☆聖書箇所 使徒の働き3:1〜10
1ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。 2すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。 3彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。 4ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。 5彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。 6すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」 7そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 8躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。 9人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。 10そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
☆説教 戸塚伝道師:ペテロのいる風景O・説教篇U「私にあるものをあげよう」
皆さん、おはようございます。高津教会の礼拝によくお出でくださいました。(※カメラ目線で)それからオンラインでご参加の方々も、良くお出でくださいました。共に礼拝をささげることができる恵みを心から感謝したいと思います。特に今日初めて教会に来られた方々、オンラインを通してでも今日初めて高津教会の礼拝に来てくださった方々、或いはキリスト教というものを知りたいために、ちょっと覗いておられる方々、大歓迎でございますので、共にこのひと時を最後までできれば参加いただければと思います。
早速聖書のみことばに心を留めていきたいと思います。 「ペテロのいる風景」と題しまして、今日16回目になりますが、11月に説教篇として一つ目の説教を取り上げました。今日はその第二回目ですね。 お読みいただきました使徒の働きの3章の1節2節3節をお読みしたいと思います。 これが今日の物語の発端です。
<使徒の働き3:1〜3> 1ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。 2すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。 3彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
当時エルサレムの神殿で、お祈りをささげる会が毎日あったようでありまして、午後三時のお祈りというのがありますが、ペテロとヨハネはその常連だったようです。 この時に、また毎日のように、この「美しの門」と呼ばれる宮の門に一人の人が物乞いをするために、置いてもらいました。 生まれつき足の不自由な人だと書いてありますけれども、どなたかに抱きかかえられるようにして、その宮の門の前に置いておかれたのでしょう。 3節から想像いたしますと、ペテロとヨハネはこの人のことを前から知っていたのではないだろうかと。 当然、またあの人だ、と思いながら、その前を通ったと思うんですけれども、施しを求められたのは初めてだったと思います。 ペテロとヨハネに施しを求めた足の不自由な人との出会い――それは毎日のように今まで繰り返されていたのですけれども、 でも男の人は、足の不自由なこの人は、この時初めてペテロとヨハネに施しを求めたわけですね。
今日のペテロの説教の二つ目、それはとても短い説教を、この人にしています。 (使徒の働き3章)6節をご覧ください。
6すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
とあります。これだけです。 こんな短い説教です。これ、説教と言えるかどうか。 私は入れたくなりました。この短い説教。私、いつも長くなるので。 こんな短い説教ですべてのエキスを、福音のポイントをこの人に語ったこの事実、これすごいなぁと思います。 そして、ちゃんと3ポイント説教になっています。 1)金銀は私にはない。 2)しかし、私にあるものをあげよう。 3)ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。
そこで先ず一つ目のポイント―― 1)金銀は私にはない。
この短い言葉に着目していただきたいと思います。 「金銀は私にはない」とペテロが話す前に、ペテロたちの取った行動を読み取って行きたいと思います。 先程(使徒3章)3節までお読みしましたけれども、4節にこうあります。
4ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
施しを求めるその足の不自由な人を、ペテロはヨハネと共にじっと見つめるわけですね。 でもこのじっと見つめた時に、私(戸塚伝道師)は想像いたしました。 たぶん男の人は座ったまま、ペテロとヨハネは立って、通り過ぎようとしていた。 でも施しを求められたときに、このペテロたちはどうしたか? この物乞いの足の不自由な人と同じ高さの目線になったのではないだろうか。しゃがんだのではないだろうか――そのように想像いたします。
そして(使徒3章)5節、お読みいたします。
5彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
ペテロとヨハネがしゃがんでその男の人をじっと見つめられたとともに、この施しを求める人は「何かもらえると期待して、二人に目を注いだ」とあります。 ここに心の通じ合いが生れたのではないだろうか、と思いますね。
この時、そのような通じ合いが生れた後に、すぐにペテロが言ったのが、「金銀は私にはない」というメッセージでした。 本当にお金がなかったんだと思うんですね。 ペテロもヨハネもお金はなかった。 初代教会がどんな教会だったかということが、お開きいたしませんけれども、(使徒)2章の44節と45節に書かれています。
<使徒2:44〜45> 44信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、 45財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
とありますが、ペテロもヨハネもその日暮らしだった。ほんとにお金がない。 物乞いの人は何かもらえるだろうと思って、この二人に目を注いだけれども、 でも実は私たちも、何もあなたにあげるものはない。 そんな大変な状況の中にある――そのように、一番最初の説教のポイントで、ペテロはこの人に語るんですね。 美しの門に置かれたこの人も、ほんとに一文無し。施しを求めて生きていた。 でもペテロもヨハネも同じように、貧しい、その日暮らしの生活。 エルサレム教会での奉仕をしていましたけれども、そういう状況だった。 つまり対等の立場に立つ言葉だったんですね、この言葉「金銀は私にはない」は。
対等の立場――私たちも対等の立場で、人に接したいと思うんです。 クリスチャンもノンクリスチャンも、信徒も牧師も、上から目線になりがちな私たちですけれども、でも対等の立場で。 ですから、私いま講壇に立っていますけれども、すごく私にとっては嫌な場所なんです。 (※つま先立ちしてか、背が伸びて)上から目線です(笑)。 ここでお話ししたい(※目の前の説教卓の右先端に手を置いて、講壇の下を意味してか)、本当は。
で、この施しを求めた人は、もうしょっちゅう「上から目線」には慣れていました。立ち上がれませんし。 しかも自分はどういう状況で置かれているかを、重々承知ですから、もう上から目線に慣れていた。 でもいきなりしゃがんで、じっと見つめられて、そして「金銀は私にはない」と言われたこの人は、恐らく戸惑ったことでしょうね。
東日本大震災で避難所に現れたボランティアの方々がいたそうです。ボランティア集団。 献身的にこまめに奉仕をされ、そしてトイレ掃除まで皆が嫌がる仕事を一生懸命していた。 でもその奉仕団が去る直前に、その避難所の人たちに、宗教勧誘の小冊子が手渡されたそうです。 帰る日、素直に「ありがとう」と言えなかった。「あ、このために、あなたたちはそうしていたのですね。」 「上から目線」を感じて、恐らく失望したのではないかと思います。 恐らく援助してもらう方は、そのことに敏感だと思うんですね。 それを、「上から目線」かどうかを、敏感に感じられると思うんです。
ペテロは貧しさ、弱さ、不条理に寄り添うスタンスに徹していました。 この貧しさ、弱さ、不条理に寄り添うスタンスっていうのが、イエスさまの目線です。 実際ペテロも、そのイエスさま目線によって、イエスさまを三度も知らないと言った後、イエスさまに寄り添われ、イエスさまに許され、癒された経験を持つのですね。
2)私にあるものをあげよう。
ペテロにとっても、私たちにとっても、「私にあるもの」と言えるものはいったい何か? それは、救い主イエスさまとの出会い、救いの経験、信仰です。 その内容は、前回見て行きましたけれども、ペンテコステの日のペテロの説教で語られました。 過去・現在・未来に亘る恵みでした。
過去の恵み――それは罪の赦し。十字架。すべての人の救い。 2000年前のイエスさまの十字架の贖いの恵みの一事のゆえに、私たちの罪は全部許され、(罪)なき者とされる――そういうすばらしい恵みです。
