☆聖書朗読――先程の姉妹
<Tテモテ1:13〜15> 13私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。 14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。 15「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
●讃美(3)
♪Hark! the herald angels sing(※賛美1で2番目の曲をもう一度歌われる) ♪Angels we have heard on high(福87 荒野の果てに。最後はJoy to the Worldの歌詞が混ざって3人がきれいなハーモニー)
☆説教 戸塚伝道師・キャンドルサービス:クリスマスの特別な体験
みなさん、こんばんは。クリスマス、おめでとうございます。救い主イエス・キリストのご降誕を心から賛美いたします。私たちの高津教会のキャンドルサービスに良くお出でくださいました。オリーブと伊藤真嗣さんのすばらしい賛美と共に、今日こうして共にお祝いすることができる恵みを心から感謝したいと思います。
オンラインで参加されている方々も良くお出でくださいました。今日は格別に初めて来てくださった方、ほんとに大歓迎です。また久しぶりに来てくださった方、或いは「一年に一度この日だけが常連です」と仰る方も、もう大歓迎でございます。良くお出でくださいました。 今日はそのような皆さまに、15分ほどお時間をいただきまして、クリスマスのメッセージをお話ししたいと思います。
北海道大学大学院教授の、宗教学者の岡本亮輔(おかもと・りょうすけ)先生(1979〜)がこんな文章を書いておられます。 ――※読み始め―― 世界的に有名なスペインのサンティアゴ巡礼というものがあります。 中世から続くキリスト教の巡礼ですが、巡礼者の多くは敬虔なキリスト教徒ではありません。 四国遍路も同じ。神さまを信じてそこに行くというより、巡礼によって特別な体験をした、と感じて帰って来る。 日本にはこうした信仰のない宗教が広がる土壌があります。日本人の多くは、自分は宗教とは関わりがないと思っている。 一方で、クリスマスや、初詣や、葬儀など、信仰には関係なく、宗教が社会に溶け込んでいる。 信仰からではない、実践として宗教が存在できる社会だからこそ、あちこちのパワースポットを巡れるわけです。 ――※ここまで読み終わり――
と、こう書かれていました。 高津教会がクリスマスの聖地巡礼のパワースポットかどうか、それは分かりませんけれども、でもとにかくどのような動機でもいい。 信じていようが信じていまいが(笑)、とにかく今晩この高津教会のキャンドルサービスに共に集うことができた――これは特別な体験なのではないか、そう思うのです。 よくお出かけくださいました。 今晩は、その特別な体験の一つとして、聖書のことばに耳を傾けていきたいと思います。
そもそもクリスマスとはいったい何の日なのでしょうか? イエス・キリストの誕生日、サンタクロースが来る日、ディナーショーがある日、プレゼント交換をする日、色々なことをクリスマスに意味づけておられる方々が沢山ありますけれども、でも聖書はこう述べています。
先程お読みくださった聖書の個所が、プログラムの後ろに書いてありますが、その15節の所に太字でこういう言葉が書かれています。
<テモテへの手紙第一1章15節> 15「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
この聖書のことばは、パウロという人が書いた言葉です。 パウロという人は教会を迫害し、クリスチャンを苦しめ、大変な頭の良い人物でありましたけれども、とても残念な生き方をしていた、そういう人でした。 しかし、イエス・キリストに出会って、自分の的外れな生き方に気づかされて、人生の方向転換をした人です。 そのパウロがしみじみと、罪赦された自分を振り返って、教会の仲間のテモテに送った手紙の中の一節がこの言葉でした。 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」(Tテモテ1:15) 今晩、このお言葉から二つの言葉に着目していきたいと思います。
1)先ずは、「世に来られた」イエスさま。
人間の住むこの星に、神さまが人となって来てくださった。しかも無力な赤ちゃんとして。 考えてみれば、これはすごいことです。 神さまが人となってこの世に来てくださった。
私たちは神さまに向かってお祈りをし、神さまに向かって礼拝をし、「神さま、神さま」と上を見上げて、「神さまに近づこう、近づこう」と一生懸命頑張るような、そういうイメージがある――そう思いますけれども、 しかし私たちがどのような状態であったとしても、神さまの方からこの世に来てくださった。私たちのところに来てくださった――それがクリスマスの日だというのです。
しかもこんな弱い、罪深い、愚かな、不条理な生き方をしていた私たち一人一人のところに来てくださった、神さまが――それがイエス・キリストでした。 このイエス・キリストは私たちと共におられ、私たちと共に歩む。 私たちがどん底で、どうにもならない苦しみの中にあったとしても、そこにも神さまがおられる。 こんなところに神さまなんかいるはずはない、と思われるような状況のただ中に、 その神さまはおられるのが、イエス・キリストです。 しかもそのどん底の底の底に、神さまの温かい大きな手の平がある。 この世に来てくださった、この日がクリスマス。
もう一つの言葉に注目したいと思います。それは――
2)「罪人を救うために」という言葉
その救い方は、ご自分のいのちと引き換えに、私たちを生かすやり方でした。 キリストは、なんと死ぬために、人間になってこの世に来てくださった。 私たちのために生まれてくださった赤ちゃんは、死ぬために生まれてくださった救い主だった。 無力な赤ちゃんであられるイエスさまは、33歳頃に無力な状態で、十字架の上でいのちを捨ててくださいました。
新聞の投書にあった、ある方の文章を紹介します。 「私を救った見ず知らずの人たち」という投書です。ご紹介いたします、こういう文章でした。 ――※ここから読み始め―― 自殺する方法を毎日のように検索していた時期がある。信頼しきっていた友人たちに裏切られ、恋を失ったためである。 死こそが自分を苦痛から解放し、安らぎを与えてくれるありがたいものである――次第にそう考えるようになった。
