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Name   T・Y
Subject   3/23受難節説教(1)血の源が枯れて ルカ8:43〜48
☆聖書箇所      ルカ8:43〜48

 43ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、
44イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。
45イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生、この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。
46しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。
47女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。
48そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

☆説教        血の源が枯れて

先週の日曜日、私たちは会堂管理者ヤイロの信仰(ルカ8:40〜56)から学びました。それが、今日読んでいただいたルカの8章の43節〜48節をまたいで、その前とうしろに記されています。

イエスさまになんとか娘を癒して欲しいと願っていた彼でありますけれども、娘は死んでしまいます。でもそうした困難の中でも、「諦めずに、ただ信じ続けなさい」(***ルカ8:50)と言われたヤイロはイエスさまに望みを託します。「主にできないことは何一つない」(***創世記18:14)という信仰が彼の内側に回復されて、そして娘は癒されます。

私たちはいま受難節(の3週目)、キリストの十字架と受難週、イースターに向かっていますが、日頃しておりました第一ペテロの手紙(の学び)をしばらく離れて、ま、一ヶ月ぐらい福音書の記事から、イエスさまの十字架と復活へと私たちの歩みも進めてまいりたいと思います。
そして最初に私(藤本牧師)が選びましたのがこの女性であります。43節――

43ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、

とこういう風に始まります。
マルコの福音書(***5:26)を見ますと、この女性はいろんな医者にかかって、財産を全部使い果たしたと記されています。ま、当然、様々な療法がありました。迷信的なものも、民間療法的なものもよくわかります。でも何をするにも、お金が掛かります。直るどころかますます悪くなっていきます。
十二年間、痛み、苦しみ、疲れ、そしてもう直らない、ますます悪くなると、彼女は絶望して生きていました。

それがある日、イエス・キリストが町にやって来たというニュースを耳にします。
人々はぞろぞろとイエスさまの後をついて行った時に、遠くから彼女は離れて見ていました。
なぜなら、出血の病がある場合には、街の中に住むことはできません。
旧約聖書から、古代の世界で一番避けられていたのは、皮膚に関わる病気と血液に関わる病気でありました。人目に触れるという感じ方もあるかもしれませんけれども、感染を恐れられていたと理解すべきなのでしょう。
特に旧約聖書の世界では決定的でありまして、家族との接触も断つように、宗教的には神殿に入ることができないように、市民生活では町の中に一緒に住むことができないように。
ですから、この女性は(ルカ8章)44節「イエスのうしろに近寄って」ということは、マルコの福音書(***5:27)では、人ごみに紛れてということです。

彼女は所詮イエスさまに触れることも、イエスさまの近くに行くこともできないような存在であり、遠くから見ていました。
遠くから見ていた時に、真っ暗な部屋で見つけた僅かな光、それがイエス・キリストでした。   
彼女は、どさくさに紛れてイエスさまに近づき、「うしろに近寄って」(***ルカ8:44)触ります。
  
皆さんは様々な方法で教会に来られたと思います。でも多くの方々がこの女性のようであって、イエスさまとはなんとも関係のない所に自分は住んでいた。
ある出来事をきっかけにして、真っ暗な部屋の中で僅かな光を見つけたかのようにイエス・キリストに近づく。しかも、どう近づいたらいいのかわからない。とりあえずインターネットで教会を調べてみた。でも教会ってなんだかよくわからない。

よく求道者の方が仰いますね。ま、求道者というのがいいのかどうかわかりませんけれども、高津駅があって、そこに図書館がありますので、何度も何度もここを行き来しているうちに、教会があるということに気がついた。
一度行ってみたいと思いながら、どうやって入っていいのかわからない。礼拝ってどんな感じなのか迷いなのかこの前を何度も行き来し、そしてある時吸い込まれるようにして入ってしまった。

友だちに誘われながら、あるいは家族に誘われながら、自分は絶対に行かないと心に決めていた。
しかしあることをきっかけにして、自分はどさくさに紛れるようにして礼拝の席に座った。
というのであれば、(このルカ8章の女性は)私たちと何ら変わりはないですね。

この女性、イエスさまに近づく以外、方法はありませんでした。お金もない。助けてくれる友だちいない。
自分でイエスさまの所に、わずかに見えた光の方へ咄嗟に手を出した。
そして彼女は、イエスさまの着物の「ふさに」触ります。

44イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。

この女性には、思いがありました――それは、もしこの方の衣に触れることが出来るならば、きっと私は直るに違いない。
マルコの福音書では、この方の着物ですが、ルカの福音書では、実際この女性がさわったのは、着物のふさに触っただけでありました。