現在の恵み――それは賜物としての聖霊ですね。キリストの証人としての力。そして愛。聖霊によって与えられる。
そして将来(の恵み)は――いのちに至る道、復活、からだのよみがえりです。
このことを信じることから来る、「喜び・平安・希望」それが私たち一人一人にあるもの、私にあるもの、キリスト者にあるもの、それですね。 それをあげよう、あげようということは伝えよう。私たちにしてみれば、伝道ということでしょうか。 伝道――伝道の定番は、「神・罪・救い」です。 神さまがおられる、私たちを造られた神さまが。 でも私たちは罪を犯して、神さまからの裁きを受けなければいけない存在になった。 でもイエスさまが、その身代わりとなって十字架に架かってくださり、3日目に復活されたことによって、私たちの罪は赦され、死に勝利する恵みが備えられている。 「神・罪・救い」――私にあるものをあげよう。伝えよう、です。
しかし今の時代、このことを相手に伝えるのが、現実的にはかなり難しいことです。 特にこの日本の国において。一生懸命になればなるほど、 「ああ、あなたはそう信じているのね、分かった。分かった」 「あ、それ、個人の感想でしょう、あ、分かった、分かった」 「宗教への勧誘はお断りします」 「ああ、自分はマインド・コントロールなんかされたくない」 「あんな集団妄想的な気休め、よく皆さん、平気でやっているなぁ」 「自分はキリスト教信者になるつもりは、初めからさらさらない」 「そんな特定の宗教とは、自分は関わりたくない」 「私にあるものをあげよう」と言って伝道する時の反応ってのは、そういうものです。
でもここに潜む一つの罠があります。 それは先程の、「上から目線」 私はもう救われている。あなたはまだでしょう。 この救われているか、救われていないかの二元論的な発想――これがどんなに、これから信じてみようかなぁという人たちのつまずきになっていたでしょうか。 だから「未信者」という言葉が私(戸塚伝道師)大嫌いです。 「あなたまだ信じてないのね。未信者なのね」――伝道は「上から目線」になりがち。 そして、相手が大切にしている価値観を否定しがちです。 下手すると、今でいう、レリジャス・ハラスメントというものがあります。 無理やり信じさせる。勧誘しその気にさせ、マインド・コントロールして、無理やり信じさせるハラスメント。 しかも字が読めたり、聞いて理解できる人だけにしか伝えられない福音って何でしょうか?
でもペテロは、この物乞いの人に伝道はしなかったんです。 何をしたのか? 極めて分かり易く、しかも驚くべきことをしました。 イエスさまの名によって、この足の不自由な、生まれつき歩いたことのない人を、歩かせたのです。 イエス・キリストの御名で歩かせた。 そのことによって、何が起ったか?本当の意味での救いが起こりました。 この人は心が変えられてしまいました。 (使徒の働き)3章の8節ご覧ください。癒された後――
8躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。 9人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
神さまを賛美する者と変えられた。 そしてペテロとヨハネと一緒に、エルサレムの神殿へ一緒にお祈りに行こうとした。 心が変えられた。 恐らく、この先、生活も変えられるでしょうね。 もう物乞いをする必要もありません。なぜならば、歩けるようになったからです。 歩いて仕事ができるようになった。
ペテロはその人が本当に必要とするものを与えたんです。 お金以上のニーズに答えたのです。 単なる神さまの救い、そんなレベルではない、神学や教理ではない、本当に必要なもの。 ペテロにとって、「私にあるもの」とはいったい何だったか? それはイエス・キリストの名によって与えられている癒し――それがペテロが言う「私にあるもの」でした。 「私にあるものをあげよう」 あげようというのは、「あなたを癒やしてあげよう」ということですね。
この視点で、今度は自分に振り返って考えてみたいと思うんですけれども、 じゃ、「私にあるもの」っていったい何なのだろうか? 「私にあるもの」――私が得たものではない、努力して得たものではなくて、私にもともとあるもの。 「あるもの」――それは神さまからのギフト、プレゼントでね。 勿論救いとか、信仰とか、それも神さまから戴いたものです。でもそれだけではない。 神さまから私たちに与えられたギフト、賜物、才能っていう言葉でも表現できるかも知れない。 あるいは「お預かりしたタラント」という言い方もあるかもしれない。 それはいったい何なんだろうか、私たちに与えられているものは。 「私ならではの何か」って、言えるものがあるだろうか? 「私が何とかしてあげます」と言えるものがあるだろうか? 「任せておいて」と言えるものがあるだろうか?
