☆聖書箇所 Tサムエル5:1〜6:2 <Tサムエル5:1〜12> 1ペリシテ人は神の箱を奪って、エベン・エゼルからアシュドデまで運んで来た。 2それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。 3アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは【主】の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。そこで彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。 4次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは【主】の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。 5それで今日に至るまで、ダゴンの祭司たちやダゴンの神殿に入る者はみな、アシュドデにあるダゴンの敷居を踏まない。 6【主】の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。 7アシュドデの人たちは、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱は、われわれのもとにとどまってはならない。その手は、われわれとわれわれの神ダゴンの上に厳しいものであるから。」 8それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員そこに集め、「イスラエルの神の箱をどうしたらよいでしょうか」と言った。領主たちは「イスラエルの神の箱は、ガテに移るようにせよ」と言った。そこで彼らはイスラエルの神の箱を移した。 9それがガテに移された後、【主】の手はこの町に下り、非常に大きな恐慌を引き起こし、この町の人々を上の者も下の者もみな打ったので、彼らに種物ができた。 10ガテの人たちは神の箱をエクロンに送った。神の箱がエクロンにやって来たとき、エクロンの人たちは大声で叫んで言った。「私と私の民を殺すために、イスラエルの神の箱をこっちに回して来たのだ。」 11それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。 12死ななかった者は種物で打たれ、助けを求める町の叫び声は天にまで上った。 <Tサムエル6:1〜2> 1【主】の箱は七か月間ペリシテ人の地にあった。 2ペリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「【主】の箱をどうしたらよいでしょうか。どのようにして、それを元の場所に送り返せるか、教えてください。」
☆説教 サムエル(4)どのようにして、再び神の栄光を取り戻せるか?
教会総会終わりましたので、私(藤本牧師)も平常心に戻ることができまして感謝いたします。皆さんの協力を感謝いたします。 葉書が10枚位戻って来ているんですが、ぜひ戻していただきたいと思いますし、ご意見がありましたら、ぜひ一言でも寄せてくださいますと感謝であります。
これまでサムエル記の第一で学んで来たことを、少し復習させてください。 今日は4回目になりますが、最初は元旦礼拝で、 1)2章から「神を重んじる者たち」と題してお話をいたしました。
幼いサムエルが神殿に捧げられた所から入りました。 幼いながらも祭司の装束を着て、そして神殿に仕える彼の姿。 それとは対照的に、祭司エリの息子・ホフニとピネハスは、民が持ってくるいけにえを自分のものとし、また契約の箱が安置されていた会見の天幕を守る女性と寝ていた、と書いてあります。 神さまは重大な宣言をされます。 「わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者をわたしは軽んじる」と。(***Tサムエル2:30) 高津教会の私たちは、神を重んじる者でなければいけない、というお話しをいたしました。
2)今年の聖句であります「お話しください。しもべは聞いております」(***同3:10)という箇所を見ていただきました。
まだ神さまを知らないサムエルは、神さまに呼ばれます。 エリ先生に呼ばれたと勘違いして、エリ先生のもとに行きます。 エリ先生は気がつきました。それは神が呼んでおられる。そして少年サムエルに教えます。呼ばれた時に言いなさい。 「お話しください。しもべは聞いております」と。 この言葉こそが、信仰者の人生、神の民のあり方、サムエルの生涯の要約である、とお話ししました。
