☆聖書箇所――ヨハネ3:1〜9
1さて、パリサイ人の一人で、ニコデモという名の人がいた。ユダヤ人の議員であった。 2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」 3イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 4ニコデモはイエスに言った。「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」 5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。 6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 7あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 8風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」 9ニコデモは答えた。「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。」
☆説教前段のお話――藤本牧師
今年最後の礼拝にもなる、という、そのことに合わせて、実は本当にコロナ禍も含めて、私たち牧師を支えてくださいましたことを心から感謝いたします。 オンライン礼拝の方々も多くのクリスマス献金をお送りくださりありがとうございます。 中にはご住所が分からなくて、ご返信もできない方々もいらっしゃいますけれども、神さまが等しくあわれみを与えてくださることを信じています。 また今日初めていらっしゃいました、YM先生(※右腕を出して示す。青学の先生、藤本牧師と同じメソジスト学会員)のお母様が見えますけれども。 またYHくんのご両親――お父さん、初めて?高津教会だと思うんですよね。 ま、ほかに何人かおられると思いますけれども、良くお出でくださいました。
今日はできるだけこの列に(※真ん中の両方の長いす二列)に皆さんに座っていただくために、特別に竹内(俊之)先生(※休暇中、自宅が高津付近なので礼拝に良く出席)にお願いしました。 竹内先生は人を案内する名手で、右に出る人はいないんです(笑)。 それで今日と、もし可能でしたら元旦礼拝も、できるだけこの三人(掛け)の(長椅子の)列が揃うように。 というのは、一番ここが(※両手の指を三本ずつ立てて、前に出して、正面の長椅子の二列を意味しているのか)安全なのですね。こちらの方が(※両手を開いて見せて両端を示している)むしろぎっしりしていますので、色んなことを考えると、ま、真ん中の列に座っていただけたらなぁという風に思っています。 少し窮屈かもしれませんけれども、よろしくお願いいたします。
☆説教 クリスマス・洗礼式:どうしてそのようなことが?
さて、今日の礼拝のタイトルは、「どうしてそのようなことが?」といたしました。
1)「どうしてそのようなことが?」という言葉は、新約聖書に2回出て来ます。
@一つはクリスマスの前、天使ガブリエルがマリアに現れました。(***ルカ1章26〜38節) 「おめでとう。恵まれた方。主があなたと共におられる。あなたは身ごもって男の子を産む」(***ルカ1:28) と言った時に、マリアは、 「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」(***同34) って答えています。
Aもう一回が、ここ、ニコデモの言葉です。(***ヨハネ3章1〜9節) この二つを繋げて、今年のクリスマス礼拝の説教といたします。
イエス・キリストのところに、夜中こっそり会いに来たこのニコデモは、ユダヤ人の教師でありました。 彼はイエスさまが行っている様々なことを見て、(ヨハネ3章)2節でこう言っています。
2この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
「(あなたは)特別な教師です。預言者です」というような意味もあるのでしょう。 尋ねた質問は記されていませんが、3節を見ると、答えが書いてあります。
3イエスは答えられた。「まことに、まことに、(***というのは、ものすごく重要なことを言うよ、という意味です)あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
すると、「どうしたら神の国を見ることができますか?」という質問をしたのか、 「どうしたら、神の恵みを受けることができますか?」 「どうしたら、孤独や苦しみ、矛盾や試練、人の一生に関わる様々な問題、最後には死を乗り越えて、神の子どもとして、天の御国に受け入れられるのでしょうか?」と(いう質問をしたのではないかということが分かります)。
ユダヤ教の答えは決まっていました。 「神さまは、あなたを選んだ以上に、ユダヤ民族を選んだのです」と、こうなりますね。ですから、 「あなたがユダヤ人であるならば、既にあなたは神の民です。 神の民として、割礼を受け、律法を守っているのなら、あなたは神の国に入ることができます」 という答えをニコデモなら、したでありましょう。
でもイエスさまは、そうは仰いませんでした。 3節「人は、新しく生まれなければ」――民族でもない、律法でもない。あなたの生き方でもない。
4節でニコデモは、「人は老いていながら、どうやって生まれることができますか?もう一度、母の胎の中に入って生まれることなどできるのでしょうか(***胎の中に入れとでも言うのでしょうか、と説明)」と。
