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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   2/9 献堂記念聖日:わたしにとどまりなさい ヨハネ15:1〜5
☆聖書箇所      ヨハネ15:1〜5

1わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
2わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
3あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

☆説教         わたしにとどまりなさい  

昨日(竹内俊之)兄弟との話し合いで――今日来ていらっしゃいますが――「礼拝に行きます」と仰ったので、「いや、それは無理しないでください」。そしたら、兄弟が「それが梨瑛が思っていることだから」と仰いました。梨瑛姉が、どんなことがあっても、それだけはと、日頃から遺言のように願っておられた。「どんなことがあっても、礼拝には行ってね」と。

「わたしにとどまりなさい」というのは、イエスさまの遺言です。
今日見ていただいた4節の――

4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

この「わたしにとどまりなさい」と言うのは、イエスさまの遺言です。先ほどご一緒に賛美しました『夕闇の迫るとき』1節はこうですね。

1夕闇の迫るとき 頼りゆく身を支え いつまでも離れずに 主よ、ともにいてください。

というあの有名な“Abide with me ”という讃美歌です。『夕闇の迫るとき』という讃美歌の歌われている状況は、エマオの途上の弟子たちと私たちを重ねて作られています。(***ルカ24:13〜31)

イエスさまが十字架にかかられ、息を引き取り、墓に葬られたあと、何人もの弟子たちがいますが、2人の弟子たちは逃げるようにして、エルサレムを去りました。失望して、顔は暗く、言葉もなく道を歩いていますと、よみがえりの主が彼らに近づいて話しかけられました。

二人の弟子たちにはそれがイエスさまだとわかりませんでした。ただ、聖書の説明がされて、彼らは温かな、力強い慰めを受けました。そして夕暮れになり、宿に入ろうとしたとき、二人は思わず、途中から連れ添ってくださったイエスさまに、イエスさまだとは知らずに声をかけます。
「私たちとここに泊まってください。私たちと一緒にいてください」

イエスさまは、快く受けてくださり、共に食事をされた瞬間、つまりパンを割かれた瞬間、それがイエスさまだと二人の弟子たちは気が付きます。
そしてイエスさまはその時、見えなくなった。

それ以来、その出来事以来、クリスチャンはいつも考えて来ました。私たちはエマオへの途上を歩いているんだと。
人生何度も夕暮れを感じ、迫る夕闇に不安を持ち、思わずイエスさまに「とどまってください。離れないでください」とこう訴えます。

讃美歌の2節は――

2地の栄え消え失せて 見えるもの朽ちるとき いつまでも変わらずに 主よ、ともにいてください

この讃美歌の、作詞者はヘンリー・フランシス・ライト(Henry Francis Lyte,1793〜1847)という英国国教会の牧師でありました。
彼は小さな漁村の教会の牧師として、死ぬまでの23年間、この教会に仕えました。
病気がちで始終、喘息と結核で苦しんでいました。彼の歌の多くは漁夫や幼児や病人のために作られました。

病状が悪化して、彼は転地療養のためにその漁村を離れようと、這うようにして説教壇に登ります、最後の説教をしたその前に、この讃美歌が書かれたと言われています。
彼は転地療養のためにイタリアに向かう途中で、死を迎え54歳で亡くなりました。

『主よ、おとどまりください』――この讃美歌は、夕べの祈りと言われています。
英語圏では、決まって葬儀に歌われます。
あるいは、年末の讃美歌として、一番有名なのがこれです。
主よ、いのちの暮れが近づく時、世の闇路が迫って来る時、どうか私と共に、寂しいこの魂と共にとどまってください。
聖書の中には、同じテーマが幾度も出てまいります。――御顔を隠さないでください。私と共にいてください。あなたの臨在を私から取り去らないでください。

でも、今朝開いた聖書の箇所は、その逆です。
イエスさまの方が、私たちに訴えています。「わたしにとどまりなさい」と。

聖書の中には、私たちがイエスさまに訴えて、「主よ、おとどまりください」という叫びもあり、一方でイエスさまが私たちに「わたしにとどまれ」と言っている箇所がある。
どちらの訴えの方が強いのか?
それは、今朝、ヨハネの15章を開いてるのですから、イエスさまの訴えの方が強い、と思っていただきたいと思います。
ですから、最初に、竹内梨瑛姉は、イエスさまの心を知って、そしてご主人に何があっても教会にとどまってほしいと仰ったのは、まさに主の心だと思います。

