現状がありました。
イスラエルの人々は非常に特殊です。
例えば彼らの男性の髭の剃り方は、レビ記に規定されています。
ですから全員同じ髭の形をしています。ま、人によって生え方は違います。
それから食物の規定というのは、イカ、タコ、エビ、カニは一切ダメです。
海に住むものでウロコのないものはダメですから、たとえばウナギもダメです。

というように、食物規定から髭の生やし方から、年間の祭りごとから全部、均質と私は呼びますけれど、質が同じで、種類が同じで、外のものは一切寄せつけないというのがイスラエルでありました。
教育、成人式のあり方、結婚年齢、許嫁(いいなずけ)という結婚方法――つまり子どもが生まれて間もなくして、親同士が結婚相手を決めてしまう――というのは今でも古い古い伝統の中には存在しています。
その中心にレビ族がいたわけです。
つまり祭司の職、それから律法、そして宗教のシステムの中心にレビ族はいた。

となりますとね、イエスがもしレビ族から出ていたならば、キリスト教は生まれないですね。
結局のところ、イエスの十字架の贖いも全部祭司職の中に、レビ族の中に取り込まれてしまうことになります。

パウロはこのイスラエルの宗教システムを飛び越えて、「異邦人もまた神の恵みにあずかる」と言った時に、パウロは何を用いました?
パウロは《信仰》を用いたんですよ。
《アブラハムが神の義とされたのは、神と契約を結ぶ以前のことであった》と。
ある夜、アブラハムを夜空の下に連れ出して、「空の星を見よ。あなたの子孫をあのようにわたしは祝福する」と(神が)仰った時に、「アブラハムは信じ、そして神は彼を義とされた」と書いてありますでしょう?
そして、それは前回見ました契約、誓いの契約、ありましたよね?
動物を二つに切り裂き、その間を通る。そしてアブラハムたちには包皮を切り裂く(※割礼)という、切るという儀式をさせる。
(※律法の規定より)《それ以前に、神はアブラハムを義とされた》というのは、パウロの使い方なんです。

ですから、神が人を義とするというのは、信仰のゆえであって、イスラエルの祭儀システムのゆえではない、と言ったんですね。
それがもうガラテヤ人への手紙にも、ありとあらゆる書簡に出て来て、
当時《キリスト教はユダヤ教の一部に過ぎない、一部でなければいけない、というものの考え方から切り離して、異邦人伝道へ》とパウロは向かって行ったわけです。

じゃ、信仰ではなく――勿論信仰もそうなんですけど――へブル書の記者は何を鍵として使ったかと言いますと、《永遠の大祭司メルキゼデク-――イエス・キリスト》です。
この方はイスラエルの宗教制度の中に入ってないんですよ。
しかも最も偉大とされるアブラハムを祝福し、なおかつアブラハムは持てる物の十分の一をメルキゼデクに捧げたと言うのですよ。
すると、アブラハムから始まる、ず〜っと下ったイスラエル国家が生まれる以前、アブラハムはイエス・キリストと関係を持ち、信じ、イエス・キリストに信頼し、イエス・キリストから祝福を得て、その祝福の感謝として、イエス・キリストに十分の一を奉げた。
だからイスラエルの宗教システムを、私たちが使う必要はない、というのが、へブル書の記者のものの言い方なんですね。

ではちょっと見ていただきましょう。いいですか?
ですからレビ族の祭司職からキリストの祭司職に変わったら、律法は不要だと。12節にありますよね。
【画面:へブル7章12節「必ず律法も変わらなければ」に緑のハイライト】
<へブル7:12>
12祭司職が変われば、必ず律法も変わらなければなりません。

それから18節で、【画面:へブル7章18節「前の戒めは」以下全文、19節全文に緑のハイライト】
18一方で、前の戒めは、(***旧約聖書の律法です)弱く無益なために廃止され、
19――律法は何も全うしなかったのです――もう一方では、(***キリストがすべてを全うし、キリストを信じる者が)もっとすぐれた希望が導き入れられました。これによって私たちは(***キリストの祭司職のゆえに)神に近づくのです。

という風に、やっぱりパウロと同じように、律法の否定が、ここ(※12節を指差して)にもあり、19節にもありますでしょう。
イエスさまは福音書で仰いましたよね。「わたしは律法を廃止するために来たのではない。一点一角まで、わたしはそれを成就する」と(***マタイ5:17)。

イエスさまは平〜気で律法を破りますよね。安息日律法がそうですし、一番見事に破られたのが、先程申しました食事規定でありました。
あの食事規定なくして、イスラエルのアイデンティティはないんですよ。
だけどそんなものをアイデンティティにしているのか?あなたが何を食べるかであなたの心が汚れるのではない。きよめられるわけでもない。
あなたの心のうちにある物が、あなたの外に出て、あなたを汚す。(***マタイ15:18〜20)
ですから、きよめと汚れというのは、何を食べるかの問題ではない。それはあなたの心が一体どういう状態にあるのかで決まる。
という風に全部ひっくり返していきますよね。

そういう意味で、へブル書の記者が、「前の戒めは、弱く無益なために廃止された」(へブル7:18)というのは、それは旧約聖書においては意味があったでしょう。
しかしキリストが新たに神への道を開かれた時に、もはや私たちは律法に縛られているのではない、ということなんですね。

