☆聖書箇所 へブル7:20〜28
20また、神による誓いなしではありません。レビの子らの場合は、神による誓いなしに祭司となっていますが、 21この方は、ご自分に対して言われた神の誓いによって祭司となられました。 「主は誓われた。思い直されることはない。 『あなたはとこしえに祭司である。』」 22その分、イエスは、もっとすぐれた契約の保証となられたのです。 23また、レビの子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、 24イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。 25したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。 26このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。 27イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。 28律法は、弱さを持つ人間たちを大祭司に立てますが、律法の後から来た誓いのみことばは、永遠に完全な者とされた御子を立てるのです。
☆説教 敬老祝福:へブル(18)私たちにとってまさに必要な大祭司
へブル人への手紙の、私は週報に間違って(17)と書いてしまいました。で、最後原稿を仕上げる時に、(18)ということに気がつきまして、週報を刷った後で極めて申し訳ないんですが、18回目になります。 よく元旦礼拝から付き合ってくださいました。
前回、7章の初めにこう始まりますよね。ちょっと聖書を映しますね。 【画面:へブル7章1節「サレムの王」6章20節「イエスは」「メルキゼデクの例に倣」「とこしえに大祭司」に緑のハイライト】
<へブル6:20〜7:1> 20イエスは、私たちのために先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司となられたのです。 1このメルキゼデクはサレムの王で、いと高き神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。
ま、時代が違いますので、「例に倣って」というものの言い方をしていますけれども、実際、へブル人への手紙の記者は、《このアブラハムを祝福したメルキゼデクこそがイエスであった》という内容です。 1節で「サレムの王であった」―――「サレム」というのはエルサレムのそもそもの名前で平和。 メルキゼデクの「ゼデク」という言葉は、「義」を表しますから、「義と平和の王、イエスがアブラハムを祝福した」。 イエスさまご自身、そのことを仰っておられます。
伝説の祭司メルキゼデクというのは、アブラハムがまだアブラムの時に、ソドムを襲った敵国が甥のロトの家族ごとさらって行ったんですよね。 それを連れ戻すために、318人のしもべをもって追撃し、全員奪還して戻って来ました。 その時ソドムの王も、アブラハムに感謝の意を表します。 で、(ソドムの王の)贈り物をアブラハムは断ります。
そこに同じようにサレムの王メルキゼデクがいました。 メルキゼデクは神の祝福をアブラムに施し、そしてアブラムは勝利と祝福の感謝に、十分の一をメルキゼデクに献げます。
この伝説の祭司こそが、7章の3節をご覧いただきますと、「父もなく、母もなく、系図もなく、生涯の初めもなく、いのちの終わりもない」という、永遠の大祭司イエスであったということを、へブル人への手紙の記者は言いたいわけですよね。いいですか?
前回、旧約聖書にメルキゼデクは二回しか出て来ない、と申し上げました。 1回は、先ほど言ったアブラハムの関わりで出て来る創世記の14章です。 もう一回は、詩篇の110篇です。 そこを一緒にご覧いただいて、話を始めていきたいと思います。 詩篇の110篇。短い詩篇ですので、見ていただき、私(藤本牧師)の方で読んでいきます。
【画面:詩篇110篇1節「【主】は、私の主に言われた」、4節全文に茶色の太い傍線】 <詩篇110:1、4> 1【主】は、私の主に言われた。 「あなたは わたしの右の座に着いていなさい。
(※1節を指で押さえながら説明する藤本牧師) この【主】が、太文字になっていますよね。これはヤハウェを指します。 ですから、父なる神は、私というのは――ここに「ダビデによる。賛歌」と書いてありますよね――ダビデの主に言われた。 イエスは、この「主」というのはだれのことなんだ?と言って、ご自分を指差します。 ですから、父なる神が子なる神イエスに言われた。
「あなたは わたしの右の座に着いていなさい」というのは、神の権力の座に着くイエス・キリスト。 十字架にお架りになった後に、天に上り、神の右に着座されたイエスは王なる方だ、ということは、ここで既に明確になされているんですけれども、 へブル人への手紙の記者が引用したのは、この(詩篇110篇)4節です。
4【主】は誓われた。思い直されることはない。 「あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である。」
