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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   5/5 サムエル(10)王の食卓で食事をする者 Uサムエル9章全(1〜13節)
☆聖書箇所 Uサムエル9章全(1〜13節)

1ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」
2サウルの家にツィバという名のしもべがいて、ダビデのところに呼び出された。王は彼に言った。「あなたがツィバか。」彼は言った。「はい、あなた様のしもべです。」
3王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵みを施そう。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの息子で足の不自由な方がおられます。」
4王は彼に言った。「その人は、どこにいるのか。」ツィバは王に言った。「お聞きください。ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家におられます。」
5ダビデ王は人を送って、ロ・デバルのアンミエルの子マキルの家から彼を連れて来させた。
6サウルの子ヨナタンの子メフィボシェテは、ダビデのところに来て、ひれ伏して礼をした。ダビデは言った。「メフィボシェテか。」彼は言った。「はい、あなた様のしもべです。」
7ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」
8彼は礼をして言った。「いったい、このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」
 9王はサウルのしもべツィバを呼び寄せて言った。「サウルと、その一家の所有になっていた物をみな、私はあなたの主人の息子に与えた。
10あなたも、あなたの息子たちも、あなたの召使いたちも、彼のために土地を耕し、作物を持って来て、それがあなたの主人の息子のパン、また食物となる。あなたの主人の息子メフィボシェテは、いつも私の食卓で食事をすることになる。」ツィバには息子が十五人と召使いが二十人いた。
11ツィバは王に言った。「わが主、王がこのしもべに申しつけられたとおりに、このしもべはいたします。」メフィボシェテは王の息子たちの一人のように、王の食卓で食事をすることになった。
12メフィボシェテには、ミカという名の小さな子がいた。ツィバの家に住む者はみな、メフィボシェテのしもべとなった。
13メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足がともに萎えていた。

☆説教 サムエル(10)王の食卓で食事をする者

サムエルの学びをしていますけれども、恐らく今日含めてこの三回が、私(藤本牧師)としては一番皆さんに聞いていただきたい聖書の箇所です。

サウルと言う王さま、イスラエルの第一代目の王さまを学んで来ました。
今日はぐっと飛ばして第二サムエルで、サウルと全然関係ない。
しかしサウルを理解する意味で、この人物に目を留めることが一番ふさわしい、メフィボシェテと言う人に目を留めます。
連続ですから、また前回のように少し復習をさせてください。

神さまがイスラエルの第一代目の王さまとして選ぶ時に、イケメン男性を神さまは選ばれました。
イケメン男性は何の戦いの経験もなく、実績もなく、指導者としての教育もなく、財も勢力もない人物で、あえて神さまはそのような人物を選ばれたと、前々回にお話をしました。

賜物もない、カリスマもない、経験もない。
人々は「こんな者がわれわれを救えるのか」(Tサムエル10:27)と、素直にその場で彼を指差して言った人物もいます。
しかし神はサウルに聖霊を注がれ(Tサムエル10章)、彼は預言者に変えられます。
神は彼に告げます。「あなたは新しい人になる。」(10:6)
「もしそれが起こったら、(自分の力でできることを)何でもしなさい。
その賜物を、自分のものとしなさい。わたしはいつもあなたと共にいる。」(10:7)

ところがサウルはその賜物を積極的に用いようとはしませんでした。
逆にサウルの頭の中にあったのは、あの「こんな者がわれわれを救えるのか」という人の声でありました。

前回、「トラにしてネズミの心」と題してお話をしました。
アマレクと戦い勝利を得た時、彼はその実績を認めてもらおうと必死でありました。
まずは自分のために、戦勝記念碑を立てます。(Tサムエル15:12)
戦勝パレードに備えて、アマレクの王を生け捕りにして生かしておきます。
自分こそが、民を勝利に導いた王だということを印象づけたい。
それがサウルの願いでありました。

そこへサムエルがやって来て、彼に言います。
「あなたはコンプレックスの塊だ。イスラエルの王だけれども――前回の説教のタイトル――トラにしてネズミの心だ」と。
あなたの心は人の目を気にし、自分がどういう風に周囲から評価されるかばかりを考え、神さまのことを考えていない。
しかし神があなたを選んで、イスラエルの王としたのではないのか?

