名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索
名前検索

::: 説  教 :::


770 165 統計カウンターの表示   管理者で接続
Name   T・Y
Subject   3/17 戸塚伝道師:ペテロのいる風景P 説教篇V イエスによって与えられる信仰 使徒の働き3:9〜26
☆聖書箇所  使徒の働き3:9〜26

9人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
10そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
   11この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
12これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
13アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
14あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
15いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
16このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。
 17さて、兄弟たち。あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています。
18しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。
19ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。
20そうして、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにあらかじめキリストとして定められていたイエスを、主は遣わしてくださいます。
21このイエスは、神が昔からこの聖なる預言者たちの口を通して語られた、万物が改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。
22モーセはこう言いました。『あなたがたの神、主は、あなたがたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたがたのために起こされる。彼があなたがたに告げることすべてに聞き従わなければならない。
23その預言者に聞き従わない者はだれでも、自分の民から断ち切られる。』
24また、サムエルをはじめ、彼に続いて語った預言者たちもみな、今の時について告げ知らせました。
25あなたがたは預言者たちの子であり、契約の子です。この契約は、神がアブラハムに、『あなたの子孫によって、地のすべての民族は祝福を受けるようになる』と言って、あなたがたの父祖たちと結ばれたものです。
26神はまず、そのしもべを立てて、あなたがたに遣わされました。その方が、あなたがた一人ひとりを悪から立ち返らせて、祝福にあずからせてくださるのです。」

☆説教  戸塚伝道師:ペテロのいる風景P 説教篇V イエスによって与えられる信仰

皆さん、おはようございます。高津教会の礼拝に良くお出でくださいました。今日も共にイエスさまを礼拝することができる恵みを心から感謝をしたいと思います。(※カメラ目線で)オンラインで参加の皆さんも、今日共に主を仰いで、このひと時を過ごすことができることを感謝しております。
何かテレビカメラが良くなったということで、いかがでしょうか?(※と右手をカメラの方に差し出す)あ、そうですか(※自問自答して笑顔で)良かったですねぇ。なんか教会堂なんですけれども、テレビカメラが良くなったことで、なにかスタジオにいるような感じです。緊張感が増してしまうような感じがするんですけれども。でもすばらしい礼拝を共に過ごすことができる、このことは大きな恵みであると思います。

早速みことばに心を留めていきたいと思いますが、
今日は「ペテロのいる風景」の第17回目、説教篇の第3回目で、「イエスによって与えられる信仰」と題して、使徒の働き3章の9節からお読みしていただいたところから恵みを分かち合いたいと思います。

ペテロの説教の3回目ですね。
前回は、毎日の午後三時の祈りの時間に、エルサレム神殿に行くペテロとヨハネ。
同じ午後三時に物乞いの時間であり、宮の門・「美しの門」に置かれている足の不自由な人との出会い。
そのことについて、そこからイエスさまの名において、ペテロの癒しの信仰が用いられて、この足の不自由な人が歩くことができるようになった。
「金銀は私にはない。私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒3:6)
と言う短いペテロの説教に心を留めてまいりました。
今日はその続きであります。
使徒の働きの3章の9節から見ていきたいと思います。

9人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
10そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。

足の不自由な人が、あの物乞いが、午後3時の男が、もう有名な人だったと思います。
皆さん、この町中の人たち、特にエルサレム神殿で午後三時のお祈りに行く人たちはみんな知っている人でしょう。「美しの門」の前に置かれていた物乞いは。
その人が癒されて、神さまを賛美して、ペテロとヨハネの後について、共にエルサレム神殿、主の宮に礼拝に行った、祈りに行ったというその光景。
それは「ものも言えないほど驚いた」と言う表現で聖書は書かれています。
「ものも言えないほど驚いた」
同じところを口語訳聖書ではこう訳されています――「驚き怪しんだ」。
さらには新共同訳聖書は――「われを忘れるほど驚いた」
さらには一番新しい聖書協会共同訳では――「驚いて卒倒しそうになった」(笑)
そんなにすごいことだったらしいですね。見た人たちは。
あり得ないことを見たんだということでしょうね。