さて、これまでが今日の物語の状況です。具体的に3つ、小さなことを一緒に見ていただいて、メッセージとして捉えていただきたいと思います。

1)「うしろに近寄って、イエスの衣にさわった」ということは、彼女の信仰です。
 
*その信仰に含まれているものは、まず一番目に『遠慮』です。
紛れ込む、後ろから、ということばに、あるいはこの方の着物のふさにさわる、という表現の中に、この女性の何とも言えない遠慮があります。
自分は日頃から神殿で礼拝を捧げていた人間ではない。自分は日頃から宗教的な行事に参加していたわけでもない。声を上げて叫ぶこともできない。振り向いてくれるかもわからない。だから後ろから触るだけなのです。
そして、だれかが彼女の存在に気が付いたら、厳しく責められるところ。

*でもその遠慮の中から芽生えてくる、小さな『勇気』がありました。
仮に彼女が(イエスさまの)着物にさわることができるなら、きっと私は直る、と彼女は信じていた(としても)――その信仰を、建物の陰から何千回、何万回と、唱えたところで直らないのです。

この教会に行ってみたいなぁ、この教会に行って一緒に讃美歌を歌ってみよう、この教会に行って聖書の話を聞いてみよう、と家の中で何千回唱えても、教会に行ったことにはならないです。
どこかで神さまが私たちに勇気を与えてくださり、その勇気を振り絞って前に一歩踏み出すという行動に、何とも言えない勇気を感じます。

(ルカ8:43の女性は)おそらく咄嗟の行動でありました。でもそれは勇気です。人を押しのけてでも、イエスさまの衣に触りました。

*そして、その信仰は『謙虚』でありました。
着物のふさでもいい。恵みの端でもいいから、私はなんとかその恵みに与りたいという遜った思いが(彼女には)ありました。
    
イギリスの建築家に、ジョン・シンプソン卿という有名なクリスチャンがいます。
ビクトリア女王からナイトの称号を受けたと聞いています。特に彼は病院建設に力を注いで、ロンドンをはじめ、イギリス中に大きな病院を建設していきました。

彼が年を経て、死が近づいたとき、友人が彼に尋ねます。
「もうすぐだよ。イエスさまの腕に抱かれて、天国で憩う。君の平安はまさにすぐのところに来ている」
その時かすれた声で、シンプソン卿は言いました。
「いや、それは私にはあり得ない。主のお着物のふさにでも触ることができるなら、それこそが私にとっての最高の栄誉だ」
                  
どこかで、私たちはこの謙虚な思いを大切にしておくべきです。
ラザロはアブラハムの懐に抱かれて天国に憩うことができました。私たちも、イエスさまが手を取って天国に連れて行ってくださることを夢見ています。
でもどこかで、本当に謙虚な思いを私たちは内に秘めておくべきで、「いや、それは私には有り得ないかもしれない。でもイエスさまの衣のふさにでも触ることができるなら、私は恵みの世界に間違いなく入れていただける。こんな私でも入れていただける」と。

私たちも様々な問題にぶつかるたびに、この女性の口に上った言葉を繰り返して言います。
繰り返し、繰り返し、「主よ、あなたのお着物のふさに触るだけでも、私はいやされる。この問題は解決される。私の前を通ってください。そして私の前を通ってくださったら、私の内に、あなたの衣に触れる勇気を与えてください」と。

2)いやされた女性は、47節「震えながら」進み出て行きます。

47女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。
 
いいですか。震えながら進み出て行き、御前にひれ伏し、みんなの前で触った理由と、癒された次第を話したと。
マルコの福音書(***5:33)では、この女性は、「イエスの前に進み出て」と記されています。
すると動きは明確ですね。後ろから咄嗟に近づいたこの女性は、イエスさまの前に出た。
そしてイエスさまの前に来るように、イエスはこの女性を捜しておられます――「わたしの恵みを受けた人は、だれだ、どこにいるのか。前に出て来なさい」と。
 
彼女はいったい何を告げたのでしょう。触ったわけ、つまり病気とこれまでの苦労をイエスさまに話されたのでしょうね。そして、たちどころに癒やされた感覚、その次第も彼女は話したに違いない。
そして、イエスさまはそれ以上は何も尋ねられませんでした。
48節に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」と言われただけです。
震えおののいて、前に出た女性に、イエスさまは「よかったね、すばらしかったのはあなたの信仰だよ。あなたの勇気だよ。安心して行きなさい」とだけ、声をかけられたのですね。

私はある牧師先生からこんな話を聞かされたことがあります。
しばらく前に同じ話を私たちの教会でも聞きました。よくある話なのだなぁと思いますが。

その教会では洗礼を受ける前に、「自分が一番恥としている罪」を紙に書いて、それを十字架にピンで留めるという洗礼の時の習慣があったそうです。
一人の女性が洗礼を受ける時に、事前にその先生に手紙を出したそうです。 
なぜ教会に来たのか? その手紙には、「私は、あの時の恐怖が忘れません」(とありました)。
彼女は教会に来る前に、中絶をした。そういう体験があったのですね。

