☆聖書箇所 Tペテロ1:3〜4
3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自身の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 4また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえらえているのです。
☆説教 ペテロの手紙第一(2)生ける望み
第一ペテロの手紙を先週初めて見ました。ちょっともう一度、1節と2節を読んでおきたいと思います。
1イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、
ペテロから小アジヤの諸都市にある、散って寄留しているような小〜さな教会へ。でもペテロはそれらの人々を、選ばれた人々と記しています。2節に――
2父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。
と、予知に従って、神さまの予知は、不安定な浮き沈みの多いペテロの中に、やがてペテロス(岩)のように、しっかりとした信仰を予知して、ペテロを選ばれました。 同じように神さまは、小アジアの片隅に散って寄留しているクリスチャンの中に、不思議な可能性を見出して選ばれました。 そしてその可能性、選びが全うされるように、2節の最後に――
2……どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
神さまは私たちの内側に、不思議な可能性を見ておられる。まだまだ小さなものかもしれないけれども、でも神さまが選んでくださった以上、神さまのご目的は私たちの人生の中で開花していきます。 「どうか、恵みと平安がいつもありますように」という祈りを、自分のものにしたいと思います。
さて、ペテロは具体的に選ばれた彼ら、選ばれた私たちのことを記していますので、今朝は3節と4節から自分のこととして当てはめて見てみたいと思います。 先ず第一に3節に、こうあります。
3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
1)神は「御自身の大きなあわれみのゆえに、私たちを新しく生まれさせて」くださった。
皆さん、生まれ変わりたい、と思っています? もうあきらめたという方もおられるでしょうし(笑)、そもそも生まれ変わりたいと思って、変われるものでもないでしょうが……。 でも私たちは、こんな人生嫌だとか、生まれ変わるなら女性の方がよかったとか男性の方がよかったとか、生まれるならもっと良い境遇、良い両親のもとにとか、才能豊かに生まれたかったとか、もう様々な理由で生まれ変わりたいという願望というものを人間は持っているものです。 そんな風に哀れな自分を考えることもあります。たとえば病気を持っていますと、健康な人を見てそう思います。 私(藤本牧師)は小学校の時に、林間学校も臨海学校も一度も行けませんでした。泊まりに行けたのは唯一修学旅行で、それはいつ何時、ぜんそくの発作に襲われるかに怯えながら生きていました。 日本に帰って来て牧師になってから、ぜんそく発作で、2年間で3回救急車に乗った時には、本当に妻に申し訳ない、子どもには情けない思いでいっぱいで、本当に生まれ変わりたいと思いました。
それでも、世の中にはもっと苦しい境遇や病気もあるのです。 そして私たちは、様々な場面で、生まれ変わりたいと思いながら、そんなことは叶いません。 でも叶ったとしても、その人生でも別の苦労があるということを、私たちはよく知っています。
聖書が教える「新しく生まれ変わる」というのはちょっと違います。 それは、どんなに豊かで楽しい人生でも、所詮全ては最後、死に飲まれていくのです。 そのとき、全てが滅びへ下っていく人生を前提にして、私たちは生きています。 つまり、「私たちは生まれ変わりたい」のではなくして、イエスさまがニコデモに仰ったように、「あなたがたは生まれ変わらなければならない」(ヨハネ3:1〜8)。
もっと深〜い意味がありまして、なぜなら人間は、生まれてこの世界を生きて、やがて死んでいくだけの存在ではない。 神さまは私たち人間をそのようには作っておられない。 神さまは、私たちを御自身との愛の交わりの中に入れるために、また私たちが互いに尊び助けることができるように、何よりも永遠のいのちを受け継ぎ、神の国を共に相続することができるように作られた、と聖書は教えています。 そういう風に、誰も、人間は作られています。 しかし、私たち人間はそこから落ちてしまい、神さまもわからなくなってしまいます。 いや、かすかに聞こえる神さまの声でさえ耳をふさぐほど、神さまに背を向けて生きています。 そういう人生の果ては、永遠のいのちではなく、滅びだと。
