☆聖書箇所 ルカ2:1〜20
1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。 2これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。 3人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。 4ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 5身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。 6ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、 7男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 8さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。 9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 13すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。 14「いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなった人々にあるように。」 15御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」 16そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。 17それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。 18聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。 19しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。 20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
☆説教 アドベント(3)まぶねの中に
今朝は戸塚先生が聖書を読んでくださいましたので、所謂クリスマスそのものの記事、(※ルカ2:1〜20)2章の全部を読んでいただきました。 使うのは一箇所、二箇所なんですけれども、一度そのストーリーの全体を改めて読んでみるということは大変いいことだと思っています。 説教題は「まぶねの中に」といたしました。 「まぶねの中に」というのは、(※歌い出す藤本牧師) 「♪馬槽 (まぶね)のなかに 産声上げ」という讃美歌(***福98)もありますし、 「♪きよしこのよる 星は光り 救いの御子は まぶねの中に」(***福93)です。
クリスマスの讃美歌に「まぶねの中に」という言葉は何回か出てまいります。 主イエス・キリストの誕生の時に、生まれてすぐに寝かされた場所が、家畜のえさを入れる飼葉桶であったということが、 この「まぶねの中に」「飼葉桶の中に」という言葉ですが、ルカの福音書では、割とこの言葉に拘っています。 ちょっと映しますので追っかけてみてください。
【画面:ルカ2章7節「飼葉桶」に水色のペンで囲み「飼葉桶に寝かせた」以下に黄色のハイライト】 <ルカ2:7> 7男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。(※宿屋には彼らのいる場所がなかったからである、はまだ語られず)。
天使が野原で羊の番をしている羊飼いに現れた時に――(※11節に指を移動して説明) 【画面:ルカ2章11節全文に黄色のハイライト「あなたがたのために」と12節「飼葉桶」に水色のペンで囲み、「布にくるまって」以下全文に黄色のハイライト】 <ルカ2:11〜12> 11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。(※それが、あなたがたのためのしるしです」、はまだ語られず)
二回目(※飼葉桶が)出て来ますよね。 つまりこの飼葉桶に寝ているみどりご、赤ちゃん、イエス・キリストなしにクリスマスの出来事は成り立たないですよね。
やがて16節につきますと―― 【画面:「飼葉桶」と「捜し当てた」に水色のペンで囲み】 <ルカ2:16> 16そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。
という風に、物語は全部《飼葉桶に寝ているみどりご》という風に、展開されていきます。