そのことに重荷を感じて教会に来て、牧師にそのことを話して、彼女は洗礼を受ける時に、紙切れにものすごく小さな字で、「私が一番後悔している罪」を書いた。
小さな文字で「中絶」とだけ一言だけ書いて、十字架の上にピンで留めた。
彼女はその時思ったのですね。誰かがあの紙を開いてその字を見て、それが私だって知られたら、どうしようもなく、もう怖くて怖くて仕方がなかった。
紙に字を書いてから、それを握り締めて、席を立って、礼拝堂からそのまま出て行ってしまおうかとも迷った。

自分の番が来て、十字架に向かって歩いて、紙切れをそこに留めた。
その時、洗礼を授けていただくために先生の前に立ったその時、先生は私をじっと見ておられました。
きっとこの先生は、私が長い間秘密にしていたことをみんなの前で仰るのだ。

しかし、彼女が目を上げてみると、先生の目は実に優しい神さまの愛に溢れていた。
先生はもちろん一言もそんなことには触れずに、ストレートに神さまが彼女を愛していることを(告げ)、
「あなたの罪はゆるされた。安心して行きなさい」という目を、先生はしておられた。
       
この(長血をわずらった)女性が遠慮がちに後ろから近づき、そしてやがて前に出されて、洗礼を受けるような、みんなの前で自分がイエスさまに近づいた理由と事の次第を話したときに、きっとその背後にはもっともっといろんなことがあったに違いない。
しかしイエスさまはそれを深々と尋ねはなさいませんでした。
「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(***ルカ8:48) 

イエスさまというお方に真実を告げて、それが披露されることはない。イエスさまという方に真実を告げて、それを拒まれることはないです。
それがこの言葉によく出ています――「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。」(***マルコ5:34)

さて、今日のメインのみことばを見ていただきたいと思うのですが、一番最後の(ルカ8章)48節に――
もう一回この言葉を読んでいただきたいと思います。

48そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

マルコの福音書(***欄外の注・直訳)では――

3)「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです」(マルコ5:34)

病気が直ったのです。しかし、ここで使われている言葉は、もっと大きな言葉で「救った」とか「救われた」と訳すこともできるのですね。

マルコの福音書(***5:34最後)では、「病気にかからず、すこやかでいなさい。」という言葉も含まれています。
それは病気の問題だけではない――あなたの病気の問題だけではないんだよ。あなたの病気は直った。でもこれからは健やかでいなさい。
「安心して」という言葉は、新約聖書のギリシャ語では「エイレーネー」、(旧約聖書の)ヘブル語では「シャローム」という言葉です。
それは単純な、安心とか、直るとかいう言葉ではなくして、「平安」とよく訳されますよね――それは神の恵みがあなたを包みますように、ということです。
その神の恵みが――私たちの人生の様々な必要も、具体的な問題課題も、私たちの永遠のいのちの課題も――すべてあなたの人生を包みますように。

この女性は、神の子どもとされ、「祝された人となり、健やかであれ」と主は仰いました。
「健やかであれ、安心して行け」という命令が、彼女の人生をその方向へと押し出していくのです。  
「あなたは、祝された人となる。あなたの病が癒されただけではない。あなたは神の前に出て、真実を話し、わたしの救いを受け入れた。あなたは健やかな人になる」とイエスさまは彼女を押し出していかれます。

私たちは、イエスさまとそういう出会いをしなければならないですが、ここでマルコの福音書のこの言葉を見ていただきたいと思います。
同じ記事です。5章の25節から29節までを交代に読んでいきたいと思います。

 25ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
26この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
27彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
28「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。
29すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

私は今日の説教題をこのマルコの29節から取りました――「すると、すぐに、血の源がかれて」
この女性は病気という課題をもって、イエス・キリストのもとに来ました。
しかし「イエス・キリストに触れて血の源が枯れた」というのは、彼女の根本的な存在が変わった(ことを言っている)。
病的に考えれば、それは出血の源が枯れたのでしょう。止まったのでしょう。
しかし「健やかでいなさい。安心していきなさい」と声をかけられ、イエスさまの祝福をもって送り出された彼女は、存在そのものが変わってしまう。それは血の源が枯れるのです。

