題      名: アドナイ・イルエ(主の山には備えあり)
氏      名: fujimoto
作成日時: 2008.09.28 - 23:41
アドナイ・イルエ「エホバ・エレ」

文語訳時代の、なつかしい響きです。エホバエレ、エホバニシ、エホバシャロム、エホバツイデキヌ、エホバシャマー。いま、私たちはエホバとは言いません。何度かお話ししてきましたが、新改訳聖書で太字で「主」という言葉は、文語訳聖書では「エホバ」訳されていました。この言葉は、いまほとんどが、ヤーウェと訳されます。ヘブル語の表記では、YHWHなのです。モーセが神に尋ねます。「あなたの名前はなんというのですか?」これに神ご自身が答えたが名前が、YHWHです。わたしは、ありてある者だ。絶対的な実在者。

しかしモーセの十戒に、主の御名をみだりに唱えてはならない、という戒めがあります。そこで敬虔なイスラエルの人々は、その言葉が出てくるたびに、「アドナイ」(主)と呼び変えて発音して長い年月がたつうちに、YHWHの下につける母音がわからなくなってしまいました。YeHoWaHなのか、YaHaWeHなのか?

それほど貴い、神ご自身の御名に形容詞や術語をつけること自体、不遜と言わなければならないのかもしれません。しかし、旧約聖書には数カ所、神の御名が直接につけられた場所があります。これらは、どれも、旧約聖書の人々が、神さまに出会ったとき、今まで知らなかった神さまの恵み、神さまのご性質を知って、感動のあまりに、神さまにちなんだ名前をつけたのです。

今日は、その第一番目、アドナイ・イルエ。アブラハムが、イサクをいけにえに捧げようとしたときのことでした。神さまの命令に、信仰を持って忠実に従っているとき、一見、逃げ道のないような、行き止まりの道、これですべてが終わりだという道。その中で、主は、逃げ道を備えてくださった。

イサクを捧げろというような、こんな理不尽な、こんな苦しみに満ちた道であっても、神さまが行けとおっしゃるなら、従っていって間違いはない主は、その必要を満たしてくださる、備えてくださる。

私は、3つの視点から、主が備えてくださるという、この出来事をまとめてきました。

1)神さまがおっしゃるのです。「いま、わたしは、あなたがた神を恐れることがよくわかった」(12節)
 これには、一瞬驚きます。えっ、神さま、いままでわからなかったのですか、私がどんなにあなたを畏れかしこしこみ、あなたを尊び、第一としてきたかを、わからなかったのですか?ずっと神さまに従ってきたのがアブラハムです。「父の家を、生まれ故郷を出て、わたしの示す地に行け」で、始まったのが彼の生涯です。 
  それが、もう晩年になって、それでもこんな試練を与えられて、それで「いま、ようやくわかった」と言われても、ちょっとしんどいではないですか。

しかし、神さまはアブラハムを試みられたのです。それによって、アブラハムの信仰の真価が問われ、それを見て、神さまはおっしゃるのです。「いま、あなたの信仰の真価がわかった」
・3節「朝早く起きて出かける」
 彼は、神さまの命令に従いました。2節に「連れて、モリヤの地に行きなさい。」3節に、そのまま「連れて、出かけていった」
・4節に「3日目」
 伝説では、モリヤの山がエルサレムとなっています。ベエルシェバからエルサレムまでは約80キロ。それは、重い足どりの旅でした。悔いもあり、自分を責めさいなみ、つぶやき、嘆く道であったでしょう。
・5節で、アブラハムはここで二人の若い者を残します。何もいわずに、何も言えずに、そこに残して、二人で山を登ります。一人で耐えるアブラハムです。一人で担う辛さです。しかし、担うしかなか道はありませんでした。
・6節 アブラハムは、神さまがいわれたとおりの道を行きます。「取って……取って……二人は一緒に進んでいく」。「二人は一緒に進んでいった」――これは8節の終わりにもでてきます。エルサレムへの上り坂を、見上げるように、二人は押し黙って、黙々と上っていきます。息子イサクは、不安を感じ始めました。すべてが変だ。いけにえをささげるなら、それを携えていくのが普通で、たきぎはある。火も用意してある、刀もある。しかしいけにえがない。父に尋ねます。