3)前回は4章から、「神(の箱)を担ぎ出す愚かさ」。
イスラエルはペリシテ人と戦いを交えていました。 ペリシテ人というのは、聖書の中で最も屈強な戦闘民族です。 初めの戦いで大敗を帰して、4千人の戦士が倒れます。
そうだ、シロにある会見の天幕から神の箱を、戦場に契約の箱を担ぎ出して来ようと、担いで持って来ます。 ホフニとピネハスも一緒にやって来ました。 ペリシテはその様子を聞いて、見て、うろたえます。 エジプトを打った神が戦場に出て来た。もはや勝ち目はない。
ところが、イスラエルは簡単に打ち負かされ、今度は三万人が犠牲になります。 そしてホフニとピネハスは死に、祭司エリも死にます。 これが「わたしを蔑む者は軽んじられる」(Tサムエル2:30)という言葉の具体的な例です。
私たちも自分の都合に応じて、神を自分たちの現場に担ぎ出すような祈りをしているか、していないか、という反省がありました。 祈りとはそういうものではない。 「お話しください。しもべは聞いております」(同3:10)という《神に聞く》という姿勢が一番最初に現れてくるのが祈りだという話をいたしました。
さて、【サムエル記(4)回めの】今日はその続きです。 戦いに負けた時に、ペリシテ人は「何だ、神の契約の箱というのは何の威力もないじゃないか」ということで戦利品として持ち帰って行きます。 という所が、5章の1節です。 3つのポイントでお話しいたします。
1)神の沈黙
イスラエルが最も大切にした神の契約の箱は、神がモーセと語られる時に現れる会見の天幕の中に安置されていました。 箱の中には、十戒が刻まれた石の板とモーセの杖、そして荒野で神からいただいた食糧マナが入っていました。 契約の箱の上は、蓋は純金製です。 箱には触れてはいけない。人々はそれを知っていますので、運ぶ時には木でやぐらのようなものを組んで、それを担いで持って行くんです。 ですから戦場に持って来た時も、「担ぎ出した」という表現が為されています。
箱の中身、形に関する記述はありますけれども、実は箱が大事なのではないです。 これはあくまでも《契約の箱》。 つまり神が荒野で民と共に契約を結ばれた、ということのしるしでありました。 神はイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となる。 これから先、神がイスラエルを守ってくださり、民は神の民としてふさわしく生きていくことの象徴、しるし、約束がこの箱そのものでありました。 であるがゆえに、単なる箱ではなく、「神が民と共におられる」という《神の臨在》を現していました。
その《契約の箱》がペリシテとの戦いの時に、なんと力を発揮することはありませんでした。 神は契約を破棄されたわけではありません。 ただ神は沈黙を守られた、ということです。 自分の都合で、契約の箱を担ぎ出そうとし、しかも神を蔑むホフニとピネハスが箱と共にやって来た。 《契約の箱》も神さまも、沈黙です。
中世カトリックのミサの教えで、プロテスタント教会が反発したものがあります。 ちょっとラテン語のフレーズなんですけれども、ex opere operato エクス・オペレ・オペラート。 マルティン・ルターやカルバンが中世カトリック教会のミサを批判した時に、あれはエクス・オペレ・オペラートだと。 オペレというのは――それを行うという意味で、 エクスというのは――行うことによって、行ったことから、 オペラート――働き、効力が発揮される。 つまりミサを行うことによって、行えば必ず、効力が発揮される。 勿論そんなことを本当に信じて――そしてホフニとピネハスのような不敬虔な日常を過ごしてミサを受ければ、それでも効果があるんだ――そんなことを信じていた修道士は一人もいません。みんな敬虔な修道士です。
でも《神の箱》のように、特別に神聖なものとなりますと、私たちはどこかでex opere operato エクス・オペレ・オペラートという気持ちが、どこかで生じて来て当然です。 例えば皆さんは、2017年に聖書を変えましたよね。 新改訳聖書第3版から、新改訳聖書2017に変えた時に、 「第3版はどうしたらいいのでしょうか?」という意見がありましたね。 私たちはストレートに、「資源ごみに出したら結構じゃないですか」(笑)とか、或いは 「第3版を家の聖書にして、2017版を教会に置けるように」ということで、教会に置ける場所を造りましたよね。