ところが、まったく面識のない人たちの存在に、私は救われた。 横浜市緑区の踏切で倒れていた高齢男性を助けようとして、いのちを落とした女性。 東海道新幹線の中で狙われた女性を助けるために、刃物を持った男に立ち向かい、亡くなった男性。 わが身の危険を顧みず、目の前にいる人のいのちを救った人々のニュースに、人間不信の闇の底に沈んでいた私はわんわん泣いた。
家族を助けようとするならまだ理解できる。赤の他人のためになぜ? 見て見ぬふりをしても、だれにも責められないような状況なのに。 あの人のためにいのちを落とされたあなたがたに伝えたい。 「私もあなたがたに救われた。 この世には、良心と勇気を持った人間がまだいるのだ、と教えられた。 私にはまねはできないけれど、あなたがたの優しさを決して忘れない。」 ――※ここまで読み終わり――
こういう投書の文章でした。 「あなたがたの優しさを決して忘れない。あなたがたに救われた。」 イエス・キリストはその優しさを持っておられる方です。 いや、優しさという言葉で片づけていいような、そんなものではない。 私たちを救うために「いのちがけ」になってくださった、「いのちを捨てて」くださった――そういう神さまです。
だれを救うために、いのちをかけてくださったのでしょうか? それは罪人を救うために、です。 この文章を書いたパウロは、自らを「罪人」と称しました。13節に――
<テモテへの手紙第一1章13節> 13私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。(***と、自己紹介しています、と説明)しかし信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。
何を知らなかったのでしょうか? イエス・キリストが自分のために生まれ、そして十字架に架かって代わりに死んだこと。 それ程までに私たちを、パウロを愛しておられたことを、全く知らないまましたこと。 それが、神を冒瀆し、迫害し、暴力をふるう――そういう行動を起こした――それがパウロでありました。 だからパウロは言いました。「私は罪人のかしらです」と。(15) 「罪人を救うために」、パウロを救うために、この世に来られた。
小学校4年生と5年生の教会学校の子どもたち、その前でこのお話をした時、 この聖書のことばを示しながら、この「罪人」のところに、その二人の男の子の名前を入れました。 名前を入れた瞬間、子どもたちの表情が変わるのが分かりました。 ああ、ぼくのために。イエスさまは生まれてくださった。この世に来てくださった。 こんなぼくのために生まれてくださったイエスさま。 世界中何十億という人がいる中で、この私のために、この私のために生れてくださった。 「罪人」っていうこの言葉に、自分の名前を入れてみると、見えて来るものがあるかも知れません。
そしてこの「罪人」に漏れる人は一人もいないことでしょう。 どうしようもない人間の煩悩であり、性(さが)です。 「罪人」って言うと、何か大きな犯罪を犯したような、そんな感じかもしれませんけれども、「罪人」というのは、何か弱さを抱え、不条理の中を生かされ、また様々な人間関係に悩み、忙しさに疲れ果てた人すべてを含む、私たち人間を総称する言葉だと思います。 そのような私を救うために、キリスト・イエスはこの世に来られた。 だから「クリスマス、おめでとうございます」なのです。
あなたがたキリスト教信者は、そう信じているのですね。 はい、そうです。特定の宗教の枠組みという視点ではそうかもしれません。 私たちはキリスト教信者で、そのように信じております。 でもクリスマスは、キリスト教信者だけのものではない。 いや、今日初めて来てくださった方々、その方々のためにこそクリスマスはある。 「神さまなんていない。信じられない。こんな不条理な、こんな理不尽な状況の中で、こんな世界に神さまなんてどこにいるのか!信じたくない。そんな宗教とは関わりたくない」と言う方のためにこそ、クリスマスはあるのです。
もし、今日このひと時をここで過ごしたことを、もし来て良かったと思われる方が一人でもいらっしゃるならば、とても嬉しい気がいたします。 そして今晩この聖書の言葉をお読みしたことは、クリスマスの特別な体験として、何らかの形で私たちの心に刻まれることを願っています。 今晩のこのひと時、共に過ごすことができたことは、大げさな言葉で言うと、《歴史的事実となって(笑)、いつまでも私たちの心に刻まれる》2023年の12月23日の夜でありますように、心から願ってこのお話を終わりたいと思います。
☆お祈りいたします――戸塚伝道師
キリスト・イエスは罪人を、全ての人を、この私を救うために世に来られた。(Tテモテ1:15) 愛するイエスさま、今晩こうしてキャンドルサービスの礼拝を、共にあなたに捧げる恵みを感謝いたします。信じていても信じていなくても、とにかく今晩共に集うことができ、《クリスマスの特別な体験》にあずかることができたことをありがとうございます。
こんな私のために生まれてくださり、いのちがけで私たちを救いに導いてくださる、救い主イエスさま、どうぞこのお方と共に歩むことができますように。明日を生きる希望となり、人生の道しるべとなってくださるお方が、私たちが信じようと信じまいと共におられることを感謝して、日々を歩ませてくださいますようによろしくお願いいたします。 特に初めて今日来られた方々の上に、あなたご自身が語り続けてくださいますように。私たちの救い主イエス・キリストのお名前でお祈りいたします。アーメン。
☆藤本牧師より挨拶
(※賛美と配信の奉仕者たちに感謝の言葉を語った後、)
明日がクリスマス礼拝です。ぜひまた明日お越しください。 また、私たちは31日――次の日曜日――はお休みして、 月曜日になりますけれども、1月の1日が元旦礼拝となります。11時から。 明日のクリスマス礼拝は10時半からです。 どなたでもお越しいただけますように、お待ちしております。 お気をつけてお帰りください。ありがとうございました。
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