失望して去って行こうとするサムエルの(上着の)裾をつかみ、
「どうか私と一緒に長老たちの前で礼拝を献げてください。もう、この時ばかりは私のメンツを立ててください」と必死でありました。

で、私は申し上げました。
まさに、このようなサウルが私たちであります。
このサウルと対照的な人物はだれでしょう?と言えば、一般的な答えは、
人目を気にせず、王になった時から実績のある、そして(神の)みこころを第一とする二代目の王さまのダビデです。

だれもが、このダビデをサウルの対照に挙げて来ると思います。
しかし、前回申し上げました。私たちは、ダビデには絶対になれないです。
ですから、対照的なダビデを挙げることさえ、あまり意味がないです。
ダビデは実績がないどころか、小さい頃にペリシテの大将である巨人ゴリヤテを一発で倒して(***Tサムエル17章)、一躍有名になりました。
そのようなカリスマは、いわば私たちが「小学生で数学のオリンピックで金メダルを獲った」(笑)みたいな話です。
何もせずとも、あなたの名前は日本中に知られていて、もう線路が敷かれるように、まっしぐらに天才の道を、成功の道を行くという、
そういう私たち、いるのかも知れませんけれども、それは極めて珍しく、私たちの模範にはなりません。

ではサウルと対照的に描かれて、なおかつ私たちのあるべき姿として描かれているのは、今日ご覧になっていただくメフィボシェテです。(Uサムエル9章)
時代はず〜っと後、しかしサウルを反面教師として自分を改める意味で、このメフィボシェテから学ぶことは実に多いんですね。
(Uサムエル)9章で、ダビデは既に王になっています。
第一代目のサウルから敵対視され、生き延びたダビデは、とうとう王になっています。

本来ですと、サウル家の生き残りの者をすべて潰すはずですね。
でないと、いつ命を狙われるか分かりませんから。
しかし彼は、サウルの息子、親友ヨナタンの友情のゆえに、サウルの家の生き残りの者を探します。
そして「その者に恵みを施したい」(9:3)と言っているのがこの9章です。

現れたのは、ヨナタンの息子メフィボシェテでした。
そして彼をエルサレムに呼び寄せます。
メフィボシェテは、4節にありますように、ロ・デバル(荒れ果てた地)に隠れるように生きていました。
そして足が不自由でした。
隠れていたのが探し出されて、エルサレムにやって来て、ダビデと話をする。

一緒に見ていただきたいと思いますが、9章の1節からしばらく読んでまいります。
【画面:1節「私はヨナタンのゆえに」に緑のハイライト、「その人に真実を尽くしたい」、3節「神の恵みを施そう」「足の不自由な」に黄色のハイライト】

<Uサムエル9:1,3>
1ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」
3王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵みを施そう。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの息子で足の不自由な方がおられます。」

ここにありますよね。(ダビデは言う)「その人に真実を尽くしたい」(1)「神の恵みを施そう」(3)
しかし探して来るはずのツィバは、
「いえ、王さま、いいんですけれども、彼はヨナタンの息子で、足は不自由ですよ」と。
それは戦いの場で、サウルと息子のヨナタンが倒れるんです。
その時に、このメフィボシェテはまだまだ赤ちゃんで、乳母が誤って彼を落とします(***Uサムエル4:4)
そして骨が折れて、それが付かないまま、彼は不自由なままでした。
「そのような人物でよろしいのでしょうか?」という所から、物語が始まります。いいですか。

ここに、今日皆さんに見ていただきたい、サウルを反面教師として、キリストの福音の真髄にどう生きるか、というお話をします。
キリストの福音の真髄って、どういうものなのか?っていうことが、この記事に非常によく出て来ます。

1)ダビデは神さまのように、憐れみをこの場面で示します。

福音と言うのは、《神さまが真実を私たちに示したい、あわれみをどうしても施したい、恵みを施すことに徹底しておられる》神がいるから、私たちのような者に、《救い、祝福という神の恵み》が届くんですね。

3節にございましたよね。「私はその人に神の恵みを施そう。」
7節に「私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。」

「だれが反対しようが、どんな邪魔が入ろうが、あなたがどういう人物であろうが、私はあなたに恵みを施す」というダビデの決意が、隠れて住んでいるメフィボシェテをエルサレムに引き寄せるんです。

私たちは教会やキリスト教とどのような関係があって教会にいるのかは、人それぞれであります。
でも私たちがどのような局面に立ったとしても、《あなたに恵みをわたしはどうしても施す》《あなたに真実を尽くしたい》という神の決意は変わらない。
《それが今日の私たちに注がれているんだ》ということを、覚えていただきたいと思うんですね。

