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::: 説  教 :::


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Name   T・Y
Subject   3/2第一ペテロ(3)試練の尊さ Tペテロ1:3〜7
☆聖書箇所          Tペテロ1:3〜7    (新改訳聖書第3版)

3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
4また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。
5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです。
6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
7あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

☆説教      第一ペテロ(3) 試練の尊さ

さて、ペテロの手紙の第一の1章今日は特に、6節と7節に心を留めたいと思いますので、ちょっと6節と7節を皆さんとともに交互に読みたいと思います。

6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
7あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

あの少し、第3版と第2版の訳が違っていましたね。ごめんなさい。

ペテロの手紙第一を学び始めました。
1節に「イエス・キリストの使徒ペテロから」とこう始まります。
ペテロはイエスさまの第一番の弟子であり、しかしながら十字架を前にしてイエスさまを裏切るという、なんとも情けない人間的な弱さ、罪深さを露呈した人物です。
そのペテロがやがてキリストの使徒となり、手紙を書く。

その手紙の宛先は1節にありますように、ポント、ガラテヤという、小アジヤ(今のトルコ)にある小さな小さな教会。
大都市、ギリシャの文化にとっぷりと浸かった、キリスト教とは縁もゆかりもない社会の隅に押しやられた人々に、人間的な弱さや罪深さを知りながら、キリストのあわれみによって再び立つことのできたペテロが、手紙を書くわけですね。

そして2節にあるように、その教会の人々に、あなたがたは「神さまの予知に従って選ばれた」と書いてあります。
神さまは、あなたがたの内にやがて信仰が芽生え育っていくことを予知しておられた。
彼らの中に、私たちの中に、信仰の種があることを、それが必ずや、やがて実を結ぶことを神さまは既に知っておられて、彼らを・私たちを選ばれた。

そんな彼らの上に、2節の終わりに、ペテロは、ますます豊かに恵みと平安が注がれるように祈ります。
ますます豊かに注がれることによって、神さまが予めご覧になっていた私たちのうちにある神のいのちが、より大きく育っていくことができるようにとペテロは祈るのですね。
そして彼らのために・私たちのために、4節にありますように、朽ちることもなく汚れることもない資産が天に蓄えられている。

1)でも、彼らは・私たちは、この世にあって試練がある、というのが今日のところです。

ですから6節に実に味わい深いこの言葉があります。

6そういうわけで、あなた方は大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

これはもう、考えさせられる一言ですね。
キリスト教がローマの国教になったのは、4世紀の終わりですね。それまでは、迫害の嵐の中を三百年キリスト教会は生き抜いて行きます。
この手紙を記したペテロは、伝説によりますと、ローマで十字架にかかります。
その時ペテロは、自分は一度イエスを否んだことがある、その負い目のゆえに自分の十字架は逆さまに磔(はりつけ)にしてほしい、と逆さ磔になったと言われています。

ペテロもやがて迫害の中で苦しむ。
試練の中では、誰もが悲しみ、誰もが気落ちします。

「歌を忘れたインコ」という話があります。
インコのチッピーは、とっても歌が上手で、キュルキュルキュルキュルとその歌いっぷりを、歌っている姿をその飼い主は撮影して、インターネットのサイトに上げていたほどです。
ところがある日事件が起きるのですね。
飼い主がチッピーのかごの中を掃除しようと、掃除機を弱にして、ホースの先をかごの中に入れて、丁寧に丁寧に掃除をしていた。
そこに携帯が鳴るのです。そして携帯を確認しようとした瞬間、ズーッ・ポンという音がして(***聞いていられず思わず身震い)、掃除機に吸い込まれてしまうのですね(笑)。
慌てて、飼い主は掃除機を開けて、中のダストボックスを出してみると、チッピーはいるのです。
でも埃まみれで(笑)、幸い生きていて、その仰天した目が輝いている。でもどこまでが
埃で、どこまでが羽なのかわからないくらい、埃の中。
飼い主は急いで、チッピーを掴んで洗面所に行って、勢いよく水で丁寧に洗います。急いで行ったからお湯が間に合わない。
で、綺麗になった頃には、もうからだがプルプルと小刻みに震えています。
そこで飼い主はそこにあったドライヤーを強にして(大笑)、チッピーの羽を乾かして温めてあげるのです。

チッピーは大丈夫でした。なんとか生き延びます。
でもチッピーはそれ以来歌わない。じっ〜と座ったまま。
いきなり掃除機に吸い込まれ、気がついたら洗面所で冷たい水で洗われ、息つく暇もなくすごい勢いでドライヤーの風で乾かされ(笑)、生き延びはしたけれども、チッピーは以前のようには歌わないんですよ。それは私たちも同じですよね。

