★聖書箇所 ヨナ書3:10〜4:11
10神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。 1ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、 2【主】に祈った。「ああ、【主】よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。 3ですから、【主】よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」 4【主】は言われた。「あなたは当然であるかのように怒るのか。」 5ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。 6神である【主】は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。 7しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。 8太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」 9すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」 10【主】は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。 11ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」
★説教 ブランドン・久芳宣教師:「ましてわたしは、この大きな都を惜しまないでいられるだろうか。」
おはようございます。神奈川教区の皆さん、おはようございま〜す(※にこやかに遠くを見て右手を挙げて振る)。
全ての文化には様々な物語の伝え方があります。 例えば物語の最初では大抵、登場人物、物語の背景が説明されます。 次に事件や事故など緊張状態となる出来事が起こります。 しかし最後にその出来事が解決されて、物語は締め括られます。 子ども教育によると、これらのパターンは子どもにとって学び易く、物語を知った子どもたちはやがてストーリーを話してくれます。
バビロン捕囚の後、ヨナの物語を学んだユダヤ人たちは、まさに自分たちの歴史であることを知りました。 最初にヨナは、預言者としての召しを神さまから受けました。 しかしヨナはその使命から必死で逃れようとしますが、ヨナが神さまから逃れようとした時、神さまはヨナが乗る舟に嵐を送られました。 ヨナが神さまに従うことを決意した時、嵐は止みました。
次に憐れみのしるしとして、神さまはヨナを呑み込む大きな魚を用意されました。 ヨナは魚のお腹の中で三日間過ごし、これからの導きについて思い巡らします。 これはヨナの物語で一番大切な場面と言うことができます。 ヨナにとってそこは、「深いところ」(***ヨナ2:3)、あの「滅びの穴」(***2:6)と感じるところでした。 ヘブル語ではシェオル、黄泉(よみ)と言い、まさに《神さまから離れた死の場所》という意味を持ちます。 2章には、その時のヨナの心情を見ることができます。 ところが、そこでさえヨナは神さまのご臨在を感じ、詩篇のことばを引用し、 「あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました」(***詩篇16:10,30:3を引用)という表現で表しています。 これはヨナにとって、まるで復活のように、(※左手指でVを作って見せて)神さまの使命を果たすための、二度目のチャンスといのちが与えられた経験となりました。
ヨナは神さまに言われたとおりニネベに行き、そこでメッセージを語りました。 実はここにはヘブル語のword play 言葉遊びが書かれています。 ヨナは40日の後、この町は英語でoverturnする(ひっくり返す、転覆させる、打倒する)、つまり滅ぼされるだろうと考えていたニネベに語りました。 しかし神さまはニネベに対し、overturnつまりヨナの考えをひっくり返すことがなされました。 神さまは人々の心に触れたので、ニネベの人々はみ〜んな悔い改めたのです。
多くの場合、物語はここで終わります。 ヨナは語り、人々が悔い改め、よかったねぇと言いたいところです。 そして私たちもこのようなhappy endingとなることを望みます。 しかし奇妙なことに、ヨナの物語はここでは終わりません。 あと一章残っているのです。 正直言いますと、私(ブランドン宣教師)、この章がなければよかったなぁと思います。 なぜなら、物語がこんな風に終わるべきでないからです。
しかしこの残された最後の章も、私たちにとっては大切なものであり、私たちが生きる上で学ぶべきところだと思います。 ヨナの物語が最後このように終わるので、私はtake all〈取り尽くす〉を覚えました。 (→これは抵抗を覚える、だったかも知れません。聞き違えてすみませんT・Y) もし私たちが注意深くこの物語を読めば、私たちの生き方も物語の一部となるでしょう。 そしてこれを私たちの物語として読むのなら、学んだことを私たちの生き方・考え方に適用することができます。
神さまは世界ですばらしいことをされていますね。 神さまはニネベのように世界で最も悪に満ちた恐ろしい国に対しても、見捨てず人々の心を変えられました。 ではここで何が起きたのでしょうか? 神さまは助けがあってもなくても、ご自身で働きをなされるお方です。 きよめ派の私たちは、先行的恵み、つまり神さまは既に先行的に恵みを与え、善き働きをされることを信じています。 神さまのお働きは今も世界中で行われています。 たとえそのように思えなくても、信仰を持つクリスチャンは世界中で起こされています。 毎日、世界中のどこかで、小さなペンテコステが起きているのも事実です。
