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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/3 サムエル(5)心のすべてをもって主に立ち返る Tサムエル7:2〜12
☆聖書箇所 Tサムエル7:2〜12

 2箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は【主】を慕い求めていた。
3サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって【主】に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を【主】に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」
4イスラエル人は、バアルやアシュタロテの神々を取り除き、【主】にのみ仕えた。
   5サムエルは言った。「全イスラエルを、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために【主】に祈ります。」
6彼らはミツパに集まり、水を汲んで【主】の前に注ぎ、その日は断食した。彼らはそこで、「私たちは【主】の前に罪ある者です」と言った。こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。
7イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに向かって上って来た。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。
8イスラエル人はサムエルに言った。「私たちから離れて黙っていないでください。私たちの神、【主】に叫ぶのをやめないでください。主が私たちをペリシテ人の手から救ってくださるようにと。」
9サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として【主】に献げた。サムエルはイスラエルのために【主】に叫んだ。すると【主】は彼に答えられた。
10サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし【主】は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。
11イスラエルの人々は、ミツパから出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベテ・カルの下にまで行った。
12サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った。

☆説教 サムエル(5)心のすべてをもって主に立ち返る

今朝は第一サムエルの7章を見ていただきました。読んでいただいた箇所は2節〜12節です。
全部はいくら何でも30分、20分足らずの説教では無理ですので、今日は3節を中心に見ていただきます。

<Tサムエル7:3>
3サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって【主】に立ち返るなら、

というこの一文。そして来週は、12節。

<Tサムエル7:12>
12サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った。

この二つをご一緒に学んでいきたいと思います。

前回サムエルに触れましたのは、2月の4日でありましたので、随分前です。ちょっとだけ復習させてください。
イスラエルがペリシテ人との戦いに敗北いたします。
その時に、長老たちが「神の箱を担ぎ出したならば、きっとその箱が私たちを助けてくれるに違いない」ということで、持って参ります。
神の箱だけでなくホフニとピネハスというエリの二人の息子の祭司も、あの堕落している人生の中で連れて来ます。

箱はやってまいりました、戦場のただ中に。しかし、ペリシテ人がその箱の力を恐れていましたけれども、何の効果もありませんでした。
(イスラエルは)大敗を帰した上、神の箱はペリシテのところに持ち去られてしまいます。

ペリシテ人は神の箱を持ち去って、ペリシテの神殿ダゴンの偶像の前に置きます。
すると、翌朝、偶像ダゴンは倒れて、箱の前に打ち伏せていました。まるで神の箱を礼拝しているようでありました。
神の箱は力を失ったわけではない。神の臨在がそこから去ったわけでもない。
圧倒的に神さまはそこにおられました。
しかしあまりにも信仰のないイスラエルを前に、神さまは力を発揮されることはいたしませんでした。

そのような力のある神の臨在の箱を、ペリシテ人は自分たちのところに置いておいたら、やがて自分たちは潰れてしまう、と箱を戻すことを真剣に考えました。
それを前回、2月4日にお話ししました。
私たちの願いであります――神の臨在を、私たちの人生に戻す、真剣に戻す。
どうしたら戻ることができるのか、というのが6章の頭のところに記されています。
で、6章全体は飛ばします。

箱はそう簡単には運べませんでした。
で、7章の1節ご覧いただけますと、一旦キルヤテ・エアリムまで運び、そこに二十年(7:2)とどまります。
誰も恐れて、その箱に近づくことはできませんでした。

やがて、7章の2節見てください――

<Tサムエル7:2>
 2箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は【主】を慕い求めていた。

とあります。霊的に渇きを覚え始めて来た。
それだけ時間がかかったという風に考えることもできますし、霊的に渇く時は必ずやって来る、という風にも理解することができます。

その時、サムエルは立ち上がり、一人の神殿祭司ではなく、民族の霊的な指導者として立ち上がったというのが、先程読みました3節――

<Tサムエル7:3>
3サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって【主】に立ち返るなら、
(***という、この言葉を発するわけです。ま、いわば《夜明けの宣言》ですね。)
あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を【主】に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば。主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」

ペリシテ人という敵の存在は、私たちにすれば、人生の苦悩でありましょう。
或いは人生のストレスでありましょう。
或いは自分が自分で作った様々な願望なのかも知れません。
いつも何かと闘っているような人生。おおよそ負けているような人生、虚しさに包まれてしまうような人生です。

