☆聖書箇所 イザヤ41:1〜5
1 「島々よ、わたしの前で静まれ。 諸国の民よ、新しく力を得よ。 近寄れ。そして語れ。 われわれは、ともに、さばきに近づこう。 2 だれが一人の者を東から起こし、 その行く先々で勝利を収めさせるのか。 だれが彼の前に国々を渡し、 王たちを踏みにじらせるのか。 彼はその剣で彼らをちりのようにし、 その弓で藁のように追い散らす。 3 彼は彼らを追い、難なく進んで行く。 まだ自分の足で行ったことのない道を。 4 だれが、最初から代々の人々に呼びかけて これらをなし、これらを行ったのか。 【主】であるわたしだ。わたしは初めであり、 また終わりとともにある。わたしがそれだ。 5 島々は見て恐れる。 地の果ては震えながら、 近づき、やって来る。
☆説教 戸塚伝道師:まだ行ったことのない道を
新しい2024年のこの年を迎えました。まだ二週間しか経っていないのに、様々な出来事が起こったこの二週間でございました。
高津教会も新しい年、新しいみことばでスタートいたしました。そのみことばが―― 「お話しください。しもべは聞いております」サムエル記第一の3章10節のおことばです。
「お話しください。しもべは聞いております。」 (※右手で栞を挟んで、胸の前に上げて見せながら) まだこの栞をお持ちでない方はぜひお持ち帰りいただきたいと思います。 少し部数もありますので、お友だちに或いは知人にお贈りしたい、お渡ししたいという方は、余分に持って帰ってもよろしいかと思いますが、 この一年、このおことばを心に留めて、日々歩んでいきたいと思います。
初めての印象、なんと分かり易い聖書のことばなんだろうか、今年の高津教会の新年のこのおことば。 でもなんと大切なおことばなんだろうか、改めて思います。 このことばを語ったのは、少年サムエルでした。 何歳ぐらいだったんでしょうね。小学生?小学校低学年ぐらいだったかも知れません。
この聖書のことば、少年サムエルが語ったことば。 「お話しください。しもべは聞いております。」 私たちは毎日の生活の中で忙しく、お祈りすることもできないような忙しさの中に置かれている場合もあるかもしれません。 またお祈りして、お祈りして、お祈りして、神さまに祈ってばかりいて、肝心の神さまの声、神さまのみこころ、神さまの私たちに対する思いを全然聞いていない場合があるのではないだろうか? 私はこの聖書のおことばを心に留めながら、そういうことを問われたような気がいたしました。 どれぐらい神さまの前に静まって、お祈りする前に「お話しください。しもべは聞いています」という姿勢で、神さまの前に静まっていただろうか? 座ったらすぐお祈り、座ったらすぐお祈り(笑)座ったらすぐ聖書。 でもその前に、「お話しください。しもべは聞いております」(と祈るサムエルのようだったか?)。 そう考えますと、説教することって難しいなって思います。
説教っていうのは、私(戸塚伝道師)は今年でもう7年、聖宣神学院を卒業して7年になろうとしていますけれども、ほんとに説教するっていうことの難しさを、最近ほんとに感じております。 一番問われたのが、「本当におまえは、わたしのことばを聞いているんだろうか?」 神さまのことばを聞いて、私は語っているんだろうか? それとも、先週藤本満先生がお話しされていたように、自分の話したいことを勝手に解釈して語っているのだろうか? 私は説教者として、身が引き締まるような思いがしました。 「お話しください。しもべは聞いております。」 今日、この場に立たせていただいて―― 「何を語ればよろしいんでしょうか?しもべは聞いております」――これが説教の原点である。 そして私たちの信仰生活の原点でもある。 そのような思いで、今年のこのみことば、神さまの前に遜って、神さまがいったい何を語ろうとしておられるのか?
