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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/10 サムエル(6)ここまで主が私を助けてくださった Tサムエル7:2〜13
☆聖書箇所 Tサムエル7:2〜13 

 2箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は【主】を慕い求めていた。
3サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって【主】に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を【主】に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」
4イスラエル人は、バアルやアシュタロテの神々を取り除き、【主】にのみ仕えた。
   5サムエルは言った。「全イスラエルを、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために【主】に祈ります。」
6彼らはミツパに集まり、水を汲んで【主】の前に注ぎ、その日は断食した。彼らはそこで、「私たちは【主】の前に罪ある者です」と言った。こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。
7イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに向かって上って来た。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。
8イスラエル人はサムエルに言った。「私たちから離れて黙っていないでください。私たちの神、【主】に叫ぶのをやめないでください。主が私たちをペリシテ人の手から救ってくださるようにと。」
9サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として【主】に献げた。サムエルはイスラエルのために【主】に叫んだ。すると【主】は彼に答えられた。
10サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし【主】は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。
11イスラエルの人々は、ミツパから出てペリシテ人を追い、彼らを討ってベテ・カルの下にまで行った。
12サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った。
   13ペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領土に入って来なかった。サムエルの時代を通して、【主】の手がペリシテ人の上にのしかかっていた。

☆説教 サムエル(6)ここまで主が私を助けてくださった

さて、今日は、先週と同じ聖書の箇所(***Tサムエル7:2〜12)を見ていただきました。13節を足しただけで、後は全く同じです。
二回に分けましたのは、到底一回ではお話し切れない、濃厚な尊い聖書の箇所だったからです。
もう一つ理由がありまして、それは年度替わりの3月10日――
皆さんにとっても私たち牧師にとっても、(19日〜21日に)教団の年会がありますので、一つの区切りです。

そこで、今日はやはり何と申しましても、12節――
<Tサムエル7:12>
12サムエルは一つの石を取り、ミツパとエシェンの間に置き、それにエベン・エゼルという名をつけ、「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」と言った。

「ここまで【主】が私たちを助けてくださった」という祈念の思いで、この礼拝に臨んでいただきたいと思っています。

年度の終わりには、ゆうさんが神学校6年の証しをしてくださると思いますけれども、そのようにして「主がここまで助けてくださった」ということの意義は皆さんお一人お一人、ご家族のお一人お一人にあると思います。

前回の説教は、(1サムエル7章)3節のこの言葉が主(メインテーマ)でありました――「心のすべてをもって【主】に立ち返る」
<Tサムエル7:3>
3サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって【主】に立ち返るなら、・・・

ここに至るまで、契約の箱、神の臨在が神殿から消えてしまって、二十年かかりました。
7章の2節に「二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた」と書いてあります。
神殿から神の臨在が消えてしまった時に、その心にほかの世俗の神々が、邪悪な思いが、居座り始めるという話をいたしました。
何も居座ってないということはないんです。
それが自分であり、自分の願望かも知れません。何かが私たちの心を支配いたします。
オーバマウガウのあの受難劇の話をいたしました。
ヨハンという少年が、「大人になったらあの受難劇で、イエスの愛する弟子ヨハネを演じたい」と言っていたのが、しばらくして、ヒトラーに従って親衛隊員になっていた、という話をいたしました。

私たちの人生、心を占めるものが、一時は純粋な信仰かも知れない。
やがて気がついてみると、自分の健康、自分の病、自分の不遇さをまるで神であるかのように、そればかりに耳を傾けて生きている、ということがままあります、という反省をもって、「心のすべてをもって神に立ち返る」(Tサムエル7:3)というお話をいたしました。

今日はさらにその続きです。で、今日は話の焦点は皆さんではなく、最終的には牧師に行きます。
よく考えて、聞いていただきたいと思います。
いつものように3つのポイントでお話をいたします。

(Tサムエル7章)5節、ちょっと映しますね。なかなかいい聖句ですので。

【画面:Tサムエル7章5節「私はあなたがたのために【主】に祈ります」6節「水を汲んで【主】の前に注ぎ」「断食した」「私たちは【主】の前に罪ある者です」にオリーブ色のハイライト】

1)サムエルは全イスラエルをミツパに集め、言います。
 
「私はあなたがたのために主に祈る。」
 その時、彼らは何をしたのか?