短く二つのポイントでお話しいたします。
一番目に、サムエルが(Tサムエル7:3で)言ったように――

1)「異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい」

アシュタロテというのは、土着信仰の女神です。
パレスチナの、古代中近東の土着信仰です。
男性の神はバアルです。
どこの世界でも、どちらかと言えば、古代の人々は女性神を拝みます。
それを一般的に「大地母神」と言います――大地の母になる神。

ここは今回の学びにとっても大切なんです。
日本ではよく「五穀豊穣の神」と言いますよね。
それは、古代オリエントの神々も、豊作を願う「五穀豊穣の神」であったことは事実です。

古代オリエントと言うと、パレスチナからもう少し上、今のイラク、イランに至るまで。
そしてパレスチナの下にエジプトがあります。
ですからものの言い方としては、古代地中海沿岸地域という風に言います。
やがてそこをギリシャが統一し、ローマが統一するわけですけれども、しかし状況は変わりませんでした。
雨が降り、日差しが出ることを求め、大地が実る。
豊作、ま、日本で言うなら豊漁を願って、神を礼拝する。

古代中近東の神々は、どこにあっても、夫婦の神でありました。
エジプトで言えば、男性神がオリシス、女性神がイシス。
古代パレスチナでは、先程申し上げました男性神がバアル、女性神がアシュタロテ。
エジプトのケースで言いますと、男性神オリシスはナイル川です。女性神イシスはエジプトの大地です。
男性神オリシスが溢れれば、イシスは豊かな実を結ぶ。

神々と呼ばれているように、それぞれ、雨の神、太陽の神、水の神、知恵の神、死の神(死神)――神はそれぞれです。
それぞれが私たちの日常の必要に上手に答えるようにできている、というのはどういうことなのか?
それは、私たちの願いが神になる。
パウロがやがて様々な形で説明いたしますけれども、ローマの1章を見ますと、まことの神から背を向けた時に、私たち人間は必ず何らかの像を刻んでいく。
そして何の像を刻むのかと言えば、それは自分の願いが神となる。
自分の願いを叶えてくれる像を刻むようになります。

この姿勢というのは、今年私たちが最も大切にしようとしているみことば、(Tサムエル)3章の9節の「【主】よ、お話しください。しもべは聞いております」と真逆の姿勢です。
偶像の前に立って偶像を礼拝しても、偶像は語ることをいたしません。
それはイザヤ(***44章)も批判しているように、口を開かない。
人の手によって造られた木材に、彫像に、語る力はありません。
考える力も命じる力もありません。

私たちが神社に参拝する時に、「あちらにおられるであろう神が、何かを語りかけをしてくれる」という意味で、その場に参拝に立つ人は私(藤本牧師)は一人もいないと思います。
神社の方々でも。
むしろその神には御利益というのがあって、崇拝することによって、そのご利益にあずかると。
自分の求めている願いと、その神々が与えることができると言われているご利益が違うんなら、それは行く神社を間違っている、という理解ですよね。
そこにどんな神がいるのか、その神が何を考えているのか、何を私たちに教えようとしているのか、ということではなく、
自分の願いを叶えてくれる、所謂神々を私たちは参拝するというものの言い方をいたしますよね。
もっと神聖な思いがあって、厳粛な思いがあることも事実でありましょう。

でも言えることは、語ることのできない者に、「お語りください」とは言えないですね。
語ることもできない神々に、「しもべは聞いています」と言うことはできないですよね。
ということは、この聖書の神というのは、特有な力がありまして、それは私たちが聞く・聞かないに関わらず、私たちに語る存在だということです。

イザヤ書(***51章)にあります、「わたしに聞け」という。
人生様々な課題があり、私たちの悩みがあり、それは悩み事として私たちは神の所へ行くわけですね。
願い事を持ちながら神さまの所に行くわけですよね。
でも神さまは、まず「わたしに聞け」と仰る方です。
「わたしは語ることができる。あなたの不安を鎮めることができる。あなたに行くべき道を示すことができる。何とかして信仰を持って、わたしに聞け」ですよ。

(Tサムエル7章)3節を見ていただきますと、
<Tサムエル7:3>
3サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって【主】に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。・・・・・・

