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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   12/10 アドベント(2)【へブル(24)辱めをものともせずに】へブル11:23〜31
☆聖書箇所 へブル11:23〜31

 23信仰によって、モーセは生まれてから三か月の間、両親によって隠されていました。彼らがその子のかわいいのを見、また、王の命令を恐れなかったからです。
24信仰によって、モーセは成人したときに、ファラオの娘の息子と呼ばれることを拒み、
25はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
26彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。
27信仰によって、彼は王の憤りを恐れることなくエジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、忍び通したのです。
28信仰によって、彼は長子を滅ぼす者が自分たちに触れることがないように、過越の食事をし、血を振りかけました。
29信仰によって、人々は乾いた陸地を行くのと同じように紅海を渡りました。エジプト人たちは同じことをしようとしましたが、水に吞み込まれてしまいました。
30信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、その城壁は崩れ落ちました。
31信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました。

☆説教 アドベント(2)【へブル(24)辱めをものともせずに】

アドベント第2週のメッセージはへブル人への手紙の連続講解の24回目であります。
私はこの第2週の説教を、今日をもちましてヘブル書の講解をひとまず閉じたいと考えています。
来週(17日)、それから24日の日は、クリスマスのメッセージをさせていただいて、
元旦から「サムエルの生涯」、今年一年間、新約聖書でしたから、来年なるべく旧約聖書の方に触れたいと思います。
書家のM姉にはすでに元旦メッセージの聖書箇所をお送りして、「Wさん、よろしいですか(笑)また栞にしていただいて?」よろしくお願いいたします。元旦の礼拝でお渡しすることができると思います。

11章は信仰の章、そしてアドベントに最もふさわしい。
私(藤本牧師)は秋頃から、あ、終らないなぁと思ってました。
戸塚先生が、先生の(説教担当の)分を私にくださって、「なんとか終わるようにしましょうか?」って、「いや、結構です」(笑)と、「もう、終わらないなら終わらないでいいです」と。
でもそこからちょっとタイミングを合わせまして、今日のこの11章で終わるように、しかもそれがアドベントのメッセージになるように調節して来たつもりであります。

最初に(へブル書)10章の39節を見ていただきたいと思います
10章の39節、映していただきますが、前回ですね、こういうみことばを見ていただきました。
(※前回、10:39で、10章までの要約を見るような聖句を見ました。)

【画面: 36節「約束のものを手に入れるために必要な」「忍耐です」にオレンジのハイライト。37節「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる」39節「恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」にピンクのハイライト】

<へブル10: 36〜39>
36あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。
37 「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。・・・
39しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

「信じていのちを保つ者」(39)は、36節の「約束のものを手に入れるための忍耐」を培っています。
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる」(37)
そこまでの「忍耐です」(36)。

その忍耐は、言い方を変えると、信じて待ち望むことになります。
これがアドベント、待降節のテーマです。

そして、11章は、まさに神の救いを、神の到来を忍耐をもって待ち望んだ人々です。
【画面:へブル11章1節全文にグレーのハイライト】
1さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
2昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。

「昔の人たち」(2)のリストが上がって来ます。
「昔の人たち」というのは、旧約聖書の人々です。
旧約聖書の人々というのは、キリストの降誕を待ち望んでいた。
救い主の訪れ、そして彼らはユダヤ人でありましたので、イスラエルの回復、或いは「天の都」を待ち望んでいた。

私たちが待ち望むのは、既に来られたイエス・キリストだけでなく、再び来られるキリストを待ち望む、という意識でへブル人への手紙は記されています。
その時に始まった神の国は、完成を迎える。その完成に向かって待ち望んでいます。
勿論キリストの再臨を前にして、私たちはこの世の生涯を閉じるかも知れません。
でも、それとて、イエス・キリストが迎えに来てくださるのを、私たちは忍耐をもって待ち望む、という点では、私たちは毎年、毎月、アドベントであります。

「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」(1)、「昔の人たちは、この信仰によって称賛されました」(2)とありますね。
つまり信仰は待ち望む、常に未来志向的だ、ということで「キリストを待ち望んでいた」と解釈すれば、へブル書の記者はすべて「信仰によって」「信仰によって」と、
3節は、神の創造の出来事を信じる私たち、4節はアベル、5節はカイン、7節はノア、8節から少し長くアブラハム。
そして今日は23節を読んでいただきました。