ところが問題があります。 もし私たちがヨナの物語を私たちの生き方として読むなら、では、私たちは神さまの働きを見落としているのですか?という疑問が起こります。 なぜなら、神さまがニネベの町を完全に変えられたので、ヨナは町から離れ、東の方に行き(***ヨナ4:5)、自分の死を待ちました。 言い換えるなら、ヨナは神さまの働きを見ることができずにいたのです。
ヨナ4章1節をご覧ください。【画面:ヨナ書3:10〜4:11】 ヨナの物語で何度も何度も繰り返されている、(※さっと右手を高く上げて指でVを作って)二つのことばがあります。 ●一つめの言葉は、ヘブル語でガドル――「非常に」「大きい」「偉大な」という意味です。 ヨナ書には、このように登場します。 ニネベは大きな町でした。(***ヨナ1:2) ヨナは自分自身の姿を、大きな嵐の中で見つけることができました。(***2:3) 神さまは大きな魚を送られました。(***1:17)
●二つ目のことばは「悪」という言葉です。 その言葉はヨナ書の中で、何度も何度も登場します。 特にニネベの町を表す時に、よく使われています。
しかし、(※両手の人差し指を目の前で平行に立てて、腕を前方に伸ばしていって)この二つの言葉が初めて一緒に書かれたのが(ヨナ書)4章の1節です。 「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、」
日本語では少し違うニュアンスですが、ヘブル語では、「偉大な」「非常に」と「悪」を表す言葉が(※再び二本の指を目の前でくっつくように立てて見せて)並んでいます。 ヘブル語で4章1節を読むと、このようになります。 「ところが、このこと――つまりニネベの悔い改めは――ヨナにとって大きな悪となり、ヨナは怒った」です。 これまで「悪」という言葉はニネベに対して使われていましたが、ここでは、ヨナつまり私たち、自分を表す人物に対して使われています。 神さまが世界でされたことに対して、ヨナは「大きな悪」という反応を示しました。
ヨナは完全に主が為される働きを見失っていました。 しかしヨナは神さまの愛と憐れみのご性質を、十分理解していました。 そういうわけで、ほんとには神さまの働きを見失っていません。 ヨナは自分の傲慢さ、自己中心のゆえに、神さまのみこころを受け入れずにいたのです。
ヨナ4章2節を見ると、ヨナは神さまのご性質を理解していたようです。 ヨナは出エジプト34章(6節)を引用して、このように答えます。 「それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。」 ヨナの問題は、神さまを理解しているかどうかではありません。 ヨナの問題は、神さまをよく理解していたということです。
次にここで登場するのは、なんか、唐胡麻(とうごま)という奇妙な植物についてです。 唐胡麻が枯れた時、ヨナは死のうとしました。(4章7節、8節) とっても不思議な反応です。 ヨナは死のうとしたのは、すべてが悪くなったのではなく、すべてが旨くなった、良くなったからでした。 その時です。神さまは、ヨナのため一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上に覆う(※両手の腕を挙げて頭を隠すようなしぐさで)ように生えさせました。(4章6節)
多くの聖書学者は、この唐胡麻は、ユダヤの国が、イザヤですね、この物語を読んだ時、彼らはまさに自分の国を再建しようとしていました。 唐胡麻の成長とは、国の再建、努力を意味しています。 まさに自分たちの国が再建されることは、自分の民がどのようになっていくのか、興味深いことでもあります。 言い換えるなら、ユダヤ人であるヨナにとって、自分の国や民が再建され、豊かになることは喜ばしいことでした。
しかしニネベのような国が変えられていくのは、ヨナにとって受け入れることができませんでした。 「大きな悪」でしたね。 ヨナは神さまのご性質を理解していても、神さまのみこころを理解することができずにいました。
そこで神さまは、一匹の虫を備えられ、虫が唐胡麻を噛み、枯れさせるようにされました。 そして、ヨナは不思議な質問をされます。4章9節です。 「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」と答えます。 つまり、ヨナの訴えはこうです。 「私の民、ユダヤ人が苦しんでいます。唐胡麻が成長した後、すぐに枯れてしまったように、私の民も再建しましたが、また堕落して行きます。」 ヨナはユダヤ人として、自分の民のことは心配し、心に留めていたことが分かります。
神さまはヨナに答えます。 「確かにわたしは一夜で生えさせ、一夜で滅ぼすことができるのだ。」 神さまはここで、ヨナにとっても大切なことを教えようとしていました。 神さまが大きな問題を解決されようとする時、ヨナの視点は自分の小さいことに向けられていました。 ヨナは自分自身について、自分の国の繁栄などについて心配している時、神さまはさらに大きな働きをなされていたからです。 そのことをヨナは気づかずにいたのです。 この物語は神さまの問いで締めくくられています。4章11節で。 「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」 緊張感を与える神さまの問いで、ヨナの物語は終わりました。
神さまの民、神さまの子とされた人たちは、この世界で起きている神さまの働きに目を留めることが大切です。 しかし、この物語、つまりヨナの姿こそ、神さまの働きに気づかず、自分の思い通りにならないと事態が素早く一変する、私たちの姿ということができます。 なぜ私たちは主のみわざを見失ってしまうのでしょうか? 神さまのみわざに気づくことができないのでしょうか?
