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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/25 伊藤大輔 CS 教師:キリストの言葉を聞く信仰者 ローマ 10:11〜21
☆聖書箇所 ローマ人への手紙10:11〜21

11聖書はこう言っています。
  「この方に信頼する者は、
  だれも失望させられることがない。」
12ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」
のです。
14しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
15遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。
  「なんと美しいことか、
  良い知らせを伝える人たちの足は」
と書いてあるようにです。
 16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
  「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」
とイザヤは言っています。
17ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。
18では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、
  「その響きは全地に、
  そのことばは、世界の果てまで届いた」
のです。
19では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。まず、モーセがこう言っています。
  「わたしは、民でない者たちで
  あなたがたのねたみを引き起こし、
  愚かな国民で
  あなたがたの怒りを燃えさせる。」
20また、イザヤは大胆にもこう言っています。
  「わたしを探さなかった者たちに
  わたしは見出され、
  わたしを尋ねなかった者たちに
  自分を現した。」
21そして、イスラエルのことをこう言っています。
  「わたしは終日、手を差し伸べた。
  不従順で反抗する民に対して。」

☆伊藤大輔CS教師の挨拶

おはようございます。伊藤大輔と申します。先ほど藤本先生からもご紹介していただきましたが、あれももう15年前なんですね、15年前に初めて高津教会に来て、そんなことを申し上げました。

いま私は都内の学校でミッションスクールのS学院という学校なんですけれども中学校・高等学校で、英語を教えています。
週報にも書いていただきましたが、ニュージーランドの方に出張に行ってまいりました。
先週も書いていただきまして、ほんとにお祈りありがとうございました。

この目的はすごく単純で、生徒が「ターム留学」と言って、3か月間だけニュージーランドに行ってるんですね。その様子を見に行く、というのが主な役割でした。あとはその学校に行って、ま、挨拶ですね。「うちの生徒がほんとにお世話になっています」ということを、学校に挨拶に行くということと、今後うちの学校から送れる学校はどこにあるか、ということで、視察も兼ねて行かせていただきました。

私(伊藤大輔さん)は海外、ほんとに大好きなんだなって(笑)、自分でも思うんですけれども、日本から出て海外たった三日間でしたけれども、行くだけでほんとにいい経験というか体験というか、それをさせてもらったなぁと思っています。

そもそも高校時代にアメリカにいたということもありますけれども、日本も大好きなんですけど、いい空気が向こうで吸えて良かったなぁという風に思っています。仕事もある意味――向こうで仕事はありましたけれども――日常の仕事から抜け出して楽しく過ごしてまいりました。

はい、で、説教という風に書いていただいているんですけれども、以前も言いましたが、そういう何か資格がある訳でもありませんし、そういう特別な学びもしておりませんので、ま、奨励とか、分かち合い、という風に思っていただければ嬉しいなぁと思っています。
ですから至らない部分もあるかと思いますが、おつき合いいただければと思います。

☆伊藤大輔CS教師の説教(※奨励という言葉を希望しているご本人) 
「キリストの言葉を聞く信仰者」

では聖書の方をご覧いただきたいと思います。
今日は、ローマ人への手紙を開いて戴きました。10章の17節が今日の中心の箇所になります。

17ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

2024年の高津教会の聖句は「お話しください。しもべは聞いております」(Tサムエル3:10)です。
「聞く」ということがテーマですね。
そのテーマにあったお話ができれば嬉しいなぁという風に思っていて――藤本先生からお願されてもう3か月位時間がありましたので――その間聖書を読みながら、どこで話すのかということを考えていました。
そこでこのローマ人への手紙の10章17節に出会いました。
信仰とは聞くことから始まります。こんなに今年の高津教会の聖書箇所にふさわしいところはないだろうと思って、ここからお話をしようと考えました。