9章位からず〜っと一緒に見て来ましたけれども、へブル書簡というのは古い契約と新しい契約の比較ですよね。
《新しい契約の完全さ、それゆえに古い契約の不完全さ》のみならず、「古い契約は去って行かなければならない」ということを、再三再四へブル人への手紙の記者は強調していました。
開きませんけれども、(へブル)8章の13節、もしご覧になれば、

13神は、「新しい契約」と呼ぶことで、初めの契約を古いものとされました。(***古いものとしたのは、私たちではない。神が旧約を古いものとした。)年を経て古びたものは、すぐに消えて行くのです。

と聖書に記されているでしょう。
ですから旧約聖書にあんまり傾き過ぎますと、私たちは新約聖書の福音を忘れてしまう、という落とし穴にはまってしまう。
ですから、旧約聖書を常にキリストの視点から、福音の視点から読み直すということは必要なんですね。
勿論、キリスト教会は古い契約を不要なものとして、捨ててしまったわけではないです。
それは古い契約がなければ、新しい契約の意味を理解することはできません。
そして古い契約の中には、キリストを待ち望みながら、神に信頼した人々の証しが沢山出て来ます。

古い契約が分からなければ、新しい契約が分からない。その典型が十字架です。
旧約聖書の贖いがなければ、キリストの十字架というのは、単にローマの極刑にしか見えない。
でも《そのローマの極刑が私たちの完全な贖いとなった》ということは、古い契約に照らし合わせて初めて理解することでありますよね。
イエスさまご自身が仰ったように、「旧約聖書は、わたしを証しするために記されている」と。
つまり、キリストがどのようなお方であるのか、というのは、旧約聖書に出て来る神の力、神の約束、神の真実さというものを理解しない限りは、私たちはキリストの存在というのを見て取ることは、読み取ることはできないわけですよね。

そして、(へブル書)11章に来まして、今日読みますけれども、旧約聖書の主だった人々を挙げながら、へブル書は、《旧約聖書を生きた人々が、まさに信仰によって待ち望む人であった》ということを記しているわけです。

(へブル書)11章の4節を見てください。ちょっと映しますね。
4節の最後、私たちは良く引用しますよね。――
【画面:へブル11章4節「彼は死にましたが〜語っています」にグレーのハイライト「その信仰によって今もなお語っています」に水色の傍線】
<へブル11:4>
4・・・(最後)彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。」

それは来年共に学ぼうとしているサムエルもそうです。
古い契約の古い人です。そして、もう死にましたが、《その信仰によって、今なお語っている、その信仰を》今日はモーセから見てみたいと思います。

で、11章も非常に広い。そしてモーセの生涯だけでも非常にありますので、私(藤本牧師)はもう一点勝負で、ここを一緒に見ていただきます。それは、
【画面:へブル11章26節全文にグレーのハイライト】

<へブル11:26>(※指でなぞり、説明しながら読む)
26彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。

これはモーセです。ここに「キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考え、それは、与えられる報いから目を離さなかったからです」というこのみことばが、《へブル人への手紙の講解説教の最後のみことば》だと受け取ってください。
「キリスト」という言葉が、11章で唯一ここに出て来ます、モーセの個所で。そして、これは非常に興味深いですね。

短く2点、お話しをいたします。

1)キリストのゆえに受ける辱めって、なぜモーセがそう言えるのか?

ファラオの息子の一人として、エジプトの王宮で育てられたモーセは、「エジプトの宝」(へブル11:26)、エジプトの地位に心を向けませんでした。
なぜなら、彼は、「それよりはるかにまさる大きな富」、「与えられる報いから目を離さなかったから」(同26)ですね。

「与えられる報い」(へブル11:26)とは、いったいどのようなものか?
それは、アブラハムのところで出て来る「天にある都」ということでしょう。(***へブル11:16、天の故郷)
地上にある太陽の都・エジプトの都でなく、「天の都」を夢見て、モーセは地上生涯を生き抜いて行きます。
しかし「天の都」に自分を迎え入れてくれるのは、キリストの贖いのゆえです。
ですから、キリストの贖いがないなら、アブラハムもまたモーセも、「天の都」に入ることはできないです。

「天にある報いから、目を離さなかった」(11:26)とか、へブル人への手紙の記者にとってみると、「キリストから目を離さない」(12:2)っていう意味になります。
それを考えますとね、私たちが恐らく《へブル人への手紙の中心聖句》と考える、ちょっと見てください。12章2節です。この言葉と非常によく似てるんですね。