<Tサムエル7:5〜6>
 5サムエルは言った。「全イスラエルを、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために【主】に祈ります。」
6彼らはミツパに集まり、水を汲んで【主】の前に注ぎ、その日は断食した。彼らはそこで、「私たちは【主】の前に罪ある者です」と言った。こうしてサムエルはミツパでイスラエル人をさばいた。

「水を汲んで【主】の前に注ぎ、『私たちは【主】の前に罪ある者です』と言った」(6)という所を、先ず見ていただきたいと思います。
水を汲んで【主】の前に注ぐ、というのは、象徴的な動作だと言われています。
それは心の中のすべてを神の御前に注ぎ出す。
「注ぎ出す」というのは、水と器の関係です。様々な意味で。
聖書にそれほど出て来るわけではないですけれど、皆さんも、あ、不思議な表現だなと(思われるでしょう)。

ダビデがある日、「ベツレヘムの水を飲みたい」――彼の故郷の井戸の水を飲みたい、と言った時に、ベツレヘムはペリシテ人に占領されていました。
(***Uサムエル23:15〜17)
到底、汲みに行くことはできません。
しかしダビデの親衛隊の三人が、夜中ベツレヘムに忍び込んで、ダビデのために水を汲んで来ます。

その水筒をダビデに差し出した時に、ダビデにはその水が飲めませんでした。
彼は感激して、「この水はあなたがたのいのちだ」と。
そして神に捧げるかのように、器の中に一滴も残らない状態になるまで、地面にそれを注ぎます。
親衛隊の三人は、それほどまで考えてくれるダビデに、ますます尊敬の思いを強くいたしました。
その時に出て来る動詞が、「一滴残らず注ぎ出す」ということです。

「私たち(イスラエル人)は、水を汲んで神の御前に注ぐ」(Tサムエル7:6)。
そして出て来た言葉が、「私たちは【主】の前に罪ある者です」(同)。
真実な祈りなんだろうと思いますよね。
ペリシテが悪いのではない。
祭司エリが不十分で、息子のホフニとピネハスという、邪悪なあの祭司のせいでもない。
あれから二十年間、もうホフニとピネハスもエリも死んでしまいました。

民はサムエルに熱心に従って、神に仕えることもできた。
しかし契約の箱、(神の)臨在が取り去られた後、彼らはますます偶像に近づいて行きます。
自分の傲慢さを神として、自分の願いを神として仕えて来た二十年という期間。
彼らは気がついた時に、「私たちは、【主】の前に罪ある者です」という言葉に集約されていきます。

私たち人間には、二つのタイプがいる、という風に言われますよね。
周囲を責めるタイプと、自分を責めるタイプ。
それはタイプの問題だけではなく、私たち一人一人の人間は、あることにおいては周囲を責めがち、あることにおいては自分を責めがち。
例えば家族のことにおいては、周囲を責める。でも仕事のことにおいては、自分を責めるとか、人は様々な傾向性を持っているものです。
責められた時に、それをほとんどまともに受け止めないのが私たちです。
あんなことを言う人がいる。こんな風に責められた、と。

イスラエルの人々は、この二十年間、臨在の契約の箱がないわけですから、
「拝もうと思っても、天幕に神はいないと思えば、実際に神がいるかであろう偶像に心を向けても良かった」と言うこともできる。
「サムエル先生、あなたはまだ少年であったではありませんか。
私たちには指導者はいませんでした。私たちの信仰を導く者はいませんでした」と言うこともできましょう。
だけれども、彼らが真の意味で【主】に飢え渇いた時に出て来た言葉は
「私たちは【主】の前に罪ある者です」――これはとっても大切です。

2)そう祈った後に、試練がやって来ます。聖書から言いますと、7節ですね。

<Tサムエル7:7>
7イスラエル人がミツパに集まったことをペリシテ人が聞いたとき、ペリシテ人の領主たちはイスラエルに向かって上って来た。イスラエル人はこれを聞いて、ペリシテ人を恐れた。

どういうことかと言いますと、サムエルは、ミツパに悔い改めるために全イスラエルを集めた。
その様子を聞き及んだペリシテは、ペリシテに攻めて来る為に、全軍が集合したと勘違いしたんですね。
そこで先手必勝で、ペリシテが決起して戦いを起こして来ます。
つまり「自分たちは罪ある者です」と心を注ぎ出して神に祈った途端、逆に試練が彼らを襲います。
でもその時、彼らは「祈ってもやっぱり駄目だった」という不平は言いませんでした。
逆に懇願している言葉が8節に出て来ます。

