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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   1/7 サムエル(2)「お話しください」 Tサムエル3:1〜14
☆聖書箇所 Tサムエル3:1〜14
1さて、少年サムエルはエリのもとで【主】に仕えていた。そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。
2その日、エリは自分のところで寝ていた。彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。
3神のともしびが消される前であり、サムエルは、神の箱が置かれている【主】の神殿で寝ていた。
4【主】はサムエルを呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、
5エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。
6【主】はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」と言った。
7サムエルは、まだ【主】を知らなかった。まだ【主】のことばは彼に示されていなかった。
8【主】は三度目にサムエルを呼ばれた。彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、【主】が少年を呼んでおられるということを悟った。
9それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
 10【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。
11【主】はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。
12その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
13わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らに呪いを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。
14だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」

☆説教 サムエル(2)お話しください

今日は、今年の年頭聖句に当たります、サムエル記第一の3章を見てください。
3章の9節――

9それで、エリはサムエルに言った。「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『【主】よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。」サムエルは行って、自分のところで寝た。
 10【主】が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

この10節を年頭の聖句に採りました。
ちょっと状況をお話しした方がいいと思いますので、ざっと話します。
時間はかかりますけれども、ご理解いただきたいと思います。

サムエル記の一つ前はルツ記、その一つ前は士師(しし)記、その一つ前がヨシュア記です。
つまりモーセが指導者として、奴隷に捕られていたイスラエルの民をエジプトから脱出させ、そして40年間荒野を渡りながら、最後ヨルダン川に渡って約束の地に入る前に、神さまはモーセのいのちを取られました。

そこでモーセの、ま、一番の右腕でありましたヨシュアを指導者にして、イスラエルは約束の地を占有していきます。
ところが、ヨシュアの次の後継者はいませんでした。
各部族が割り当ての地に入っているんですけれども、指導者がいないがゆえに、混沌とした時代に入って行きます。

各地その場の状況に応じて、神さまは裁き司(さばきつかさ)士師という人物を立ててくださいました。
それがその事態を治めるために部族を統一し、敵と戦い、難問を解決していきます。
士師の中にはギデオン、或いはサムソン、デボラ、エフタという人物がいました。

しかし所詮その地域は限られています。またその人物が召されると、もとの混とんとした状況が戻ってしまいます。
そして士師記の最後の言葉を、ちょっと見ていただきたいんですね。
聖書を映しますので、最後の士師記の言葉というのはこうです。
士師記とサムエル記は直結しています。(※順番としては、その間にルツ記が入ることを断った上で語る藤本牧師)

【画面:士師記21章25節全文にオレンジのハイライト】
<士師記21:25>
   25そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

政治的な指導者もいなければ、宗教的な指導者もいない、ということが、このサムエル記(第一)の3章に出て来ますね。
3章の1節を映しますので、ちょっと見ていただきたいと思います。
【画面:Tサムエル3章1節「主のことばは〜示されなかった」にオレンジのハイライト】
<Tサムエル3:1>
1さて、少年サムエルはエリのもとで【主】に仕えていた。そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

「社会的に王がいなくて、それぞれが身勝手なことをしていた」(士師記21:25)ということと、「祭司に主のことばはなく、幻も示されていなかった」(Tサムエル記3:1)ということは、似たような問題であったということがよく分かります。
政治的な指導者もいなければ、宗教的に神に直接つながる直接の人物もいない状況ですね。

サムエルの後に、民は王を求めます。
どうしても王がいなければ、国が統一されて戦うことができない、という意味で王を求めます。
しかし強力なリーダーがいれば、社会が安定するわけではないです。
逆に世界はとんでもない方向に行ってしまうということも、昔も今も変わっていません。

「【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(Tサムエル3:1)
これは私たち自身への反省として考えていかなければなりません。
当時であっても、神の箱は会見の天幕にきちんと安置されていて、
そこのともしびが消されることがなく、毎日いけにえがささげられていました。
しかし、それは形だけのことであって、主のことばが語られ、聞かれていたわけではないです。

今で言うなら、礼拝が行われ、説教が語られ、人が集まっている。しかしそこで本当に主のことばが語られているのか?というのは、説教者の責任です。
主のことばが本当に聞かれているのか?というのは、会衆の責任です。
語る私には、多大な責任があります。