元旦礼拝でこのみことばを聞いた4時間後、能登半島地震でした。 元旦礼拝でこのみことばを聞いてその翌日、日航機の衝突事故でした。 「お話しください。しもべは聞いております」 ――様々な出来事の中で、神さまが私に何を語ろうとしておられるのか―― お祈りする前に、聖書を読む前に、《このみことばを心に出して静まるひと時を、共に持たせていただければ》どんなにすばらしいことか、と思わされたことでございます。
ということで、今日も私たちはイザヤ書の第41章のみことばから、 神さまがどのようなことを私たちに語ってくださるのか、待ち望みたいと思います。 「まだ行ったことのない道を」と題しまして、イザヤ書の41章の1節〜5節のお言葉に心を留めていただきたいと思います。
イザヤ書は40章から、慰めと回復の預言が書かれていますが、この41章から具体的なイザヤの預言が始まっていきます。こうあります。41章1節――
1 「島々よ、わたしの前で静まれ。 諸国の民よ、新しく力を得よ。 近寄れ。そして語れ。 われわれは、ともに、さばきに近づこう。
この「われわれは、ともに、さばきに近づこう」 この「さばき」ということばがありますが、さばかれるのはだれか? それは、当時のユダヤ人を支配していたバビロン帝国であります。 バビロン帝国がさばかれる、そのさばきが近づいて来る、ということです。
(イザヤ41章)2節をご覧いただきますと――
2 だれが一人の者を東から起こし、 その行く先々で勝利を収めさせるのか。
「一人の者」ということばが2節にあります。 「一人の者を東から起こす」――この「一人の者」とはいったい誰なのか? 当時で言えば、ペルシャのクロス王さま、クロス2世でありました。 やがてこの「一人の者」クロス2世は、紀元前539年にこのクロス王率いるペルシャの国が、バビロン帝国を滅びに追いやることになります。 その預言がこの2節に書いてあります。 バビロンに捕らわれの身となっていたユダヤ人たちを解放し、エルサレムに戻るように、このクロス王さまは命令をするわけですね。 このような背景を頭の片隅に置きながら、今朝、3つのことをみことばから思い巡らしていきたいと思います。
1)まだ行ったことのない道
今日の説教題にもなっていますが、「まだ行ったことのない道」 3節をご覧ください。
<イザヤ41:3> 3 彼は彼らを追い、難なく進んで行く。 まだ自分の足で行ったことのない道を。
新改訳聖書第3版では、「まだ歩いて行ったことのない道を」と訳されています。 まだ一度も経験したことのない道。 この場合、主語は彼ですね。彼とは誰のことか?ペルシャの王さま、クロスです。クロス王さま。 やがてペルシャの王さまクロスにとっては、バビロン帝国を滅ぼしに行く道――それがまだ自分の足で行ったことのない道なのです。
でも私たちにとっても、「自分の足で行ったことのない道」って沢山あると思います。 実際の道だけではなくて、「この新しい年、私たちはこの新しい年そのものが、まだ自分の足で行ったことのない道である」――そういうこともできます。 新しい環境に置かれることかも知れません。 新しいチャレンジかも知れません。
今年小学校一年生に上がる人たちがいますけれども、その子どもたちにとって、それが「まだ行ったことのない道」でしょう。 まだ行ったことのない学校、まだ行ったことのないクラス。まだ会ったことのない先生、友だち。 新しいランドセルを胸に、今大きな希望を抱いて、学校が始まるのを楽しみにしているかも知れません。
ちなみに自分の好きなランドセルの色を折角選んだのに、新一年生は大体黄色いカバーがかけられてしまうんですね。交通安全カバーが。 それで自分の気に入ったランドセルの色を、表から見ることができない。 やっと外せるのは二年生。「こんな色買ったっけ?」なんていう感じで見ています。 それでも今、希望に燃えて、まだ行ったことのない道をこれから歩む一年生の心はどんな気持ちでしょうか?
今年中学生になる人、今年高校生になる人、今年大学生になる人、今年社会人になる人、「まだ行ったことのない道」が待っていますね。
2024年、新しいことを始めた、新しいチャレンジをした、という方もおられるかも知れません。 それも「まだ行ったことのない道」でしょう。 ある方にとっては、「行ったことのない道」というのは、試練の中でそれを感じさせられるかも知れません。 これから一体どうなってしまうのだろうか?どうなって行くのだろうか? 恐れと不安に打ちのめされるような状況に置かれることがある――それが「まだ行ったことのない道」かも知れません。
お互いの人生にとって、受験という「まだ行ったことのない道」を、目の前にされている方々もいるでしょう。 どんな問題が出るんだろうか?当日、風邪を引いていないだろうか?当日電車が止まったりなんかしないだろうか? 受験――あの独特の緊張感、独特の不安、もう二度とあの経験を味わえない私は一抹の寂しさ(笑)を覚えるくらいになりましたけれども。 でもあの時のあの気持ちは、今でも心の中に刻み込まれています。
ある方にとっては病気。怪我。 いま病気の最中におられる方々、私(戸塚伝道師)も含めて、「これから一体どうなるんだろうか?」 私の妻が怪我をして、今年で10年になります。皆さん、あの時お祈りありがとうございました。 あの時ほど、「まだ行ったことのない道」を感じたことはなかった。 本当にどうなってしまうんだろうか?