2)「心のすべてをもって」

「心のすべてをもって」というのは、もしかしたら、皆さん初めてこの聖書で出会う言葉なのかもしれません。
私(藤本牧師)は名訳だなぁと思います。
以前の第三版では「心を尽くして」です。
口語訳聖書では「一心に」です。
ですから全力で、迷うことなく、全身全霊で、神に立ち返れという意味ですよね。
何となく、「心のすべてをもって」というのが名訳だなぁと思うのは、
それは偶像的な存在というのは、私たちの心のどこかをいつの間にか占める傾向がある。

イスラエルの民は二十年かけて信仰を捨てて行きました。
捨てるきっかけはありました。
戦いにおいて契約の箱は何の力も発揮することはなかったというのは、イスラエルの人々にとっては大きな失望でありました。

そして神を捨て、しかし神らしきものに心を向けるということを、いつでも人間はする。
なぜなら、「人間は神によって創造され、神の似姿に創造された時に、その神を慕う思いというのは、人間どこかにいつも存在している」というアウグスチヌスの言葉。
そして、「本当の神に自分が帰って行った時に、人間は本当の意味での平安を得ることができる」と言う。

私たちの人生の旅路というのは、《その本当の平安を求めて、本当の神に何とか帰ろうとする努力》なんですよね。
ま、その意味で、人は完全な無神論者には、なれない――それがキリスト教の考え方です。
人は神のかたちに造られている限り、どこかで何かを拝み、仕え、信心が残る。
それが少しずつ心を支配していく。

前にも申し上げました。色んなケースがありますよね。
私たちの教会で本当に勇気をもって天に帰られた、勇敢に闘って天に帰られた岡林鈴代さん(2013.10.7召天)という方がいらっしゃいました。
今日と同じような説教を私はしたんです。
「心のすべてをもって神に立ち返り、神のみに仕えなさい」という、あの時は十戒の説教でした。
説教が終わって、玄関で皆さんに挨拶をする時に、一番先に岡林さんがやって来て、
「先生、私は分からないところで、陰で偶像を刻んでいました」と。
私はその時の説教で「陰で偶像を刻む私たちの人生」ということをお話ししたんですけれども、岡林さんはそれを言って来られました。
岡林さんが非常に優れた、敬虔なクリスチャンであることは知ってますから、
「いやいや、そんなことはないんじゃないですか」と(藤本牧師は笑って答えました)。
岡林さんは
「先生、私にとって偶像は乳がんでした。乳がんの手術を終えて10年。毎日のようにどうしたら健康になれるか、どうしたら再発しないか。そればかりを考えて、いつの間にか、自分が乳がんを神にしているということは、今日示されました」。
すっごいクリスチャンがいるんだなぁと。

私は思いますよ、聖霊って、そういう風に語りかけるんだ、と。
私は全く岡林さんのような敬虔な人のために話したのではない。
でも聖霊が語りかける時に、私たちの心の隅に二十年・十年のこの歳月を経て、いつの間にか、《神以上の心配事として、目標として、業績として、何かこう自分なりの神を作り上げていくことに必死である》ということは、あ、なるほど、十分にあり得るんだ、と思いますね。

聖書を見ていただきますと――
<Tサムエル7:3〜4>
3・・・・・・「異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を【主】に向け、主にのみ仕えなさい。・・・」(※4節に続けて)
4イスラエル人は(***素直に、と加えて)、バアルやアシュタロテの神々を取り除き、【主】にのみ仕えた。

二十年かかるまでサムエルは黙っていたんですね。
サムエルが祭司となって、ダンからベエルシェバ、つまりあのパレスチナの北から南に至るまで、彼が預言者であるということはみんな知っていました。
しかしサムエルはまだ青年でありましたし、戦いを率いたサムソンのような人物ではありません。
戦いを率いるサムソンのような人物であれば、勝利を得た時点で、一心に周囲の関心が自分に集まります。
そして周囲はすぐさま彼を士師にしよう、さばきつかさにしようと思うではありませんか。
でもサムエルはそういう人物ではなかった。
彼は少年の頃から神殿に仕え、そして神さまから名前を呼ばれた時に、「お話しください。しもべは聞いています」と言う、真実な真実な神殿に仕える少年だったわけですね。
「二十年経って」と言った時に、彼は何歳だったのか、聖書は明確には記していません。
だけどサムエルは、民に霊的な渇きが戻るまで待っていたんですよね。