1)一つ目に、ヨナのように私たちも、一つとなる、一致するのが苦手です。
ヨナにとって、ニネベの人たちは救われるべき大切な、優先される民とは考えていませんでした。 ヨナは人種的偏見を持っていました。 簡単に言うと、ヨナは私の民とそれ以外の民とを区別していて、私以外の民を受け入れずにいたのです。
ヨナは神さまの愛により、世界の分裂、問題が解決されることに我慢できませんでした。 もし私たちが教会の中でも、人間的分裂、違いだけにあまりに目を留めてしまうと、一つになることが難しくなります。 つまり神さまが為されていることを、見落としてしまいます。
しかし、すべての文化、考え、違いを超えて、一つとしてくださるお方を共に信じています。 なぜなら、今は遣わされる所が――神のみこころを信じ、子となることにより――様々な神さまの働きが成し遂げられると信じているからです。 もし私たちがキリストにあって一つになることができないなら、私たちはヨナのように、神さまの働きを見ることができず、失望しながら座っている者となってしまいます。 そして言います。(※腕を組んで言う) 「私は神の働きには加わりません。なぜなら、神さまは私の民、友人、家族には何もしてくれないからです。」 神の民は、聖霊によりほかの人々と一つにされる必要があります。
2)ヨナの二つ目の問題は、神さまが用意された唐胡麻を心配し過ぎたことです。
彼は唐胡麻が枯れたこと、つまり小さな問題に、多くの時間を費やしました。 私たちは目の前のことだけでなく、さらに大きな広い視点で、神の御国を見させていただきましょう。 もし私たちが人生の小さな事柄だけに目を留めているのなら、主がヨナに言われたように、 「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」(***4:10〜11)
ここで主が本当に言われたのは、「あなたは何に焦点を当てているのですか?」ということです。 私たちはしばしば私たちの時間、努力を、主の働きとは離れたものに使うことがあります。 神さまは、私たちの焦点を主と同じ方向に調整することを望んでおられます。
3)最後に、私たちは希望を持たなくてはいけません。
私たちは主がこの世界でされようとするご計画に対して、どんな風に考えていますか。 ヨナはこんな風に捉えていました。 「四十日後、神はすべてを滅ぼされるだろう。」 それゆえ、ヨナは町を離れ、町の東の方に座りました。(***ヨナ4:5) それには強い意味があります。 エデンの園を追放されたアダムとエバも東の方へ行きました。 聖書において、「東の方」とは神さまの働きから離れる、という意味があります。 ヨナは、町の東側に座り、神さまがニネベを滅ぼされるのを待ちました。
多くの福音派のクリスチャンにはいつも怖れがあります。 彼らは地域や町に関わることにびくびくしてしまいます。 ほかのクリスチャンと交わりをあまり持とうとしません。 彼らは神さまの働きを小さく見てしまい、物事はどんどん悪くなると考えています。 そのため、自分たち教会、自分たちクリスチャンとこの世の間に壁を立て、ヨナのように神さまが滅ぼされるのを(※腕を組んで見せて)待っているのです。 もし私たちクリスチャンがこんな風に生きているのなら、神さまのすばらしいみわざを見ることはできないでしょう。 なぜならヨナがニネベの滅びを待っている間、神さまはニネベを救われていたのですから。
神さまはこの世界でのご自身の働きを見るように、関心を持つように、私たちを招いておられます。 確かに沢山の挑戦や大きな問題がありますよ。 しかし私たちもヨナと同じ問題を抱えていることを思い出したいです。 それは私たちはあまりに問題課題に目を向け、神さまのすばらしさ、偉大さを忘れてしまっているということです。 神さまはこの教区、この教会におられ、そして言われます。 「この大きな町を惜しまないでいられるだろうか」