ところで皆さんは、聞くこと得意ですか?好きですか?
私は聞く、のはどちらかというと苦手で、話す方がむしろ好きだなぁという風に思っています。
教員という仕事をしていて、学級の担任をしていると、聞くという場面はすごく多いんですね。
30人クラスだったとしたら、一人一人と面談をするというのが、大体学期に一回ずつ位あります。
その時に、やっぱりこちらからアドバイスするというのは、ある程度好きですし得意なんですけれども、話を聞くというのはそんなに得意ではないかなと思ってしまいます。
生徒が言う前に、自分からむしろしゃべってしまうみたいなことが(笑)、すごく多いなぁと自分でも自覚をしています。
授業とかで生徒が手を挙げるんですね。授業中に手を挙げて、そこで「○○君、どうぞ」って言わないんですよ。
どういう風にするかって言うと(笑)、「あ、○○君はきっとこういう質問をしたいと思うんだけれども(笑)、こうこうこうだから、こうなんだよ」って説明をして、授業を進めていくんですね。
「あ、ごめん、ごめん、そうだ、質問合ってた?」と言うと、
「先生、合ってました。なんで分かったんですか、すごいですね」って(笑)中学生は言ってくれるんですね。
ま、そんなこともあって、(私・伊藤は)どちらかというと、「聞く」っていうよりは「話す」タイプです。

で、この聖書の個所で、「信仰は聞くことから始まります」っていう風に言われた時に、ずしんと私の中には圧し掛かって来ます。
そして今日の17節の意味を理解することは、実はそんなに簡単じゃないってことが読んでいる中で分かって来たんですね。
前後の文脈が理解できてないと、「信仰は聞くことから始まるよ」という何て言うんですかね、そういう教訓めいたというと変ですけれど、そういったお話で終わってしまうんだなぁってことが分かりまして、一生懸命調べてみました。

ローマの9章から11章というのは、イスラエル人についてパウロが語っている、そういう個所になります。
「ユダヤ人が神とどのように関わってきたか」と「神がユダヤ人に対してどういう計画を持っているか」、この二つが分からないと、実は10章というのは理解が難しいということが判明しました。
そういう意味で、今日はローマの10章から読み取れる「ユダヤ人の誤解」と「ユダヤ人の言い分」を見ていきます。
そのあとに、この10章から味わうことができる恵みをお分かちしたいなと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。

1)ユダヤ人の誤解

「ユダヤ人の誤解」は(ロー人への手紙では)実は3つ出て来ます。
所謂ボタンの掛け違いです。

私はお風呂上がりの息子や娘にパジャマを着せる時に、ボタンの掛け違いって結構やっちゃうんですね。
私は上からボタンを付けて行きます。下からボタンを付ける方もいらっしゃるというのも聞いたことがあるんですけれども、私は上からつけていくんですね。
上からつけて行く時に、だんだんつけて行くんですが、最後のボタンが合わない、ということがよくあって、「あ、ごめん、ごめん」って言いながら、またボタンを取り直して行って、最初からつけ直して行くってことがよくあります。

一つ目のボタンをつけ間違うと、次のボタンもつけ間違うんですね。
(ボタンを飛ばしていることに気がつかないで、)段々間違えていって、最後にようやく気づくってことがあると思うんですけれども、
「ユダヤ人の誤解」というのも、それにすごく近いものという風に思っています。
まず第一の誤解を確認したいんですけれども、今日の聖書の個所のちょっと前から探して行きたいなぁという風に思っています。

この誤解を考える前に、先ず前提としたいのが、ユダヤ人は特別に神から選ばれた民であるということです。
あ、開かなくても大丈夫ですけれども、ローマの3章の1節2節には、ユダヤ人の優れた点、が書かれています。ちょっと読みますね。

<ローマ3:1〜2>
1それでは、ユダヤ人のすぐれている点は何ですか。割礼になんの益があるのですか。
2あらゆる点から見て、それは大いにあります。第一に、彼らは神のことばを委ねられました。

ここでユダヤ人の優れた点の1つとして、「神のことばが委ねられた」ということが挙げられています。
ローマの9章の4節5節には、もう少し具体的に優れた点が書かれています。

【<ローマ9:4〜5>
4彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も彼らのものです。
5父祖たちも彼らのものです。キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。アーメン。】
(※ここは語られず、まとめられて進む)

簡単にまとめると、ユダヤ人には、神の子とされる特権があるということ、栄光がある、契約がある、律法がある、礼拝がある、そして約束があって、キリストが先祖から生まれるという風に書かれている。
全部で7つの約束がここに書かれていて、まさに選ばれし民だなぁという風に思うわけです。

ここまでは、それでいいんですけれども、ユダヤ人は実はここからボタンの掛け違いをしてしまいます。
それは何かと言うと、ローマの9章の31節〜32節です。
お読みしますので、もし可能でしたらページをちょっと戻していただいて、開いていただけますでしょうか?

