題      名: 「礼拝の原点」――T歴代誌21章より
氏      名: fujimoto
作成日時: 2002.11.08 - 23:41
「礼拝の原点」――T歴代誌21章より

ダビデの長い生涯で、果たすことのできなかった大事業がありました。それは、神の神殿を建造することです。かつてそれを願ったダビデは、却下されました。「あなたは軍人であって、その手は血に染まっている。あなたは神殿を建てることができない。息子、ソロモンが神殿を建てさせる」と。
 しかし、ここ21:1節に神殿の原点があります。
「これこそ、神である主の宮だ。これこそ、イスラエルの全焼のいけにえの祭壇だ。」
 ここに礼拝の原点があるのです。状況を簡単に見ておきましょう。
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 ダビデの人生の終盤でした。王国の勢力が、これまでになく増大し、安定していた時期のことです。彼は、自分が今まで築いてきた国を眺めながら、ある日、人口調査をしてみたくなったというのです。ヨアブと部下を呼び寄せていいます。「さあ、ベエル・シェバからダンに至るまでのイスラエルを数えなさい。その人数を私に報告して、知らせてほしい」
 ダンは北の町、ベエルシェバは南の町です。人口調査は、一般的な政府の仕事です。しかし、ただの人口調査ではありませんでした。1節には、それがサタンの誘惑であったと記されています。3節では、軍人ヨアブでさえ、気にしています。「なぜ、我が君はそのようなことを要求されるのですか。なぜ、イスラエルに対して罪過ある者となられるのですか。」 ダビデは、何を思ったのでしょうか。戦いにでれる人間の数を数えて、自己満足に浸りたかったのか。領土侵略を企てて、その計画に入ったのか。詳しくは、知るよしもありません。
 ともかく、ダビデ王は、ヨアブを説き伏せ、彼らは、9カ月と20日間、イスラエルをめぐって帰ってきました。
 その報告を聞いたとき、自己満足に浸るはずのダビデは、非常な良心のとがめを感じました。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。」
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 礼拝の原点は、ここから始まるのです。三つのポイントで追いかけてみたいと思います。
 まず礼拝の原点にあるのが、罪の自覚です。いや、自覚する以上に、一言で、「人は罪を犯すもの」という厳しい現実です。特別な事情は記されていません。しかし、ダビデの すぐそばにサタンがいました。サタンがダビデを誘い込んで、というのは非常に考えさせられる、人間の霊的な現実。ある教派の礼拝式の式分には、礼拝の冒頭で会衆が罪の告白をするようになっています。罪を犯す、自分は罪深いという思いで神のみまえに立つのです。そして、罪を心に意識したとき、ダビデは、自分の罪に背を向けませんでした。人口調査をしてはならないと、十戒に書いてありません。黙っていれば、誰も責める者はいないかもしれません。しかし、ダビデは示された自分の罪を正直に認めて、神の前に立ちました。

 第二に、ダビデは厳しい、選ぶことのできない選択を背負います。先見者ガドやってきて、選択を迫ります。10節で、そのうち一つを「選べ」と迫られますし、11節では、主の裁きを「受け入れよ」と言われます。
 3年の飢饉、それは数年前、イスラエルが体験しました。ダビデの記憶には、川は干涸び、井戸は乾き、ひび割れた畑が、砂漠のように続いていく光景がまだ残っていました。
 3カ月、敵の前に捕虜の生活をするか。かつてダビデは、サウロに追われ、アブシャロムに追われて、逃亡生活の厳しさを嫌というほど知っていたはずです。
 3日間、疫病が国中を荒し回るか。死臭が町に立ちこめ、悲しみの叫び声が響くでしょう。
 ダビデの答えを ガドは待っています。じっと下を向いたダビデは、顔を上げていいます。「それは私には非常につらいことです。私を主の手に陥らせてください」(13節)。
 なんと力強い告白でしょう。私に何が出来るというのですか。ただ、主の御手に陥るだけです。これが礼拝する者の第二の心得です。私たちがこの人生を背負って、礼拝に立つとき、こうした厳しい、選ぶことのできないような現実を背負っているものです。しかし、ただ神の憐れみの御手に陥りたい、その一心で主の前に立つのです。罪の汚れも、待ち受けている責任も、しくじったことの結果も、すべてそのままで、恵み深く、哀れみ深い主の両腕の中に飛び込むことです。