説教者も人間でありますから、(神のことばを)間違って解釈して語る場合もないわけではありません。
聖書はそのように言ってないのに、それに自分の考えを混ぜこぜにすることによって、あたかも聖書が語っているかのように語ってしまう。
そういう時に、皆さんは聞く耳をしっかり持っていなければいけないですね。
そしていつでも大胆に、「先生、それ違うんじゃないでしょうか?」という風に、チャレンジをかけるべきなんです。
これはかけなければいけないですね。

教会の礼拝を皮肉って、こんな文章を見つけたと、もう随分前に話をしました。
飛行機に乗るのと教会に行くのと、とっても良く似ている。

だいたいお行儀が良い。飛行機に乗る時にそうですよね(笑)。
ちょっとだけ紳士淑女になって飛行機に行くじゃないですか。
ほとんどの人が静かに真っ直ぐ前を向いて座っている。
狭い席でもお行儀よく文句一つ言わずに座っている。
言われた通りに行動して、社会常識というものを意識する。
皆さん幾分親切になる。棚の上の荷物を取ってあげるとか。

ある人はうたた寝をし、ある人は窓の外をじっと見、
初めての人は緊張し、慣れてくると心地が良い。
乱気流がなければ、フライトはナイス・フライト。
普通の礼拝は、ナイス・サービス(笑)。

どこか飛行機に乗るのと礼拝に来るのとは似ている。

帰りの時には「またのお越しをお待ちしております」と。
それと同じように、礼拝が終われば「また来週来てください」と。

神の言葉が語られるとしたら、聖霊が心を打つとしたら、そういうものではないはずですよね。
それを前提に3点で短くお話ししますので聞いていただきたいと思います。

1)サムエルは、この出来事に至るまで、主を知らないですよね。神さまの声を聞いたことがない。

4節をちょっと見ていただきたいと思いますが――
【画面:Tサムエル3章4節全文にオレンジのハイライト。
5節「エリのところに〜行き」にオレンジのハイライト
6節「【主】はもう一度、サムエルを呼ばれた」にオレンジのハイライト】

<Tサムエル3:4〜6>
4【主】はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、
5エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。それでサムエルは戻って寝た。
6【主】はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、・・・

ということは、サムエルは【主】の声を聞いたことがないということです。
それはイコール、サムエルは幼かったからだ、と言うこともできますし、でも人間ってそういうものなのかもしれない、とも考えさせられますね。

サムエルは小さな頃から神殿に捧げられて、神殿で生活し、やがて祭司の洋服エポデを身にまとい、【主】に仕えていました。
しかし【主】が彼の名前を呼んだ時に、彼にはそれが神さまであるということは理解できませんでした。
神さまを知る、という体験がなかったからなんだろうか?

いやもっと根本的に言えば、覚えておかねばならないことは、私たち人間は、神さまの声をもともと知らない、ということです。
心と頭の中には、様々な声が飛び込んでまいります。周囲の声、自分の声、偉い人の声。
そんな中で、私の名前を呼ぶ神さまの声を識別することができるとしたら、そんなに簡単なことではないですよね。
聖書には偽預言者と言われる人がいます。
それは自分の勝手気ままな想像や願望を、あたかもそれが神の声であるかのように、まことしやかに言いふらす者。
――この偽預言者の責任というのは、重大ですよ。

ちょっと申命記の18章を見ていただきたいと思いますが――この重大な責任。
申命記18章20節ちょっと上の段と下の段がありますから、よく見てください。
【画面:申命記18章20節全文にオレンジのハイライト、
21節「どのようにして知ることができるのだろう」に同色のハイライト
22節「そのことが起こらず〜ことばではない。」に同色のハイライト】

<申命記18:20〜22>
20ただし、預言者であっても、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、或いは、ほかの神々の名によって告げたりする者がいるなら、その預言者は死ななければならない。」
21あなたが心の中で、「私たちは【主】が語られたのではないことばを、どのようにして知ることができるだろうか」と言うような場合、
(***知る方法は簡単ですね、と説明して読み続ける)
22預言者が【主】の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは【主】が語られたことばではない。・・・