<ローマの9章31〜32節>
31しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
32なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

彼らは、「神に救われるには、律法を忠実に守らなければならない」と考えていました。
「信仰によって救われる」のが聖書に書かれていることですけれども、彼らは「律法によって」ということをすごく考えていました。
《救いについて勘違い》をしてしまった、これが一つ目のボタンです。

先程も言った通り、一つ目のボタンがずれているので、二つ目もずれていくんですね。
それが(10章の)11節からになります。今日の聖書の個所になります。
10章の11節から聖書を読んで行きたいと思います。

<ローマ10:11>
11聖書はこう言って います。
  「この方に信頼する者は、
  だれも失望させられることがない。」

この方とは、勿論イエスさまのことです。「だれも失望しない」とありますが、これ具体的に言うと、12節です。

12ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

「ユダヤ人、ギリシア人」と出て来ます。これが特別にギリシア人ということが言いたいのではなく、《私たちも含めた異邦人》ということが言いたいようです。
また13節には――

13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」
のです。

と書いており、パウロは、ユダヤ人だけでなく、律法を持っていない異邦人も救われると強調しているんですね。
私たちはこの言葉を聞くとすごく安心しますね、あ、よかったなって。
しかしユダヤ人はこれを聞いたら、そんなに心は穏やかではないんですね。
私たちの特権なのに、いったいどういうことだって、きっと思ったに違いありません。
それほど律法を熱心に行っていたと思うんですね。
《ユダヤ人以外が救われることはない》と彼らは思っていた。
それが二つ目のボタンです。

そして三つ目が《宣教の必要性》です。
簡単に言うと「ユダヤ人しか救われないんだから、異邦人に宣教する必要はないんじゃないか」と思っていたということになります。
それに対してパウロが言っている言葉が、14節〜15節なんですね。見てみたいと思います。

14しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
15遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。  
  「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」
  と書いてあるようにです。

パウロはユダヤ人の務めを実行していないことを批判しているのです。
遣わされて宣べ伝えていないのだから、異邦人が救われないのは当然だ、と言っているんです。だから、ちゃんと務めを果たしなさいと、ユダヤ人に促します。
すごいですね。ユダヤ人を前にしてそういう風に言えるとは、本当にすごいなぁと思うんですけれども、そういう風に批判をするんですね。
第三のボタンは、まさにユダヤ人しか救われないので、《異邦人に伝道する人はないだろう》、という風に彼らは勘違いをしていた、ということになります。

最初の《救いに対するボタンの掛け違い》があったので、ほかも全部ずれて行ったということがこれでご理解いただけるんじゃないかなぁと思います。

それでは、1)の「ユダヤ人の誤解」をまとめていきます。
第一のボタン「神の義」の掛け違い、
第二のボタン「救いを受ける人」の掛け違い、
第三のボタン「伝道の必要性」の掛け違いとなるわけです。

2)ユダヤ人の言い分とパウロの回答

二つ目のポイントは次に、「ユダヤ人の言い分」に注目します。
16と17節をちょっと飛ばして、11節から一応見て来たんですけれども、
救いの方法からボタンを掛け違えていたということを、確認を11節以降でしまして、
次に18節と19節を見ていくことにしたいと思うんです。

ちょっと考えてほしいんですけれども、こんな風にパウロから批判をされて、(ユダヤ人は)「ちゃんとやんなきゃだめじゃないか!」と言われました。
皆さん、どう思いますか?自分たちがユダヤ人だったら、どうでしょう?
きっと何か言い返したくなりますよね。これもきっとユダヤ人もそうだったと思います。
言葉で言ったとは書いてないんですけれども、心では思ったんじゃないのかなぁと思います。

教員をしていると、叱らなきゃいけない場面ってすごく一杯あるんですね。
それと同時に、叱られる生徒には、何か言い分があるんだろうなぁってことは、いつも考えなきゃいけないと思っていますけれども、

ユダヤ人も同じようにあったと思います。二つの言い分。ま、言い訳って言ったらいいのかな?
言い訳かも知れませんが、ちょっと見ていきたいと思います。18節です。
一つ目、「ユダヤ人は聞いていなかったのではないか」ということです。
最初にパウロのところで、最初にそこが出て来ますね。

ま、日常生活、私の場合、生徒にして考えてみると、「先生、聞いていませんでした。もう少し強調して言ってくれればよかったのに・・・・・・」と心で思う生徒がいると思うんですけれども、そんな言い分ですね。