この前代未聞の驚くばかりの出来事――そのことを見て、11節――

11この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。

大勢の人々がもう驚きながら、「ソロモンの回廊」と呼ばれる――ま、神殿の周りにず〜っと張り巡らされている廊下みたいな所でしょうね――ちょっと想像がつかないんですけれども、そういう所にず〜っと集まって来て、その様子を見に行ったわけですね。
で12節――

12これを見たペテロは、人々に向かって言った。・・・・・・

ここからペテロは3章の最後まで、ペテロの3回目の説教が始まるわけです。
3つの視点で、思い巡らして行きたいと思いますが、

1)民衆に向かって説教をしたペテロです。

この説教も3ポイント説教です。ものの見事に3ポイント説教。
テーマは「悔い改め」というテーマです。

@この人を癒したのは、イエスの名によるものですよ。(12〜16)
この人を歩かせたのは、あなたがたが十字架に付け、神さまが復活させてくださった「いのちの君」(15)イエスさまだ。
私たちが癒したのではない。イエスさまが癒した。いのちの君イエスさまが癒したのですよ――これが一つ目の説教のポイントです。

Aそのイエスを殺してしまったことを悔い改めよ。(17〜21)
復活し天に留まっておられるイエスさまは、やがて再臨され、万物を新たにされる。そのためにも、あなたたちは心の備えをせよ。悔い改めよ。

Bあなたがたは、イエスによって祝福される。(22〜26)
色々書かれているんですけれども、結局こういうことですね。
モーセもサムエルも、そのほかの預言者たちも、イエスさまの十字架・復活を告げている。
その預言者の子孫である、契約の子であるあなたがたは、イエスさまによって祝福を受けるようになるんですよ、ということでしょう。

今回のペテロの説教も、ペンテコステの日の説教に続いて、ユダヤ人に向けてのメッセージでした。
ユダヤ人に対する希望のメッセージ。それが3つ目のポイントに書かれているわけですね。

2)イエスさまを救い主として信じる、ということについて

今回のペテロの説教の中で、この朝、特に心を留めたい節があります。
それが(使徒の働き)3章の16節。
先程の説教で言いますと、ペテロの説教の一つ目のポイント(@)ですね、その中に書かれていることです。
3章の16節をお読みします。

<使徒3:16>
16このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。

ここに、二つの信仰が書かれています。「この人を強くした」信仰。「この人を完全なからだにした」信仰。
*一つ目が16節の最初の方に書いてあります。「その名を信じる信仰」「イエスの名を信じる信仰」。
*もう一つ同じ節にこう書かれています。「イエスによって与えられる信仰」

この信仰が二つの表現で描かれていますけれども、
*一つ目の「イエスの名を信じる信仰」はどういう結果をもたらしたかというと、「あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました」ということ。
*二つ目の「イエスによって与えられる信仰」がどういう結果をもたらしたかというと、「この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです」と。
結果は同じような結果ですね。

この「イエスの名を信じる信仰」「イエスによって与えられる信仰」と信仰をわざわざ二つの表現に書き分けられているというところが気になりました。
この同じような結果をもたらした、その先には何があったのか?
信仰によって、足が癒されただけではなくて、神さまを賛美し、神殿で礼拝する者にこの人は変えられて行くわけです。
つまり、救われるわけですね。救いの恵みにあずかるわけです。

じゃあ、さらにちょっと拘って見て行きたいと思います。
「イエスの名を信じる信仰」の信じるの主語はだれでしょうか?
国語の授業みたいになっちゃいました。
主語は?これよ〜く読んでみますとね、はっきり分からないんです。
ペテロとヨハネが信じた信仰なのか、この足の不自由な人が信じた信仰なのか、ま、どちらとも言える――「イエスの名を信じる信仰」。
でもどちらにしても、「イエスの名を信じる信仰」というのは、二つ目の表現「イエスによって与えられる信仰」なんだということですね。
イエスさまによって与えられたものなんだ。

