題      名: アブシャロムの謀反
氏      名: fujimoto
作成日時: 2007.09.11 - 20:52
Uサムエル15:1−30
アブシャロムの謀反


 ダビデはエルサレムを追われて、ヨルダン川の東側のマハナイムという所に逃ていきます。人生の、大きな苦しみ、悲しみの物語がここから始まるのです。人生、追われたのはこれがはじめてではありません。青年時代、サウル王に追われて、荒野を逃げ回りました。ようやく、王となり、しかしここでいのちをねらわれます。しかも、彼の息子アブシャロムがねらうのです。こんな苦悩、彼の人生にあったでしょうか?

1)アブシャロムを見ておきましょう。
 なぜ彼が、ダビデに反逆を企てることになったのか?前回学びました。それは、異母兄弟のアムノンを殺したアブシャロムを彼は、許すことができなかったから。3年間ゲシュルに逃げたアブシャロムをエルサレムに連れ戻しはしますが、決してその顔を見ようとはしませんでした。
 アブシャロムの思いは、父親から離れ、屈折していったことでしょう。ある日、1節、彼は自分の親衛隊を作ります。ここから先は巧妙です。2−3節。当時、王は最高裁判事も務めていました。王に申し立てをするのですから、豪族です。不満があって、王に訴えようとする地方の豪族をつかまえて、「あなたの言い分はわかる。私が王ならあなたを弁護する……」と味方をするのです。
 アブシャロムは、人びとの心を、ダビデ王から6節の表現を使えば、「盗み取っていきます」。この人は自分を支持してくれる、いい人だ、と思われるのです。「私が裁く立場なら、つまり私が王であれば、あなたの願い通りの裁きをしてやれるのに、今のあの王では道理も通らんからなあ」と嘆いてみせるのです。
 こうして、「ぜひアブサロムに王になってもらいたい」と思う、地方の有力者を獲得していきます。次にやって来るのが、今の人と裁判で争っている敵であっても同じことを言うのです。「あなたの主張は正しい」。実際に自分が裁く立場にはないから、いくらでも無責任なことが言えるのです。
 このようにしてアブサロムは、不満のある人をどんどん自分の支持者に引き入れていきました。どこの世界にもよくあることです。さらに、5節、「人が彼に近づいて、挨拶しようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした」。これも、人々の支持をとりつけるためによくなされるポーズです。選挙の時と同じです。候補者から近づいて、笑顔で握手する。もっとも、アブサロムは王子ですから、人びとはそれなりの尊敬をもって礼をします。それを、「何を水くさい、俺たちは仲間じゃないか」という態度をとります。すると人々は、ああこの人は偉ぶらない、庶民的な人だ、と彼のことが好きになるのです。
 なかなか巧妙なんです。かなり周到に準備をした上で、アブサロムはついに旗揚げします。7節、準備に4年をかけました。そして、アブシャロムがダビデに反旗を翻した場所は、ヘブロンです。かつてダビデがユダ族の王として君臨していた町。ここでアブシャロムは生まれたのです。地元の支持を得る、といいますか。なんか、今の選挙と同じですね。でも、もう一つの考え方もあります。ダビデはヘブロンを捨ててエルサレムに新しい首都を築きました。ヘブロンの人々にしてみれば、ダビデ王に見捨てられたという思いもあったでしょう。アブサロムはその心理を利用しようとしている。
 アブシャロムは周到です。10節、彼は、自分が蜂起するに当ってイスラエル全部族に使いを送り、角笛の音を合図に、「アブサロムがヘブロンで王となった」と言わせました。遠くで起った出来事も瞬時に伝わっていくような時代ではありません。ですから、前もって密かに使いを送っておいて、この蜂起を全国に一斉に知らしめ、全イスラエルの人々を動かそうとしたのです。
 イスラエルの心が、アブシャロムに移り始めます。中には、12節にあるように、ダビデの顧問であったギロ人アヒトフェルという人を自分のもとに迎え入れました。あのバテシバのおじいさんです。ダビデがウリヤを殺し、バテシバを王宮に召し抱えたというところから、バテシバのおじいさんのアフィトフェルは、ダビデの顧問を務めていました。アブシャロムの謀反は、周到な準備で後ろ盾を得るようになります。