15年ぐらい前に、ある教会の一派で「預言」が流行りました。
その教会は「異言」を非常に重んずる教会で、いつの間にかそれを跳び越えて、「預言」というのが随分出て来るようになりました。
私(藤本牧師)の友人の先生で、ま、宮崎先生なんですけれども、「異言」が割とお好きな先生でいらっしゃいまして――真実な信仰と真実な伝道をいつも意識している教団ですから、ペンテコステ派と言いますけれども――
「もっともっと私たちはペンテコステ派を理解すべきだ」ということをいつも仰っていました。
私もペンテコステ派の方々と仲良くするようにしていました。

そこである一つのグループが、しきりに預言をした時に、宮崎先生は仰ってましたね。
「ことごとく外れる。旧約聖書に何と書いてあるか?――彼らは死ななければならないと書いてある。」(笑)「少なくとも牧師は辞めるべきだ」と。
ああ宮崎先生だなぁと(思いましたね)。筋が通っている。「異言」は聖書に書いてあります。

「異言」をする牧師がいて何の問題もない。
ただ解釈者がいないんなら、それは礼拝の場において控えておいたらいい。
自分で異言で祈ればそれでいいわけですよね。
その聖霊の働きによって様々な癒しができる人がいるなら、それは重宝されればいいです。多くの人を癒したらいいじゃないですか。
私(藤本牧師)はそれが奇異なことだとは、全然感じてない。なぜならイエスさまがそうなさったからです。
でも預言となると、イエスさまはそうそう預言していない。
イエスさまはある出来事の予兆を語っているだけで、
「それがいつ起こるのですか?」と弟子たちに訊かれた時には、
「わたしには、それは関わらないことだ」ときちっと抑えています。
それをあたかも、それはこうなるかのように言って、ならなかったら、旧約聖書では「死」が待っているんですよ。
それほど、語る者の責任は大きい、ということですね。
神の御名を使って語る者の責任は大きい。

私は聖書学者ではありません。一人の牧師です。
で、牧師の方が聖書学者よりも責任は重いと思っています。
学者であれば、聖書解釈の方法、見解、自分の考え、聖書の読み方というのは、割と自由に発表することができます。
そしてある意味、人と違えば違うほど、その発表には意味があるのかも知れません。
「あの人はこう考えるけど、私は違った考えをする」で学者はそれで通るんです。

しかし牧師はそういうわけではないです。
牧師であろうが、誰一人として――数千年前に全く違った文化で記された聖書――これを紐解くなんてことができる人はいないんですよ。
でもそのために相当な宿題をこなしますよね。
でも一番大切なのは、《みことばの前で遜って聖霊に耳を傾け、真実に歩もうとするなら、神は必ず聖書を通して真実な声を聞かせてくださる》と信じる。
そしてもし自分が間違った理解に立っていて、「あ、間違っていた」と思ったならば、それをきちっと言い直す。正す。
「間違っていました」と言わなければ、その人は、ま、偽預言者のクラスになってしまうわけですよね。
牧師はそういう意味で、聖書のメッセージを語ることに慣れて来ますと、割と聖書が分かったような気になりますけれども、傲慢になりましたらそれで終わりだろうと、私は思います。
本当ならサムエルのように、
「神さまの声は聞いた?」
「聞いてない。よく分からない」と言う方が、私は的を射ていると思います。

2)そんなサムエルにエリは教えました。

今度呼ばれたら、こう言いなさい。
「【主】よ、お話しください。しもべは聞いております。」(Tサムエル3:9)
これこそが、聖書の中で最も適切な信仰姿勢です。
私たちの祈りはほとんど逆です。素直に真逆です。
自分の願いを全部吐き出しておいて、そして聞いてくださらない神さまに憤りを覚える。
「どうして、神さま、聞いてくださらないんですか!」と。

サムエルの場合、エリから学んだのは、第一声が「【主】よ、お話しください」と、
神さまに話す権利を先ず渡していますよね。
私たちが神さまを連れ廻すのではない。神さまが私たちを導いてくださる。
私たちの願い事を神さまに聞かせるのではない。主に語っていただく。教えていただく。みこころを聞かせていただく。そして主についていく――その部分が、「しもべは聞いております」

「しもべは聞いております」は難しい言葉で言うと、
「【主】よ、お語りください」に副詞節として、分詞でくっついているんですね。
分詞でくっついていると、この言葉は二つの文章ではない。
「【主】よ、お話しください」がメインなんです。そして副詞節でくっついているのは、
「しもべは聞く用意ができていますから」という形でくっついているんです。
聞く用意がないなら、【主】が話して一体何の意味があるんだろうか、と思いますよね。