・アブラハムは、8節でこう答えました。「イサク」・・・脚注に「我が子よ」(愛情のある表現)とあります。「神が備えてくださる。神が見つけてくださる」。それは、神さまへの心の底からの希望と信頼の告白でした。神さまが何とかしてくださるというのです。何とも言えない時間です。アブラハムの現実は、イサクをささげる、イサクを失う、その道を進みます。しかし、心の底から、「いや、神さまは必ず逃れの道を備えくださる」という希望が湧いてきます。
 この試練の事態にあって、神さまが必ず何かを備えてくださるに違いない。その希望を絶対に捨てない。そして、二人は進んでいきます。

・そうして、アブラハムはとうとう息子イサクを手にかけようとしたとき、11節、神さまは天から彼を呼びます。「アブラハム、アブラハム」。そして、彼は答えます「はい、ここにおります」。このストーリーは、1節の神さまの呼びかけ、そしてアブラハムの「はい、ここにおります」・・・これで始まります。そして、11節の、神さまの呼びかけ、そして「アブラハムのはい、ここにおります」で終わるのです。

信仰生活は、「はい」で始まり、「はい」で終わります。いつでも「はい、ここにおります」。いつでも、神さまの呼びかけに答える距離にいた。アブラハムは、こんなに厳しい、苦しい状況にありながら、神さまから逃げなかった。神さまを避けなかった。信仰を捨てなかった。「はい、ここにおります」という距離に居続けた。これが、アブラハムの信仰です。一言で言えば、神への従順さ、です。神さまの祝福を求めて、信じているのではない。神を神として信じているのです。善にして善をなしたもう神に静かに信頼しているのです。人生の、おおよそ受け入れられない状況を、彼は信仰によって受け入れ、後は神さまに委ねました。この従順さに、神さまは感動しておっしゃったのです。
「いま、わたしには、あなたがわたしを恐れることがわかった。」

2)同時に、アブラハムもわかりました。
 神さまが、アドナイ・イルエであることを。神さまが、試練の道のりの先に、恵みを備えていてくださることが、わかった。心底わかったのです。

8節で、モリヤの山に着く前に、アブラハムは神が備えてくださる神であることをわかっています。しかし、これと14節とは違いますでしょう。本当にわかった。体験してわかった。心からわかったのです。感動的にわかったのです。従ってついていったときに、神さまは備えてくださることを。そういう信仰原則を頭で理解したのではありません。そういう神であることをアブラハムはわかったのです。

私たちの教会は、18世紀イギリスの信仰復興運動に始まるメソジストの流れにあります。その信仰復興運動を率いたのがジョン・ウェスレー。彼は、イギリスのエプワースという町の、牧師家庭に育ちます。ウェスレーを自分を「火から取り出された燃えさし」と呼びます。ゼカリヤ3:2やアモス4:11に出てきます。神の裁きを受ける、取るに足らない焼けぼっくい。彼は自分の墓碑銘に、そう書いてくれ、といいます。

なぜ、そんなことを言うのか。それは1709年の2月9日、エプワースの牧師館は、火事に遭います。放火であったと言われています。6歳にもなっていないジョンは、2階に取り残されます。天井が焼け落ちる寸前に、近所の人が、この少年を窓から救出します。

そのとき、父はひざまずいて言います。「近所のみなさん、さあ一緒に祈りましょう。神さまに感謝しましょう。神は私に8人の子どもを与えて守ってくださいました。家は失いました。それでいいです。しかし、私は十分に祝福されています」
父サムエルは40年間エプワースの教会を牧会し、でもその実はわずかでした。しかし、やがてこの火事を生き延びた焼けぼっくいジョン・ウェスレーは、一度に何千という炭坑夫に野外で説教し、何万という人をイエスさまのもとに導き、その働きは世界に広がります。試練の山の先にある、恵みの備えは偉大でした。

そう思うと、父サムエルの祈りは偉大であったと思います。「家は失いました。それでいいです。しかし、私は十分に祝福されています。」彼にはわかっていた。主は備えてくださる。ですから、理不尽な試練にあっても、神への従順さは失わないのです。この方の憐れみはつきないことが、わかっているのです。
  
3)主の山には備えがある、という確信は、この聖書の言葉で閉じられなければなりません。ロマ8:23。やがて神は、雄羊ではなく御子をいけにえに送られます。父なる神は、2節と同じ「愛するひとり子」イエス・キリストを私たちの罪のあがないのために十字架に送られます。それによって、なにがわかったのか。神の備えは、万全だということです。あらゆること、すべてのことに万全だということです。