で、その恵みのゆえに、ちょっと見ていただきますと、次のページの1行目――
【画面:7節「いつも私の食卓で〜ことになる」に緑のハイライト】
<Uサムエル9:7>
7・・・・・・あなたの祖父サウルの地所をすべてあなたに返そう。
(***エルサレムで。所有物から土地から家から全部あなたに返すと言っているんですね。象徴的に言われることが、その次に出て来ますね、と説明)
あなたはいつも私の食卓で食事をすることになる。」

これは10節、11節、13節にも出て来ますね。
【画面:10節「いつも私の食卓で〜ことになる」11節「王の食卓で〜ことに」13節「いつも王の食卓で食事をした」に緑のハイライト】
「メフィボシェテは、いつも私の食卓で食事をすることになる。」(10)
「王の食卓で食事をすることになった。」(11)
「エルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。」(13)

王の食卓に座ることができるのは、当然王の家族、恐らく将軍ヨアブ位でありましょう。
食卓で食事をするというのは、これはユダヤの文化。
あるいは、ま、日本でもそれが当てはまるのかも知れませんが、親しく交わり、友として、家族として交わる、その象徴はリビングルームではない。食卓なんですね。
「食卓に招かれる」ということは特別なことで、そこにメフィボシェテは招かれている。
それは、《どうしてもあなたに真実を尽くしたい》《どうしてもあなたに恵みを施したい》という、神の一徹なまでの私たちに向かっている目のゆえだということが第1点目です。

2)メフィボシェテは、自分のことを死んだ犬のようだと言います。

9章の8節にこうありますでしょう。
【画面: 8節「この死んだ犬のような私を」に黄色のハイライト】
<Uサムエル9:8>
8彼は礼をして言った。「いったい、このしもべは何なのでしょうか。あなた様が、この死んだ犬のような私を顧みてくださるとは。」

戸塚先生が選んでくださった(交読)詩篇(8:4)がそうですね。
「人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
という「人の子」は、別に人類すべてではないです。それは私のことですね。
私が信仰を持って、キリストの祝福にあずかっているということは、神が目を留めてくださったと。
では、その私はいったい何ものなのか?ということを考えると、メフィボシェテは「この死んだ犬のような私」という表現をしているんですね。

死んだ犬のようだ。今日日本はペットのワンちゃんは家族と同じですね。
先日TMさんが、17年間飼っていた愛犬が今はもう老犬で、という話をしておられましたけれども、自分の家族を看取るかのようにペットを看取った方はこの中に沢山いらっしゃると思います。
愛するワンちゃんは家族以上の忠誠と愛を現してくれました。
「ただいま〜」と言ったら、真っ先にワンコが迎えてくれると。

C.S.ルイスはイギリスの有名なクリスチャンですが、犬が好きでした。
彼は正直に、天国に自分の愛犬は居ると。逆に愛犬がいないなら、自分は天国に行かなくてもいい(笑)という位、その愛犬は彼の家族そのものでありました。
しかし当時のユダヤ世界で、犬はそのような親しまれる存在ではないです。

私(藤本牧師)は中学生の頃に、よく川崎街道で車に轢かれた犬を見ました。
中学に行く途中,ず〜っと川崎街道を向かって西高津中学校に行くんですけれども、
それを見た時に、私の心の中に可哀想にという感情は全くありませんでした。
よく自転車で走っていると、吠えながら野良犬が追いかけて来るというのが、当時のこの辺り、或いは日本の状況であったのかも知れませんね。
そして轢かれて死んでいる犬を見たら、考えたことはだれが片付けるんだろう?
そして学校からの帰りに、それが片付けられたならば、ああ、だれかが片付けられたんだ、としか心に留まらない。
つまり何にも感情の中に、死んだ犬が入って来ないです。
私はほかの場面でも、たとえば空き家、廃屋で犬が死んでいるのも見ました。
気持ち悪いとは思います。だけど感情の中に、何も入って来ないですよね。

メフィボシェテは自分のことを、だれにも顧みられず、車にぶつかって、何台もの車やトラックに轢かれて、でも誰もそれを葬ることはしない。
やがて保健所の方が来て、それを処分するんでしょう。
そんな存在の自分に、王さま、なぜあなたは私に恵みをかけられるんですか?