「しもべは聞いています。聞く準備はあります。無駄にはしません。
聞く用意が私にはあります。あなたのしもべですから。
どうか私にあなたのみこころをお聞かせください。私はその通りにします。」
まで言えるのか?ですよね。
実際神さまが、そうお語りになったら、ですよ。

説教者がそう語ったからその通りにする、ではない。
説教者の言葉を通して、神さまが直接にあなたのある問題に語りかけてくださったのならば、
「私には聞く用意がある」ということは、「それを実行に移す覚悟がある」。
或いは「実行に移すことができるように、神さま、どうか私に力を与えてください」という姿勢が自分にある。

(※ここで今までのポイントをまとめて語ってくれる藤本牧師)
1)一番目に申し上げたのは、「【主】よ、お話しください」という前に、サムエルには【主】の声が分からなかった。
往々にして、私たちにも分からないものだ。
分かったような気になっている方がよっぽどおかしい。

2)二番目にお話ししましたのは、私たちの信仰姿勢も含めて、聖書を読むその姿勢も含めて、説教を語るその姿勢も含めて、すべて、
「主よ、お話しください。私はあなたのしもべにすぎません。それを聞く用意があります。聞いたことを実行する用意があります」――これが、少年サムエルの最も一貫した姿勢になります。

先週、元旦礼拝で学びましたよね。「主を重んじる者」(というタイトルで)。
「わたしを重んじる者を私は重んじる。わたしを蔑む者をわたしは軽んじる」(Tサムエル2:30)と、神さまはエリに仰いました。
その生き方もサムエルの人生を貫く。
同時に、主を重んじるサムエルはいつも「主よ、お話しください、しもべは聞いています」という(遜った)姿勢を貫いていきました。

3)これがとっても厄介です――サムエルは聞いたんですね。

ちょっと11節から読んでみましょうか。(Tサムエル)3章の11節から。
【画面Tサムエル3章11節「見よ、わたしは〜両耳が」に黄色のハイライト
13節「わたしは〜彼に告げる」「思いをとどまらせなかった咎のためだ」に同色ハイライト
14節「赦されることはない」に同色ハイライト
15節「朝まで寝て」にオレンジのハイライト】

<Tサムエル3:11〜15>
11【主】はサムエルに言われた。「見よ、わたしはイスラエルに一つのことをしようとしている。だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る。
(***というのは、全身が震える、ということなんでしょうね、日本語では、と説明)
12その日わたしは、エリの家についてわたしが語ったことすべてを、初めから終わりまでエリに実行する。
13わたしは、彼の家を永遠にさばくと彼に告げる。それは息子たちが自らにのろいを招くようなことをしているのを知りながら、思いとどまらせなかった咎のためだ。
14だから、わたしはエリの家について誓う。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に赦されることはない。」
 15サムエルは朝まで寝て、それから【主】の家の扉を開けた。サムエルは、この黙示のことをエリに知らせるのを恐れた。

サムエルは聞いたんですね。
なんとも少年が聞くには、しかも神さまから初めてその声を聞くには、しんどい話でした。
11節にあるように、「イスラエルに一つのことをする」というのは、エリの家を滅ぼすっていうことです。
そしてその現実を知ったら、「だれでもそれを聞く者は、両耳が鳴る」と言う。
だったらそういうことは、私のような少年に、初めてあなたの声を聞いた少年に、話さないでください、ですよね。
それを少年が聞かされたら、両耳が鳴りますよ。全身が震える。

15節に「サムエルは朝まで寝て」とありますが、私(藤本牧師)は寝られなかったのではないかと思います。
「朝まで寝て」というのは、朝になって初めて主の家の扉を開いた、ということで、彼は直ぐにエリには言わなかった。言えなかった。

17節に、エリの方からサムエルに、「何と言われたのか?」と。
サムエルはありのままを、その時初めて話しました。
自分を育ててくれて、自分の父親のように自分を可愛がってくれたエリです。
エリはホフニとピネハスの様子を見ていて、もう本当に心を痛めたことでしょうね。
そして祭司エリは、自分の息子がああでありますから、よほどサムエルを可愛がったんだろうと思います。
しかし一番しんどい「エリの家をみな滅ぼす」ということを、神さまは少年サムエルに聞かされます。
「【主】よ、お話しください。しもべは、聞く備えはできています。」