【画面:へブル12章2節「信仰の創始者であり〜目を離さないでいなさい」にオレンジのハイライト、「ご自分の前に置かれた〜着座されたのです」にグレーのハイライト】
<へブル12:2>
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。(***モーセはまさに目を離さなかった、と説明。)この方はご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

先程(11:26)のモーセと言葉が非常に重ねられているでしょう。
(※また12:2を読みながら説明)
それは「目を離さない」とか、それから「ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに(***忍耐する、と説明)十字架を忍び、(***そして最終的に神の報いとして、と説明)神の御座の右に着座されたのです(***という、と説明)。

それと重なるように、(※ページを戻して指差して、へブル11章)26節は記されている。
「彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考え――辱めを「ものともせずに」(***12:2で言えば)――それは、与えられる報いから目を離さなかったから」
その「与えられる報い」(11:26)というのは、キリストのゆえに与えられ、キリストのゆえに受ける辱めさえも(***12:2で言えば)「ものともしなかった」という風に重なるように記されています。

イエスさまは、アブラハムもモーセも比較できない程に、父なる神に信頼し――信仰ですね、――目には見えないけれども、父なる神は共におられることを確信し――これも信仰ですね――目の前に置かれた「喜び」(12:2)・「報い」(11:26)のために、待ち望んで今の生涯を耐え忍んで行った。

イエスと同じように、エジプトの名誉を捨て、へブル人を助けて、荒野を率いたモーセ。
その模範に倣うかのように、既に手にしたこの世のものなど目もくれず、イエスによって与えられる天国の喜びを目指して生きていくのが私たちですね。

そのためには、忍耐が必要です(***10:36)
【※忍耐とは信じて待ち望むこと、アドベント、待降節のテーマと先程お聞きしましたね】

ちょっと直接的な言い方をしますと――

2)そのためには《辱めをものともせずに》です。

私(藤本牧師)は昨晩、説教の原稿を書き直したので、今日の説教のタイトルと違うんですね。
今日の説教のタイトルを付けるとしたら、やっぱり「辱めをものともせずに」です。
(※「見えない方を見ているように」がもとのタイトル、変更済み)

イエスにとっては十字架。
モーセにとってはファラオによる辱め。荒野の試練の中で民による辱め。
この書簡の読者にとっては、ローマ帝国の迫害。
私たちにとっては、この世の様々な試練。その中にあっての呻き。この世にあっての難しさ。
《それらをものともせずに》、キリストが十字架を忍耐されたように、私たちも耐え忍び、やがて天に蓄えられている喜びをこの手で掴む。

12章の1節を見てください。これも映しますね。
ですから、こういう風に来るわけです。
【画面:へブル12章1節「こういうわけで〜私たちを」に水色の傍線、「雲のように」に囲み、「証人たちが」「自分の前に〜走り続けようではありませんか」にグレーのハイライト】
<へブル12:1>
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

この「忍耐」という言葉がここにも出て来るわけです。
この証人はアブラハムであり、またモーセであり、そして私たちの愛する教会家族。
彼らもみな辱めをものともせずに、最後は天国に勝利の凱旋を飾って行くわけです。
その最後の迎え方というのは、或いは私たち一人一人の人生は、みな自分の前に置かれている競走です。
誰かと競走しているわけではない。一人一つの道を与えられ、それを走り抜くということ。
でも同じように、私たちは忍耐をもって走り続けない限り、この人生という信仰生涯のゴールを切ることができない。

《辱めをものともせずに》――私(藤本牧師)はこの言葉で、今年の元旦から始まった聖書講解を閉じようとずっと思って来ました。
少し、私の大好きなドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘファーの話をさせてください。
その話で講解を閉じますので、この話は何となく頭の隅に留めておいていただければいいなぁと思います。

戦争に加担した国、そして戦争と教会が抱きついてしまった国として、ドイツと日本は有名です。
戦時中日本の国は、みな国旗を掲げ、最初礼拝の頌栄の前に、宮城遙拝をし、教会の扉を入った時には、天皇の御真影が掲げられ、そしてどこかで讃美歌は全部――私たちは今もこの讃美歌を使うかどうか悩むわけですけれども――「♪イエス君はいとうるわし」というように、君(きみ)という天皇を指す言葉が入っちゃうんですね。
讃美歌の中の御稜威(みいつ)という言葉も、戦時中の讃美歌があえて作った言葉です。
これもまた天皇を指しているわけです。
どこかで憲兵が来た時に、イエスを賛美している讃美歌は天皇を賛美している讃美歌のようにあえて作り直した曲というのは、讃美歌集として残っています。
その中の数曲は、曲そのものがすばらしいので、今も私たちは歌い継いでいます。