私は、数年前に、日本基督教団の50年の歴史を数字的に分析した講演を聞きました。
これは日本基督教団だけでなく、日本の教会全般に言えますが、洗礼者のピークがいつあったか? 1952年、その年、15765人が洗礼を受けます。
それに対して、2007年の数字は、1424人の洗礼者です。
これは日本基督教団だけでなく、日本のキリスト教全体が1950年代、マッカーサーがまだいる頃、これがピークで、1990年の後半から2000年にかけてが、洗礼者の人数だけで1ケタ違う。 
教会の力が弱くなっていくことと、受洗者数が少ないということが密接な関係にあるということが指摘されていました。

しかしその講演の中でもっと興味深かったのは、いわゆる別帳会員――私たちの教会では第2種会員と言いますが――そのグラフがあまりにも顕著でした。
別帳とか、第2種というのは、洗礼を受けて教会員となったのですけれども、その後連絡が取れない(会員を言います)。
私たちの教会では第1種、第2種、日本キリスト教団では、陪餐会員、別帳会員(という分け方です)。
陪餐会員というのは、礼拝に来て、聖餐式にあずかることができる会員ですね。

その後連絡の取れない別帳会員は、全国平均で68%、つまり、洗礼を受けて教会員となった100名のうち68名が、その後連絡が途絶えているというデータです。    
私は、このデータに愕然としました。皆さんは、あ、なるほどなと思われるでしょう。
昔も今も受洗者は一桁になったかもしれない。でも別帳会員となるその例とその割合は変わっていない。
1,950年代に1万5千人の人が洗礼を受けた年も、2007年に1400人しか洗礼を受けていない年も、別帳会員となる割合は、変わってないですね。
おそらく、これこそが日本のキリスト教が共通して抱えている最大の課題だろうと思いますが、しかしこれは日本人の特性だと別に聖書は教えていない。これが人間すべての特性だと(聖書は教える)。

イエスさまは仰いました。種まきのたとえで、神の言葉を蒔くとは種まきのようなものだと。道端に落ちた種は、根を生やすこともなく、サタンにあっという間に持っていかれる。
何とか根が出たとしても、岩地に落ちたならば、あっという間に枯れてしまう。
根はしっかり張ったものの、世の中の欲や、様々な迫害という茨に道を阻まれると、あっという間に枯れてしまう。
本当に受けた種をしっかりと受け止めて、育てる種だけがよい地に落ちた種で、そういう種は百倍の実を結ぶと。

正直私たちは何もできてないかもしれない。でもイエスさまの目から見れば、あなたがたは100倍の実を結んでいる種ですよ。でなかったら、とうの昔に68%の中に埋もれていますよ、とイエスさまは仰るでしょう。

さて、(今日のポイントを)1点にします。主にとどまり続けることをお話したいと思いますが、

1)主の霊的ないのちが、私たちのいのちに繋がっている、ということ。

もう一度4節を、ご一緒に読んでみたいと思います。

4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

イエスさまは、実に自然にこの話をなさっておられます。
当然ですね、ぶどうの幹と、その枝というのはいのちが流れている。
いのちが流れているという感覚を、やっぱり私たちはこのことばから汲み取らなければならない。
イエスさまと私の間には、いのちが輝いている。
そして枝が幹から落とされれば、ま、しばらくは大丈夫でしょう。でも、一週間もしたら、水分も栄養も吸い上げることができないわけですから、枯れていく方向を辿ります。――枝が木についていなければ、あなたがたがわたしにとどまっていなければ(4節)。


信仰を題材にして小説を書き続けた、日本を代表する(クリスチャン)文学者の三浦綾子さんがいますが、晩年ガンと戦われました。
その病との戦いの中で、小説の中で三浦綾子さんは、こんなことを記しています。
  