ある方々にとっては、天災。 いま能登半島地震の中で、同じ気持ちで「これからどうなるんだろうか?」という思いで、この瞬間も過ごされている方は沢山おられると思います。 人災もそうでしょう。犯罪もそうでしょう。様々な事故もそうでしょう。「どうなってしまうんだろうか?」
最近私(戸塚伝道師)にとって、「まだ行ったことのない道」は老化現象ですね。「老い」です。 「まだ行ったことのない道」――(※両手を広げて見せて)皆さん、先輩が沢山おられますので、(笑)教えてください。 「こうなりますよ、ああなりますよ」と。個人差はあるかも知れません。 今年私70歳。「あ、まだまだ、うん」(※右手で押さえるようなしぐさで)そう仰る方がいるかもしれません。(※右手を振って)「そんなもんじゃないわよ」、 でも私にとって、「まだ行ったことのない道」なんです。
そのような「まだ行ったことのない道」――私たち一人一人のこれからの歩みすべてを象徴することばでもあるでしょう。 今2024年の1月の14日でありますけれど、今から一分後はもう既に「行ったことのない道」であります。 一時間後、4時間後、今日一日、明日、明後日、一週間後、一カ月後、一年後、半年後、五年後、十年後、そして召される時。 私たちは目の前に「まだ行ったことのない道」が(※両手を胸の前から押し出すようにして)伸びています、私たち、一人一人に。 考えれば考えるほど、考えさせられます。 様々な現実を前に、不安になって来ることがあります。 これらのことを、私たちは既に元旦早々、元日早々、実感させられました。
2)それらの道を「難なく進んで行く」(イザヤ41:3)
<イザヤ41:3> 3 彼は彼らを追い、難なく進んで行く。・・・
《クロス王はバビロン帝国の兵隊たちを追い、難なく進んで行く》という預言でありますけれども、 私たちも「難なく進んで行く」というお約束がここに書かれている。 「難なく進む」――どのような状況であったとしても、一寸先はどうなるか分からなかったとしても、 「難なく進んで行く」という約束が、みことばにぽろっとあっけなく書かれている。 ユダヤ人を虐げたバビロン帝国を滅ぼすために、クロス王はバビロン帝国の軍隊を追っかけて、難なく進んで行く。
この「難なく進んで行く」――口語訳聖書ですと、もっとしっくり来ます。 「安らかに過ぎて行く」と訳されています。 「安らかに過ぎて行く」――現実、そんなきれいごとではありません。厳しいです。 「難なく」ではない、「難あり」です――そうかも知れません。 でも私たち、振り返った時、私たちの歩み――「まだ歩いて行ったことのない道」ではなくて、「今まで歩いて来た道」――を振り返る時、 そこに神さまの恵みが確かにあった、と言えるものが沢山あるのではないでしょうか?
既に2023年の年末、私たちは恵みを数えて、神さまに感謝を捧げさせていただきました。 沢山の恵みを神さまから与えられた。2023年の元日には、分からなかった恵みです。 2023年の元日には分からなかった道かも知れない。 でも、2023年の元日には分からなかった恵みが、確かに神さまによって沢山与えられているということが(年末には)分かりました。
このような道に導かれるお方(について)、3つの(だれが、という)質問がありますね。1つ目は2節に――
<イザヤ41:2〜4> 2 だれが一人の者を東から起こし、その行く先々で勝利を収めさせるのか。・・・
(2つ目は)2節の3行目――
2・・・だれが彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせるのか。・・・
3つ目の「だれが」が、4節にあります――
4 だれが、最初から代々の人々に呼びかけて これらをなし、これらを行ったのか。
だれが、だれが、だれが、だれが「難なく進ませて」くださるんだろうか? だれが「安らかに過ぎて行く」ようにさせてくださるのだろうか? 答えが、(イザヤ41章)4節の3行目――
4 【主】であるわたしだ。・・・
と書かれています。神さまこそ、世界の歴史の支配者であられる。 歴史は神さまの導きのもとで動いている。 この世界は、正義と癒しと希望の神さまが、新しい世界に向かって、進めさせてくださっている。 そのようにこの世界は変えられ続けている。 ゆっくりかも知れません。神さまのみわざは。でも確実に、この世界は正義と癒しと希望へと向かって進んでいるのであります。 「【主】であるわたしだ」――ユダヤ人を虐げて来たバビロン帝国が、権力と暴力をどんなにほしいままにしたとしても、 世界の歴史の支配者、すべてのものを造られた創造者が、(※ペルシャの)クロス王さまを立ててバビロン帝国を滅ぼすことになるわけです。 その預言を、イザヤは神さまから与えられて、ここで語っているわけです。