<Tサムエル7:8>
8イスラエル人はサムエルに言った。「私たちから離れて黙っていないでください。私たちの神、【主】に叫ぶのをやめないでください。・・・」

今度はサムエルを通して、真実に【主】に叫び求める、という展開になっています。
ここからが非常に興味深いんですけれども、9節を見てください。

<Tサムエル7:9>
9サムエルは、乳離れしていない子羊一匹を取り、焼き尽くす全焼のささげ物として【主】に献げた。サムエルはイスラエルのために【主】に叫んだ。すると【主】は彼に答えられた。

ペリシテが迫って来る中、サムエルは罪の贖いのためにいけにえを捧げます。
悔い改めた民のために、いけにえを捧げます。

昨年、私たちはへブル人への手紙を学びました。
贖いというのは、こういうものなんだろうと思います。
私たちが「神の御前にある罪ある者」として自分を認めた時に、心を注いで(主に告白する。)
イエスは子羊ではなく、ご自身を一滴残らず十字架の上で注ぎ出して、とりなしをしてくださいました。
そしてイエスは、私たちのために父に向って仰いました。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と。(***ルカ23:34)

ですから、私たちもまた、イスラエルの民が願ったように、イエスさまに願います。
「どうか、私のために祈ってください。
私は神の御前に罪ある者です。
私から離れないでください。私の罪を贖ってください」ですね。

最終的には、ペリシテが攻めた時に、全く攻め込まれているという事態を認識していないかのように、サムエルはひたすら罪を告白した民のために、いけにえを献げます。
つまり自分の罪深さと、キリストのとりなしの祈りと、キリストの贖いが、私たちの人生を包むようにと、サムエルは専ら祈ります。
神さまは罪を赦してくださり、いのちを与えてくださいます。
そして神さまは戦いに介入して来られました。
ここ(10節)からは後半ですので、少し注意して聞いていただきたいと思います。

【画面:Tサムエル7章10節「しかし【主】は〜打ち負かされた」にオリーブ色のハイライト】
<Tサムエル7:10>
10サムエルが全焼のささげ物を献げていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来た。しかし【主】は、その日ペリシテ人の上に大きな雷鳴をとどろかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエルに打ち負かされた。

祈りの最中に敵が攻めて来て、「敵が攻めて来た」という事実はほとんど関係ないかのように、
罪を悔い改めたイスラエルの民のために、サムエルは変わらずにそこでいけにえを献げ、
神の贖いが民を包むようにされた。
つまりサムエルは戦士ではない。
彼の人生には一本の道筋がありました。
それが「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(***Tサムエル3:10)

ちょっと言い方を変えますと、サムエルは十字架のもとに座るだけです。
十字架のもとに座って、民の上に贖いの恵みが包むことができるようにと、サムエルは祈っているだけです。

私たちはキリストの十字架の中で保たれ、一年を過ごしました。
私たちは様々な試練の中を、キリストの十字架の贖いの恵みに包まれるかのように、乗り越えられ、助けられ、導かれて来ました。
牧師は戦士ではないんですね。
牧師の仕事っていうのは、「主よ、お話しください。しもべは聞いています」という、この姿勢に立って、民のために祈り、民のために十字架のもとに留まり続け、十字架の恵みが皆さんを覆うように、牧師は務めるべきなんですね。

三番目に、今までのことを良〜く頭に入れておいた上で聞いてください。

3)信仰の祈念碑「エベン・エゼル」を建てました。

勝利を得た場所に、一つの石を置き、それを「エベン・エゼル」と名づけた。
それは、「ここまで主が私たちを助けてくださった」という意味です。

本来、牧師というのは、サムエルのように立たされているんですよね。
ところがその牧師が、主に声を聞こうとせず、自分の思いで語る、立ち振舞う。
戦いが起っている最中でも、キリストの十字架にのみにすがって、キリストの贖いの恵みだけが皆さんを包むように祈ることを止めないのが、牧師のはずなんです。
ところが、主が与えてくださっている勝利に対して、みんなの前で「エベン・エゼルーー主が、これまで私たちを助けてくださった」ということを証しせずに、違うことをやっている、っていう牧師がいる。