で、さすがに私(藤本牧師)はちょっと無理です、捨てるのは。 私は無理です。戸塚先生はお捨てになるって仰っていました、当時(笑)。 あのね、印刷物なんですよ。 仮にもし私たちが使い込んで、沢山の線が引いてあって、そうなりますとね、着古した洋服のように、簡単には捨てられない。 それには、自分の信仰と年季が入っているわけですから。 でも新しい聖書でしたら、それはまだ印刷物ですよね。
色んな風に考えますと、貴重なものであればあるほど、神聖なものであればあるほど、信仰を込めたものであればあるほど、 割と気軽に私たちは、それを置いておくことによって、それを読むことによって、それを見ることによって、効果があると考えてしまうんです。 ルターとカルバンはそれを否定したんです。
そしてミサの前――まだ当時ミサと呼ばれていましたけれども――ミサの前に「その目の前に置かれたパンとぶどう酒が、キリストのからだと血潮に変化させる」という司祭の祈りを止めてくれと。 変化しなければいけないのは、パンとぶどう酒ではない。 変化しなければいけないのは、それを受け取る私たちの心だと。 だから私たちが悔い改め、私たちが真実な信仰をもってそれを受け取るように、司祭は私たちのために祈らなければいけないんだ、ということを言ったわけですよね。
この《神の契約の箱》というのは半ば、そういう意味を持っています。 神さまに全く信頼を傾けず、神さまを軽んじているような日常生活を送りながら、でも「箱が来れば問題は解決する」――そういうものの考え方はわたしを蔑むことになる。 神さまは沈黙を保たれました。
2)神の契約の箱は、沈黙していただけで、力を失ったわけではありませんでした。
ちょっと聖書を見ていただきますね。 神の契約の箱には、偉大な力がそのまんま残っています。
【画面:Tサムエル5章2節「ダゴンの神殿」「ダゴンの傍らに置いた」3節「地にうつぶせになって倒れていた」4節「地にうつぶせになって倒れていた〜胴体だけがそこに残っていた」に山吹色のハイライト】
<Tサムエル5:2〜4> 2それからペリシテ人は神の箱を取り、ダゴン(***ペリシテ人の偶像です、と説明)の神殿に運んで来て、ダゴンの傍らに置いた。 (***というのは、戦利品をダゴンの、偶像への奉献物として置いた、ということですね。)
3アシュドデの人たちが、翌日、朝早く起きて見ると、なんと、ダゴンは【主】の箱の前に、地にうつ伏せになって倒れていた。 (***この偶像が倒れて、契約の箱すなわち神を礼拝していた、ということです) そこで、彼らはダゴンを取り、元の場所に戻した。
4次の日に、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは【主】の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。
ということは、あの戦場で何の力も発揮しなかった契約の箱。 でもその力は、神さまは沈黙していただけのことで、そのまんま残っていたということですね。
神さまはご自身の臨在が、異教の偶像のそばに奉献物として置かれている、というような事態を放って置くわけないですね。 自然と神の力は、そこから滲み出るようにして、偶像を倒し、 偶像は――ま、生きているわけじゃないですけれども――神を礼拝しているかのような姿勢で、ひれ伏して倒れているわけですよ。
私たちは時にイスラエルの民と同じように、神の箱を担ぎ出すだけで、どうにかなるんじゃないかというような祈りを捧げます。 それは神を軽んじることであって、敗北がもたらされる。 だからと言って、神さまは私たちを放棄されるわけではない。 だからと言って、神さまの力が無くなってしまうわけでもない。 神さまの力はいつもそこにあり、そして私たちがもし神を重んずるなら、神は再び私たちを重んじてくださる。
私たちは《この記事を考えますと、思わずキリストの十字架と重ねます》よね。 民が神を軽んじた時に、彼らはその代償として大変な辱めを受けます。 それが、4千人死に、3万人死に、神の契約の箱を奪われるという。 でも考えてみると、《民が味わった屈辱を、神もまた味わう》んですよ。 契約の箱に込められた神の臨在は、異教の神殿の、そして異教の偶像の傍に奉献物として捧げられ―― それはまるで《私たちの屈辱をイエス・キリストが担って》、ゴルゴタの丘で十字架に架けられ、皆に罵倒されたかのように―― 《神の契約の箱もまた、屈辱の中へ》と入って行かれる。 キリストが十字架に架かられたからと言って、神がキリストを見捨てたわけでもなく、神が私たちを放棄したわけでもなく、 《キリストのいのちの力、そして神が与える所の復活のいのち》というものは、次の日、そしてその次の日という日曜日に、《イエス・キリストの復活によって現れて来る》わけです。