今朝は私(藤本牧師)がアドベントの第一週に、メッセージをさせていただきました、あのMigiwaさんをお迎えして短くお話をしましたよね。 その時に、インマヌエルの神学校のそばの高級住宅地の丘の上に、60年前にできた古い商店街がある、という話をしました。 両側の商店街で、真ん中が通りなんですけれども、ほとんどの店には、シャッターが降りています。 その一番奥にカフェがある。随分長くやっているらしいんですけれども、 中に入りますと――外はそういう商店街ですけれども――絵本や小物がきれ〜いに整えられて飾られていて、美味しい食事や飲み物が振舞われている、という驚きをお話しいたしました。 年の瀬でますます忙しい方もおられると思います。 今年の病気でボロボロにやられた、という方もいらっしゃれば、日常生活の様々な変化に日々心を煩う、という場合もありますでしょう。 でも私たちはこのアドベント、心を整える、クリスマスらしく整える。 その時にどんな心が求められているのか、ということを2点でお話しをいたします。
1)もう一回7節を見てください。映しますね。こうありますでしょう。
【画面:ルカ2章7節「飼葉桶」に水色のペンで囲み「飼葉桶に寝かせた」以下に黄色のハイライト】 <ルカ2:7> 7男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。(※その後に、と続けて説明)宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
これはもう非常に象徴的な聖書の個所として、クリスマスの時に触れられています。 宿屋というのは、この世界の人々の心の中には、でありましょうし、 時には私たちの心の中には、イエスをお迎えする程の余裕がなかった、という私たちの姿を象徴しています。 自分のことだけで心がいっぱいで、ほかを顧みる、ほかの人のことを考える余裕がない――そういう職場。 或いは自分のことだけに捕らわれている家族。 家族は共にケーキを囲んでクリスマスを祝う気持ちもない――割と普通の情景なのかもしれませんね。
心に余裕のない人々が、互いにしのぎを削って自分を主張し、押しのけ合って、叩き合いをしているこの世界。 心の中に、イエスさまの居場所がないほど、自分のことに捕らわれている私たち。
しかし覚えていただきたいのは、主はわずかなスペースでも、馬小屋でも差し出せば、そこに来てくださる。 整然とした馬小屋というのは、この世界にないと思います。 雑然とした汚い馬小屋でも、もし私たちが主に差し出せば来てくださる、と私(藤本牧師)は信じています。 つまり、場所は用意できるものです。 イエスさまのための居場所は用意できるものです。
最終的にマリアが子どもを産む場所が家畜小屋になったのは、宿屋の主人のおかげなのか、それとも「それしか」救い主に提供できないこの世界を現わしているのか? 私はここで宿屋の主人の親切を描いているとは思えません。 それはどこまで行っても、家畜小屋しか提供できないこの世の私たちの姿であろうと思うんですね。
(ルカ)2章の1節で住民登録のために、臨月を迎えたマリアを引き連れて、自分の故郷のベツレヘムを旅しに行くヨセフの話が出てまいります。 初めての妻、初めての出産、まさか子どもを産む臨月に、このような長い旅路を行くとは、ヨセフは想像もしていませんでした。 そのヨセフの気持ちっていうのは、なんとなく分かります。
私(藤本牧師)は人生で一度しか徹夜をしたことがありません。 圭子(夫人)には言ってないんですけど、それは長男の直樹が生まれた時でありました。 予定日の二週間前でした。しばらくは無理だから、「今日は生まれる前に一緒にご飯を食べて映画を観よう」と言って、車で往復二時間で町へ行ったんですよね。 妻は疲れていたんだろうと思います。
夜中の12時に病院に行かなければいけない、という時に、私は自分の車をチェックしたら十分なガソリンがありませんでした。 夜中の12時に同じアパートの友人を叩き起こして(※思い出して笑いながら)、「車を貸してくれ、子どもが生れそうだ」と。 保険のカバーも考えずに、とりあえずすっ飛んで行きました。
夜中陣痛で苦しんでいる腰のあたりを、テニスボールでず〜っと押していました。3時間位押していたと思うんですよね。 お腹が空いて倒れそうで、もうすぐ(病院の)食堂が開く。 朝になって病院の食堂が開く、売店が開く、という時に、まだどれ程かかるか分からない。 とりあえず、何か食べて来る、と言ったら、そりゃ、もう妻は怒りますよ(笑)。 「私がこんなに痛い思いをしているのに、とりあえず、何か食べて来る、なんて一体どういうことなんだ」と言われまして、 妻のバッグの中に入っていた飴玉二つを口に放り込んで、もう6時間。 そこからもう6時間、長い出産だったね(※と後方の圭子夫人に向かって笑って言う藤本牧師)よくあなたは頑張った。 でも、私が徹夜したのは、あれが人生で最初で最後でありました。 (※私たち一般人は数えきれない位人生で何度も徹夜をしてますけれど、先生方はほんとに模範となるようなメソジストの生活なのでしょうね?ちょっと驚きでした。)