だから、「生まれ変わりたい」ではなく、「生まれ変わらなければいけない」。 今の自分、今の人生が嫌だという以上に、根本的に、私たちは神から新しく生まれ変わらなければ、この人生がどんなに楽しくても、やがて滅びへの道を下って行く以外にない。 こんな人生嫌だ、できたらもう一度生まれ変わりたい――ま、それでもいいのです。 でも、そういう願望を越えて、根本の問題の本質へと眼を向けていくのが信仰です。
以前話したことがありますが、アメリカでも日本でも有名な、AAという団体がありますね。アルコール依存症の人を助けるために作られた団体で、Alcoholics Anonimous(という1935年創立の団体)。 Anonimousというのは匿名(という意)で、ですから頭文字を取ってAA。 創設者の男性はビルという男性、ま、ウィルソンですが、一般的にはビルのままです。 この団体は、依存症で悩む人たちの名前を伏せて、匿名で治療します。 そして創設者のビル自身が依存症でした。
彼は、絶望の底を歩いて、どうしてもアルコール依存から抜け出せない。依存から抜け出せない自分に彼は絶望します。 苦しんで、悩み続けて疲れ果ててしまったある日、自分の持っていた時計が壊れてしまうんですね。 それはスイス製の高級時計で自動巻きで、日付が付いていて、防水。 当時のあらゆる機能を持った複雑な時計で、修理してもらうために、アメリカの時計屋さんへ持って行った。
数日後、彼は、その時計を受け取りに出向いていきます。 すると、時計屋の主人が時計を手渡してこう言うんですね。 「ビル。君のこの時計は、大変複雑で精巧な品物だ。残念ながら、この時計はうちで直すことはできない。アメリカのどの時計屋に持って行っても、これは直せないよ。これを直す唯一の方法があるとすれば、製造元へ送り返すことだな。つまり、造った人なら、どうやって直すか分かるだろう」
彼はその直せなかった時計をポケットに入れて店を出ます。 歩いていながら、店の主人の言葉が、自分の人生そのものだということに彼は気が付くのですね。 「残念ながらこの時計はうちでは直せない。直すとしたら、製造元に送り返す以外にはない」ということは、まさに自分の人生だと彼は感じ取って、教会の門を叩きます。
アルコール依存症という問題を解決するためではなく、自分はそもそも神さまによって創造され、どこかで神さまから外れて生きている自分の果てに、こういう問題が存在するのだということに彼は気が付いて、キリストを信じ、洗礼を受けて神の子どもとされるのです。 ビルは生まれ変わりました。
ペテロは、それを神さまの「大きなあわれみのゆえに」と、この言葉を付けています。 神さまの大きな憐れみのゆえに――その言葉は、本当にペテロだけでなく、私たちもよくわかります。 神さまが私という人間に、どういう予知をもってご覧になったかはわからない。 でも、私の中に小さな信仰の種を植え付け、育ててくださり、この人物はその小さな種に応じる素直な信仰があるに違いないと、神さまが予知してくださって、私を選び、私を神さまによって生まれ変わらせてくださったとしたならば、それは自分の発想や自分の努力ではなくして、神さまの大きな憐れみ以外の何ものでもないのです。
別に犯罪者であったわけでもないかもしれない。またクリスチャンホームに育ち、反抗期とともにだんだん教会が嫌になったかもしれない。 でもそんな私が、再び神さまの恵みに目覚め、自分の心で、あの放蕩息子が父のもとに帰っていくとしたならば、それは神の驚くほどの憐れみ以外の何ものでもないのです。
2番目に、新しく神より生まれたことで、がらりと今の仕事が変わるわけではないし、がらりと私たちの性格が変わるわけでもないのですが、 もちろん、神さまの助けと力によって、聖霊の働きによって、私たちは変えられていきますけれども、2番目に見ていただきたいのは――
2)生まれ変わった者には、地上の人生がどうであれ、4節、これが約束されている。
ちょっと4節ご一緒に読みたいと思います。 これが生まれ変わった者に約束されている究極の資産です。