今の私たちもこうして礼拝しています。
イエスを救い主として信じて、礼拝をイエスさまに、神さまにお捧げしています。
私たちは救われているからこそ、そのように当然のように、今日あなたに礼拝を捧げているわけです。
で私たちも救われたのも、イエスさまを信じたからなんですけれども、でもその信仰は、
私たちが信じたという以前に、「イエスによって与えられた信仰」なんだということです。

大学生の頃、ノンクリスチャンの友だちから言われたことがありました。
「戸塚は神を信じられていいなぁ」と。
「『信じる者は救われる』って言うけれど、信じることがどうしてもできない俺が救われないって、ひどい神だなぁ」と。
「どうして信じることができる人と、信じることができない人がいるんだろう?神はなんで俺が神さまを信じることができるようにしてくれないんだろうか?」
そんなことを言われたことがあります。

私(戸塚伝道師)はこいつは「信じることができない」っていうけど、ほんとはどうなの?信じたくないんじゃないの?とか(笑)色んなこと勘ぐりましたね。
「信じる必要を感じてないから、そんなこと言ってんじゃないの?」とか、色んなことを問いかけたことを覚えています。

でも今思い出すと、なんかすごく的を射た問いかけだなぁと思いました。
信じることのできる人とできない人がいるということは確かなんですよ。
ということは、イエスさまを信じる信仰が与えられているか、与えられていないか、そういう状態が今あるという現実は否定できないです。
自分が今信じていることの不思議さというものを、改めて実感させられます。

3)私たちはなぜ信じられたのか?さらに言うならば、私たちはなぜ救われたのか?

「信じる」という言葉、考えて見れば当たり前のように使っていますし、当たり前のように実感していますけれども、でもこれほど厳粛なことはありませんね。
「信じる者は救われる、信じない者はすでに裁かれている」とイエスさまが仰った。
こんな厳粛なことなのに、なぜ自分が信じることができたのか、案外分かっていません。

「信じる」――日常生活で「信じる」という場面は沢山あります。
手紙をポストに入れたらば、住所が間違えてない限り相手に届く。
ポストに入れた瞬間、まだその手紙は相手に届いていないのに、届いたと信じて入れるわけです。
新横浜から新幹線に乗りました。静岡で降りる予定です。この新幹線は――のぞみではなく、ひかりであるならばですよ――静岡に停まると信じているわけです。のぞみに乗っちゃうと大変なことになっちゃう(笑)。
でもまだ静岡に着いてないんですよ。でも、信じているわけです。
こういう場面って、日常生活でいくらでもある。
でも「イエス・キリストを信じる」っていうことになると、当たり前じゃなくなっちゃうわけですよ。
そして自分を振り返ると、「よく信じることができたなぁ」。

この問いは、キリスト者の家庭に生まれ育った方よりも、全く信じていない期間があるノンクリスチャンの家庭出身の方の方が、強い問いかけとして迫って来る場合が多いかも知れません。
妻(※先代・藤本栄造牧師長女)は、神さまはいるのが当たり前、神さまを信じるのが当たり前、としょっちゅう言っていますし、あ、もう自然体で信仰が染みついているなぁと思います。
あ、これがクリスチャン家庭に生まれた人なんだなぁと。
何の疑いもない、神さまに対して。

ところが、私は神さまという存在が果たして確かなのかどうか、神さまなんていないっていう所から出発しましたので、
イエス・キリストを救い主として信じるなんていうのは、ものすごく高いハードルでした。
神さまがいるのが当たり前が妻、神さまがいないのが当たり前が私(戸塚伝道師)。
それが今は信じているわけですよ。

なぜ信じられたのか?
何かクリスチャン家庭に育った人たちっていうのは、何か特別なものがありそうですね。
あまりよく分からないですけれども、なんか特別な恵みがあるんじゃないかと。
でも神さまが全くいない状態を知っている私は、よく信じられた。無から有をよく生じさせることができた。