この「とこしえの祭司」というタイトルを、神は既に詩篇110篇で与え、 それはまさにメルキゼデクのことであり、イエスのことであり、 へブル人への手紙でその言葉が引用されているわけですね。
【主】は、ヤハウェは、父なる神は、私ダビデの主イエス・キリストに言われた(詩篇110:1)。誓われた。(***あえて4節で「誓われた」)。 「イエスこそがとこしえの祭司である」と誓われた、というのは、永遠性を持っている、という意味です。変わることのない永遠性を持っている。 詩篇の110篇でもヘブルの7:21でも同じです。 「思い直されることはない」ってことは、《キリストが永遠の大祭司であるということは、決定として変わりがない》という永遠性を持っている。
すると、旧約聖書のレビ人の祭司とは次元が明確に異なって来る、ということを強調したいわけですよね。 へブル人への手紙の7章に戻っていただきますと、23節にはこういう風にあります。 <へブル7:23> 23また、レビ(***祭司の部族、と説明)の子らの場合は、死ということがあるために、務めにいつまでもとどまることができず、大勢の者が祭司となっていますが、 24イエスは永遠に存在されるので、変わることのない祭司職を持っておられます。
イエスに変わることがない、ということは、イエスを信じる者も変わることがない、という意味です。 勿論私たちの身体は先程の詩篇71篇のように、若い頃から老いに至るまで様々に変化しますけれども、 《イエスに変わることがない、ということは、イエスに信頼する者もまたとこしえのいのちを持ち、変わることのない存在になる》ということをへブル人への手紙の記者は強調したいわけですね。 それに基づいて、短く3つのポイントでお話をいたします。
1)とりなしの祈り
この「とりなしの祈り」というのは、大祭司の職の最も尊い仕事です。 私たちも一般的に、「とりなしの祈り」という言葉を使います。 キリスト者にとって、祈りは様々です。 先ず自分自身のために祈る。或いは家族のために祈る。 大きく言えば、世界のために祈る。信仰のために祈る。正義のために祈る。 そしてよく聞く「とりなしの祈り」です。 「とりなしの祈り」というのは、それが家族であろうが、世界であろうが、他人のためにその重荷を自分自身が担って、 その人に変わって、その問題を自分が代表するかのように、神さまの憐れみを乞う祈りを言います。
高津教会の働きでは、天に召された大山さん、そしてMさんが率いてくださった日曜日の(第一聖日の)礼拝後にありました、祈りの会のグループの働きが「とりなしの祈り」でありました。 祈るべき人の名前と状況のリストが全部書いてあって、教会の掲示板のところに貼ってありました。 私たち牧師でさえ、皆さんの状況を知るために、Mさんのリストを読まなければいけない程(笑)、どういうわけかMさんの所にも大山さんの所にも、教会の細かな状況が届くわけです。 誰が入院しているのか、誰が病気なのか、誰が受験生なのか、そしてそこのリストに名前が挙がるというのは、恥ではない、特権なのですよね。
Mさんは、コロナの少し前に北海道に単身赴任になりまして、 でもコロナ禍でも北海道から月に一回は帰って来て、その「とりなしの祈り」のリストを新しくするために、毎月一回帰って来られました。
霊的に一番尊いのは、大祭司がする所のとりなしの祈りです。 皆さん、一大事がありましたら、私たちか或いはMさんに連絡を取り、この「とりなしの祈り」のリストに入れていただけると幸いだと思ってください。
私は名前が挙がっている方々に、知っていただきたいと思うんです。 あなたの名前が呼ばれて、永遠の大祭司に繋がる高津教会の小さい祭司たちが、あなたのために祈るというのは、特別なこと。 名前が挙がるというのは、自分の弱さのゆえに挙がるわけですけれども、しかし名前が挙がるということは特権です。
ピーター・グリーブというハンセン病について、様々な記録を記しているイギリス人がいます。 彼は以前インドに滞在中にハンセン氏病にかかり、視力を失い、身体が最終的に麻痺した状態でイギリスに戻ります。 そして英国国教会、聖公会のシスターのグループが運営する施設に、彼は暮らすことになります。 働くことができずに、社会から見捨てられてどん底を歩いていた彼は、自死を考えて、施設から去ろうと考えて、無気力に暮らしていました。
ある日、彼は朝早く起きて、施設の庭をぶらぶらしていた時に、何かぶつぶつぶつぶつ念仏を唱えるような声が聞こえて来ます。 彼はその声を追いかけて、辿り着いた先は、施設の礼拝堂でありました。 そこでシスターたちは、壁に書かれた患者さんの名前を挙げて祈っていました。
ピーター・グリーブは、そのリストの中に、壁に自分の名前が記されていることに、電撃のような衝撃、神の愛の衝撃を感じた、と記しています。
その時、彼は初めて自分という存在に気がついた。 自分は嫌われているのではない。疎まれているのではない。自分は望まれている。 自分は呪われているのではない。自分は恵みを受けているのだ。