4また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
ペテロは、この小アジヤの都市の片隅に散って寄留している手紙の読者、私たちに言うのです。 新しく生まれ変わって得る、あなたがたの資産は、(4節)「朽ちることも汚れることも、消えていくこともない」。 目減りすることもない。なくなってしまうこともない。 それは、天国にしっかりと貯えられていて、今はまだ十分に見ることはできないけれども、天国にたくわえらえている。 見えていない、わかっていない、それでもしっかりと、朽ちることも、消えることもない資産として、やがてあなたが受け継ぐように、天国でたくわえられている。
梨瑛さんの葬儀の最後にご主人がご挨拶をされたことが、とっても印象的で我が家で話になりました。娘が、 「今頃、高津教会でなかなか歌わせてもらえなかったから、梨瑛さんは思いっきり天国で賛美しているんじゃないか」と。 ご主人のご挨拶がとっても面白くて、 「高津の駅で『写真の○○で、写真や雑誌で紹介される有名です』と宣伝に書いてある店があるんだけれども、実際は全然有名じゃない。(笑)でも私なんかCD3枚も出しているのだから」って、もっと歌わせてもらってもいいんじゃないかっていうようなことを、梨瑛さんはぽろっと仰った。 で、ご主人は、「そんなことは自分で言っちゃ終わりだね」(大笑)って、いい御主人だなと(笑)思います。 はい、梨瑛さんがもっと教会で賛美の奉仕をなさりたかったことは、よ〜く知っています。
でも、私たちはちょっとふんばりました。そして梨瑛さんも我慢してくださいました。 それは竹内兄と結婚される時に、梨瑛さんを長〜い間お母さんのように面倒を見て来られた姉妹が、よその教会の姉妹が、 「先生、なるべく賛美の奉仕をさせないようにしてください。させると、精神的なバランスを崩す姉妹なので、なるべくそこは、これだけは控えてください」と、ひとこと言い残して行かれたのですね。 葬儀にも来ておられた姉妹ですけれども、本当に親身に梨瑛さんのことを面倒を見て来られた方ですから、あ、この方が仰ったことは守らなければならないなと。
ですから、梨瑛さんにはかなり我慢をしてもらいました。 ピアノの伴奏でさえ、我慢してくださることが、彼女のためだと思って、私たちも踏ん張り、本人も踏ん張っていました。 でも本当は、心から、もう力一杯、あらん限りの力で、神さまを賛美したかったのでしょうね。
そして先週の土曜日、彼女はスマートホンを握ったまま、眠ったまま天に召されました。 それって、すごいことだなぁと私たちは家族で話しました。というのは、寝て起きたら、なんと天国だったんですよ。 それは理想だなぁと。そんな話で申し訳ないのですが。 寝て起きて天国だったら、一番驚いたのは梨瑛さんだと思います。 そして、思いっきり賛美した。 そして、ペテロが思わず止めに来た(大笑)。 でもその時には、天国は賛美の世界ですから、ちょっと冗談交じりで話しましたけれども……。
でも梨瑛さんは、やっぱり天国に行って初めて、その、ここで書いてある(4節)「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を、受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられている」という現実(を知ることになるのでしょう。) (4節の現実)は、(現在地上人生を送っている)私たちにはわからないのですよ。
それはね、資産がどういうものであるかもわからないし、あなたのためにちゃ〜んと蓄えられていますよ、というのが、イエスさまが仰った、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。わたしはそれをあなたがたのために備えに行くのです。そして備えられたら、わたしは再び来て、あなたがたを迎えます」(ヨハネ14:2〜3)と仰った(そのことです)。
それがどんな資産なのか、どんな家なのか、どんな祝福なのか、私たちにはわからない。私たちが解っているのは、せいぜい、世界中で一番美しい浜辺はこれだなとか、よく頑張って自分の家がここまで建ったなとか、そんなことしか、私たちにはわからないのですよ。
ですからペテロが語っているこのことはわからない。でも覚えておきたいことがある。 それは、この小アジアのポント、ガラテヤ、カパドキヤ、ビテニヤに散って寄留している者たちは、間違いなく迫害の中にあったのです。 彼らはむしろ地上における家も奪われ、地上の財産は消えていくことをよ〜く解っていたのです。 ですからむしろ、彼らは天に自分たちのためにたくわえられている財産のすばらしさを憧れ見るような者とされていたのです。