ここから、理屈っぽくなるかも知れません。
でも歴史的経緯の中で、救いの信仰についての神学的な論点が大きく四つあります。

A)  人間は100%腐り果てているので、救われる可能性はありません。
これはカトリックの神学者アウグスティヌスの考えです。
B) 人間には自由意志があるので、神の恵みに応答できます。
こう考えたのは、同じ神学者ペラギウスという人です。

AとBの論争というのがありまして、アウグスティヌスとペラギウスの論争。
ペラギウスは言いました。
「自由意志を与えられたのは神さまです。だから信じることができます。」
アウグスティヌスは言いました。
「100%腐り果てている人間は、その自由意志も腐り果てているから、全く救われる可能性はありません。」

私(戸塚伝道師)はどちらの考えを取るか?Aの考え方を取りたい。
え〜、そんな希望がないの?いや、希望があるんですよ。
全く腐り果てて、救われる可能性がないからこそ、裏を返せば、救いは100%神さまの恵みだっていうことです。
救いの理由を人間の側の信仰が拠り所になるとすると、自分で決めて信じた行為自体がいつの間にか一人歩きして、神さまに受け入れるための律法になってしまう危険性がある。
「私は信じたから救われた、私は信じたから、自分の信仰で救われた」――確かにそういう面があるでしょう。
でもこの「信じた」という、この自分の意志決定で決めたこと自体が、自分の律法になる可能性がある。
あの人は信じていない。私は信じている。自分は信じることができた――このことが信じていない人をさばくことになってしまいます。
だから救いは100%恵み。

そこにしばらくして別の考えが生れました。
C) 救いはただ神の主権以外にはありません。
これはフランスの神学者カルバンが言いました。
「人間は100%腐り果てているならば、人間の側に希望はない。救いは神さまの主権による。」
100%恵みではなく、神さまが決めておられる。救われるか救われないかは、もう神さまが既に決めておられるというのが、カルバンの立場でした。
こうなると、人間が出る幕がない状態ですよね。
人間は神さまのペットかロボット。神さまの100%言いなり。
(※ロボットのように直立して、電子音のような声で)「はい、分かりました」の世界です。
神さまが創造してくださった人間の尊厳は、失われてしまいました。

後にDという考え方があります。
D) 救いは人間の側が信じることに意味がある。
これはイギリス国教会の司祭でありましたジョン・ウェスレーが、カルバンに対抗して、このような立場に立ったと言われています。

人間の側が信じることに意味がある。
でも100%腐り果てている人間がなぜ信じることができるんだろうか?

このことに関して、ウェスレーの前にアルミニウスという人がいましたけれども、アルミニウスが主張し、ウェスレーがさらに強調した考え方があります。
なぜ信じることができるのか?の答えです。
「それは神さまの側で、人間を救いの状態に導くために、前もって働きかけている恵みが備えられているから。」
「100%腐り果てていたとしても、人間は信じる可能性がある。」
そのようにウェスレーは言いました。

この「神さまの側で前もって働きかけている恵み」というのを、前もっての恵み――専門用語で「先行的恵み」という言葉ですけれども――「先行的恵み」が与えられている。
このウェスレーの「先行的恵み」、自分に当てはめてみると、
あ、確かに私を救いの状態に導くために、前もって神さまが備えてくださった恵み、何だろうか?
あ、子どもの頃に教会学校に誘われて通っていたなぁ。あ、あれは前もっての恵みか?