ドイツの教会もそうでした。
ヒットラーはドイツを支配する前に、ドイツの教会を訪ねて、
「教会のことは私に任せてほしい」と。
勿論牧師たちは抵抗しますけれども、徐々に呑まれて行きます。
日本と同じように、全国民がヒットラーを向くようになる。
全国民が天皇制を向くようになって行きます。

そういう中でボンヘファーは違いました。すごく早い段階から、ヒットラー政権の危険を察知していました。
21歳でベルリン大学の神学部から博士号を授与されるインテリです。
お父さんは精神科医で、非常にインテリの階級でありました。
22歳で大学の教授になり、23歳で当時のアメリカのユニオン神学校に留学をいたします。
当時のドイツの教会、神学者の中で、逸早くヒットラー批判を始めた人物でありました。

後に戦中戦後の偉大な神学者、つまり20世紀最大の神学者と呼ばれるカール・バルトは、ドイツとスイスの間を行き来しますけれども、主に彼は出身がスイスですから、スイスで活躍した人物ですね。
後にカール・バルトは自分を反省します。
「私はボンへファーのように、ヒットラーのユダヤ人問題を深刻に受け止めていなかった。」

彼はラジオでヒットラーを批判するような説教をいたします。
そしてやがてボンヘファーは抵抗運動に参加し、イエスの御名において参加し、そして抵抗運動の中で、幾つか有名な倫理学の論文を書きます。
その論文の中には、ヒットラー暗殺計画を正当化するための論文も入っていました。
ヒットラーを暗殺するのは人のいのちを奪うことではない、というような論文です。

女性も子どももひしめく市場に、狂った男がトラック一台運転して突入して来た。暴走している。
誰かが身を挺して、その男からハンドルを奪わない限り、死者は増える一方だ。それは倫理の問題を越えている。
ユダヤ人迫害、ユダヤ人浄化運動の危険をきちんと見抜いていたボンヘファーは、あえて自分が罪深くなっても構わない、あえてヒットラー暗殺を試みます。

それ以前に、彼はドイツでの出版も講演も禁止されていました。
その頃には多くの神学者たちが欧米に亡命していきます。一番亡命して行ったのは、アメリカでありました。
それまではドイツの神学校が世界のトップでした。神学という目では。
でもそこから後は、アメリカの神学校が世界のトップになります。なぜそうなるのか?
ドイツの優秀な頭脳が全部アメリカに逃げたからですよね。

ボンヘファーもかつて留学したことがある、アメリカのニューヨークのコロンビア大学のユニオン神学校に招聘されることになります。
ところが僅か数か月で彼はドイツに戻ります。今のドイツから逃げるようでは、後のドイツの再生に私は関わることができない、と。
亡命しておいて、もう一度ドイツに逃げ帰るのは、ボンヘファーぐらいでありました。

そして、本格的に暗殺計画に突入するんですけれども、それが発覚して、ボンヘファーは仲間と共に二年半収容所生活を送り、そして戦争が終わる僅か2−3か月前に処刑されます。
39歳の若さで処刑されてしまいます。

処刑が決まった日、同じ収容所に入っていたイギリス人のパイロットにボンヘファーは伝えます。
「私が処刑されても悲しむな。これは私の人生の終わりではない。新しいいのちの始まりだ。」

処刑に立ち会った医師は証ししています。彼は処刑を待つ控室で、跪いて祈っていた。
そして祈りから立ち上がって、彼は大胆に処刑台に向かって行った。
絞首刑ですね。私たちで言えば、大きな手術を前に、病室でベッドに座って祈っていた、というようなものでしょう。
或いは家族の死に際して、目に見えない神と天の都を確信して祈った、ということでしょう。

「辱めをものともせずに」というのは、そういう意味ですよね。
試練の中を突き抜けて行く。目の前に置かれた喜びのゆえに試練を走り抜いて行く、という言葉が、「辱めをものともせずに」という言葉の意味です。
私の人生の最大の喜びは、イエス・キリストが与えてくださる――エジプトの宝以上の宝を天に蓄えて――天の都の栄冠を携えて、キリストご自身が私にそれを授けてくださる――それが私たちの信仰者人生、この世の人生なんだと。