二つ目は、「聞いたかもしれないけれども、よく分かりませんでした」ということです。
両方とも(教育現場では)よく遭遇するシチュエーションだなあと思うんですけれども、
実際、ここではユダヤ人が声をあげたとは書いてありませんので、恐らくパウロが「ユダヤ人はこう思うんじゃないか」ということを考えた上で、回答をしているので、それを見ていきたいと思います。

では、これらの回答を見ていきましょう。パウロは、この回答をするために旧約聖書を引用して福音を語ります。18節読みます。

18では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、
  「その響きは全地に、
  そのことばは、世界の果てまで届いた」
のです。

これは詩篇19篇4節の引用です。
ユダヤ人にとって旧約聖書で説明されていることは、とても重いことだったはずです。
彼らは日頃から聖書を読み親しみ、暗記していたでしょうから、「そこに書かれているよ」というこのロジックは、最も納得が行ったと思います。
「あ、そこに、書いてあったのか。ああ、なるほど」って思ったんじゃないかなぁと思います。
それだけじゃなくて、19篇が開かれたので、19篇の内容も全部思い出したと思うんですね。前後の書いてある言葉も含めて、思い出したんじゃないかなぁと思います。

ちょうど日本でも古文とか百人一首とかでもそうだと思うんですけれども、上の句が読まれれば下の句は何となく思い出すことができるとか、この物語と言われたら、なんとなく暗唱しているということがあると思うんですね。

それと同じように、この19篇が開かれた時に、ユダヤ人の頭の中には、(※右手を頭の上で手のひらをパッと広げて見せて)バッと19篇の世界が広がって来たと思います。
そこに書かれている内容は、「自然界を通して神の存在が証されているよ」ということと、「神が直接語り掛けているよ」という、この二つが書かれている箇所なんですね。
ですから、自然を見て神を感じて、その神が祈りの中で、時には声に出して(福音を)語っていたではないか、とパウロは言っているんです。
「だから聞いてないということはできないよ」って、この箇所を通して教えてくれているんですね。
19節に行きます。

19では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。まず、モーセがこう言っています。
  「わたしは、民でない者たちで
  あなたがたのねたみを引き起こし、
  愚かな国民で
  あなたがたの怒りを燃えさせる。」

これに対しては、モーセとイザヤ、先ずモーセが書いてありますよね、そして次にイザヤということで、二人の旧約聖書に出て来る方から引用して、話をするんですね。
これも説得力ありますね。
すごく偉大な、よくみんなが知っている所からピックアップされて、そうして話が進められていきます。
19節に関しては申命記の32章の21節(の引用)です。

はい、次にイザヤのところを見たいと思います。20節――

20また、イザヤは大胆にもこう言っています。
  「わたしを探さなかった者たちに
  わたしは見出され
  わたしを尋ねなかった者たちに
  自分を現した。」

19節の「民でない者たち」「愚かな国民」ということは、言い方があれなんですけれども、異邦人・私たちのことを指します。
また、20節の「わたしを探さなかった者たち」「わたしを尋ねなかった者たち」というのも、同じく異邦人です。
神は、ユダヤ人が振り向かなかったということをご覧になられて、先に異邦人を見出して、異邦人に対してご自身を現したのです。
だからこそ、「ユダヤ人が知らなかったなんてあり得ない」と言っているんですね。
「だって、民ではない者たちが信じていて、愚かな国民でも理解できるんだから、あなたたちでも理解できるでしょ」って、そういう論法になります。

色々調べてみると、この「ねたみ」という言葉はすごく興味深いです。
これは異邦人クリスチャンの使命と大きく関わっている、ということが分かりました。
少し詳しくお話しします。

一年ぐらい前に、ちょうど私の職場、駒込という所にあるんですけれども、JRの駒込です。駒込の駅の近くに、怪しげなちょっと日本離れしているような看板が、新しい建物に立ちました。
そこには、木の絵が描いてあって「Tree of Life」と書かれています。
これは「命の木」という意味です。どう考えても、キリスト教の言葉だろうと思っていて、ちょっと興味を持っていったんですね。
調べてみると、メシアニック・ジューの教会だということが分かりました。
メシアニック・ジューという言葉を聞いても、なかなか私たちは聞き馴染んでませんよね。
このメシアニックというのは、メシアつまりイエス・キリストを救い主として信じている、という意味です。
ジューというのは、ユダヤ人、イスラエル人のことですね。
なのでイエス・キリストを救い主として信じているユダヤ人の教会、そのためにお祈りをする教会、というのが駒込の駅前にできたんですね。