「とりなしの祈り」のリストに入るということは、高津教会で最も大切にされている人になったという意味です。 水曜日の祈祷会の夜に、私たちは様々な人の名前を挙げて、同じように「とりなしの祈り」をします。 聖書はわずかに講解されるだけです。 むしろ祈りの方に集中しますけれども、それは自分の信仰のためでもありますが、 しかし苦しんでいる人、入院している人のことを覚えて、あえてその人の名前を挙げるということは、教会の特権であり、 そして自分の名前がそこに挙がった時に、自分は誇りにしなければいけない。 なぜなら、自分は教会の人に大切にされている存在だということですね。
私(藤本牧師)は先週火曜日に、ぎっくり腰をやりました。久しぶりに。 10段階の中で7か8位で、あ、これはやばい、と思いましたね。 それは今日の午後に、高橋正義さんの納骨式が入ってますので、ご家族が集まる中、礼拝と納骨式両方、無理かもしれないと。 で、皆さんにお祈りをしてもらいました。 で、ほぼ癒やされた。ほぼと言うか、完璧に癒されました。 勿論、フィリピン滞在の(※整体師)YK君に助けていただいた、という所もあるんですけれども。 このようにして、祈ってくださる人がいる、自分のために。 それは自分が、言うまでもなく、望まれて高津教会に存在しているということなんだ、ということを、ぜひ心に捕らえて、他人のことを祈るだけでなく、自分のことを祈ってもらえる存在になっていただきたいと思います。
先週お話ししました、今私たちの愛する姉妹が、非常に強い抗がん剤の治療を受けていらっしゃいます。 聖書を開く力もないかも知れません。食欲も落ちて、うずくまっているかも知れません。 でも私たちはこの姉妹のためにとりなします。 「イエスさま、どうかこの方を憐れんで、この方を受け止めて、あなたの御手の中にこの方を治めてください、助けてください」と祈ります。
2)26節を見てください。
<へブル7:26> 26このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
「まさに必要な方です」(***二回繰り返す) 福音書の記述の中で、先日、戸塚先生が扱ってくださいましたけれども、最後の晩餐でイエスさまがペテロに言います。 「サタンがあなたをふるいにかける。(あなたは)わたしを三度否む。」 にもかかわらず、それはイエスさまの予告であり警告であったにもかかわらず、ペテロはその通り、三度否みます。 私(藤本牧師)はあの記事を見る度に、私たちの人生ってこういうものなんだろうなって思います。 つまり様々な予告も忠告も受けるじゃありませんか。
「もっと努力しなさい」という予告もあれば(笑)、「もっと気をつけなさい」という忠告もあれば、「こういう薬飲んでいると、胃がやられますよ」というお医者さんのアドバイスもあれば、「そういう生活をしていると、だんだん足腰が弱くなりますよ」とか、「あなたの態度は周りを傷つけますよ」という予告もあれば、「あなたの信仰は」という忠告もあるんだろうと思います。
そういうことを全部知っているのであれば、もう少し自分を改善して、その通りにならないように努力すればいいのに、どういうわけか、その通りになる(笑)。 ね、皆さん、そういう経験ないですか? 自分はあすこで予告されたから大きく変わり、その通りにはならなかった、ではなく なんだ、やっぱり、その通りになってしまう、という。
ペテロの場合、直接に「ペテロ、あなたは」とイエスさまに予告されていたら、もう少し考えてもよさそうなものなのに、何も三回ではなく、「私は一回しか否定しませんでした」じゃないんですよね。 見事に三回、否定するんですよ。否定した後で、「その通りになったんだ」ということを、彼らは涙を流して悔い改めるんでしょう。 でもやっぱりその通りになってしまうんですよ。
それほど、私たちの人生の力が弱いとすれば、信仰が弱いとすれば、 一体ペテロは何によって明日に向かっていくことが出来たのか?自分の人生を立て直すことが出来たのか? それはイエスさまが仰った、ルカの福音書の22章の32節―― 「しかし、わたしはあなたのために、(あなたの信仰がなくならないように)祈りました。」 もうそれしかない。
私たちの人生は、たとえば医者が余命一年ですね、というと、一生懸命祈って余命が二年になる時もあれば、それが完治する場合もあるでしょう。 でも、ほとんどのケース、やっぱり言われた通りだなということの方が、私の経験から言えば圧倒的に多い。 ああ、やっぱりそうなんだ。
そういう中で、それを覆す、或いはその通りになったとしても、それで終わらない。 その通りになったとしても、永遠のいのちに希望を繋げ、また残された者が神の恵みと信仰の中を生き抜いていくことができるとすれば、 「その通りになるよ。しかし、わたしはあなたのために祈った」というイエスの(とりなしの)祈り以外にないですよね。