ヨセフにしてみれば、せめて最善の場所をマリアに与えたい、と思いますし、 ヨセフにしてみれば、臨月のマリアにこんな長旅をさせるつもりはさらさらないんですよね。 夕方位にこのベツレヘムに着いたのかもしれません。 町の広場に、水飲み場に、取り敢えずマリアを座らせておいて、「よし、俺が宿を探して来る」と言って、彼は町の全部の宿を調べたはずですよ。 でもどこを当たっても、それが見つからない。 あぁ自分の責任だ。
そして家畜小屋を見つけ、彼は宿屋の主人に伏してお願いしたんです。 「あすこを使わせてもらえないか?」と。主人はびっくりして、 「あんな所は子どもを産む所ではない」――そう言われたはずですよね。 でも「それでもいいんだな」と言って提供されて、そしてヨセフはマリアに頭を下げて、 「そこしかない。僕はそこでも全力を尽くす、君を助ける。だから何とかそこへ行こう」と、マリアはもう渋々ですね、 「まだキャンセルがあるんじゃないの?」とか「あなた、私が待っている間、そこら中の宿を探して、キャンセルを調べなさい」――そういう風に言われたんだと思う。
つまり淡々と描かれていますけれども、そこに存在しているドタバタの状況というのは、私たちにしてみれば、このクリスマスの時期に主イエスを心の中に迎えることなど、余裕がないという程の、ゆっくりしたクリスマスではないです。 でもたとえ馬小屋のような場所だとしても――心は雑然としていて、イエスさまを迎える余裕などないと思いながらも――差し出せばイエスさまはそこに来てくださる。 そのことを先ず覚えなければいけないですね。
救い主が来られたのに、この世界に場所がない、ということが象徴されています。 ヨハネの福音書では、「光は輝いてこの世に来たのに、この世界はその光を受け入れなかった」と書いてありますよね。(***ヨハネ1:9〜11) 光が喜んで歓迎された、というシーンはクリスマスのどこにもないんです。 困っている人のために、ほんの少しも場所を作ろうとしない、ただ自分だけのことのために生きている、私たち。
勿論ベツレヘムの宿屋は、人口登録をする(※ために混雑していた)という正当な理由があったわけです。 でもそういう正当な理由がありますと、心はどんどん狭くなって行きます。 そして「また後の日に、イエス・キリストをお迎えしよう」と――そう言いながら何十年も私たちは経っていくものです。 でも今年これほど忙しくても、イエスさまのために場所は用意できるもので、何とか用意しなければいけない。 これが第1点。2番目に――
2)その心は素朴でなければいけない。
羊飼いに注目していただきたいと思いますが、12節に―― <ルカ2:12> 12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。・・・
そして(羊飼いたちは)、本当に貧しい汚い家畜小屋の、朽ちた不衛生な飼葉桶に赤ちゃんが寝かせられている、という尋常でない出来事を見ます。 でも20節一番最後に、それを見た彼らは、疑うことなく、単純に神をあがめて、賛美して帰って行きました。 <ルカ2:20> 20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
それは天使が言われたとおりに、飼葉桶に寝ているみどりごだった。 それは私たちにとっては、何か非常にクリスマスらしい、非常に温かな、非常に美しい情景なのです。
ま、調べてみますと、当時、家畜小屋というのは家畜のために掘られたほら穴であったとか、それから飼葉桶というのは石造りの溝であって、そこに草がざ〜っと置かれていたとか、それは洗われることなく、牛のよだれや色んなもので染みついていたとか、それはもう色んなことが書いてありますよ。
だけど、どんな人であったとしても、どんなに貧しく乏しい人であったとしても、生まれた赤ちゃんを飼葉桶に寝かせるなんてことはないです。 それは現代でもないし、当時にあってもないわけです。 「それが救い主である」と言われても――ま、天使は確かにそう言った。 で、彼らは道々言ったんでしょうね――「本当に、そんな出来事が救い主の誕生を意味しているのか?」 彼らはベツレヘムにある家畜小屋を、全部訪ねて行ったんだろうと思う。 そして行ってみたら、まさにあり得ない状況を見つけた。 そして彼らは疑わずして、賛美して帰って行くわけですよね。
「救い主」と聞いたら何を想像したのか? 恐らく力強い輝きを想像したのか? もともと救い主がやって来るとしたら、赤ちゃんでなくていいわけです。 剣を持った救い主が、天の雲に乗って、天の軍勢を従えてやって来ればいいんです。 何も最も無力なみどりごで、しかも家畜小屋の飼葉桶に寝かせられていなくてもいい。
でも実は力強い栄光に輝く救い主が、馬小屋で生まれたということが、 この方の地上の生涯とこの方の働きの象徴でありまして、 やがてこの方はゴルゴタの丘の十字架の上で、自分のいのちを私たちのために捧げるわけです。
