題      名: 相馬木一兄 告別式説教
氏      名: fujimoto
作成日時: 2003.01.15 - 23:36
相馬木一兄 告別式説教(2003.1.8召天)/2003.1.14

マタイ8:17「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」

                  ●大いなる出来事

 相馬兄の口から時折聞く、出来事がいくつかありました。小学生の頃、関東大震災が起こった時間、友人の家に妹さんといらっしゃいました。相馬兄は、用事があってその家を出て、そのとき大震災が関東を襲い、妹さんは亡くなりました。また、二・二六事件の話しもあります。満州では、当時の無鉄砲さを買われて、ずいぶん危険な任務を任されたそうです。 わたしが小学生の頃、よく会社帰りの相馬さんが高津駅から歩いていらっしゃいました。「おかえりなさい」「ただいま」という会話がある、そんな距離に住んでおられました。 八八才のご生涯、実に多くの出来事がありました。奥様と一緒になられて、五〇年以上がたつのです。でも、どれほど多くの山坂、出来事があったとしても、故人の人生の出来事は基本的には一つでした。それを、繰り返し、繰り返し、故人は皆の前で語られ、文章にしてきました。
 それは、故人41才の春のことでした。キリストの恵みにあずかり、クリスチャンとなって人生の再出発をはかられた出来事です。昨日の追憶にも、また故人略歴にも、高津教会で相馬兄の変わり様を知らない人はいないということがよくわかります。かつて、そんなに大酒のみで、ばくちと喧嘩が好きだったんだろうか?と思うほど変わられました。確かに骨太の兄で、がっしりしていて、拳が岩のようでした。喧嘩が強かったというのは、本当だろうなと思います。

                  ●身に引き受け

 キリストを信じ、そして人生を託したイエス・キリストがどのようなお方であったのか、私は、このマタイ8:17のみことばが明らかにしていると思うのです――「彼が私たちのわずらいを身に引き受け」。
 かつて、膨大な借金を戦友でありました、会社の社長さんが引き受けてくださいました。それがあまりにも度を過ぎたために、もうこれ以上は引き受けられないとおっしゃったのです。社長さんの一喝で、故人は初めて自分の人生を深く反省し、周りに迷惑をかけ、奥様を追いつめ、罪深い世界にはまっていた自分を悔い改めました。
 そしてその罪深さを赦してくださる、主イエスの十字架を信じたとき、主は、周りの人に代わって、相馬兄を、その身に引き受けてくださったのです。「その身に引き受ける」――人が負うことができない罪の負債を負うことのできるのは、キリストだけです。罪と咎、罪という病、死という結末を背負うことができるのは、キリストだけです。「その身に引き受ける」とは、保証人になるという意味もあります。主が人生の保証人となってくださいました。それから敬虔な奥様とお二人で、幸せに暮らし、教会に仕えてこられました。

                    ●時の流れ

 しかし、時の流れはあるものです。やがて、会社を退職され、その後のおつとめも退かれ、腰を痛めて入院。膝が不自由になって、教会にもつえをついていらっしゃるようになりました。ああ、あれほど元気だった相馬さんが…と思いました。
 それでもお元気な奥様が、賢明に支え、家に手すりをつけ、あらゆることを支えてこられました。屈強な相馬さんも、熱に弱いのです。37度ぐらいの熱で、ほとんどからだが動かなくなります。わたしは、何度か車で病院にお連れしたことがあるのですが、車に乗るために、降りるために、こっちが汗だくになってしまいます。私は、そんな時に初めて分かりました。介護される奥様の大変さです。ご主人がお風呂場で倒れられたときなど、どうやってご主人を起こされたのでしょうか。熱で動けなくなってしまったご主人を病院に連れて行くにも、救急車が必要です。消防署の人に「タクシー代わりに使わないでください」と注意された、と奥様からうかがったこともありました。でも、本当にお子さんのいらっしゃらないお二人にとって、老いは大きな重荷でした。
 やがて、大きな問題が持ち上がりました。それは奥様の入院です。骨折、それからインフルエンザ・肺炎。そんなとき、まず手配しなければいけないのは、ご主人の入院なのです。とうとう、長年住み慣れた溝の口の自宅を処分され、川越のケアハウスに引っ越されました。本当にそんな決断ができるのだろうか、と最初お話を伺ったとき、私は半信半疑でした。しかし、イエスさまが手を引っ張って、背中を押して、連れて行ってくださった。 
 それでも、しばらくすると、相馬兄の状態はケアハウスでも面倒見られないようになります。寝返りが打てないのです。車いすに乗せるためにも時には何十分と奥様が苦闘されました。そして、ケアハウスと同じ敷地にあります、特別養護老人ホームに移られ、そのころから身体も徐々に衰弱され、最後は老衰のように静かに天に帰り行かれました。奥様に見守られ、藤本栄造先生に見守られる中のことでした。

                ●二度目の「身に引き受け」

 私は「キリストが私たちのわずらいを身に引き受け」とのみことばを、相馬兄の晩年に当てはめようと思うのです。
 あれほどの借金の肩代わりをしていた以前の会社の社長さん、そして相馬兄の乱暴な生活の結末を背負っていた奥様に、イエスさまは、「わたしが彼のことをこの身に引き受けよう」と劇的に現れてくださいました。
 そして晩年、介護と看病のために身を削られて、それでも献身的に、注ぎだして、ご主人のために労された奥様に対して、主イエスさまは同じく劇的に現れ、「わたしが、この身に引き受けよう」とおっしゃって、相馬兄を天に連れいていってくださったと、私は信じております。「ご苦労様。これからはわたしが引き受ける」と。
 今頃、ご主人は、あれほどまでにあこがれた天の故郷が、こんなにすばらしいとは、思わなかったぞ、とおっしゃいることでしょう。奥様とは、しばしの別れです。やがて、おまえとまた、この天の御国で、主を讃美しよう、とおっしゃるご主人の声が聞こえるようです。体の不自由からも、老いからも解放されたご主人がそういっておられるのが見えるようです。
 そしてこの日、イエスさまは伴侶を失われた奥様に、同時に現れ、「わたしがあなたを背負う、これからも背負う」と言っていてくださることを感謝します。
 神の慰めと平安が、奥様、ご遺族の上に、そしてこの教会の上に豊かにありましょうに。 

    アーメン