2)ダビデのとった行動を見てみましょう。
  息子の謀反は、青天の霹靂でした。まして、すでに多くの人々の心がアブサロムに傾いている、なんて想像もしていませんでした。・・・13節。いろいろな思いが交錯したに違いありません。息子と闘うのです。どちらかが殺されるのでしょう。彼は、14節で、すぐに決断します。
 苦渋の決断です。直ちに逃げる、すぐに逃げる。それは、身の安全のためだけではありませんでした。そうしなければ、アブシャロムは、この都を打つに違いない。エルサレムは、神の都です。神の箱を迎え入れて、主なる神様の都としたのです。その都と住民が、戦いによって破壊されてしまうことを避けたいというのが、彼の思いでした。そのことは、24節以下に語られていることと結びついていきます。エルサレムの東にキドロンの谷があります。そこを渡って荒れ野へと進んでいくダビデたちの一行に、ツァドクをはじめとするレビ人たちが、神の箱、契約の箱を担いでついて来ていました。
  彼らは祭司です。逃れていくダビデの一行と行動を共にし、神の箱を持ち運んできたのです。ダビデたちの一行に主なる神様が共にいて下さることのしるしです。エルサレムからは逃れなければならなくなったが、主なる神様はなお我々と共にある、と主張できるのが、神の箱の存在なのです。
 しかしダビデは祭司たちに言います。「神の箱は町に戻しなさい。」源氏によって京の都を追われた平家が、幼い安徳天皇と三種の神器を持って西国へ逃れていったようなことは、しないということです。

3)信仰者ダビデの姿
 よく見てください。25節「もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は私を連れ戻してくださる」。すべてが主の御心次第だ、というのです。最終的には、アブシャロムの策略でも、自分の抵抗でもない、主の御心がなる、というのです。26節「もし主が、『あなたはわたしの心にかなわない』と言われるなら、どうかこの私に主が良いと思われることをしてください」。王座に戻れない、追われたままである、というのであれば、それもよし。ただそれでも、主の憐れみにあずかることができますように。
 私たちはここから何を読み取るのでしょうか。
 A)信仰者の潔さです。
 ダビデは、自分の落ち度も考えたことでしょう。まず、バテシバとの罪です。実際にこれが大きいのです。なぜなら、あの罪を暴露したナタンは言いました。12:11「主は、こう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす』」。ダビデは、自分の行動の結果をつみ取っているのです。また、ダビデは、父親として、アブシャロムと断絶していたことも、原因でしょう。自分を責めることはいくらでもできる。もちろん、アブシャロムを呪うこともできる。そして、最悪、神に対して憤ることもできる。しかしダビデは、ただ、神の御前に遜り、自分に降りかかっている結果を神から、受け取っています。それ以上のことは言いません。
 B)それでいて、ダビデは、主の最善を信じて疑わないのです。もし、エルサレムに帰ることができないなら、もし王として復帰できないのであるならば、それで神が私から恵みをたたれたのではない、きっと神は御心にかなった、良いことをしてくださる。
 実家に帰って、出産を待っていたO姉のところに、1ヶ月早く、8月2日に女の子が生まれました。いただいた連絡を、ご本人の許可をいただいて、紹介します。私は、お二人がつけた名前に深い信仰を感じます。

「圭子先生 メールをありがとうございました。次女は元気が良く、保育器の中でよく手足をうごかしています。夫との対面は早くてもお盆明けになりそうです。
名前ですが「希依」(きより)に決まりました。次女の誕生は我が家にとって大きな転機となると思いますが、次女の将来も家族の未来もきっと神様が祝福して導いてくださる。そのことを信じて希望と信仰を持って神様に依(よ)り頼んで歩んでいこうという意味です。高津教会の皆様のお祈りに心から感謝しています。皆様にくれぐれもよろしくお伝えください」

 ご存じのように、O姉は、数年、司法試験にチャレンジをしておられました。何度かチャレンジをしながら、二番目のお子さんが与えられたらと思っていて、今年になりました。そして、司法試験の道が閉ざされた後、ご夫婦で長く話し合って、これまでの司法試験の準備を置いて、別の道に進んでいくことを決断されました。
 その別の道が、どこかはわかりません。あれほど試験のために準備されていたのでしたら、断念することには相当な抵抗もあるでしょう。しかし、ダビデと同じです。もしそれが、主の御心でないのなら、どうかこの私に主が良いと思われることをしてくださいますように。
  その信仰を込めて、希望の神に、ひたすら依り頼む(きより)というお名前をお嬢さんにつけました。ダビデの信仰とは、こういうものです。