ある方はもう生まれたところがクリスチャン・ホームだったってことがありますね。
それも前もっての恵みでしょうね。
或いはクリスチャンと結婚したとか。ミッションスクールに通っていたとか。親戚にクリスチャンがいたとか。
ま、色んな前もっての恵みを神さまが備えてくださる。
そして信じることができるような可能性を私たちに与えてくださった。

ABCD色んな考え方がある。
これは、あくまでも人間が頭の中でこねくり回したことなんでしょうね。
勿論みんな聖書からそういう風に言えると、言っているんでしょうね。
でも本当は神さましかご存知ないんです。それは分からない。
私たち人間のもう限界のあるこねくり回しでは到底解明できないことです。
でもそのような人間の側で生み出されたものを越えて、なぜ私たちは救われたのか?という先程の問いかけに戻るわけですよ。

なぜ私たちは救われたのか?
これは神学的な理屈では説明できないかもしれない。でも確かに今自分は信じている。
答えはないんですけれども、このことだけをもう一度確認したいと思います。
それがペテロが語った「イエスによって与えられる信仰」ということです。

「イエスによって与えられる信仰」という言葉がある以上、自分の信仰は、自分が信じた以前に与えられたものなのだ。
つまり100%の恵みというところに、どうしても行きつくわけです。
100%の恵み――そこに至るプロセスには、前もっての恵みが備えられていたかも知れませんし、その背後には聖霊の働きがあったとも思います。
でもイエスによって、信仰が与えられたからこそ、自分は信じることができるようになった。救われた。

実際、この足の不自由な人は、ペテロの言うことを耳にしただけですね。
この足の不自由な人の信仰も、100%恵みのゆえです。
ペテロが言ったように、イエスによって与えられた信仰が、この人にも与えられた、
「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6)というこの言葉を聞いても、この人は自分で立ち上がることも、歩くこともできませんでした。
何をしたか?何をされたか?ペテロにされるがまま、「ぺテロは彼の右手を取って立たせた」と3章の7節に書いてありますけれども、
ペテロが自分の手を握る、その手にただ委ねて、引っ張られて、そして立ち上がることができた。
この男の人は自分の力で立ったのではない――つまり信仰の出どころは自分ではないということを実感したでしょうね。
ただ「イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」の「イエス・キリストの名」という言葉を耳にしただけですから。
でもその瞬間、イエスによって与えられる信仰が与えられたということでしょう。

信仰とは何か?
差し出されたものをいただくことです。(※自分の前に両手を出して、上から落ちてくるものを受けるように出して見せる)
差し出されたものをいただく、そのいただく時、その手を出すこと、(※手を後ろに回して)引っ込めていた手を出す(※再び、両手を胸の前で受け取るように出す)それが悔い改めです。生き方の方向転換。(※手を出して恭しく)頂戴いたします。
だからこそ、救いは生きる価値のない者、100%腐り果てている者に与えられます。
救い主イエスさまの十字架と復活のゆえに。
その救いの中身は、罪の赦しと、神の国。
100%私たちの罪が許され、神さまの方では思い出しもしない。海の深みに投げ入れてくださった。
そして神の国、やがて復活したからだで、愛をもって、神と人に仕える生活が待っている。

ペテロがこの説教で「イエスによって与えられる信仰」という表現を用いたのはなぜか?
最後にそのことを思い巡らして終わりにしたいと思います。
それはかつてイエスさまが語られた言葉が、ペテロの心にしっかりと刻み込まれていたからかもしれません。
その言葉はイエスさまが十字架に架かる前の日、イエスさまがペテロに「あなたは三度わたしを知らないと言います」と予告される前に言われました。
開きませんけれども、ルカの福音書22章32節のお言葉です。

<ルカ22:32>
32しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

というイエスさまのお言葉です。
イエスさまはペテロの信仰の危うさをよくご存知でした。
でもペテロの信仰の弱さを一度も責めたことはありませんでした。
ペテロの信仰はなくならないように、イエスさまによって祈られていた。
信仰の出どころはペテロの側にはありませんでした。
イエスさまによるものでした。

確かに聖書にはへブル人への手紙12章の2節には「信仰の創始者、また完成者イエス」と書いてあります。
信仰の創始者は自分ではない。イエスさまです。
イエスさまの側にある、信仰の出どころは。