思うに、歴史を導かれる神さまは、人を用いられることが分かります。 しかも信仰のあるなしに関わらず、人を用いられる。 このクロス王さまは異教徒の王さまです。異教徒の国の王さま。 その王さまでさえ神さまは用いて、イスラエルを守り保護するために、このクロス王さまを、神さまは立てられるわけですね。
同じように、歴史を支配されている全知全能なる創造主は、 この私にも、「主であるわたしだ」と語ってくださるお方です。 宇宙の、銀河系の、太陽系の、地球という星の、アジアの、日本の、関東地方の、神奈川県の、川崎市の、高津区溝口4丁目3番18号――これ高津教会の住所です。 今、そこに座っている私たち一人一人。その私たち一人一人に、 歴史を支配され、万物を創造され、全知全能なる愛なる神さまが、 この私に目を留め、この私のために、「難なく進む道」を備えてくださるお方。
考えてみれば、ものすごいことです。ものすごい恵みです。 これは思い込みでも、気休めでもない、事実です。 この事実を心から納得しているからこそ、今この場から(※両手を両脇に広げて、目は上の方を見て)そのお方に礼拝を捧げている。 このお方が共にいる。だから「自分の足でまだ行ったことのない道を」「安らかに過ぎていく」ことができる。(イザヤ41:3)
新しい環境に置かれて行く人も、試練の中にある方々も、これから受験を迎える方々も、 私のこれから、私の日々の歩み、高津教会のこの一年、将来、召される時、やがて神の国に行ってからも、 私たちは安らかに過ごすことができるような恵みが、既に備えられているんだということです。 その保証は、「わたしだ」と仰る。「主であるわたしだ」と仰る。 神さまが保証してくださる。神さまに保証があるんです。
3)4節の最後、ダメ押しのように、神さまは宣言されています。
<イザヤ41:4> 4・・・【主】であるわたしだ。わたしは初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。
「わたしは初めであり、また終わりとともにある。」 同じようなみことばが、黙示録22章の13節にあります。 (※同じように、黙示録1:8と17、21:6にも)。
<黙示録22:13> 13わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
ここ(イザヤ41:4)では、 「わたしは初めであり、また終わりとともにある。」 主こそ初め。主こそ初めである。 初めとは、創世記1章の1節に、「はじめ」ということばが出ています。 「はじめ」――創世記の1章1節、これは新改訳2017では、「はじめ」はひらがなで書かれている。 あとがきを見ますと、「日本語の通常の意味と違う意味合いを出したい時には、ひらがなにしてあることばがあります」と書かれてありました。 この「はじめ」には、単なるはじめではなくて、すべてのはじめ、それを表したかったのでしょう。 創世記の1章の1節の一番最初のことばの「はじめ」には、ひらがなで書かれています。
主こそ初め。この初めは、創世記の1章の1節の前の初めです。 主こそ初め。時間の始め。空間の始め。宇宙の始め。 すべてのものの初め。人類の初め、歴史の始め。 福音の初め、一年の初め。新年度の始め。 まだ行ったことのない道の初め。 主こそ初め。その初めに神さまはおられる。
(イザヤ41:4続き)そして 「また終わりとともにある。」 神さまは終わりとともにある。2024年の終わり。試練の終わり。人生の締め括りとしての終わり。 「終わりとともにある」――私たちがまだ行ったことのない道の終わりに、この神さまはおられる。 神さまは既に、私が行ったことのない道、その終わりにおられるということは、まだ私たちが行ったことのない道を、イエスさまはもう先に立って歩いてくださっているということです。 イエスさまはご自分の足跡を付けてくださっている。 私たちは一日一日、一時間一時間、自分では意識しないかもしれませんけれども、神さまに導かれて、その足跡の上を一歩一歩、一足一足、歩んで行っているわけです。 「神さま、よろしくお願いします。お導きください」と祈りながら、神さまに手を引かれて、そして人生の終わりに、その目的地にイエスさまは待っておられる。 そこは天国の入り口でしょうかねぇ? そうすると、そこはもう終わりではないですね。始まりですよね。始まり、終わりが始まりになる。でも地上生涯の終わり。