「あんな馬小屋だったら絶対に拝まない」――ヘロデでしたら、そう言ったでしょう。 でも羊飼いはそうは言いませんでした。 あえて天使の予告に言い返すことなく、羊飼いの心は素朴そのもので、 自分自身も社会のはみ出し者、礼拝なんかに行ったことがない。神殿で神を礼拝することができないような貧しい存在。 それでも神さまに必死にすがって救いを求めるような、素朴な信仰の持ち主に、 神さまは天の使いを送り、救い主の誕生を知らせ、 「今日、あなたがたのために救い主がお生れになった」と(羊飼いに特別、一番に知らせてくださった)。
やがて、羊飼いたちは十字架の話を聞くんでしょうね。 「ああ、自分たちがあの時に見た救い主が、ゴルゴタの丘で犯罪人と共に十字架にかけられた」。 それは救い主が誕生し、飼葉桶に寝かせられている情景以上に、受け入れがたい出来事でありました。
しかしそのすべてが、神を捨て、神から捨てられたような日常を送っている、私の所に神さまが来るために。 へブル人への手紙で言うと、「新しい道」をキリストが備えて、切り拓いてくださった。 そして素朴な羊飼いの心にご自身を横たえるように、飼葉桶のような私の心に静かに身を横たえるために来てくださる。 私の心がまぶねのように素朴であるなら、救い主キリストは来てくださる。 「素朴な心」ってなかなか難しいです。
以前私は、ある牧師先生の証しを聞きました。 大変胸が痛く思いました。 その人は牧師になりたての頃、結婚しまして、小さな田舎の教会に仕えました。 結婚して間もなく二人の子どもが与えられて、そこで奥さんが病気になりました。
貧しく、小さな教会で毎日一生懸命。 でも奥さんが病気になる。小さな子どもは二人いる。 本当に大変だった。色んな所でアルバイトもしながら、何とかしがみついて生きてきた。 その内本当に疲れてしまったそうです。
ある日、机の前に座っていたら、祈る気力も、聖書を開く気力もなく、 「ああ、本当に疲れた」と。 この先生はご自分の頭でも考えていなかったのに、何かふと、いきなりこういう祈りが出て来たと言うのです。 「罪深い私を憐れんでください」と。
その先生は証しの中で仰ってました。 その時自分が罪深いとは思っていなかったと。 それどころか、自分は牧師として忠実に、全力を尽くして来た。 でも自分の口から出て来た言葉は、聖霊に導かれたように、 「罪深い私を憐れんでください」。 そう祈ったら、涙が溢れてきたそうです。 何か疲れ切った心の中に、泣いた後に、不思議な平安が湧き上がって来て、それが新しい勇気となった、というお証しでした。
それだけの話なんですけれども、それを聞いていた私は、何か、ごく稀にしかない神聖な話を聞いているんだ、という風に思いました。 今年も様々なことがあり、ボロボロなのかもしれません。 今まさにそういう戦いの中におられるのかもしれません。 思いもかけず、救い主を迎える私の心が祈る。 その祈りは、心の中も人生も雑然としているかもしれない。 思い通りに事は運ばないかもしれない。 でも単純に、救い主イエス・キリストを迎えるために、 「罪深い私を憐れんでください」「私を憐れんでください」。 そう祈りますと、イエスさまは、 「子よ、安かれ。汝の罪赦されたり」と。(***マルコ2:5、マタイ9:2など) そして私たちの人生の中に入って来てくださり、救いの恵みを携え、神の愛を私の心に注ぎ、平安の光を灯してくださる。
そんな、まぶねの心となることができますように。 見た目はボロボロであったとしても、それは飼葉桶のような汚い場所であったとしても、 救い主が私のために誕生されたことを心から喜ぶ、素朴さをもって、まぶねのような心になりたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、あなたを迎えようとする時に、いつも自分の心の隅っこにある家畜小屋のような場所にしか、あなたを迎えることができないような私たちなのかもしれません。でもあなたは仰ってくださいました。 「それでもいいから、わたしを迎えなさい。わたしがあなたの心に入ることができたならば、あなたは幸せを、平安を、そして神の愛を、人生のただ中に迎えることになる。汚いから、忙しいから、一杯だから、余裕がないから迎えないとは決して言うな」 と、あなたは私たちに呼びかけてくださいます。
そしてあなたご自身が場所を見つけたかのように、私たちの素朴な心に身を横たえてくださるイエスさま、どうかこのクリスマス、そのような心であなたをお迎えすることができるように助け、土曜日にはキャンドルサービス、日曜日にはクリスマス礼拝、そして格別に洗礼を受ける小さな子ども、また大人に至るまでお守りくださいますようによろしくお願いいたします。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。ア―メン。
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