これって、私すごく大切なことで、無理やり引き戻しても、引き戻すことにならないですよね。
ま、何かのきっかけはあるんだろうと思います。
でもここは理想的で、二十年経って、イスラエルの全家は主を慕い求めていた、という時に、ようやくサムエルの出番が来る。
私(藤本牧師)は色んな意味で、色んな意味で伝道の機会っていうのはあるものです。
ほんとにあるものです。色んな意味で。
でもその人に、霊的な渇きというものがふと感じられるような瞬間というのは、それは、まさにサムエルが登場しなければいけない時間で、
そして言うべきことがあるならば、「心のすべてをもって主に仕えなさい。そして示される神々を、あなたの心から取り除きなさい」。
なんとイスラエルの人々は、素直にそれに従うわけですね。

来週5節を見ます。まだ話は終わりじゃないんですけれど、5節にこうありますね。
<Tサムエル7:5>
5サムエルは言った。「全イスラエルを、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために【主】に祈ります。」

で、サムエルの預言者としての働きが、ここに始まるわけです。
サムエルという人は一体どういう人だったのか?
彼はイスラエルのために祈った人ですよ。祈った人。
サムソンのように敵を打ち負かした人ではない。
彼は霊的な中心として、民のために必死で祈ることによって、民の心を主に向け、主の導きを主の祝福を引き出し、そしてイスラエルの民を治めるようになった人物ですね。

13節をちょっと見ていただけます?私(藤本牧師)ちょっと13節は映しますね。
【画面:Tサムエル7章12〜13節全文に水色のハイライト】
<Tサムエル7:13>
 13ペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領土に入って来なかった。サムエルの時代を通して、【主】の手がペリシテ人の上にのしかかっていた。

サムエルが裁き司である時代、二度と敵は入って来ないんですよね。
それはサムエルがいつも剣を持ち、サムエルが兵を訓練し、そしてサムエルがいつでも戦いの備えをしていたからか?
いえいえ、そうではない。サムエルはもっぱら祈っていた。
主の手が敵を防ぐように、サムエルはもっぱら祈っていた、という話を来週したいと思います。

今日は改めて、「心のすべてをもって主に立ち返る」という、或いは「二十年をもって、イスラエルの人々は心のどこかをほかの神々に捧げていた」という現実を、私たちは自分のものとして考えなければいけないと思います。

オーバーマウガウ――5年位前にNHKの特集であったと思いますね。
ドイツの小さな村で1600年代からずっと続いて、10年に一度、村人全員でイエス・キリストの十字架の受難劇を演じるという。
10年に一回なんですけれども、ナポレオンの退官の時と、ナチスドイツの政権の誕生の時には、10年に一度から外れたけれども、劇は実施されています。
それほど有名な劇で、日本からでもその年になりますと、観光ツアーが組まれるんですけれども、野外の劇場で観客席は5000しかない。
ま、驚くべきは村人全員、つまり2000人以上参加する劇なんですよね。

そのヨーロッパの伝統ある受難劇に非常に関心を覚え――何とかアメリカで、やがてそういう劇の代わりになるのが映画になって行くわけですけれども――
1930年代に、アメリカのハロルド・エーレンスペーガーという人がオーバーマウガウを体験しに行くわけです。
一体どういう風にして、そんな風に村人全員のね(笑)10年先にって言った時に、途中で何人かは天に召されるでしょうし(笑)、果たして主役はまた変わるのかも知れませんし、勉強しに行ったんですね。

彼はルター派の敬虔なクリスチャンの家にしばら〜く滞在して、その内にその家にいたヨハン(英・ジョン)君と仲良くなります。
ある日、この敬虔なヨハン君が先生に話をしたそうです。
「自分は大きくなったら、自分はヨハン(ジョン)ですから、ヨハネの役が欲しい。」
ヨハネというのは、イエス・キリストの愛された弟子として聖書に描かれていますから、
「イエスに愛された弟子として、自分は何とかこのヨハネの役を欲しい」と言うんですね。