とっても面白そうだな、と興味をもって沢山調べてみたんです。
そしたら土曜日に礼拝をやっていて、土曜日の10:30に礼拝をやっているということが分かりまして、土曜日私(伊藤大輔CS教師)授業なんです。
なかなか、そこには行くことができないんだなぁという風に思っていたんですけど、
ちょうど3―4時間目の時間が総合探求という、ま、何をやってもいいような授業なんですけど(笑)、私、そこで宗教プロジェクトという講座を受け持っていまして、色んなアプローチから宗教を見てみるとか、キリスト教を考えるというような講座です。
まさに3−4時間目ですね、ちょっとそれを利用して、校外学習的なアプローチとして実際に礼拝に行ってみようという風に、すばらしいアイデアを思いつきまして(※得意げな顔)、それで学校にも申請しながら、行って来たんですね。

実際に礼拝にも参加しました。
すると角笛で賛美が行われたり、ま、幕屋みたいな形なんですかね。
前に出て来て、みんなで祝福をお祈りしたりとか、ヘブライ語での賛美があったりというようなことで、すごくユダヤ人に対してイスラエルに対してすごく重荷がある、そういう教会でした。
実際にユダヤ人でクリスチャンも中にはいました。
とっても興味深いなぁと思って、すごく良い経験になりました。

そこの牧師先生と話を少ししたんですけれども、ユダヤ人にイエス・キリストを伝道するってことは本当に難しいことなんだと言っていました。
ただ、それが異邦人クリスチャンの使命なんだということも、強調しておられたんですね。

ま、ちょっとそこの部分が、(使命の)根拠になるのが、このローマの11章にも詳しく書かれているんですけれども、(ローマ10章)19節にある通り、
「神は、神の方向を振り向かないユダヤ人に対して、ねたみを起こさせる」という風に書いています。
これがすごく関わるんですね。
では、どのようにしてか、と言うと、それは「愚かな民、わたしの民でない者のことであなたがたを怒らせるという方法」です。
ちょっと分かりにくいですよね。
「怒りがねたみによるものだ」と書いてあります。
異邦人クリスチャンは、ユダヤ人にねたみを起こさせて、神に振り向かせる役割がある、というのです。

ちょっと分かり易く説明すると、例えば、地球の反対側の人が、高津教会の会堂建設のために毎日祈って、毎月10万円献金しているとします。
すると高津教会に属している私たちは、どんな気持ちになるでしょうか。
「あれ、地球の反対側の人が高津教会のためにこんなに祈っているのか、こんなに献金を捧げてくださっているのか」、
「高津教会を知るために日本のことも学ぼうとしている」、
「自分は高津教会に毎週通っているのに、このままでよいのか?」って思いませんか?

たぶんこれと同じような感じだと思うんですね。
つまりユダヤ人より旧約聖書に詳しい異邦人クリスチャンが行って、旧約聖書、新約聖書を用いながら、福音を一生懸命語っている姿をユダヤ人が見ると、
同じように「あれ、自分はこれでいいのか?」と問い直す機会を与えることになるのです。
ほんとにここまで自分が信じて来たものだとか、自分のアイデンティティだとかをもう一度問い直す機会になると思うんですね。
これが、「ねたみ」だということなんです。
それが神さまがユダヤ人を振り向かせる方法なのです。
で、神はユダヤ人にこの「ねたみ」を起こさせるために、異邦人を先に救った。
これがユダヤ人の言い訳・言い分に対するパウロの回答です。

3)神は人間の救いを絶対にあきらめない

三つ目のポイントは、神は人間の救いを絶対にあきらめないということです。
これらの前提を踏まえて、恵みをお分ちしたいと思います。
私たちの神は、救いに対して熱すぎる熱意を持っています。
異邦人を先に救い、ユダヤ人に妬みを持たせてまで、振り向かない民を救いたいのです。もう熱すぎます。