時に私たちは祝福を聞きます。時に私たちは導きを聞きます。
でも時には悪い知らせを聞く。
時には「両耳が鳴る」(3:11)――全身が震えるようになることもあるわけですね。

元旦礼拝が終わって、私はいつもの通り、昼寝をしました。
地震がありました。しばらくしたら、私たちの教会の兄弟が、ニュースの報道に出ていました。
夜のニュースをつけたら、またそのニュースが彼の口から出ていました。
私は一言、昨日メールをしたんですけれども、「飛行機の事故もあって、大変だったね。」

私たちは部分的にしか情報を見ない。
地震の様子。被災地の姿。避難している方々。物資が届かない。政府の方々が色々手配をしている。バラバラにしか見ないですね。
でもそれを全国に向けて語る人は、全部の情報を集約して、全部を語らなきゃいけないですね。
集約するってどういうことなのか?その現実を全部自分の中に取り込むんですよ。
別に原稿を読んでいるわけではない。
そんなことが新米にできるのか?私はできないと思います。
それはベテランにならないとできない。

でもここでサムエルは新米でありながら、全部のことを心の中に入れなければいけない。
そう考えますとね、神さまは次の預言者をサムエルにしようとしているんですよ。
神さまは《サムエルを試した》と言うと申し訳ないんですけれども、
どれほどの重荷を彼が負うことができるか、ということを神さまはサムエルに課した。
だからご自身がなさることを全部サムエルに告げられた。
ま、言葉で話す・話さないは、あんまり問題ではないんだろうと思います。
でも言葉で話したのは、《それが起こった時に、間違いなくわたしなんだ》ということをサムエルに分かってもらうために、
神さまは事前にサムエルに話をした――イコール、《サムエルを預言者に選んだ》ということ。
サムエルを祭司に選んだわけではない。預言者に選んだ。
「お話しください。しもべは聞いております」と。
神さまはむやみやたらに話す方ではない。
預言者に立てる、その自覚を持ってもらうために、たとえ彼が少年であっても、彼に話されました。
嫌なことを聞かせられ、重荷を背負わされることによって、彼は成長します。

皆さんに、元旦礼拝で(Tサムエル2章)を見ていただきましたよね。
2章はホフニとピネハスの悪事がざ〜っと書いてある。
でも至る所に、「少年サムエルは成長し、神と人とに愛される(21,26節)ようになっていくわけですよね。
そのコントラスト。育てられた境遇は非常に劣悪なのに、少年サムエルはすくすく育っていくんですよ。
でもここで、非常に重たい重荷を背負わされることによって、サムエルは預言者としての道を歩むようになって行くわけですよね。

今年一年間、私たちが「お話しください。しもべは聞いております」と神さまに言った時に、神さまは良いことばかりを語るわけではないんです。
それは私たちのからだの状況かも知れないし、この世界の様々な劣悪なニュースかも知れないし、私たちの付近で起こる嫌〜な出来事かも知れないですね。
でも神さまは、それを私たちに話してくださる。
話せば話す程、神さまと私たちの距離は短くなる。
私たちが羊であるならば、羊が迷う時に、羊飼いもかばってくださる。
羊が疲れた時に、羊飼いは休ませてくださる。
そういう思いで、イエスさまが先にご覧になるありとあらゆる重荷を、少しでも分かち合えるだけ、私たちが強められ、
自分のことだけに心を縛られず、少し心に余裕を持つような信仰者になることができたら感謝であります。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

「お話しください。しもべは聞いております」(Tサムエル3:10)

恵み深い天の父なる神さま、私たちはあなたを御守りのように吊り下げて、自分の行きたい所、自分の願っていることを叶えてもらおうなどとは、到底思ってはいません。あなたは天地万物を創られ、私たちを愛し、救いに導き、私たちを用いてくださるお方であって、時に様々な声をもって、そして何よりもみことばをもって、あなたの声を私たちに聞かせてくださるお方です。
どうか私たちに、聞く用意がありますように。それが悪いニュースであっても良いニュースであっても、それを担うだけの力を私たちに与えてくださいますように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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