「自分が苦難の山坂を通る度に思うことは、自分は自分が思っていた以上に、神の被造物であるということである。人間の知恵では、解明することのできない人間という存在。」

三浦さんは、病と戦いながら、自分に宿る生命力のたくましさ、あるいはいのちのすばらしさ、神のみ守りを感じて、人間ほど神さまの傑作品はないんじゃないかと、こう思ったわけですね。
病気で、自分の身体が自由が効かない。さまざまなことがやられてても、やられていくほど、人間というのは、神さまの傑作品だと思った。  

私たちは、クリスチャンとして本当にそのことに気づいているだろうか、と反省させられます。
イエスさまは仰いました。

「人は、パンのみに生くるにあらず。人は、神の口から出るすべての言葉による。」(マタイ4:4、申命記8:3)

自分とイエスさまの間はいのちがつながっているのだろうか。人はパンのみにて生きるにあらず。自分は神さまの、聖書のことばによって生かされているという。

私は木曜日、竹内姉の葬儀の時には、竹内姉に最後に語りました水曜日の説教をしようと思っています。少し内容は変えますけれども。

姉妹はうつを持っておられましたので、上下がありますけれども、元気になりますと、ま、一番前に座るんですけれども、ほんとに首を振りながら、しつこいぐらいに聞くんですよね。しつこいぐらいに聞いてくださって、恵まれた時には、「先生、今日のメッセージは素晴らしかった」。

姉妹は私(藤本牧師)を褒めているのではなく、神さまを賛美しているのですけれども、私は善かったと言われるのが嫌だから、大体姉妹に「もういい、もういい」と言うのですけれども、本当に説教に答えるこの感覚と言うのですか、(すばやかった、でしょうか?)。

ま、よく電話を下さる方で、あんまりくれるものですから、私(藤本牧師)も面倒くさいので出なくなった(大笑)。そして次の日曜日、しこたま怒られて、「先生、出なかったでしょ?」「出られるもんか」――楽しい思い出は沢山あるのですよ。

大体、一番最初に高津教会に電話した時に、携帯から歩きながら電話して「高津教会でございます」って言ったら、「あのう」で始まるのです、いつも。「あのう」で始まる――「あのう、結婚式やっていただけるのでしょうか?」――それが最初の質問ですよ(大笑)。
「やってできないことはないよ(大笑)。やってできないことはないけれども、まず教会に来るのが先じゃない?」(大笑)と言われて、そして連れて来られたのですね(と竹内兄に)。兄弟はいい信仰を持っておられてね。

ま、本当に楽しませてもらいました。昨年のクリスマス・イブの夕べで、姉妹が見事なピアノの演奏をしてくださいました。終わりましたら、娘に言われました。「今年のキャンドルサービスの華は、梨瑛ちゃんのピアノだったね」と。本当にそうですね。

今度山口姉が讃美歌を献堂記念の聖日に弾いてくださり、歌ってくださいますので、その伴奏だけでなくして、姉妹とデュエットでいってみようということで、もう編曲も凝って、そしてもう寒い中、週に二回ぐらい、一ヶ月以上練習に来ていましたよ。(***声をつまらせながら回想される藤本牧師)

ま、青年の賛美を歌うときに伴奏するのも、姉妹なりのアレンジをいつも考えるのですけれども、姉妹は必ず水曜日の夕方4時半頃来て、祈祷会が始まる2時間、練習してはお祈りし、考えてまたお祈りし、もう何度も何度も寒い中、そして、祈祷会が始まる前6時頃から暖房を姉妹はつけてくれる。その辺りに兄弟が来て、一緒に祈祷会に出席される。

イエスさまと自分とはいのちがつながっているのだと、いう意識は果たして私たちにあるのだろうかと(思いますね)。
人間は、食べ物なしに12日間生きられる。水はそういうわけにはいかないんですけれども、食べ物なくても12日間生きられる。
皆さんの中にはもしかしたら30日生きられるという人も、いっぱい蓄えがあるから(大笑)30日生きられるという人もあるかもしれませんよ。私は20日ぐらいいくんだろうと思いますね。

だったら霊的な糧なしに、一体人は何日生きていけるのだろう?
聖書を読まずに、みことばに全然触れずに、何日、魂が生きていけると思います?
祈らずに、神さまのことを思わずに、何日生きていけるのだろう?
教会から離れて、何ヵ月、何年、クリスチャンとして生きて行けるのだろうと思います?
みんな思うんですよ、わりと平気で、何年も生きていけるって思うんですよ。