9節に再び、「どうして、そのようなことがあり得るでしょうか。(***新しく生まれるなんて、どういうことなんでしょう、と説明)?」
イエスさまは、できると仰います。それが5節。先程、読みました。
5・・・「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
ということは、裏を返せば、「水と御霊によって、新たに生まれることができる」という意味です。
水は洗礼です。 洗礼というのは、ユダヤ人には関係ありませんでした。 彼らは生まれて8日目に割礼を受けます。それで十分に神の子です。 洗礼は異邦人に課せられていました。 まず、これまでの人生の罪を悔い改め、洗いきよめていただき、そしてしばらくしたら、彼らも割礼を受けることができる。
イエスがユダヤ人教師ニコデモに仰ったことは、 「自分の罪を悔いて、ユダヤ民族であること、律法を守っていること、その自負を捨てて一から出直せ」と。 異邦人のレベルから、一から出直しなさいと。 洗礼を受けるということは、私たちの人生の様々な積み重ねはあるに違いない。 そこには嫌なことも、いいことも、立派なことも、卑しいこともあるに違いない。 全部それを捨てて、一から出直せ、という意味です。
そしてイエスさまは、「わたしがあなたに聖霊を注ぐ」と。 その時、水と御霊によって、生まれ変わる。 イエスさまが聖霊を注がれる。あなたは新しく生まれる。 (ヨハネ3章)6節見ていただきますと、
6肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
私たちはある意味で、その両方です。 肉によって、この世に生まれ、肉によってこの世に生きています。 にもかかわらず、聖霊によって神より生まれた者となり、霊に従って生きて行きます。 それが(ヨハネ)1章の12節です。 Hくんの洗礼の時に、私(※藤本牧師)が(先程、洗礼のみことばとして)申し上げました「神の子どもとなる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。
「神の子どもとなる特権」とは、どういう意味でしょうか? 神学的に言えば、複雑な意味が沢山あります。 でも「神の子ども」というのは、「あなたは神の子どもとして、神に愛されている」という意味です。 親が子どもを愛する以上に、神は子どもとしてあなたを特別に守られる。 どんな時にも、何があっても、神さまは共にいてくださる、というのが、「神の子ども」という意味です。
ですから神の子どもたちは祈ります。 「天の父なる神さま、天のお父さま」と祈ります。 天地を創造された絶対的な権威を持っておられる神です。 その神に向かって、私たちは毎日、普通にマックでも給食でも、食事を前にすると思わずお祈りします。 毎日普通に、世界の権威を握っておられる神に向かって、 「何とかしてくれ」と、「子どもである限り、父親は何とかしてくれるだろう」 という願いを持ちながら、私たちは祈ります。
神の愛を知っているのが、子どもなんです。 ローマの5章の5節にこうあります。
5・・・私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
「聖霊が与えられた」ということは、《その聖霊が神の愛をあなたの心に注ぐ》という意味です。 この世の声は、その神の愛を私たちの心からかき消そうとします。 おまえなど、神に愛されているはずがないと。 その資格もない、よく分かってもいない、なんとなくそう思い込んでいるだけで、聖なる権威ある神の子どもであるはずがない。 そのようなお方が、おまえに目を留めるはずがない。ましてやお前を愛することなどない。 それは自分でもよく分かっているだろう。何しろ、まったく価値がないんだから。 というのは、この世の声です。 サタンの声はいつもそのように、「神に愛されている、無条件で愛されている」というその声をかき消そうとします。
この声が分かるのは、ニコデモにとりましては数年先でありました。 (ヨハネ3章)14節と15節をちょっと読みますね。 イエスさまはこの夜、ニコデモにこう仰いました。
14モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。 15それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。 前半部分は良くニコデモには分かりました。 旧約聖書で、エジプトから折角脱出できたイスラエルの人々は、神さまに文句ばっかり言います。(***民数記21:4〜9) その彼らの罪の裁きとして、神さまは荒野に蛇を送りました。 そして噛まれて、多くの者が苦しみます。 人々は自分が罪を犯したことを告白し、モーセに助けを求めます。 神はモーセに仰いました。 「青銅で蛇を作りなさい。それを棒の先に付け、荒野に上げなさい。蛇に噛まれた人々が、信仰によってその青銅の蛇を見上げるなら、その傷は癒やされる」と。
ニコデモは、そのストーリーはよく分かっていました。 でもそれに続く、「人の子も同じように、荒野で上げられなければならない」(ヨハネ3:14)という意味は、全く分かっていませんでした。
やがてイエス・キリストが十字架に釘付けにされ、ゴルゴタの丘に立てられる。 「それはあなたの罪のためだ。あなたの罪の責任を背負って、わたしは十字架で上げられる」とイエスさまは、この時仰った。 でもそれから約三年後に、実際にそうなったときに、十字架に磔になったイエスの遺体を降ろした人物は、聖書に二人だと書いてあります。(ヨハネ19:38.39) その一人が、ニコデモでありました。