私は違うことをやっているわけではないですが、私は皆さんの前に、祈りを乞わなければいけないと思います。
皆さんは藤本のために、或いは戸塚先生のために、圭子(夫人)のために祈らなければならない、というのは、それはもう一点ですよね。
それはサムエルのように、《主よ、お話しください。しもべは聞いています、という先生になりますように》ということを祈らなければいけない。
ま、私たちの健康のために祈ってくださるのはありがたいと思います。
私たちも家族を抱え、ま、病気にもなり、色々苦労もしますし、自分自身のアジェンダもあります。

だけどサムエルを見てみたら分かるじゃないですか。
彼は二十年待っているんですね。
あの契約の箱が取り去られた時に、民を責めるわけでもなく、長老を責めるわけでもなく、ただひたすらその二十年を待っている。
それは民自身が、主に飢え渇いて、慕い求めて、もう一度、悔い改めて戻って来るのを待っている。
そして悔い改めて戻って来たら、「心のすべてをもって【主】に立ち返りなさい」(Tサムエル7:3)と祈り、
戦いがペリシテが勘違いをして「イスラエルは総決起をして我々を責めて来るんだ」という、そういう中にあって、
彼は淡々と、民の罪を贖うために、いけにえを献げているだけなんですよ。
それ以外のことをしていない。
なぜなら、彼らの罪が贖われれば、主の勝利が彼らを覆う、ということを信じているからですね。

牧師って、何やって生活しているんだろう?と、皆さん疑問に思われるでしょう。
私も世の中に出ますと、聞かれますね。「どうやって食べているんですか?」と。
昔で言うならば、「神さまに食べさせてもらっています」と。
今、現代的に言うならば、「牧師はサラリーマンです」と。
私のサラリーは総会で承認されて、それを月々受けて雇われているんです。
ところが皆さんは平日、一生懸命お仕事に出ているじゃないですか。
だけど、私は日曜日がメインの仕事で、水曜日の祈祷会、その他諸々ありますけれども、そんなに仕事が無いんですね。
そんなに仕事がない(笑)って、一体どうしてそんなに忙しいの?
それは、仕事を取って来てしまうからですね。
ま、それはもう自分で仕事を取って来るのか、日本のキリスト教会のためなのか、私はもうそのレールの上に乗せられてしまったと言いますか――
それは牧師になった時に、父がまだ牧師でしたから、
「おまえは副牧だから時間がある。
だから外から頼まれる仕事は全部引き受け、一生懸命本を書き、今しか時間はないぞ。
父が牧師である間、アメリカに7年もいたんだから、今しか時間はないぞ」
って言われたことを未だにやっているから、これほど忙しいんだろうと思います。
そして、それを許してくださっているのが高津教会で、私はそういう意味で高津教会にものすごく感謝をしています。

でも私が「お話しください。しもべは聞いています」という考えをどこか脇に退けて、
「教会はこうあるべきだ」「自分は教会をこうしてみたい」とか、そういう思いで皆さんを揺り動かしていたとするならば、私はもうサムエルではなくなってしまうんです。
サムエルというのは、牧師の中の牧師ですよ。

金曜日に神学院の卒業式がありました。
で、私は出身教会の牧師として祝辞を述べた時に、「あなたがたのうちにある光を闇としないように気をつけなさい」というイエスさまの言葉を引用しました。
ルカの福音書の11章(35節)に出て来ます。
「あなたがたのうちにある光を闇としないように、気をつけなさい」
光っていたぴっかぴっかの神学生が、いつの間にか、心の中に闇を宿すようになる。

それは自分が置かれた境遇、或いは自分の中にある様々な願いが叶わないという、そのジレンマの中で、光が闇に変わって行くということがあるんですね。
そういう時に、私たちはどうするのでしょう?
それは光輝く互いを見つめながら、「あ、あの人のように生きていきたい。少なくとも、あの牧師のようになってはいけない」(笑)と、そう言われたら、牧師はもう終わりですよ。