小学校1〜2年生に聞きました。「一番得意なことなあに?」って。 「絵を描くこと」「走るのが速いこと」「虫博士だと言われているということ」色んな自分の得意なことをみんなしゃべってくれます。 でも6年生ぐらいになると、「そんなのないなぁ」とか「別に〜」とか。
いま私たちが聞かれたらどうでしょうね。「私にあるもの、ってありますか?」 「そんなもの神さまからもらってない」「救いとか信仰って分かるけど、私にあるものって、いったい何だろう?」――そうかも知れません。 でも本当に全くないんでしょうか? 今は分からないかも知れない。今は特に受験生は、もうそんなこと考えている暇もない。 頑張ってください。(※カメラ目線になって真面目に)頑張ってください、お祈りしています。 でも私にあるもの、何なんだろうか? この世に生かされている以上、神さまは何らかの目的で、私たちにいのちを与え生かしてくださっている。 私にあるもの、いったい何なのだろうか? きっと何かあるんです。 何もできなくても、存在そのものを通して、私たちにあるもの。 難しいですねぇ、なかなか自分のことを振り返るのは。 ま、無理して見つけなくていいと思います。その内神さまが分からせてくださるかも知れません。
でもその「私にあるもの」「私ならではの独特なもの」――それはとりなしの祈りをする賜物かも知れないし、 もしかしたら本当に癒しの賜物を自分は持っているのかも知れない。 この間、病気の人に手を置いてお祈りしたら、その人が癒された、という経験をされている方も、もしかしたらいらっしゃるかも知れない。 それ賜物、神さまからの賜物です。 ある場合には、ものすごい試練を通過した。ものすごい病気を通過した。様々な労苦、ものすごい酷い辛い思いをしたという、 そういう経験が、「私にあるもの」として、神さまが与えてくださったものなのかも知れない。 ほかの人にはない。その人だけにある、「私にあるもの」。
3)イエス・キリストの名によって歩きなさい。
「私にあるものをあげよう」。 3つ目、「イエス・キリストの名によって歩きなさい」とペテロは最後にこの言葉を言いました。 「あげる生き方」です――これが今日の説教のメイン。 (※前方の時計を乗り出してみて)そろそろ終わらなくちゃならないんですけれども、ここからがメインです(笑)。
神さまからのギフト、賜物は世のために、人のために使うために神さまからもらっている。 「私にあるもの」と言えるものがあるとするならば、それは神さまが私たちに、世のため人のために使うように与えてくださったもの。 自分の利益や満足のために使ってしまいがちですね。 自分はこれが得意だ。自分はこれがいい。これを何とかしたい。 でも自分の利益や自己満足のために、神さまから与えられたギフト・賜物を使ってしまうと、いつの間にかその賜物は、自己満足と傲慢で役に立たなくなってしまう。
自分は世のため人のためと言いながら、心の奥底では、いや自己満足のためだという思いは、少なくとも正直私にはあります。あ、これ自己満足でやってるなぁと。 その一つの指標が、「こんなにやってあげているのに、なんで分かってくれないの。なんで褒めてくれないの。なんで無視するの」 「逆に、こんなにやってあげているのに、なんで悪く言われなくちゃいけないの。カチンときた」という思いがあったときこそ、 賜物を自分のために使っている証拠なんですよ。
私は何度も痛い思いをしました。 でも賜物は、自分のためじゃなくて、世のため人のために使ってこそ、神さまのみこころです 世のため人のために使っていると、沢山の人がその賜物の恩恵にあずかれる。 そしてその恩恵にあずかった人たちが笑顔になる。 この方々が、この人の賜物がいつまでも枯れることがなく続きますようにと、願っていてくれる。 この願いが神さまに届いて、その人の賜物はさらに豊かなものとされて行く。 本当に世のため人のために使いたいと思います。神さまからお預かりしたものを。神さまからいただいたものを。神さまからもらった自分の得意分野を。
しかもペテロは「イエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言っていますね。 「イエス・キリストの名によって」 この「名によって」という言葉は、「イエス・キリストの名前のうちに」というのが直訳だそうです。 「イエス・キリストの名前のうちに」――名前というのは体を表す。イエスさまそのものを表す。 ていうことは、「イエスさまの名の内に」ていうことは「イエスさまの内に」、さらに言うならば、【「イエスさまと一つになって」歩きなさい。あなたに命じる。】 用いるのは自分ではありません。 ペテロが持っていた癒しの賜物は、自分が用いたのではなくて、この瞬間、神さまが私を通して用いられた、ペテロを通して用いられたものです。
あげる生き方。そして与えられた賜物は、世のため人のためだけではない。 神の国のためにもある。 私たちはこの地上生涯を終えて天国に行った後、何するのでしょうか? 四六時中神さまを礼拝する。ああ、すばらしいですね。でもそれだけ(笑)。 それだけ?って神さま、申し上げたら失礼かもしれない。 天国行ったら何するんでしょうか?