ですからこの夜の話を、ニコデモは三年先にようやく分かる。 あ、あの時のように、イエスは、人の子は、荒野で十字架で上げられ、私の罪のためにいのちを引き渡し、血を流し、それはすべて私に新しいいのちを与えるためだったんだ。 「信じた者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3:15) 《それをわからせてくださったのが聖霊です。》
ニコデモの資格でもない、ニコデモの育ちや働きでもない。 イエスが私に代わって十字架にかかってくださったこと、 そして神が、御子イエスを私に与えてくださるほどに、私を愛していてくださる。 それを聖霊が分からせてくださる。
2)さて、聖霊は皆さんにとって、それほど近い関係なんだろうか?というのが、今日の最後のお話です。
大切なのは、《聖霊が働いている場に、自分を置く》ということです。 《聖霊が感動を与えている人と共にいる》ということです。 《聖霊の力や、込められた賛美や祈りに、自分を置く》ということ。
木曜日に、戸塚先生が天使から受胎告知を受け、「どうしてそのようなことがあり得ましょう」と戸惑ったマリアの話をしてくださいました。 マリアはその時、「お言葉通り、この身になりますように」とは言いますけれども、その戸惑いが消えるわけではない。 マリアは親類のエリサベツのところに身を隠します。(***ルカ1:39〜45) そして、マリアに会った途端、エリサベツは聖霊に満たされ、感動して、大声で叫びます。 「あなたは女の中で最も祝福された方、お腹の赤ちゃんも祝福されますように」(***ルカ1:42) つまり、マリアは聖霊に満たされたエリサベツの励ましによって、戸惑いから信仰へと引き出されていったんですね。
私たちも聖霊の感動を受けている人と共に過ごす。 聖霊の力に溢れている祈りを聞く。 聖霊の力そのものである賛美を、直に聞いてみる。 聖霊が宿るこの教会に、座ってみる。 そうしない限り、神の愛を注ぐと言われる、その聖霊を私たちはなかなか実感できないです。
オンラインの方々も、きっと感謝しておられると思います。 この配信がなるべくリアルになるように、皆さん努力しておられます。 それによって、あたかもここに座っているかのように、ということは、 皆さんもまた聖霊が働いておられる場に自分を置いているということですね。
どうしてそのようなことがあり得ましょう。 神のいのちの息吹である聖霊が、神の愛をあなたに注ぐからです。 だからそういうことがあり得る。あなたは神に愛された神の子どもとなれる。
1996年にエベレスト登山史上で最大の被害、7名のベテラン登山家の遭難という出来事がありました。 山岳ジャーナリストでベテランの登山家ジョン・クラカワーは、そのときの出来事を本にします。 アメリカで出版されて日本語になっていますが、タイトルは「空へ――エヴェレストの悲劇はなぜ起きたか」 元のタイトルは、「薄い空気の中で」(※Into Thin Air)
アンディ・ハリスという登山家が、登頂隊のリーダーの一人でした。 彼は、頂上に長くいたいために、下山のために必要な酸素を過剰に消費してしまいます。 そして、下山途中で酸素が足りなくて、生死をさまようのです。
無線で連絡を入れます。 「下山途中で、前の隊が置いていった酸素ボンベを見つけた。でも、空っぽだった。何とかならないか?」 先に降りた隊員が無線で彼に答えます。 「そんなはずはない。ボンベには十分な酸素が残してある、君の手に持っているのがそのボンベだ」と双眼鏡で見ながら、無線で伝えます。 しかし、彼は苦しい叫びを上げます。あえぎます。どこまで行っても、 「ボンベはここにある。でも酸素はない、空っぽだ」
クラカワ―の書物のタイトルは非常に興味深いです。 「薄い空気の中で」――酸素の、聖霊の息吹の薄〜い世界の中に身を置きますと、段々その酸素ボンベを持っているにもかかわらず、 聖霊の力が自分にあるにもかかわらず、それがない――自分なんか愛されていない。神さまは自分のことなど、見向きもしない、とどんどん私たちは世の中の声に引きずり回されて、聖霊の力から遠退いていきます。
ですから、新しい年も、恵みの薄い世界に、普段身を置いて生活をしている私たちですが、 機会ある毎に恵みの中に自分を置き、十分な神の息吹を吸い込んで、 そして神の子どもとして、神の愛を受けながら生きていきたいと願っています。 ☆お祈りをいたします。――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、どうしてそんなことがあり得ましょう、とマリアにとりまして、男性を知らないのに男の子が生まれる。ニコデモにしてみれば、老齢なのに新しく生まれ変わる。私たちにしてみれば、神さまから遠いところを生きているかのような私が、どうして神の子どもとなることができるんだろうか?
神さま、あなたはどうして私に目を留め、私を愛してくださるのですか?分からなくなってしまう場面がある。多々ありますが、あなたはそんな時、エリザベツをマリアに遣わしたように、聖霊の感動にあふれる人を私たちのもとに遣わしてください。そんな時であればあるほど、聖霊の力に満ちた祈りを、賛美を聴かせてください。
そしてどれほどあなたが私たちを愛しているか、十字架を見上げる度に「これはあなたのための十字架だ」と、私たちに語りかけてくださいますようによろしくお願いいたします。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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