この世界には喜びは沢山ありますよ。幸せも神さまは沢山くださいますよ。 でも、それと、天国に蓄えられている、私たちが最終的に受け継ぐ資産のレベルと次元は全く違う――それが日頃の私たちにはわからない。
ですから3番目にこの言葉に心を留めていただきたいのですが、3節の一番最後ですね。
3)私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
つまり、私たちのためにたくわえられている資産は『望み』という風に表現されています。 しかも望みは望みでも、生き生きとした『生ける望み』として表現されています。 生ける望みというのは、他の希望や願いが絶たれたとしても、これだけは消えることがない生き生きとした望みです。
そしてこの希望が私たちを生かすのですね。 私たちはいろんな表現をします。――たとえば「信仰によって生かされる」とか「神の愛によって支えられる」とか。 でも時に、心底思うのです。――「天国への希望によって生かされる」とか「愛される者とやがて再会することによって、この苦難を生き延びる」とか。
私たちのために備えられている、朽ちることも汚れることも、消えていくこともない、天国で神の子どもたちのために蓄えられている、資産を実感したい(という希望や)、 この世で得るあらゆる幸せに勝って、その資産を実感したい(という希望が私たちを生かすのです)。
この生き生きとした、輝いた希望に生かされたいと、改めて思うのはいったい何時か? それは紛れもなく、私たちが悲しみに打ちひしがれ、私たちが試練に遭い、愛する親しい者を天国に送り、離別の体験をした時に、私たちは初めて天国への希望に生かされたいと願うようになるのですね。
それがない限り――おそらく神の力によって、この地上の困難を乗り切る術を得たいとか、神の愛によって、自分がこの地上で受けた心の傷をいやしてほしいとか――それも立派な主の恵みです。 でも『信仰、希望、愛』の、この『希望』という時に、最終的にこの希望が私たちを生かすというのはいったい何なのか? それは苦しみや、この地上で何ものをもってしても埋めることのできない悲しみの大きな穴、人生の損失、何か大きなものを奪われてしまったという時に、 「いやいや何にも奪われてないよ。あなたの愛する人は天の国で、喜び賛美し跳ねて生き生きとしているよ。そしてあなたのためにも同じように部屋が用意され、やがて御国の栄光を受け継ぐ資産をあなたも得るんだよ。その希望を胸にしまい込むときに、地上の悲しみ、苦悩を乗り越えるところの力があなたの心の内側から生まれて来るよ」と(主は)言われたのです。
あぁ、主よ。いつか私もそのような希望にあずからせてください。小アジヤの小さな教会に散って寄留して生きているような私たちですよ。そんな私たちにも同じような希望を与えてください。
☆お祈り
恵み深い天の父なる神さま、確かに新しく生まれたいなぁと思うくらい、自分の人生に様々な困難が降りかかる時があります。でもそれは誰の人生も同じで、私たちは「新しく生まれ変わりたい」ではなく、あなたは「新しく生まれ変わらなければならない」と、滅びの世界からいのちの世界へと移されました。
そしてなかなか自分が変わったと思えないような自分かもしれませんけれども、私のためには天にたくわえられている、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産がある(4節)。しっかりとたくわえられているということを、聖書が語って約束していてくださいますから感謝いたします。
どうかこの資産に対する生ける望みを、私の心に燃やしてください。特に今朝、様々な悲しみや、また本当に自分の人生を振り返った時に、辛かったなぁと思うような出来事にありましたら、地上の喜びだけでなく、私たちの人生には最後、天上の喜びがあり、その喜びを受けた時の喜びの大きさは、天上に行かない限りわからない。でもその実感を、今を生きる私たちにほんの少しでも味わわせてくださり、私たちを励ましてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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