だからペテロはここで、「イエスによって与えられる信仰」という言葉を用いることができたのではないかと思います。
キリスト者は、イエスをキリスト、救い主だと信じています。
でこの信仰はイエスさまによって与えられました。
そしてペテロと同じように、私たちも信仰がなくならないように、イエスさまによって今も祈られています。
さらには、イエスさまによって祈られているお互いが、今日も共に励まし合いながら、イエスさまを礼拝しています。
100%恵みです。

☆お祈りいたします――戸塚伝道師

愛するイエスさま、来週の受難週を前に思います。あなたが救い主であられることを、そしてあなたが私たちの罪のために十字架にかかり、私たちの死に打ち勝つために復活されたことを思い巡らします。

このようなすばらしい良い知らせを、なぜ信じることができたのでしょう。なぜ救いに導かれたのでしょう。その理由は自分でも分かりませんが、ただ言えることは、「あなたから差し出されたものをいただいたに過ぎない」かも知れません。あなたよって与えられた信仰のゆえですから、感謝いたします。100%恵みの救いをありがとうございます。それがすべての人に既に備えられていることを覚えます。

どうか今週も、あの人にもこの人にも、私を通してあなたご自身が触れてくださいますように。そしてあなたを救い主として信じる信仰へと導かれますように、そのような何らかのきっかけを与えてくださいますようによろしくお願いいたします。イエス・キリストのお名前でお祈りいたします。アーメン。

掲示物をメールで送信。 プリントプレビュー
DATE: 2024.03.17 - 20:08
LAST UPDATE: 2024.03.18 - 12:37

104.28.196.2 - Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; Win64; x64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/122.0.0.0 Safari/537.36 Edg/122.0.0.0

Name   E-Mail   Password

 前文 受難週の祈りとコロナ
 次文 3/10 サムエル(6)ここまで主が私を助けてくだ...
文章投稿 *^^*削除修正返答を書くリスト

チェックされた全文書を見る
770Simple view *^^*4/21 戸塚伝道師:ペテロのいる風景Q 説教篇W... T・Y 2024.04.21 10
769Simple view *^^*4/14 サムエル(8)なぜサウルが王に選ばれたの... T・Y 2024.04.14 24
768Simple view *^^*4/7 サムエル(7)カリスマか制度か Tサムエ... T・Y 2024.04.07 30
767Simple view *^^*3/31 イースター・聖餐式:「愛しているか?」ヨ... T・Y 2024.03.31 42
76620240324戸塚涛ケ師・棕櫚の聖日:「あなたは救われています!」<泣J23:3243$煖ウ用.pdf [308 KB] ダウンロードSimple view *^^*3/24 戸塚伝道師・棕櫚の聖日:「あなたは救われ... T・Y 2024.03.24 30
7652024年受難週の祈り.pdf [282 KB] ダウンロードSimple view *^^*2024年受難週の祈り 藤本牧師 T・Y 2024.03.23 71
764Simple view *^^*受難週の祈りとコロナ 藤本牧師 2024.03.23 35
763現在参照中の文章です...3/17 戸塚伝道師:ペテロのいる風景P 説教篇V... T・Y 2024.03.17 31
762Simple view *^^*3/10 サムエル(6)ここまで主が私を助けてくだ... T・Y 2024.03.10 50
761Simple view *^^*3/3 サムエル(5)心のすべてをもって主に立ち... T・Y 2024.03.03 59
760Simple view *^^*2/25 伊藤大輔 CS 教師:キリストの言葉を聞く信... T・Y 2024.02.25 33
759Simple view *^^*2/18 献児式・戸塚伝道師:ペテロのいる風景O・... T・Y 2024.02.18 40
チェック項目を全て削除。 チェック項目を全て削除。

前の頁はありません 次頁
前へ戻る 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10 次へ進む本頁が最終ページです
文章投稿 *^^* 再読込
投稿者氏名を検索項目欄に追加/除去タイトルを検索項目欄に追加/除去内容を検索項目欄に追加/除去 メイン画面に戻る。... *^^*