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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/24  神の人モーセ(32) 契約の血  出エジプト24:1〜11
☆聖書個所     出エジプト24:1〜11

1主はモーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、【主】のところに上り、遠く離れて伏し拝め。
2モーセとひとり【主】のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」
 3そこでモーセは来て、【主】のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「【主】の仰せられたことは、みな行います。」
4それで、モーセは【主】のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
5それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を【主】にささげた。
6モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。
7そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「【主】の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」
8そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」
 9それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。
10そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。
11神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。

☆説教     神の人モーセ(32)契約の血

「神の人モーセ」という題で、ずっと出エジプト記から学んでいます。今日は32回目で、前回モーセの生涯を学んだ時、私たちは十戒の与えられた神の民が、実は神の前に近寄ることのできなかった事実を学びました。

20章の18節をページをめくって見てください。20章というのは十戒が与えられているところですが、神の戒めを告げられた後、18節に――

18民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。

あるいは21節にも「そこで、民は遠く離れて立ち」と書いてあります。

モーセだけが神がおられる暗やみに近づいて行くのですが、しかしだれも近づこうともしないほど、神の存在に圧倒されていました。
そのような中で、前回、20章の最後に祭壇のことが書かれているとお話をしました。
罪深い私たちが神に近づくには一つの方法しかない。それが私たちの罪を取り除く神の祭壇である。

この20章の流れというのは、出エジプト記の中心にあります。
神の救いのクライマックスは、エジプトからの解放だけではなく、海を二つに分けてその真ん中に道を造り、渡らせてくださる神さまの奇跡を体験することでもなく、ここにある神と契約を結び、神の民となり、神のみこころに従って、神さまに大切にされて、神さまの宝となって生きていくという、この20章に描かれている「契約の民となる」ということが一番のクライマックスであるという話をずっとしてまいりました。

1)実際にそのようにして神さまに救われ、神さまの宝になった民は、神さまに近づけば近づくほど恐怖を覚えます。それは、モーセもそうでした。

ちょっと出エジプト記に週報を挟んでいただいて、新約聖書のずっと後ろの方、へブル人への手紙12:18〜21までを読みましょう。

一番前に座っている利奈さんは、スマホの聖書を見ているんだよね?そのうち変わるんだと思うんですよね。「ここで聖書を開きます」と言いますと、みなさんはバアーっとめくるし、ある方はスマホで聖書をめくるし、ある方はタブレットでめくるし、これから楽しみですね(大笑)。だれが一番速いかは今まではね、こうやって頁をめくっていたんですけれども、これからは検索機能で行くんですよね。

さっきから見ていて、何か遊んでいるのかなぁ(大笑)、もしかしたらメールでもやってないかなぁ(大笑)(と思って見ますが)、全然指は動いてないですよね。実は聖書を読んでいるだけなのですが、気になって仕方がない(大笑)。

12章の18節から21節までを交替に(読みます)。

18あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、
19ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
20彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。
21また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。

近づくという時、神に近づく時、へブル人の記者は、以前モーセの時代、出エジプト記で、神の山に近づくということも許されずに、モーセやイスラエルの指導者たちが神の前に近づいて行く、たとい獣でも山に触れるものは石で打ち殺されなければならない、それほどの厳しさの中でモーセさえも、21節「私は恐れて震える」と言っていたというのは、出エジプト記の24章のこの場面なのです。

今日の全体のテーマは「神に近づく」というテーマです。神に近づけるのか?
神さまは十戒を教えた神の民に向かって、「わたしはあなたを宝の民とする。わたしに近づきなさい」(と言われる)。
しかし民の方はどこまでいっても遠く離れて立ち、そしてその異様な光景に恐れを抱くのです。尋常ではない。それは単に圧倒されるというものではない。

それは心の底から聖なる神を前にして、恐れを抱いて震えているのです。
私たちと契約を結び、私たちを宝のように大切にしてくださるという神さまが、どれほど自分とは実際かけ離れた存在であるのか、その御前に滅びゆく以外ない自分のありさまを見て、震えているのです。
モーセは「私は恐れて、震える」(へブル12:21)と言いました。

私たちには想像もつかないと思います。
皆さんはたとえば、とてつもなく恐ろしい光景というのを見たことがあるでしょうか?圧倒されるほど恐ろしい光景――私は一つぐらいしかなくて、一番最初にナイアガラの滝を見に行った時。忘れもしません。