モーセが天の御国において受ける、キリストから受ける報いから目を離さなかった(へブル11章26節)ように、(へブル)12章の2節で言われているように、
《私たちは信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない。》
というのが、へブル人への手紙の結論なんですよ。

これまでざっと話したことを、何度も話したことを簡単に紹介しますとね、
へブル人への手紙の読者たちは、ローマ帝国の迫害に苦しみ、日々死に面していたわけです。
そういう中で、自分たちはもともとへブル人だと。ヘブライ人だと。
だからキリスト教を止めてもう一度ユダヤ教に戻ろう。ユダヤ教はローマ帝国の公認宗教だから、このような迫害に遭うことはない。
そしてこの手紙の記者は、それを必死に止めるんですね。
「一旦キリストを信じておきながら、再びキリストを十字架に架けるような真似はするな」とか、非常に厳しい言葉で、その戻ろうとする、止めようとする、レースから脱落する者をあえて叱咤激励する。
その言葉の厳しさゆえに、「ちょっと厳しいんじゃないか」と。

やがてキリスト教がローマ帝国の国教になった時に、同じように離れた人々が戻って来るわけですよ。
その戻って来た人々にとっては、このヘブル人への手紙のメッセージほど厳しいものはなかった。

で、私申し上げましたよね。比較されているのは、古い契約に属する人と新しい契約に属する人の比較ではない。
比較されているのは、古い契約の不完全さと新しい契約の完全さなんだと。
そして古い契約はもう廃れていくと。

でもそこで生きた信仰者たちは、死んでもなお私たちに語りかけて来る。
それは「キリストを待ち望め」。
私たちは古い契約の人々と比べて、たとえばアブラハムやダビデや、来年学ぼうとするサムエルと比べても、大したことはないです。
そしてエレミヤのような試練と比べたら、私たちの試練は遥かに小さいものかもしれない。
でも置かれた環境は同じで、いつでもサタンは私たちを試し、私たちを神から、キリストから引き離そうとすると。
それを何とか私たちは踏ん張って、《辱めをものともせずに》、自分の前に置かれたこの馳せ場を走り抜く、というのがこのテーマです。

ボンヘファーは、アメリカからもう一度ドイツに戻ってでも、暴走するトラックから、そのハンドルをヒットラーの手から離すために、ヒットラーの暗殺計画を立てるほど――立てて成功してしまったら、自分はキリスト者と呼ばれる資格はないかもしれない。
だけど、問題はそういうことではない。一人でも多くのいのちを救うために、私は罪人になってもいいと。
彼は《辱めをものともせずに》走り抜いて行ったわけです。

私たちは様々な苦労をやっぱり強いられると思います。
それは老いの苦労であるかもしれない。それは勉強の苦労であるかもしれない。勿論仕事の苦労もあれば、孤独の苦労もあります。
「でも目の前に置かれたキリストの栄冠(***Uテモテ4:8、へブル11:26,同12:2)
信仰の創始者であり、完成者であるキリストから、私たちは目を離さないで(へブル12:2)、
弱った手と衰えた膝をもう一度真っ直ぐにして(***へブル12:12)、
このレースを走り抜いてくれ(***へブル12:1、Uテモテ4:7)」
と、へブル人への手紙の記者は最後訴えるんですね。
ですから12章と合わせて、モーセの姿をもう一度心に刻んで、(11章)26節を読んで終わりにいたします。

<ヘブル11:26>
26彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、私たちにとって、辱めは一体何でしょうか?時にそれは病であり、時にそれは人生の苦悩であり、それは今日の苦悩であり、晩年の苦悩であり、若い頃の苦闘であり、実年時代の仕事の苦しみであり、やがて伴侶者を天に送る苦悩であるかも知れません。

でもその苦労は「エジプトの宝にまさる大きな富だと考える」(へブル11:26)ことができるように。「天から与えられる栄冠の報いから目を離さず」(同)に、「キリストのゆえに辱めをものともせず」(へブル12:2)に、「キリストから目を離さず」(同)に、この信仰のレースを走り抜く(へブル12:1)ことができるように。

そして「私たちはアドベントの者たちである」(***信じて待ち望む者)というこの自覚、決してこの世の苦労にくず折れず、常に未来志向で、どんなにからだが弱くなったとしても、たましいの奥底にキリストの栄冠を叫び求める信仰がある、ということを忘れることなく、進んで行くことができるように助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2023.12.10 - 21:41
LAST UPDATE: 2023.12.11 - 11:35

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