私たちにすれば、罪責感という血の源が枯れるのです。
私たちにしてみれば、よるべのない苦労があるたびに、心配とこの世界の矛盾に翻弄されてドツボにはまっていく、という人生の血の源が枯れるのです。
孤独に人生の諸問題を、自分の力でなんとかしようと必死になって生きている、その生き方の問題の根本が枯れるのです。
なぜなら、神を信じ、イエス・キリストによって罪赦され、「健やかでいなさい」と祝福されて送り出されていく人生は、その人生の土台、おおもとが変わっていくのです。

私たちは礼拝が終わって、礼拝の場から出て行く時に、もし自分の中にこういう血の源があるとしたら、それは怒りの泉なのかもしれない。それが心配の泉なのかもしれない。
でもイエスさまは、礼拝に来る私たちのその源をいつも枯らしてくださる。そして、私たちを送り出してくださるということを、よ〜く意識しておく必要があるのではないかと思います。

なぜなら自分の力でその源を枯らすことはできないのです。
心配をもって礼拝に行き、心配をもって礼拝から帰っていくのが私たちです。
でもイエスさまは私たちに触れて、血の源を枯らしてくださる。

最後一つ話をして終わりにしますので、その話をちょっと自分なりに当てはめて考えていただきたいと思いますが、こういう話、実話かどうか、ちょっと後で話しますが。
昔の病院で、ま、精神病院ですね、ある患者さんが治療を終えて、正気に戻ったかどうかを試す方法があった。
昔の病院ですからあんまりいろんなものはないのですけれども、この人が本当に直ったか試す。

患者さんを洗面台の付いている病室に連れて行って、そして洗面台の蛇口を思いっきり開きます。
ものすごい音で(水が流れ)開きます。開いておいて、洗面台の排水口に栓をします。
だんだん水位が上がってきたあたりに、おもむろに、精神病棟の先生が患者さんにモップを持たせる。
水がいよいよ溢れてくる、凄い音で溢れて来るということを実感するのですね。
そして(モップを)持たせておいて、(洗面台から)床に(水が)流れ始めた頃に、お医者さんは部屋を出ます。

やがて、水は洗面台から溢れますよね。そして床にどんどん流れます。
そこで、患者さんが手にしたモップで溢れてくる水を一生懸命拭き始めたら、その人はまだ直っていない。
もし患者さんが、蛇口の栓を閉めて、排水口の蓋を開けて、それから床に流れた水をモップで拭いたら、あ、この人は直ったのだとみなす。

私(藤本牧師)は本当に昔、そういうことを実践していたのかどうかは知りません。
おそらくこの話をしたのは、これが私たちの人生だろうという、人生の教訓として伝えられているのではないかと思います。
私たちの手には、様々なモップがあるのですね。
でも私たちの人生の課題というのは、蛇口を開きっぱなしにしておいて、排水口に栓をして、どんどんどんどん溢れている水を一生懸命様々なモップできれいにしているだけ。
でもイエスさまは、「この女性の血の源を枯らし」ということはどういうことかと言いますと、蛇口を閉じてくださった。

それでも私たちの周りには、(まだまだ蛇口から大量の水が溢れる時があるという人には、)
「いや、わたしはあなたの蛇口の栓は閉めてある。わたしにはあなたの蛇口の栓を閉めることはできる。まずそれをしなさい。それをせずして溢れた水を一生懸命モップで拭き続けていても、あなたの人生は変わりませんよ」というのが、
「この十二年間、いろんな医者にかかりながらも、一向に問題が直らない。イエスさまに触れ、イエスさまに出会った時に、血の源が枯れた」
という言葉の意味するところで、まさにこれが私たちの人生そのものなのだろうと思います。

イエスさまは仰います――
「わたしはあなたを幸いな人にする。健やかな人でいなさい。
それには、先ずわたしには蛇口の栓を閉めることができるという信仰を持ちなさい。
そしてあなたの人生に襲いかかる様々な問題は、蛇口に栓がしてある限りにおいて、わたしが全部面倒みるから、わたしについて来なさい」とイエスさまは仰るでしょう。

☆お祈り

27彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
28「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。
29すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
(マルコ5:27〜29)

恵み深い天の父なる神さま、人生の根本的な問題――それは自分がいったいなぜ生きているのか? 生きていてどうなるのか? この苦労に何の意味があるのか? 
もしあなたという存在を抜きにして考えたならば、私たちはただ単に、川の流れに流されてやがて海へとたどり着くひとつの野の花にしか過ぎません。
でももし、あなたという永遠の土台に自分自身の人生を見るなら、嵐にも耐えられる。たとえ茎が折れたとしても新たなる枝が起こされ、地上のみならず天国において、枝を伸ばすところのからし種のような、小さな種から育った大きな木となると約束してくださいました。
どうか私たちを、今朝もまた、健やかな人として送り出してください。イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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DATE: 2014.03.24 - 15:10

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