エーレンスペーガーは、ヨハン君と友だちになり、アメリカに帰ってからも数年間文通が続いたそうです。
それから大きな変化がドイツに起こり、ヒトラーが政権を握り、国の若者はこの「新しいメシア」に従うようになりました。
ヨハンの手紙もまばらになり、とうとう途絶えてしまい、数年間、ヨハンからの便りがなかった。

そして戦争が始まります。
ある日、一通の手紙が彼のもとに、エーレンスペーガーのもとに届きました。
1933年10月の(ポーランドの)消印でした。

彼は喜んで封筒を開けるものの、中に手紙はありませんでした。
代わりにドイツの新聞の切り抜きが入っていました。大きな写真が一面に載っています。
写真の中央で、笑顔で勝利に酔っているのは、手を高く挙げ、側近に囲まれたヒトラーです。

エーレンスペーガー氏はその写真をじ〜っと見つめて、
「まさか?いや確かにそうだ。」
疑いはありませんでした。ヒトラーの隣りに立っているのは、あのヨハンです。
背の高い、成長したハンサムな青年で、親衛隊の制服を着ていました。

エーレンスペーガー氏はその写真をじっと見て、それからペンを取り、写真のヒトラーに矢印を付けて、英語で「イエス・キリスト」と書きました。
そしてもう一つの矢印をヨハンに付けて、同じく英語で「彼の愛する弟子ヨハネ」と書きました。

ヨハンにとって、少年時代かつて、「イエス・キリストが自分の本当の憧れで、イエス・キリストの愛する弟子になりたい」という願いを、彼は敬虔な思いで温めてきた。
でもやがて、その成長の段階で、それがヒトラーに変わって行ってしまった。
今では「ヒトラーがこよなく愛する親衛隊の弟子」になっている。
人間の人生の巡りっていうのは、何かこういう所に似ているんですよね。

それはイスラエルの人々も契約の箱を失って二十年かかった。
未だに私(藤本牧師)自身も、ふと気がつくと、自分が別の世界にいるのが分かります。
何かに捕らわれたように仕事に熱中している場合もあれば、関心が全然違うところに行ってしまう場合もあり、
こうして日曜ごとに説教台に立たせていただいているというこの職務のゆえに、私は自分のたましいを主のもとに真っ直ぐ向けることができるんだろうと思います。
で、もしこの職務がなければ、きっと私はなんか全然別の世界に行ったり来たり、行ったり来たりしている内に、主の臨在を失った世界――いつの間にかアシュタロテに礼拝を捧げているような(世界に)――自分がいるのではないかと、オンラインを観ておられる皆さんにとっても、そう思えることがあるんじゃないんですか?

私たちの心から「主を愛する、主を信じる、主に仕える」というものが消えてしまった時に、その心には必ずほかの俗的な神々が、邪悪な思いが居座り始めます。
それが時には邪悪じゃなくても、がんのような自分の最も心配する、悲しい辛い体験が居座り始めるという場合もある。
いつの間にか、自分の人生のすべてがそちらの方向に向かって行きます。

イエスさまの愛、神の栄光――それとは全く違うものが居座り始めてもう二十年経っていた。
私たちは、サムエルのように《夜明けの宣言》をします。
《夜明けの宣言》――心のすべてをもって主に立ち返ろう。
この受難節に、この年度替わりに、「心のすべてをもって主に立ち返る」ことができたならば、新しい年度を清々しい思いで迎えることができることを心から信じています。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、私たちは決してイスラエルを責めることはできないと思います。なぜなら、主の尊い臨在がいざという時何の力も発せず、そのまんま持ち去られ、二十年経ってしまったわけですから、拝む対象が一体どこなのか分からず、しかし心の内から真実な霊的な渇きが上がって来たところで、サムエルはこの宣言をいたしました。

一週間を振り返ってみて、忙しさのあまりに「心のすべてをもってあなたに仕える」ことをせず、様々な痛みや傷や忙しさが心の隅から隅までを支配していたこともあるに違いありません。この時共に礼拝を捧げる恵みを感謝いたします。

そして忙しい人は、これから先もっと今月忙しさは増していくことでありましょう。主よ、どうかお一人お一人、その家族をお守りください。悲しみの内にある人は、何とかあなたが支えてくださり、「倒れても真っ逆さまには倒れない」(***詩篇37:24第3版)との恵みを味わわせてください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2024.03.03 - 20:11
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