滝はアメリカ側からカナダ側に落ちるのですね。(それをアメリカ側から橋を渡って見に行きました)。
その滝のそばに近づきますと、白い水蒸気がブワーッと上がっているのが目に入るのですが、アメリカ側から滝が落ちているカナダの向こう側に渡る橋の真ん中ぐらいから、滝の轟音が、ズシーンと聞こえてくるわけです。やがて目に入る全景というのは、大きな湖が分厚い壁になって(ものすごい勢いで)そのまんま落ちて来る。う−わーっという光景でしたね。

そのまんま落ちて来る――それはグランドキャニオンのような、その荒涼とした大地の中でどうしてこのような大地の亀裂が入ったか、とは違う。その湖が圧倒的な迫力でそのまんま落ちてくるその迫力というのは、行ってみないと分からない。
観光船が滝壺近くまで行ってくれます。みんな雨合羽を着てそれでもびしょぬれになって、近くまで見に行くとやっぱり鳥肌が立ちます。

そういう感覚ではないのだろうかと思います。これはもう表現することができない。
カルビン・ミラーという私がよく引用する牧師がこんなことを言っているのですが、小さな天体望遠鏡を持って来て、そして夜空を見て言います。きらめく天の星を少し拡大して、望遠鏡で眺めるのですが、あるいは私たちは持ってきた紙に描いて勉強する訳ですが、実際に見たその瞬間、その星座は爆発して輝いている訳ですから、見ている時点で星はもうそこにいない。

そういう自分の想像を絶した世界に身を置くと、よく言うじゃないですか、宇宙飛行士を体験した人のかなりの人の信仰が変わると。宇宙に出て行って、なんだ神はいなかった、というそんな単純な世界ではない。
宇宙に出ていくと、自分の存在の小ささ、地球という生命体の美しさ、そして深遠な暗やみ、その訳のわからない世界にポツンと置かれている人間存在、その尊さとむなしさの中で、何とも言えない畏敬の念に打たれて神を礼拝する。ほとんどの方はそうおっしゃいます。

モーセは震え、怯え、恐れたというこの感覚は、私たちは解っていない。解っていないから、のほほんとした顔をして(笑)礼拝に来るのですね。解っていなくていいんだろうと思います。
でも時に礼拝の前に静まりましょうとか、礼拝の最後に、後奏を聴きながら静まりましょう、と言うのは、少しは解った方がいいという意味でもあります。

2)神さまはそのように遠く離れて怯えている彼らに向かって「近づきなさい」(と招かれる)。

(出エジプト記)24章に戻っていただいて、1節、2節をちょっと読みますね。

1主は、モーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、【主】のところに上り、遠く離れて伏し拝め。
2モーセひとり【主】のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」

「アロンとナダブとアビフ」というのは後の祭司になります。最初はモーセひとりだけ(が許されて【主】のところに上ります)。
しかし、しばらく行きますとね、9節(〜11節)――

 9それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。
10そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイアを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。
11神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。

しかし9節からは、アロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人が「神を仰ぎ見た」(10節)。(見ただけにとどまらず)「しかも、飲み食いをした」(11節)という独特な表現がここに出て来ます。荘厳な神、絶対に見てはいけない、その神を見た。絶対に近づいてはいけない、というその神のところで飲み食いをした。
文字通り解釈すれば、神さまが食事を用意しておられて、彼らをご自身のそばへと招かれた。

つまりこの場面を見て解ることは、神さまがモーセと民の指導者たちに「近寄れ」と仰った時に、それは聖なる神が罪深い私たちに下された命令ではなかったということです。
「近寄れ」とは、聖なる神さまの厳しいばかりの命令ではなく、あわれみ深い神さまのお招きであった。
羊飼いが羊を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴い、食べさせ、休ませなさるように(***詩篇23篇)、主はモーセと私たちをご自身のふところの中に招かれるということです。

聖書の中で「共に食する」とはとっても大切なことです。説教を聞く、みことばを学ぶということも大切ですが、共に食する時の私たちは、打ち解ける。共に食する時に、上下を忘れて一つになる。共に食する時に、緊張が解けて何とも家族の普通の話をする。交わるといろんな話が出て来ます。

今回も福島の仮設住宅でコンサートがありますね。マッサージがあります。以前、竹内姉がいらっしゃった時には、ネイルアートがありました。今回は糸井さんの小さな三人のお子さんたちが行く。