あの人のようになって行きたい。それは病んでも苦しんでも、それを乗り越えて光を保っている、先週いらっしゃった小野さんのような強さを、自分自身も受け取って行きたい、と思うじゃないですか。
そういう意味で、私たちにとって年会というのは、私たちは教会が変わるっていう前提が全然ないです。
戸塚先生は定住伝道師ですから、変わることがないですが、「私自身、37年間変わってないんだったら、変わらないだろう」(笑)っていう風に思ってますし、
教団の方に「変わるんだったら、二年前に言ってね」という風に言ってますので。

教会で牧師が変わる教会というのは、それは大変な緊張だと思いますよ。
変わることが今は内示されますので、分かっているんですね。
12月に分かるんですよ。1月には、総会でそのことが出るんですね。
先生方は引っ越しの準備をして、4月から全然違う先生が来るという前提で、3月は動くわけですね。
それは皆さんにとっても、人生の新しい展開があるっていう、そういうことじゃないですか?

私はね、神学校の卒業式に金曜日に行って、「ああ、ここで良く大宮の渡辺勝弘先生と話をしたなぁ」ということを思い出しました。
勝弘先生は高血圧なので、大宮に住んでいらっしゃるんですけれども、私は良くあの先生と同じ曜日のお仕事が多かったので、大宮まで車でお送りしたこともありました。
大宮教会は加藤(隆弘)さんが造られたんですよね。
筋の通った先生で、インマヌエル的なことにも教団的なことにも流されず、いつでも意見を言いながら生涯を全うされた先生でありました。

60代で奥さまが天に召されました。で、私は大宮の葬儀に参列いたしました。
葬儀の最後に、渡辺勝弘先生が挨拶をされました。
その挨拶文は覚えてない。でも挨拶文の最後に仰った言葉が、
「これを献身の壇として、これからも家族で主に仕えて行きます」
という言葉だったんですね。

牧師というのは「献身の壇」というのが好きです。
ほとんどの場合、この「エベン・エゼル」です。壇というのは、祭壇の壇です。
自らを主に献げる壇として、「主は、ここまで私たちを助けてくださった」ということを一つの区切りとして、そこで再びわが身を主に献げて、次に進んで行くんですけれども――
長年連れ添った奥さま、そしてまだ子どもたちがそれほど成熟していなくて、母親を失ったということで動揺している中で、お父さんが率先して、
「これを献身の壇として、これからも家族で主に仕えて行きます」
なんていう言葉は私(藤本牧師)には言えないなぁ、とその時思いました。

今にして思いますとね、あの言葉というのは、参列した皆さんに対する挨拶ではなかった。
それは単純に、先生自身の決意だったんだろうと思います。
主が助けてくださる。ここまでも、そしてこれからも、ですね。
その典型的なみことばが、13節に出てまいりますよ。

<Tサムエル7:13>
 13ペリシテ人は征服され、二度とイスラエルの領土に入って来なかった。サムエルの時代を通して、【主】の手がペリシテ人の上にのしかかっていた。

「二度と入って来なかった」――生涯、神がイスラエルを守った、ということは、生涯、サムエルのこの時の献身の壇が、神の祝福をもたらし、イスラエルを守った、ということですよね。
で、サムエルは生涯、「神さま、お話しください。しもべは聞いています」という姿勢を崩さず、祭司としての務めを、さばき司としての務めを彼は全うしていきました。

☆お祈りをして終わりにいたします。――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、こんな愚かな牧師を、教会の皆さんは愛してくださり、祈っていてくださいます。それゆえに、高津教会はここまで支えられ、助けられて来ました。

私たちが一同となって、「主よ、お話しください。しもべは聞いています」(Tサムエル3:9)という姿勢を貫いていく時に、ペリシテは私たちの生活に手を伸ばすことなく、イスラエルの民もこれから先長〜い間、様々な試練の中を通り、問題課題があり、やがてサムエルは老いて行きます。しかしそれらの中にあって、ペリシテは二度と侵入することを許されなかった。あなたの手が彼らを防いでいた――そのような教会として、高津教会を作り上げていくことができるように。

そしてオンラインを含めて、この群れに属するすべての一人一人があなたの御前に、「お話しください、しもべは聞いています」とあらゆる試練のただ中で、たとえペリシテが襲い掛かろうとするその最中にあっても、この姿勢を崩すことなく進んで行くことができるように憐れんでください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

※今日の礼拝は、最後の信徒のお祈りの途中で、突然映像が終わりましたので、祝祷まで視聴できなくてここまでです。

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DATE: 2024.03.10 - 21:04

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