彼を探し出したサウルの家来ツィバは、驚きと怒りでいっぱいであります。
なぜなら、サウルが死んだ後に、サウルの地所とサウルの家とサウルの所有物全部もらったのは、このツィバでありました。
「メフィボシェテにそれを全部返せ」と、ダビデは言うんですね。

「死んだ犬のようだ」と自分で言いながら、しかも生き残りで、しかもからだが不自由で、だれにも顧みられないように、こっそり隠れて住んでいた人物を、
わざわざ王宮に呼び寄せて、そして「サウルの地所と家を戻して、所有物まで戻せ」と言われた時に、ツィバはそれは面白くないですよね。

彼は王の食卓など呼ばれたこともないと思いますよ。
なぜ私が今住んでいる所を彼に明け渡し、彼だけがそんなに贅沢な扱いを受けるのか?と。

3)それは、ヨナタンのゆえです。

彼の父親ヨナタンは、ダビデの親友でありました。
(Uサムエル)9章の1節をご覧ください。
【画面:1節「ヨナタンのゆえ」に緑のハイライト。「その人に真実を尽くしたい」に黄色のハイライト】
1ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」

「ヨナタンのゆえに」ってありますよね。「その人に真実を尽くしたい」
7節にもありますね。
【画面:7節「あなたの父ヨナタンのゆえに」に緑のハイライト。「あなたに恵みを施そう」も黄色のハイライト】
7ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのゆえに、あなたに恵みを施そう。・・・」

神さまが一心に一徹な思いで、「真実を尽くそう」「あなたに恵みを施したい」と仰るのは、
私たちにしてみれば、「イエス・キリストのゆえに」です。
《イエス・キリストの十字架のゆえに、わたしはあなたに恵みを施したい。》
ですから《十字架がすべての恵みの管》となっていると、私たちキリスト者は考えます。
私たちが何ものであるのか、どんなカリスマが与えられているのか、かつてどんな実績を積んだのか、どんな戦いに勝利をしたのか。

サウルは大したことはありませんでした。
それゆえサウルは、大した者と認められてもらうために、必死になり、戦勝記念碑を立てて、人々の評判を気にし、そして自分のメンツを立てることに彼は頑張りました。

メフィボシェテが見出だされた時に、彼は自分を「死んだ犬のような」と言います。
そしてこれから先も、死んだ犬のようです。
でも神さまが彼に恵みを施す。彼は感謝して受け取る以外にないんですよね。
今更、自分の実績を上げて、自分の価値を証明しようと考えていない。
自分の価値はヨナタンのゆえに証明されている。

キリストの十字架のゆえに、神の愛は私に注がれている。
必死になって実績を上げたところで、それが変わるわけではない。
そんなことで神の愛は勝ち取れない。ましてや王の食卓で食事をする特権などない。

今週、星野富弘さんが天に召されました(※4/28召天で、そのニュースをあちこちの局で放送していました)。
皆さんも、水曜日?木曜日?(土曜日)朝のNHKのニュースで、今週ちょうどですね、星野富弘さんの詩に曲をつけてオリーブが賛美をする、というレコーディングでした。
二日間あり、そして小柳さん、東さん(オリーブのお二人)、それから伊藤治哉さんも仙台から来て、伊藤真嗣さんも参加して、で、NHKの彼が、「星野さんが天に召され、そしてレコーディングをしている」ということを聞きつけ、自分自身で企画を立てて朝のニュースで流してくれました。

星野さんは、日本で最も知られているキリスト者です。
星野さんがキリスト者だということを知らないで、星野さんを慕っている人の方が圧倒的に多いでしょうね。
その詩画集の数たるや、たまったものではないです。

生徒の前で模範演技をしている時に、彼は跳躍板、そして跳馬、跳び箱に手をついて1回転して、くるっと回った時に首から落ちて、首から下は不随になるというのは、なんと23歳24歳の時でしょう。
で亡くなったのが78歳で、お二人はこの前群馬まで行って星野さんに会って来た。
星野さんの晩年の喜びは、自分の作った詩に歌がつけられること。
そして歌としてそれが残って行く。
つまり今までは詩、そして自分の口で加えた筆で絵を描く詩画だったんです。
しかしそこに歌が入ることによって、また一つステージが上がって行くってことを、星野さんは喜びにしていた。
でも段々自分のからだが衰えていくことがよく分かっていました。

星野さんの初期の作品に「鈴の鳴る道」という詩集があります。
そこにものすごく有名な言葉、有名な詩があるんですね。
「いのちが一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