実は、ローマ10章13節から15節には救いのプロセスが書かれています。
このプロセスから、神がこの救いということに並々ならぬ情熱を持っているということが分かりますので、もう一度聖書に戻って確認したいと思います。
13節〜15節には、6種類の動詞があります。
13節から呼び求める、救われる、
14節信じた、聞いた、宣べ伝える、
15節遣わされる。
13節の救いが最後の実りと考えることができますので、ちょうどこの一連の箇所は、逆から読んでいくと救いへの道筋が分かるようになっています。
最初は、15節の遣わされる、神さまから遣わされて初めて、14節宣べ伝えるということができます。
宣べ伝えて初めて、人々が聞くことができます。聞いて初めて、信じることができ、信じて初めて呼び求める、ちょっと13節は前後してしまいますが、呼び求めて初めて、救われる。このような順番になります。
順番に行くと、遣わされる、宣べ伝える、聞く、信じる、呼び求める、救われるという順番になります。

これらの動詞の特徴を分類してみたいと思うんですね。
すると、動詞の形を能動態と受動態に分けることができます。
すみません、私(伊藤大輔さん)英語の教師ですので(笑)、普段聖書を読む時に、すごくそういうことが気になっちゃうんです。
ちょうど6個の動詞のうち最初と最後の二つは受動態、中に4つの能動態の動詞があります。
能動態とは、主語が〜するという形のことで、受動態は、主語が〜されるという形のことです。
能動態の動詞は、「宣べ伝える」、伝道ですね、そして、「聞く」、聖書の言葉を聞く、次に、「信じる」、最後に「呼び求める」ということになります。
これらは、すべて〜するという形になっています。
人が宣べ伝えて、人がそれを聞いて、人が聞いたことを信じて、人が神を呼び求める。
とこういうことになりますので、能動態のところは人が主語になるわけです。

それに対して、受動態、〜されるという形になっているのは、15節の「遣わされる」と13節の「救われる」です。最初と最後です。
受動態〜されるという言葉から分かるのは、主体は人ではないということです。
人は〜される側なんですね。
そしてこの主体になっているのは何か、というと神なんですよね。
遣わすのは神。救うのは神ということです。
この救いの道筋の最初と最後は全て神の業によるということなのです。
神は、この救いの計画の中で人を用いますけれども、
《この救いの計画の真ん中にいるのは、神である》ということがこの動詞から読み取れます。

今日のローマの箇所から、神が人間を愛しておられて、神が大きく介入してまでも、何が何でも救いたいと思っておられることが、その神さまの熱さが痛いほどビンビンと伝わってきますよね。
その神の思いをさらに深く探っていきましょう。

20節の言葉は、イザヤ65章1節から引用されています。
ちょっとイザヤは、ぜひ開いてほしいんですね。
すみません、あと10分位かかります。ちょっと長くてすみません。
イザヤ65章1節を読みます。

<イザヤ65:1>
1 「わたしを尋ねなかった者たちに、
  わたしは尋ね求められ、
  わたしを探さなかった者たちに、
  わたしは見出された。
  わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、
  『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。

尋ねると探すの順番は前後しますが、ほぼローマと同じ内容が書かれています。
しかし、印象的なのは、イザヤ65章1節の一番最後、「わたしはここだ、わたしはここだ」という言葉です。
あえてローマ人への手紙には書かれていません。
でも、聞いていたユダヤ人たちは確実に分かったと思うんです。
「わたしはここだ、わたしはここだ」という神の必死の語りかけが続くことにすぐ気が付いたと思います。
これほどまでに神さまは人間の救いに全力なのです。
この救いに対する強い思いを示す、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言う言葉を、あなたたちは、知らなかったと言うのですか。
旧約聖書を頭に入れておきながら、この言葉を聞いていなかったと言うのですか、と問うわけです。

それにしても、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言う神がいるということに私は驚きを隠せませんでした。
キリスト教の神さまっていうのはここが特別だなと思うのです。
信じようとしない民がいるなら、もう仕方がないと思ってしまうものです。
振り向いてもらえないなら仕方がないと思えばいいのに、
なんなら、自業自得だから救われなくても仕方がないと思えばいいのに、この神は、そうは思わない。
絶対に私たちを見捨てないのです。それほど、愛のある神なのです。神の方から姿を現わすのです。

最後(ロ―マ10章)21節です。(***イザヤ65:2の引用)
21そして、イスラエルのことをこう言っています。
  「わたしは終日、手を差し伸べた。
  不従順で反抗する民に対して。」

またイザヤに戻ってしまうんですけれども、
神が選ばれたユダヤ人を救うために、異邦人を先に救い、ユダヤ人に妬みを起こさせるほどの熱意と、わたしはここだと人間に現れるほどの思いを持っている神は、振り向こうとしない民に対して、一日中(手を)差し伸べたと書かれています。