ですから私たちの人生というのが、最悪の予告を受けたとして、その通りになったとしても、永遠の大祭司イエスが私たちの重荷を担ってとりなしてくださる、ということに気づくこと、すなわち、その方こそ、(へブル7章)26節の最後、「私たちにとってまさに必要な方です」。 「まさに必要な方」――その自覚を持っているということがとっても大切なんだ。 私にとって何が必要なんだろうかと思って、私たちはインターネットを検索し情報を集め、色んな人に相談しますけれども、 あなたにとってまさに必要な方がおられるとしたら、この方以外にないんですよ。 それは、どんなに予告され、警告されても、やっぱりその通りになってしまう中、それでも私たちを捕らえ、掴み、引き出し、私たちに希望と力を与えてくださる方、この方こそが最も必要な方なんです。 そのことをイメージするということは、私はとっても大切なんだろうと思います。
3)27節を見てください。
<へブル7:27> 27イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。
***旧約聖書の祭司は、まず自分の罪のためにいけにえを献げ、その次に民の罪のためにいけにえを献げ、そしてそれを毎日する。その必要はない。
27(続き)・・・イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。
「ただ一度で」というのは、へブル人への手紙のキャッチフレーズで、後に何度も出て来ます。 「ただ一度で」というのは、英語ではonce and for allです。 「一度」っていうのは回数のことなんですけれども、回数を表すよりも《once and for allで完了》を表します。 完了していなければ、何度でもそのことをしなければいけない。
しかしイエスの十字架というのは、私たちの罪の贖いのわざを完了した。 イエスさまも十字架の上で「完了した」と仰いますよね。(***ヨハネ19:30) ですからへブル人への手紙では、(7:27)「そのことを成し遂げられた」と書いてあります。 ですから「一度」という言葉は回数の問題ではなく、 贖いのわざは私たちの罪を担う、私たちの負い目を担う。私たちの失敗を、私たちの恥を、足りなさを担うという働きは既に完了しているんだ、ということをへブル人への手紙の記者は強調したいわけですよね。
(イエスさまの大祭司性は、贖いの働きは、完了している。) 恐れることはありません。変わることのない、途切れることのない、動かぬ大地のように、いつもそこにある、 イエスの十字架はいつもそこにある。あなたのためにそこにある。 人間の大祭司のように、繰り返し繰り返しいけにえを献げているお方ではない。
十字架は、前回震災を覚えて、讃美しましたよね。(※福436 遠き国や) 「いかなる海の果てにあっても、いかなる波を受けても、風を受けても、地は揺れ動き、燃える火の中にあっても、イエスの十字架は変わらずに、私のために、あなたのために、そこに立っている」 ということを表現したかったのが、この27節なんです。
「ただ一度で、既に成し遂げた」(へブル7:27)と。 大切なことがすぐに見えて来ると思います。 それは私たちは、この揺れ動くことのないイエスの十字架に、手を伸ばす。 そして一言祈る――「主よ、私をあわれんでください」。
なかなか、とうとうと長い言葉をもって祈ろうとしますと、祈りが祈りにならないということはまま、私(藤本牧師)の場合はあります。 ま、それは反省すべき点が多いのか(笑)、課題が多いのか分かりませんけれど(笑)、祈りという言葉を口に出してず〜っと繰り返していますと、この祈りはどこに行っちゃうんだろうって思う位、永遠に川のごとくに流れていく。
しかしもし真実な意味で、イエスさまに祈るって言うんならば、 揺れ動くことのない大地は揺れ動き、火は燃え、海は騒ぎ、しかしそういう中で、 揺れ動くことのない十字架に手を伸ばし、その十字架はあなたのためにある。 「主よ、どうか私をあわれんでください」で、正直祈りは完結している。 なぜなら、なぜなら、イエスの十字架は完結しているからですね。
私たちの祈りにとって、最も必要なことは、「主よ、あわれんでください」、 「あの方を」 「私の家族を」 「今この難しい課題に当たっている私を」 「今この病に苦しんでいる自分を」 「主よ、どうかあなたの十字架のゆえに、あわれんで天から恵みを注いでください」です。
☆ご一緒にお祈りをいたします。――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、今日は敬老の聖日で、私たちがしばらくお会いしていない方々、また施設におられる方々、病院で闘っておられる方々のお顔を見ることはできません。しかし主よ、あわれんでください。 そしてこの地は揺れ動き、やがて全地が滅び去る時でさえ、決して滅びることのない十字架に手を伸ばして、私たちは短く願います。 「あの方を、私を、あわれんで、あなたの力と共に行かせてください。苦労多き、矛盾多きこの人生、足りない小さな人生でありますけれども、あなたの力と共に行かせてください」 という静かなしっかりとした思いを描くことができるように、私たちを憐れんでください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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