ですからこの6節の「いまは、しばらくの間、さまざまな試練の中で悲しまなければならない」と(言うのです)。
ここに、6節の一番最初の行にありますでしょう。「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます」というのは、天に蓄えられた朽ちることもない資産のゆえに大いに喜んでいるのです。
でも「様々な試練のゆえに悲しまなければならない」――私たちの人生そのものです。

それは、私たちの心の内にはいつも喜びと、悲しみが同居しているのです。
主にある幸いと、この世で祈りつつもなかなか答えが出ない問題に対する、私たちの悩みが同居するのです。
この心の内側というのはとても複雑で、いつも喜んでいたい、いつも祈っていたいと願いながら、祈ることが困難な日々もあれば、身体の疲れ、心の疲れで圧倒されて、しばらくは歌声が出て来ないということもあるのですね。

2)7節に「あなたがたの信仰の試練は」――この言葉に注目してください。

7節の別訳・欄外を見ますと、別訳では「信仰の純粋さ」。
信仰の試練というのは、試練に遭って試される、テストされているという意味ではない。
試練というのは、私たちを鍛えるというものです。
7節に「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちていく金よりも尊く」――この「火で精錬される」という言葉で試練が表されています。

金というのは、金鉱石の中に入っています。
ですから(鉱石から)金を取り出すためには、金を純粋にするためには、金を純化するためには、金を熱い火の中に入れます。
すると金が溶け始める。金は他の金属よりも早い段階で溶けていきます。他に溶けていく鉱物も入っています。でも金は他の金属よりも比重が重い。ですから炉の中で、一番最初に、そして確実に溜まっていくのは金なのです。
その工程を繰り返すことによって、金は精錬され、混じりけのない純粋な金が抽出されていくのが、精錬という工程です。

つまり試練によって、私たち自己中心で、わがままな不純物がだんだん取り除かれていく。
試練によって、より強く神さまを信頼するように、不信仰という不純物が取り除かれていく。
この試練という工程がない限り、信仰は鍛えられないということを、ペテロは教えています。

最近私が一番最初にパソコンを立ち上げるインターネットのサイトがあるのですが、そこにビジネスの格言が日替わりで出てくるのですね。
なかなかの言葉を見つけました。皆さんも同じサイトで始まる言葉を見ていると思いますけれども――「経験値は時間で得られるものではない。」

経験値というのは、ある仕事やある研究を10年20年とやっていくと、ベテランの域に達しますよね。その間、様々な試行錯誤もありますよね。
その経験値というものは、初心者の頃は3ヶ月かかった仕事を、経験値のゆえに1週間でこなすこともできるかもしれない。
以前は直感や技能で片付けることができない問題があった。でも経験値があるがゆえに、それが解決できるようになるかもしれない。
でも、その言葉によると、経験値というのは、単純に時間があれば得られるのではない。

この言葉は実は以前のライブ・ドアの社長、堀江さん(***堀江貴文 ほりえ・たかふみ1972〜)、ホリエモンの言葉です。
ヘッジファンド、マネーゲームで一躍時の人になり、何百億の資産を持ち、そして実刑判決を受けて、ゼロからの出発をするわけでありますが、その彼が最近出版した本が「ゼロ」という題だそうです。私(藤本牧師)はその本を読んでいません。
ですから、彼が言う「経験値は時間で得られるものではない」という言葉の文脈は知りません。
でも心底、この言葉には同意しますね。――「経験値は時間で得られるものではない」

ペテロは三年半、イエスさまとともに過ごし、労し、その数々の奇蹟を見、病人やまた悪霊につかれた人、罪人に対するイエスさまの憐れみを見てきました。
しかしその長〜い時間で得られるすべての恵みの経験にまさって、彼が突如としてイエスさまを知らないと三度否定し、自分の信仰を自分で傷つけ、そのどん底の失敗の中で二度とイエスさまの顔を見ることはないと思いながら、イエスさまに憐れみをいただいて、「あなたは私を愛するか」と三度声をかけられ、「あなたはわたしの羊を飼いなさい」ともう一度召されたあの体験の方がはるかに大きかった。
三年半主とともに過ごしたよりも、わずか数週間の出来事の中で、彼が実感した恵みの体験の方が、彼にとっては意味があったのです。