それと共に本当に不思議なことに、既に終わりにおられる神さまは、もう一人の助け主、聖霊を通して、今も私と共にいてくださる、イエスさまです。 「まだ行ったことのない道」を、私と共に歩んでくださるイエスさま。 私たちはイエスさまがすぐ隣にいて私の手を握って、「はい、こっちだよ、こっちだよ」って言って、イエスさまからいつも恵みをいただいているのに、そんなこと全然意識しないで毎日生活している。 目に見えたらばすごいでしょうね。でも目に見えたらば緊張するでしょうね。見えてないからいいのかもしれない、イエスさまが。 でもいつも手を握って、その温かい手を私たちは握られて、瞬間瞬間イエスさまと共に歩んでいる。 「わたしがそれだ」――共におられる神さまがそう仰る。 わたしが成し遂げる。わたしが責任を持つ。わたしがあなたに安らかに過ごしていける恵みを与える。
2024年何が起こるか、何が待っているか、それは分かりません。 でも歴史の支配者が、私たちの神さまです。 歴史の支配者が、私たちのイエスさまです。 その歴史の支配者が人となって、私の隣を歩んでくださり、私の手を握りながら、一歩一歩共に歩んでくださっている。 だから何があっても大丈夫なのです。
日航機の衝突事故で、畿内でパニック状態に陥るような状況の中で、人々の心を安心させてたことばは何だったのか? それはキャビン・アテンダントの「大丈夫ですよ〜、大丈夫ですよ〜」その一言だった。 「大丈夫ですよ〜」キャビン・アテンダントのその一言で、人々をパニック状態から守ったとするならば、 私たちの神さまの「大丈夫ですよ〜」は、本当に大丈夫なんですよ(笑)。 この2024年、何が起こっても大丈夫なんですよ。 「大丈夫」と仰るのは、神さまですよ。 「まだ行ったことのない道」(イザヤ41:3)、神さまが共におられる。
去年のクリスマス聖日に、洗礼を受けた6歳の男の子が詩篇23篇を暗唱しました。 すごいですね(※嬉しそうな笑顔)、23篇。 その証しの中で、「ぼくは4歳の時、死ぬことが怖かった、だけど神さまを信じて、『永遠のいのちを持つ』というみことばをもって、ぼくは神さまを信じてよかったと思います」という証しをされていました。そして洗礼を受ける恵みが与えられた。 あの子は、半年以上前から「ぼくは洗礼を受けたい、ぼくは洗礼を受けたい」という強い思いを神さまから与えられていました。 その男の子が心から感じていたことは、「イエスさまがぼくと一緒にいる」ということでした。 「たとえ、死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。」(詩篇23:4)
「まだ行ったことのない道」(イザヤ41:3)には、既に恵みがいつも備えられている。 恵みが備えられているだけではない。「いつくしみと恵みが 私を追っかけて来る」と(詩篇)23篇の6節にあります。 追いかけてくる、このイエスさまと共に。 イエスさまの手に引かれながら、これからの安らかに歩んでいく道、それがもう始まっています。
☆お祈りをします――戸塚伝道師
わたしは初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。 (イザヤ41:4)
世界の歴史の支配者であられる、全知全能なる創造主なる神さま、そして聖霊によって今私たちと共におられる救い主イエスさま、心から感謝いたします。
早くも2024年、二週間が過ぎましたけれど、私たち一人一人の前に「まだ行ったことのない道」(イザヤ41:3)があります。この先、何が待ち受けているのか、これからどうなっていくのだろうか、まったく分からず、怖れや不安に駆られることが多くあるかも知れません。でもあなたはこの私に目を留め、私たち家族に目を留め、与えられた務めに目を留め、辛い状況に目を留め、また今礼拝を捧げている高津教会一人一人の私たちに、この群れに目を留めて、「難なく安らかにその道を歩む」(同41:3)恵みを備えていてくださるお方ですからありがとうございます。
「わたしは初めであり、また終わりとともにある」(イザヤ41:4)と宣言された神さまに、すべてをゆだねて、あなたと共にこの道を歩んでまいります。この一年も、そしてとこしえまでも、どうぞよろしくお導きください。愛するイエス・キリストのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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