こんな詩があります。
 
「もし、神が忘れたら、どうなるだろう。神が世界を忘れたら、たった一日でも忘れたら。太陽を照らすのを忘れ、夜を昼に変えるのを忘れたら。花を咲かせるのを忘れたら、小鳥や蝶を忘れたら、木々に新鮮な南風を吹かせるのを忘れ、雨を降らせるのを忘れたら。
 人間に友情を与えるのを忘れ、子供たちに遊び声を与えるのを忘れたら。そして、痛みをやわらげるのを忘れたら。いったい、この世界は、私たちは、どうなるのだろうか。私たちは、なお楽しいだろうか。もし、神が、たった一日でも忘れたら。」

神さまが、この世界のことを、私たちのことを、たった一日でも思いやるのを忘れたら、私たちは存続できないのです。
でもその逆は、どうかと言われたら、私たちが神さまを忘れてしまったら、たった一日でも存続できないのか?いやいや、そんなことはない。

イエスさまは、こう仰るでしょう。――君が一日、二日、一ヶ月、一年、神さまのことを忘れたとしても、神さまは、君の上にも雨を降らせるよ。なぜなら、君が神さまのことを忘れても、神さまは君のことを忘れないから。神さまは君の上にも雨を降らせて下さるよ。

でもイエスさまは仰るのですね。――でも、覚えておきなさい。あなたがわたしにとどまることをやめたら、やがてあなたの霊的ないのちは完全に枯れていく。そこを甘くみないで欲しい。
神さまがあなたのことを忘れずに、あなたのことを支えておられ、依然として雨はあなたの上に降り、あなたの日常生活が続いていたとしても――もしあなたがわたしにとどまらないなら(ヨハネ15:4)――あなたの霊的ないのちは枯れ、やがて集められ、火にくべられ、燃やされるということを忘れてはいけない。
たとえあなたの枝に、どんなに沢山のこの世界の立派な実がついていたとしても、それは霊的な実ではない。永遠に繋がる実ではない。

イエスさまは、弟子たちの状況がよくわかっておられた。イエスさまは私たちの状況がよくわかっておられた。
つまり洗礼を受けても、100人の内68人は教会を去っていくという状況をよくわかっておられた。

弟子たちはイエスさまが去られた後に、大変難しい課題に遭遇し、多くの迫害を受け、いろんな必要に迫られ、苦労を強いられます。
その労苦、苦しみ、悲しみ、痛み、それをイエスさまはすべてご存知の上でおっしゃった。――わたしから離れないでいなさい。わたしにとどまりなさい。そうすればわたしもあなたのうちににとどまる。

ま、私は(藤本牧師)は世の中には様々な遺言があると思いますが、日頃から自分の愛する者たちに残す遺言があるとしたならば――
「人のいのちは、いつ何時取られるかわからない。でもどうか信仰だけは、信仰だけは大切にしなさい。生きている限り、これを失ったら、教会から離れてしまったら、あなたの霊的ないのちは途絶えることになる。なぜなら、わたしがぶどうの木で、あなたがたはその枝であるから」(であろうかと思います)。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、イエスさま、あなたが仰ったこのことばを一番実感して知っておられたのは、天にあなたがお召しになった竹内梨瑛姉でありましょう。それほどまでの証し人を天にお送りすることは、教会にとっては大きな悲しみでありますし、ご主人にとりましては、心の張り裂ける、決して何ものをもってしても埋めることのできない、大きな裂け目が出来てしまったことになります。

でも私たちが「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」このあなたの約束に真実であるならば、明日は必ずやって来る。そしてその明日は、悲しみに溢れた明日かもしれない。でも依然として、あなたの確かな恵みは、私たちのこの心を包んでいることを心から信じています。

「どんなことがあっても教会に行ってね」という、そんな私たちになれますように。自分にもし、自分の愛する者たちに対する遺言があるとしたならば、「どんなことがあっても信仰を忘れないでね」という、そんな遺言が言えるような信仰者にならせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2014.02.10 - 07:02
LAST UPDATE: 2014.02.10 - 07:21

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