かつて彼はイエスさまに尋ねました。(***マタイ18:21〜22)
「主よ。私たちは何度、人を許したら良いのでしょうか。7度まででしょうか?」
その時イエスさまはペテロに仰いました。
「いや、7度ではない。7を70倍するまで許しなさい」

7度を70倍するまでというのは、永遠に許し続けなさいということです。
でもそんな言葉を何度聞いても、ペテロには神さまの憐れみは心底わかっていなかったに違いない。
しかし実際に自分の情けない失敗からイエスさまによって捉えられ、その失敗に崩れ折れそうになっていた自分を、イエスさまが引き上げてくださった、その一回の出来事は三年半では得ることができなかった恵みを、彼の魂の底に届けたのですね。

信仰の経験値は時間で得られるでしょう。でもそれだけで得られないものがある
私たちの信仰の経験値を圧倒的に蓄える――それは試練による以外にないのです。
もちろんね、こんなこと言うと、私(藤本牧師)が、あの、難しい生意気な事を言っているように聞こえますけれども、おおよそこの世の中の考え方というのは、プラトン(BC427〜347古代ギリシャ哲学者、ソクラテスの弟子、アリストテレスの師)的かアリストテレス(BC384〜322)的かに分かれるのです。
その名前を出しただけで、生意気な事を言っている(大笑)と思われるでしょうけれども、おおよそこの世界の考え方というのは、プラトン的か、アリストテレス的かに分かれる。

プラトン的というのは、一発で自分の外側からある力が働いた時に、自分が全く新しく変革していく。
アリストテレス的なものの考え方というのは、日々の積み上げ、人生の様々な労苦、それがあなたを作り上げる。
キリスト教も、ものの見事に、この二つのどちらかなのです。

聖霊のバプテスマによって、あなたの内側が劇的に変わると言えば、これは申し訳ないけれども、プラトン的になるのです。
あなたが日々修練することによって、あなたの考え方が変わり、あなたが日々みことばを読むことにより、そして礼拝することにより、徐々にあなた自身の内側から変えられていくというと、これはアリストテレス的になるのです。

これはもちろん、その両方がキリスト教の中にあるのです。
ですからイエスさまは仰いました。
「聖霊と火によらなければ」(***マタイ3:11)というものの言い方、あるいはイエスさまは「火によらなければ」というものの言い方をなさいますけれども、火と言うときにいつもイメージされるのは、聖霊と試練なのです。聖書ではそうなのです。

「聖霊が炎のように人々の上にくだり」、というその「炎の舌のようにくだり」(***使徒2:3)というものの言い方は、火のように、あるものは焼き尽くされ――それは自分の不信仰かもしれない、自分の欲かもしれない――それが焼き尽くされて、私たちが神のものになるという考え方は立派に聖書の中にあります。

でも同時に、火というのは試練を連想させ、試練の中で練られて、じっくりじっくり不純物が取り除かれて、私たちの信仰が純化していくのだというのも、聖書の中にある立派な考え方です。
私たちは「試練を尊ぶ」と言った時に、ある意味「聖霊を尊ぶ」がごとくに、試練を尊びなさい。
聖霊なくして、私たちは変わらない。でも同時に、試練なくして私たちは変わらない。

パウロの経験値の上げ方をちょっと見ていただきたいと思いますが、Uコリントの1:8〜9。私(藤本牧師)が8節を読みます。皆さんが9節を読んでみてください。

Uコリント1:8〜9
8兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危うくなり、
9ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

8節の最後に「耐えられないほどの圧迫を受け」というのは、これは言うまでもなく試練ですね。
9節の頭に、その試練が余りにも激しいので、「死を覚悟し」た。
でもその時、パウロの中で、何かが突き抜けていった――それが「もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神にのみ、より頼む者となるため」、自分はそういう者と変えられた。

以前のパウロは信仰の人でありました。以前の彼は神さまに依り頼んでいました。
でもその死を意識し覚悟した途端に、もはや自分自身を頼まず、何か自分の今までの信仰の壁を脱ぎ捨てて、試練という泥の中で、自分の信仰が純化され、全く神により頼む者へと変えられた。

先ほどの第一ペテロに戻っていただいて、7節にありますね、「あなたがたの信仰の試練は火で精錬されつつ」――ちょっともう一回考えましょう。
6節の最後、この小アジヤの教会の人々・また私たちは、しばらくの間、様々な試練の中で、悲しむことが多いと(ペテロは言うのです)。
人生喜びもあれば、悲しみの方が多いかもしれないよと。特に信仰の世界は、迫害の中で悲しむことも多いかもしれないよと。
でも、7節に、あなたがたの信仰はそうした試練によって精錬されていく。
その試練がなければ、精錬されることはない。
そして3番目、この言葉が今日は欲しかった。もう一回読みますと――