 先を見てみましょう。神は、疫病を選ばれました。疫病は、7万人を打ち、最後、主の使いが剣を持って、エルサレムを滅ぼしにかかったとき、ダビデは自分の責任の重さ、その罪の深さを改めてとらえることになります。ダビデは祈ります。「罪を犯したのは私です。罰を私と私の一家に下してください」
 そのとき、神はダビデに恵みを語ります。
「上っていって、オルナンの打ち場に祭壇を築け」
 ダビデは、オルナンの打ち場で、その土地を譲ってくれと頼みます。十分な金額を払うから、譲ってくれと。そのとき、オルナンは、「とんでもない、差し上げます」と、ダビデにいいます。
 さてここでダビデは、こういうのです。これが礼拝の心得の第三です。
「いいえ。私はどうしても十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主に捧げるわけにはいきません」(24節)
 罪を犯して、礼拝するのは、この私だ、という意識です。いけにえは、私の身代りで、私の犠牲で払わなくてはならない。礼拝するのは、私なんだ、あなたのふんどしで相撲をとるわけにはいかない、というのです。犠牲は、小さくても・大きくても、自分で払いたい。自分で捧げたい。礼拝とは、そういうものではないでしょうか。
 礼拝する私たちとは、
1)罪を自覚する者
2)神の憐れみの御手に陥る者
3)犠牲をもって自分で礼拝する者

 この誠実な礼拝に、神は答えてくださいました。
「すると、主は全焼のいけにえの祭壇の上に天から火を下して、彼に答えられた」(26節)
 ダビデの失敗から、神は栄光を引き出してくださいました。そして、冒頭に引用したダビデの告白が出てくるのです。
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 チャールズ・コルソンという人物をご存じでしょうか。法律の畑から、ニクソン大統領の側近となります。しかし、ウオーターゲイト事件が発覚し、大統領は失脚。そして彼は実刑判決を受けて、刑務所に入りました。そのとき彼は、自分の罪深さを強烈に示され、キリストを信じ、今では世界中にキリストの福音を証しています。
 あるイースターの朝、彼はデラウェアの州立刑務所内の礼拝に、講師として招かれました。礼拝堂の前には、大きな垂れ幕がかかっています「チャペルにいらっしゃい。主イエスは、捕らわれ人を自由にします。」
  彼は、講壇に座りながら、囚人の聖歌隊の賛美を聞き、自分の番がくるのを待っていました。その時、彼の頭をかすめたことを、こう記しています。
「講壇に座って、説教の番を待ちながら、心の中で、昔の事柄を思い浮かべていた。獲得した奨学金の数々、勝ち得た学位に栄誉の数、法廷での大弁論に見事な勝訴、政府の重々しい執務室から下した世界を動かす決定の数々、そこまで、私の人生は、完璧な成功物語だった。まさに、バラ色の夢がそのまま実現していた」
 しかしその時、彼は気づくのです。今朝、この栄光に満ちた礼拝を迎え、刑務所にいる人々を助けることが出来るのは、私の数々の成功の故ではない。私の成功など、神のご計画の中で、何の価値も持っていなかった。私の人生に関して、神が取り上げ、その栄光のために用いてくださったのは、私の人生最大の失敗、最大の汚点。私が前科者となったという事実であると。
 コルソン氏にとって最大の屈辱。政府を追われ、刑務所に入れられたこと、それが神が彼の人生が用いられる出発点となります。そこに真実な礼拝があるとき、神は、私が決して誇れない人生の汚点を選んで、そこから栄光を引き出してくださる方なのです。

アーメン