そうしますとね、「神を重んじる者は神によって重んじられ、神を蔑む者は神によって軽んじられる」(***Tサムエル2:30)――これは私たちの、ある意味の、日常でもある。 私たちが軽んじられると――それはさすがにホフニとピネハスのようでは、私たちも重大な裁きを受けるかも知れない―― でも覚えておくべきは、私たちが辱めを受けた時に、私たちが軽んじられて、そして倒されてボロボロになった所に、キリストも共に来てくださる。 そして《キリストは、私たちが受けた辱めをご自身も担ってくださり》、 しかし、《その辱めの中に閉じ込められることなく、キリストは復活して、私たちのところに戻って来てくださる》。
3)で、今日は皆さんが、心に留めていただきたい言葉は(Tサムエル6章)2節なんです。
6章を映しますね。 【画面:Tサムエル6章2節「【主】の箱をどうしたら〜教えてください」に山吹色のハイライト】 これはペリシテの言葉で、彼らは気がつくんですね。 「この契約の箱をここに置いておいたらまずい。イスラエルに戻そう。」 で、質問が(Tサムエル6章)2節。
2ぺリシテ人は祭司たちと占い師たちを呼び寄せて言った。「【主】の箱をどうしたらよいでしょうか。どのようにして、それを元の場所に送り返せるか、教えてください。」
私たちも同じですね。 神を軽んずるような状況に陥ってしまったら、私たちはどのようにして、神の栄光と力を再び自分の人生に取り戻したらいいんだろうか? 「再び主よ、私のもとに戻って来てください」という祈りは、詩篇に沢山ありますよね。 「なにゆえ、あなたは私から顔を退けておられるのですか。(***詩篇27:9,69:17) 「どうか、再び御顔を私の上に照り輝かせてください」(***詩篇67:1などと)。
それと同じように、私たちは往々にして、神を軽んずる。 その時に、「どうか再び私のもとに」――その途端に、私たちの目の前に現れるのが、キリストの十字架です。 それは蔑み、敗北したその地にキリストの十字架があって、そして実はあなたに及ぶところの恥辱、恥、辱め、苦しみ――それは実は全部わたしが担った。 あなたが神を軽んじたがゆえに、こういう結果になったという現実を、わたしがあなたに代わって担っている。 あなたは心を改め、悔い改め、わたしのところに帰って来なさい。 そうしたら、キリストの復活のいのちが、再びあなたをおおうことになる。
私(藤本牧師)は「神の沈黙」と題して説教題を作りました。 でも全部終えて思いますと、6章の2節のことばが、よかったらいいと思います。 「どのようにして、それを元の場所に送り返せるか」
私たちはみんな信仰に輝いていた時期があったはずなんです。 素直で――今も素直だろうと思いますけれども――一生懸命主に仕えていた時があったはずなんです。 時に休むのもいいと思います。でもまた、神さまは私たちにそのような時期を戻してくださいます。 「どのようにして、神の栄光を私の人生に再び戻すことができるんだろうか?」と思うと、 私たちはイエス・キリストの十字架にひたすらしがみついて、 「主よ、どうか私があなたを軽んじていた、という事実を悔い改めますので、私の所に戻って来てください」と、そう祈る以外にない。 そしてそう祈った時に、私たちは栄光を自分の人生に戻したことになる。 単純に信仰が復活したとか、そういうことではない。 神の臨在が再び私の人生に戻って来た、ということになる、ということを覚えておきたいと思います。
☆お祈りをいたします――藤本牧師
恵み深い天の父なる神さま、民は負けてしまっただけではなく、民はペリシテ人の前に屈服しただけではなく、なんと神の箱までも連れ去られ、偶像の隣に置かれ、神の箱が、契約の箱が軽んじられるような事態になりながらも、あなたはそこで力を発揮し、人々は再びその箱を元の場所に戻すことを考えました。 どうか私たちもあなたの栄光を、私たちの人生のこの教会の中心に、元の場所に戻すということを考えることができるように、またそのために祈ることができるように。
今週もまた、ふとしたことで、あなたを軽んじてしまうことがあるのかもしれません。聖書を読む時に、もし私たちが信仰を込めて読んでいないなら、単なる紙です。それは資源ごみに出した方がいい位の紙です。 でも仮に私たちが信仰を込めて読むならば、それは神の力となる、私たちの人生の助けとなる、導きとなる、ということを覚えながら聖書に向かうことができるように、私たちの信仰を祝福してください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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