3)ほんの短くですけれども、実は私は今日は特別にこの3番目のポイントに目を留めていただきたい。

それが非常に短く出て来ますけれども、7章の9節です。ちょっと開きますね。見ていただきます?奇妙な言い方です。
【画面:へブル7章9節「レビでさえ」以下全文、10節「父の腰の中にいた」に緑のハイライト】
<へブル7:9〜10>
9言うならば、十分の一を受け取るレビでさえ、アブラハムを通して十分の一を納めたのでした。
(***民族から、すぐれた祭司の族としてレビ族は十分の一の税金をいただけるんですよ。
ところがこのすぐれたレビでさえ、実はアブラハムがメルキゼデクに十分の一を奉げたことによって、アブラハムを通して十分の一を既に奉げている。もう一つ10節に――)

10というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、(***創世記14章ですね、そのとき)レビはまだ(***生まれていない、でも)父の腰の中にいた(***という表現にしてあるわけです)からです。
(***実は父の腰じゃないですよ。曾祖父(ひいおじいさん)の腰の中にいたんです。
アブラハム、イサク、ヤコブ、レビですから4代目じゃないですか。)

そうすると、ものの言い方としてね、メルキゼデクがアブラハムを祝福したというのは、4代先のレビまで祝福したという意味になるじゃないですか?
逆に、アブラハムが十分の一を献金したというのは、4代先のレビまでも神に奉げたってことになりません?

私(藤本牧師)はこれに注目したいんだということを、今日は短くほんの三分話して終わりにしたいと思うんですね。

昨年ですね、松本健次郎さんが100歳で天に召されました。
コロナ禍で、お見舞いにも行けませんでした。
葬儀の席で、健次郎さんのお嬢さん、Mさんたち、それからTNさんの子どもたち、つまり健次郎さんのお孫さんたちも集まっていました。
KMさんはご自分の孫もいますので、健次郎さんから言えば、曾孫さんたちも集まっていたことになります。

Mさんのお嬢さんは大変信仰的な家族を形成しておられまして、そこで私は初めてお会いしまして挨拶をしました。
私、Mさんにね――Mさん、そこに住んでいらっしゃるんですよ。松本家が一番近い。その次がO家で、O家はよく松本家のことを知っていらっしゃるんですけれども――こう尋ねたんですね。
「申し訳ないんだけれども、私、何も知らない。松本家の誰が一番先に信仰を持ったのか?」

私が小学生だった時に、既にKMさんとTNさんは教会学校の生徒でしたから、もしかしたらMさんが最初だったの?それからお母さん、Nさん、それからおじさんの興四郎さん?興四郎さんが亡くなってから、亡くなった弟の信仰を継ぐために健次郎である私が来ます、って言って、あの百歳(で亡くなった)健次郎さんが洗礼を受けて教会に来るようになったんでしょう。
一体誰が最初だったの?って話になった時に、KMさんが教えてくれました。
それは驚く話でした。

健次郎さんには、上のお姉さんがいらっしゃった。
ということはKMさんにとってはおばさんですね。
おばさんが最初に信仰を持ったというのは、その時代、(藤本牧師の父)栄造の前、竿代忠一牧師でした。その前に佐藤勇先生がいらっしゃいました。
佐藤勇先生の時代に、そのおばさんが信仰を持った。
その信仰がピカ一だったと、それはNさんも仰ってました。
へえ、そうなんだ。

おばさんはピカ一の信仰を持って、しばらくして1960年代位じゃないですかね、瀬戸内海の島にあるハンセン病に施設に、ハンセン病の方々の世話をするために渡って行った。
当時ですから、戸籍を抜いてしまわれたかもしれません。患者さんは戸籍を抜きますよね。
だからお世話する方も抜かれるんじゃないですか?
そしておばさんとは、それ以来会ってないということを仰ってました。

それは、高津教会の一番星の信仰ですよ。
その方の信仰、そしてその方が受けた神の祝福が、アブラハムからイサク、イサクからヤコブ、ヤコブからレビのように、代々と引き継がれていくというのはどういうことなのか?
みんな熱心な信仰者になった、という意味では必ずしもないです。
でも神さまは忘れずに、この代々に現れるんですよね。
ヤコブはなんと兄を裏切って逃亡するハランの野でいきなり神さまがヤコブに現れる。
ヤコブは大した信仰を持ってなかった。(※創世記28章)
初めて神さまを信じるわけでしょう。
だけど、神さまはアブラハムの家系を忘れていない。
私は不思議だなぁと思います。

その瀬戸内海に渡っていらっしゃった松本さんのお姉さんの信仰というのは――家族全員に行き渡り、お孫さんにも行き渡り、いやそうでなく、高津教会全員をどこかで生かし、私たちもその方の家族の一員としてここに生きている――というのが、メルキゼデクとアブラハムの出会いではなかったのか?
私たちにもメルキゼデクは現れ、私たちもまたメルキゼデクに奉げ、奉げることによって、私たちの子孫、私たちの家族も神さまに覚えていただくということを、忘れないようにしたいと思います。

☆お祈りをして終わりにいたしましょう――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、あなたの契約は実に不思議です。私たちが何かしたがゆえではなく、時に私たちの何代目の先の誰かが、或いは高津教会の一番星があなたに特別な信仰を奉げたがゆえに、あなたは私たちを忘れずに私たちに現れてくださいました。

そのようにして、私たちが不思議に教会家族に招かれたのも、もしかしたら松本さんのお姉さんのゆえであったのかも知れないと思うほど、そして私たちの心の願いは、私たちもまたそのような輝きを持つ信仰者になって、私たちの家族子々孫々に至るまで、あなたの恵みから漏れることがないようによろしくお願いいたします。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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