何度でも言いますが、この神は私たちの救いを絶対にあきらめません。
この「一日中手を差し伸べた」という言葉は、これも英語の聖書では、現在完了形(have + 過去分詞形done)で書かれています(笑)。すみません(笑)。
他の箇所は過去形が多いのですが、ここだけあえて現在完了が使われているので、目が引かれるんです。
現在完了とは、過去から現在までずっと続いている、ということを表したい文法なのですね。
なので、神さまが、人の救いにここまでず〜っと2000年前から今までず〜っと、手を休めずに手を差し伸べ続けて来ているということが、この現在完了から読み取ることができるんですね。
しかも一日中と書いてあるので、休むことなくです。
これほどまでこだわりがある神がいるでしょうか。
神がユダヤ人を選んでから、今日に至るまで、過去から現在までずっと手を差し伸べている。
ユダヤ人の救いはもちろんですが、私たち異邦人の救いのためにも、自分の命を十字架で捨てて、神という立場も捨てるお方です。
本当に首尾一貫しています。

さて、私たちは、どうでしょうか。
「お話しください。しもべは聞いております」という御言葉で今年がスタートしました。
ローマの10章17節には――

17ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

信仰は聞くことから始まります。
救いの計画の中で人間側に与えられた大きな使命の1つです。
しかし、ただ聞けばよいということではありません。
パウロは、「ユダヤ人が聞いたかもしれないけど、知らなかったんじゃないか」という、その姿勢に対して大胆に指摘しましたよね。
それで本当にいいのかと。

「しもべは聞いております。しかし、理解はできませんでした。」――サムエルの信仰はそうではありませんでした。
苦しい状態にあっても聞き従ったのです。
聞くだけでなく、聞き従ったのです。

「聞き従う」という意味は、これは、「悔い改める」という意味だと私は思っています。
イエス・キリストがすべての罪を背負い、十字架にかかり、復活するほど、私たちのことを思ってくれたその愛に応えたいと思います。
「悔い改める」とは、ただ犯した罪を反省するということではないと思っています。
これまでの自分の行動を振り返り、自分を見つめ直し、そして、これまでの進んでいる方向ではなく、神が手を差し伸べているその方向に向かうことを心に決め、祈ることが「悔い改める」ことではないでしょうか。

(ローマ10章)21節の引用元になっているイザヤ65章2節は、さっきのところの次の箇節ですね。これは続いているんです。こうなっています。

<イザヤ65:2>
2  わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。
  自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。

こっちの方が分かり易いですね。
「不従順で反抗的な民」(ローマ10:21)――これはユダヤ人のことを指している言葉でしょう。
そして、不従順で反抗的な民と言われれば、読者である異邦人の私たちは、自分にフォーカスしづらいですが、異邦人の私たちは、イザヤ書65章2節を読むと自分に焦点が当たるんですよ。
「頑なで、自分の考えのまま、良くない道を歩む者」(イザヤ65:2)――それが私たちの姿です。
そのために、神の言葉を再び聞き、今の自分は本当にこのままでいいのか問い直したいと思います。
神は、ずっと私たちの方向転換を待っています。
今一度、心を改め、悔い改めて、神のところに帰りたいと思います。
そうしたら、キリストの復活のいのちが、再び私たちのことを覆うことになります。
その決断は、みことばを聞き、従った時に起こります。
私たちは、キリストの言葉を聞く信仰者です。
なぜなら、受難節ですから、聞くことから始まります。
【※ちなみにレント(四旬節)とも言う。イースターの46日前から一日前までの46日間】

<ローマ10章17節>
17ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。

と書かれている通りです。では、一言お祈りをします。

☆お祈りをします。

1 「わたしを尋ねなかった者たちに、
  わたしは尋ね求められ、
  わたしを探さなかった者たちに、
  わたしは見出された。
  わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、
  『わたしはここだ、わたしはここだ』と言った。
2  わたしは終日、頑なな民に手を差し伸べた。
  自分の考えのまま、良くない道を歩む者たちに。
(イザヤ65:1〜2)

愛する天にいます父なる神さま、私たちがこのみことばを聞き、また自分を振り返りながら、これからどういう風に生きていくべきなのか、このままでよいのか、と問い直すことができるように、どうぞ助けてください。ひと時に感謝して、愛する主イエス・キリストの御名で祈ります。アーメン。

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DATE: 2024.02.25 - 22:44
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