金成先生がいつも仰っておられますが、物資を配るというのは難しい。一番喜ばれる物資は水とお米で、それはもうすでに届けられています。高津教会の方で窪倉兄が手配してもうそれは届いているのですけれども、その物資が仮設に置かれても、仮設の人たちがそこから出て来る訳ではない。

何か炊き出ししても、出て来ない人は出て来ない。お話ありますか、何か話したいことはありますか、とベルを鳴らしても、電気は点いているんだけれども、中に人がいることがわかっていても、だれも出て来ない。
近づきなさいと言っても、人はそう簡単に近づかないです。
なかなか出て来ない皆さんをくつろがせて楽しませる(には)、何がいいのだろうか?いわきの金成先生もいつもそのことを考えておられる。

それでマッサージ・ベッドを持って行って、山本姉の関係で、マッサージ師が今回も三人いらっしゃるのですか。そうすると、驚くほどの列が整然とマッサージ・ベッドの前にできていく。
そして伊藤さんや小柳さんのリードでみんなで歌を歌う。
すると、笑顔になって、元気になって、仮設の方々が、気持ちをほぐして一つになる。
今回は糸井兄姉の小さな三人のお子さんがいらっしゃるということは、それはそれは和むでしょうね。

ボランティアでいらっしゃる方々が、仮設住宅に住んでおられる方々に向かって、近づきなさい、出て来てください、と言ってもそう簡単に出て来ない中、「さぁ、マッサージもあります。一緒にたまには歌を歌いましょう」と、小さなお子さんたちが声をかけて、一軒一軒回ってみんなを連れて来るのだろうと思います。

その雰囲気というのは少しはここの場面とダブることができる。
恐れおののくモーセ、できるだけ近づきたくないイスラエルの民。しかし神さまは彼らに食事を整えて、ご自身のところに招かれた。ご自身とともにおらせるために食事をする。

礼拝というのは、「招きのことば」をもって始まりますでしょう?そのことばは聖書からとられていますけれども、その多くは神さまの招きです。私たちが神さまを招くために「招きのことば」が読まれているのではないです。
神さまが私たちを招いてくださるために、そのことが解るように、礼拝の始めで「招きのことば」があります。
それはおおよそ近づくことができない罪深い私たちが、おおよそ聖なる神には背を向けても顔を上げようとしない私たちが、さぁ食事をしようと招いておられる神さまを意識するために、「招きのことば」がある。

さて3番目、これが最も重要ですが、

3)どうして遠く離れた民が、そのような招きに応じることができるのか?

8節をご一緒に読みたいと思います。

8そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」

契約の血が、私たちに、1行目、「注ぎかけ」られているからです。振りかけられているからです。その契約の血はどこから来たのか、5節(と6節)――

5それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を【主】にささげた。
6モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。

神の側に残りの半分、民の側に半分、そしてその半分の血を注ぎかけられた民は、契約の血をかけられた者として、神の御前に近づいて行く。
レビ記にありますが、血はいのちを表します。
動物のいのちが、罪人である私たちのいのちの身代わりとして捧げられることによって、私たちの罪が赦され、神の民として神さまのところに近づくことが赦されているわけですが、当然神の前に立ちおおせない民が、神を仰ぎ見、しかも飲み食いまですることができた、ということは、彼らの罪が赦され、神と和解し、神の民としてそこにいることができたということでしょう。
それを可能にするのは、「契約の血」です。

「契約の血」というのは、聖書全体で5〜6回しか出て来ないです。
「契約の血」ということばで、私たちが一番よく知っている場面は、新約聖書の「最後の晩餐」の席で、イエスさまは弟子たちに杯を渡して仰いました。
「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」
(マタイ26:28、マルコ14:24、ルカ22:20)

イエス・キリストは十字架にかかる前の晩、弟子たちと共に食事を取り、その席でパンを裂き、
「これは明日、十字架の上で裂かれるわたしの肉体だ。わたしのいのちそのものだ」
そして杯を満たし、
「これこそが明日、十字架の上で流される私の血だ。わたしのいのちだ」と(言われた)。

そして、それを食べ飲む者は、「契約の血」の注ぎを受ける。そしてその注ぎを受けた者は何のはばかりもなく、大胆に神の御座に出ることができる。その約束をしているのが、先程のへブル人への手紙です。