勿論いのちが一番大切ですよ。でもその頃は苦しかった。
そりゃ、サウルがそうなんですよね。
いのちが一番大切で、自分の存在が一番大切で、それをまともなものにするために、稼ぐ。頑張る。実績を出す。成功する。
サウルはその道を行かざるを得なかった、と言うか、私たちもある意味、その道を行かざるを得ないんです。
でもその道は非常に辛い。で星野さんは、その道をもう行けなくなってしまった。
これから先の人生、どんなに努力しても、そりゃ、その道を行くことができない。

しかし病院で「いのちよりも大切なものがある」と分かるわけですよね。
それが病院で生死の境をさまよいながら、星野さんが知るキリストの十字架、神の愛です。
病院に牧師先生が来られ、そして色んな話を聞きながら彼は、故郷のお墓にあった、十字架に記された神の言葉を、イエスの言葉を思い出すんですね。
「だれでも疲れている人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがその人を休ませてあげます。」(***マタイ11:28)

生きなければいけない。生きることができなくなった。
これ以上自分の実績が上げられない。自分の人生はこれでストップだ。
生きることの辛さという、重た〜い重荷を星野さんはイエスのもとで降ろしました。
それを知った日、生きているのが嬉しかった。

これは、メフィボシェテの心境ですね。
彼は生かされているだけでも感謝。
その彼が王の食卓に招かれているのなら、なおのこと感謝ですね。
最後、9章の13節を見て終わりにしたいと思います。
ちょっと聖書を映していただけます?
【画面:13節「エルサレムに住み、いつも主の食卓で食事をした」に緑のハイライト】

<Uサムエル9:13>
13メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも主の食卓で食事をした。(と同時に、と説明)彼は両足がともに萎えていた。

星野さんで言えば、いのちの日の限り、詩を書き、花を描いた。
でもそれが星野さんの生きる価値になると、星野さんは疲れるんですね。
で、よく周囲に仰っていたことは、「最近、詩が出ない」と。「最近、素直に花の美しさが喜べない」と。
そうすると星野さんは、働きを止めます。
もう一回、その花の純粋さを見て、そして詩が書ける日を星野さんは待っているわけですね。
生きて何かを成し遂げようと思った時に、私たちは段々辛くなって行く。
だけど「生かされている」ということを知った日、それは喜びに変わる、という。
「メフィボシェテは一生両足がともに萎えていた」(13)というのは、星野さんと同じです。
でもキリストを信じた日以来、星野さんはいつでも毎日、聖餐にあずかる、王の食卓に侍る、その特権を与えられていました。

私は皆さんに、「うちの教会は聖餐式の数は少ない。今日はないですよね。少ない。でも聖餐には真面目に真剣にあずかってください」と。
それは聖餐は王の食卓にあずかることの、まさにその場面で、
色んな理由を付けて、「日頃説教を聞いているから、王の食卓はま、いいか」と思ったりするんですね。
ああ、もったいない(笑)。ああ、もったいない。
それが皆さんにとって、最大の祝福。聖餐にあずかるってことは最大の祝福ですよ。
私たちは何か成し遂げて、それに感謝し、それに喜ぶ――それは当然ですよ。
でも、それはある意味、サウルのように戦勝記念碑を立てるようなことでもある。
むしろ何にもできない、足が萎えた「死んだ犬にも同然な」自分が、王の食卓に招かれた時に、本当の意味での感謝と喜びを味わうことができる。
ま、それゆえに、病床で受ける洗礼、病床で受ける聖餐は、特別な意味を持っています。

☆お祈りをいたします――藤本牧師

恵み深い天の父なる神さま、あなたの輝ける聖徒が、私たちの祖国から取り去られ、しかし彼の詩は今でも多くの人を励まし、そこにあなたの愛が輝いています。
「生きることに必死だった時には、辛さしか感じなかった。しかし生かされているということを知った日に、辛さは喜びに変わった」と仰っているように、私たちも何かできる時には、できた自分をほめ、できた自分を記念し、できた自分に感謝します。「あ、これがサウルなんだ」と。
むしろ福音の真髄は、何もしていなくても生かされ、何もしていなくても王の食卓に招かれている、その自分に喜ぶことができるように。辛ければ辛いほど、しんどければしんどいほど、いま病院にいらっしゃる方、また教会に来れずに自宅で礼拝を守っておられる方の上に、あなたがこの喜びを届けてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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