3)「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く」(7節)

火で精錬されるのは信仰だけではなく、金もそうだ、純金もそうだと。
「火で精錬されつつなお朽ちていく」というのは、そうして純化された金だって朽ちていく。
でも信仰の試練は、純粋な信仰はそのような金よりも尊い。
ですから3番目に注目していただきたいのは、「金よりも尊い」という言葉です。

なぜこの言葉に注目したいかは、皆さんはよく解っていると思います。
純化されていった信仰、キリストの愛に捉えられた信仰は、純金よりも尊い。金よりも尊い。
金よりも尊い――それは言うまでもなく、浅田真央さん(大笑)です。
それを狙いに行った私の(藤本牧師)の気持ちがよくわかりますでしょう?(大笑)

ソチオリンピックで、一番金メダルに近かった選手はジャンプの高梨沙羅選手。間違いなく金です。面白くないぐらい、彼女は金を取るだろうと言われていた。
それからフィギュアの浅田真央選手も、金を取るだろうと。
そして二人とも、金を取れない。いやメダルに手が届かない。

浅田真央さんにしてみれば、引退するかどうか、それほどソチオリンピックに彼女はかけていた。
そしてショート・プログラムで16位。本人もまた私たちも信じられない。
しかしその失意のどん底から、演技した彼女のフリーは、自己最高得点。
自己最高得点ですよ。
そしてみ〜んなが口を揃えていう言葉――「金よりも貴い」演技です。

おお、「金よりも貴い」のか。どうなんだろうなぁと思いますよね。
もし金メダルを取っていたら、それはそれなりに目標を達成できて、本当の幸せを掴んで、何も言い残すことはない。
バンクーバーの雪辱を晴らし、とうとう上り詰めたオリンピックの金メダル、それはそれは貴いですよ。小さい頃からず〜っとそれを目指して、ようやく金メダルを取れば、それはそれは貴いですよ。
ですから、だ〜れの心の中にも、どこか、あのショート・プログラムで失敗していなければ、という思いは残るのですよ。
それはよくわかりますよ。なぜなら、私たちもそういう体験をまま、数々重ねるからです。
よくわかるのですよね。

そしてそういう風に後ろを振り返る思いを振り切るために、私たちの周りの人はみんな声を大にして言ってくれる――「金よりも貴い」演技がある。
そして周囲の人々は声を大にして言わなければならない――「金よりも貴い」演技があるのです。
そう言わなければならないし、私たちはそう聞かなければならない。なぜならそれが真実だからですよ。

それは真実なのです。
ひとつのメダル、ひとつの金字塔、ひとつの記録以上に、尊い人生の経験はあるのです。
それはスケーターとしての人生を超えて、生かされていく尊い経験で、パウロはそういう事を言いたいのじゃないかな(と思います)。

「金」という時に、私たちは何を思い浮かべるか。
「金」という字は「カネ」と呼ぶこともできる(笑)。
これを「自分の人生の目標」と言い換えることもできます。
それが受験生にしてみれば、「志望校」と言い換えることもできますよね。
私たちにしてみれば、一生懸命に努力して来た目標であり、もしそこに到達することができたら、ああ神さま、あなたは私に報いてくださったのですね、私たちの祈りに答えてくださったのですね、と感謝することができる事柄が「金」ですよ。

でもペテロは記しています。それらは朽ちて行くものではないかと。
あなたの学歴など、十年二十年したら朽ちて行くよと。
でも試練によって信仰が深められ、練られ、純化されていくなら、それは朽ちない。
金よりも尊い純化された信仰というものがあるなら、目標が達成されなかったとしても、はるかに尊い。
信仰とはそういうものだよということは、繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせなければいけない。
あるいは繰り返し繰り返し、言ってもらわなければいけない。
そういうことが言える互いであり、そういう言葉を聞いた時に、ああそうだなと実感する互いでありたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、「朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります」(7節)――この言葉を聞いて小アジヤの教会の人々はどんなに励まされたことでありましょう。
これはまさに、彼らが聞かなければならない言葉でありました。聞かなければならない言葉があるときに、どうか耳を傾けるお互いでありますように。
私たちの人生で様々な試練があると思いますが、でもその試練を通して信仰が純化されていくならば、それはありとあらゆる金よりも尊いと、聞かせてください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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