旧約聖書の動物のいけにえでは、はなはだ不十分で、モーセは恐れとおののきをもって、神に近づいた。しかし、神の御子イエス・キリストの血潮を仰ぐなら、私たちは大胆に自由に、こんな汚れた者が神の御前に出ることができる――それが「契約の血」ということばです。

前にお話ししたことがありますけれども、『キリストの血潮』という本の中で、ロバート・コールマン先生――私(藤本牧師)の神学校の先生でしたけれども――お医者さんから聞いた話を引用しておられます。

医者が小さな少年に言いました。
「君が妹に血をあげれば、君の妹のいのちは助かるんだよ」
6歳になる妹は、死の危機に瀕していました。
この少年も二年前に同じ病気にかかり、死の淵から見事に生還しました。ですから、少女を助けるには、同じ病気に感染し、それを克服した人から輸血をしなければいけない。
幼い兄妹は同じ血液型でしたから、少年は最善の血液提供者だったのです。

「ジョニー。君の血をメアリーにあげてもいいかい?」
医者が尋ねます。 
少年はしばらく躊躇しました。躊躇した後に、下唇がわずかに震えるのです。
それから、彼はほほえんで言います。
「先生、もちろんです。ぼくの血を妹にあげます」
 
ほどなくして、二人の子どもは同じ手術室に運ばれていきました。メアリーは痩せて蒼ざめていましたが、ジョニーは血色も良く健康そうでした。
兄と妹は言葉を交わすことはありませんでしたが、目が合うと、ジョニーはやさしく妹を見つめていました。

少年の血が妹の静脈に流れ込み、まさに新しいいのちが、病める肉体に入っていくのが見て取れました。
輸血も終わりに近づいた頃、沈黙を破って、ジョニーは小さな、しかし勇敢な声でお医者さんに尋ねました。
「先生、ぼくはいつ死ぬの?」

その時、この医者はわかった。あの診察室で少年に話した時に、なぜ彼はあれほどためらっていたのか。なぜ下唇が震えていたのか。
小さなジョニーは、まだよくわかりませんから、自分の血を妹にあげるということは、つまり自分は死ぬんだ、妹のために死ぬんだと思っていたのです。  
でも、ほんのわずかな瞬間に、彼は妹のために大きな決断をした。

血をあげるということは、いのちをあげることなんだ、自分のいのちを注ぎだして、自分のいのちを妹のために差し出すことなんだ――少年はそう考えていた。
その考えは、間違っていない。全部あげたら、死ぬわけですから。

イエスさまは最後の晩餐で、杯をかかげておっしゃいました。
「これはあなたのために注がれるわたしのいのちだ。この杯から飲みなさい。そしてあなたは生きなさい。大胆に神の御前に近づきなさい。大丈夫、死ぬことはない。あなたの罪は赦された」
それで、神の食卓が広がるのですよ。今日は広がっていませんが、それが聖餐式です。

あなたがわたしを信じる時、この十字架の血があなたの上に振りかけられる。
それは、わたしがあなたの身代わりとなっていのちを捧げた、この出来事を自分のものとすることだ。
            
その時あなたは、罪深いあなたは、その罪が赦され、なんと神を仰ぎ見ることが許され、そして、なんと神と共に食事をすることが、神と親しく交わることが許されるとすれば、荘厳な思いをもって礼拝に出た私たちも、やっぱり笑顔です。恐れ多いなぁと思って神さまの前に近づいた私たちも、やっぱりリラックスですよ。 

そして私たちは、折りにかなった助けを神さまから得るために、自分のつまらない感謝、願い、訴えを神さまの御前に差し出し、そして実に自由に祈ることができる。それが、礼拝です。

礼拝に来る時の服装に決まりもない。礼拝に来る時の態度に必ずしも決まりもない。でも私たちは忘れてはならない。――それは聖なる、私たちの想像もつかない、神の御前に近づいているという敬虔な意識と、それを可能にしているイエス・キリストの十字架の素晴らしさ、それにあずかっている感謝だけは私たちは忘れてはいけないですね。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、今日もこのようにして愛する兄弟姉妹方とともに、また初めての方もともに礼拝をささげる恵みを感謝いたします。
いま私たちの心の中にある願いを聞いてください。あなたはいのちの源であり、あなたにはお出来にならないことは何一つありませんと、私たちは信じているのですから、はばかることなく御前に出て、躊躇なく私たちの思いをあなたの御前に告白します。
私たちを憐れみ、招いてくださった神さま、私たちを助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
 

  
DATE: 2013.02.26 - 07:29

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