私たちは天国にずっといることで、それで終わりなのではありません。 私たちは、やがて天地が刷新され、新しい世界・神の国が到来した時に、そこにいるのです。 新しい復活のからだをいただいて、いるのです。 その時、私たちは何をしているのか? 復活させていただいた私たちが、往路を主の主であられるイエスさまにお仕えし、新しい世界・神の国のために用いられる。 じゃ、その用いられるものって何なのか? それが今、私たち一人一人に与えられている賜物なのです。 私たちが用いさせていただいている賜物というのは、決して天国の先に行っても無駄にはならない。
ある方はもうすぐ癌で召されようとするのに、英語の勉強を始めた人がいました。 「もうどうせ天国に行くんだから、なんで今から英語の勉強しなくちゃいけないんだ。」 「いや、私は神の国で英語をきっと神さまが用いてくださるから、復活して新しいからだを貰って神さまに仕える時、この英語で神さまにお仕えしたい、人々にお仕えしたいと思っているんです。」 すごいですね(笑)。 天国の先、その先、神の国に、自分がどのような形で今置かれているのか、それがどのようにその先に通じているのか、私たちは死んだら天国でそれで終わりのような感じですけれども、そうじゃない。 その先の神の国で自分は何をするのか?
パウロは第一コリント15章で、神の国を相続する復活のからだが与えられるように、約束を書き綴りましたけれども、その最後の節を次のように締め括っています。 開きませんけれども―― <Tコリント15:58> 58ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。 (***いつも主のわざに励みなさい、と二度繰り返して読む。) (***主のわざ、私にあるものを神さまに用いていただきなさい、ということでしょう、と説明) あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。
神の国は、まだ私たちの今の時点からすると、大分先の話のように見えます。 でも神の国の前段階として、私たちの置かれている場で一人一人の賜物が用いられたら、どんなにすばらしいことでしょうか。 そこが既にプレ神の国。高津教会を見ましてもそうです。 一人一人の賜物が生かされて、神さまに用いられて、そして高津教会、ここが一つのプレ神の国になっているではありませんか。
もう一度改めて、「私にあるもの」神さまからの賜物に気づかせていただきたいと思うんですね。 イエス・キリストの御名によって、それらを多くの方々に届ける生き方がしたいと思います。 そのために必要な恵みを与えてください。 そのためにこんな私を用いてください。 そのために私を造り変えてください。 そのように祈らされます。
☆お祈りします――戸塚伝道師
愛するイエスさま、ペテロのように、「私にあるものをあげよう」と言えるようなものが、自分にはないかも知れません。ただ言えるとすれば、救い主であられるあなたに出会い、あなたを信じたこと、そしてあわれみのゆえに生かされているという、その事実だけです。 でもこれこそが、最大の神さまからの賜物ですから感謝いたします。
さらには与えられている賜物を、誰かのために生かす道も備えてくださっていることをありがとうございます。どうか「私にあるもの」あなたからの賜物が何かを示してください。そしてそれを意識して生活することができますように。また、その賜物をより豊かに与えてくださいますように。
そして自分ならではの賜物を、私の満足のためではなく、世のため人のため、教会のため、仕事のため、学びのため、そしてやがて来る神の国のために、あなたご自身が用いてくださいますようによろしくお願いいたします。今週もあなたが共にいてくださることを信じて、イエスさまのお名前でお祈りいたします。アーメン。
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