正直言うと、私(ブランドン宣教師)はヨナの物語が、このように終わることに残念に思います。 物語はこんな風に終わってほしくありません。 物語の最後は、神の民が神の働きに加わり終わることを願います。 しかし現実には、物語はこのように締めくくられます。 そうなんです、残念ですが私たち神の民は、神さまの働きの外に座りながら、自分たちの問題にだけ目を留めています。 そして神さまが滅ぼされるのをただひたすら待っているのです。 もしそうならば、私たちは主のすばらしいご計画、みこころに気づくことができません。
私(ブランドン・久芳宣教師)は自分の残りの宣教の時間を、主の働きに気づかずに終わりたくありません。 教会として失望しながら、主のみわざに気づかず、ヨナのように座っていることがありませんように。 私たちは主がおられる、主がそこで救われようとするニネベの外に座っていてはいけません。 私たちはまさに主がおられるその町の真ん中に、行く必要があります。 そして私たちが想像以上のことをされる神さまを見上げます。 私たちはニネベと思える場所、環境、人々の中に飛び込みます。 それは私たちに力があるのではなく、神さまの霊によってです。 私たちは一人ではなく、主にある兄弟姉妹と共に、主の働きに加わります。 私たちが仕える主は、どんな問題よりも偉大なお方であることを信じたく、信じなくてはいけません。 それゆえ私たちは、(※両手を合わせてお祈りしている姿で) 「神さま、どうか私たちの小さい事柄だけでなく、私たちを通して、さらに大きな偉大なことを成し遂げてください」 こうお祈りすることができます。
★一言お祈りいたします――ブランドン・久芳宣教師
愛する天のお父さま、あなたを感謝いたします。私個人として、また教会として、お祈りを捧げます。私たちが、あなたが望んでいる主の民になることができますように。いま私たちが住むこの町を心に留め、祈る者となることができますように助けてください。
あなたのことよりも、お互いを批判したり、自分の問題だけに目を向けてしまうことをお許しください。時にニネベの東側に座り、何もしないことをお許しください。怖れによってではなく、あなたの希望によって私たちを力づけてください。聖霊により、主にある兄弟姉妹が分裂することなく、一つとなることができるようにお祈りします。
この世界であなたが今日、どのように働いておられるのか見せてください。あなたは今日もこの世界中におられます。ヨナの物語は4章で終わりました。しかしこれが私たちの物語とならないことを願います。あなたが為される救いのみわざ、その真ん中に私たちがいることができますように――これが私たちの願いです。御国が来ますように。みこころが天に行われるように、地でも行われますように。これらのこと、イエスさまのお名前を通して感謝してお祈りいたします。アーメン。 (※一礼して、聖書とノートPCとお水のペットボトルを抱えて、和らいだ表情で下がる)
★ブランドン先生メッセージを感謝いたします。――司会の田辺寿雄神学院牧師 「ましてわたしは、この大きな都を惜しまないでいられるだろうか。」(ヨナ4:11) 私たちは何を見ているでしょうか? 唐胡麻でしょうか。 神さまの大きなみわざが進んでいます。それを見ることができるように、それに参加することができるように、大切なチャレンジをいただいたのではないでしょうか。
最後の讃美歌をご一緒に賛美しますが、神奈川教区の教会に於かれましては、それぞれの教会で締めくくりの時を持つように予定している教会は、配信をここまでで切っていただければと思います。 最後までこちらの礼拝にご一緒できる教会はそのまま続けていただければと思います。
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