題      名: 9/22北海道聖会T於インマヌエル札幌教会
氏      名:   T・Y
作成日時: 2011.03.27 - 00:33
9/22北海道聖会T    テーマ「イエスについて行く私たち」
☆司会、小田満(恵庭教会)牧師

(「わが主イエスよ」の素晴らしいハーモニーの賛美の後で)、
青年部の賛美には感動します(笑)。早速藤本満先生を講壇にお迎えします。さっき拍手でお迎えしましたが、うーん、ちょっと足りなかったように (笑)思いましたが、盛大に拍手をしましょう。(大きな拍手)

☆藤本満牧師ご挨拶

ご紹介に与り、また歓迎してくださいまして、心から感謝いたします。高津教会の藤本です。今回、インマヌエルの北海道聖会にお招きを受けたことを大変光栄に存じます。

10年前に、北海道クリスチャンセンターで開かれた修養会に招いて頂き、ちょうど5年前に、道庁の前の日本イエスキリスト教団の聖会にお招き頂き、でもインマヌエルから声が掛らぬなぁ(笑)、やっぱり自分の教団から声をかけて頂くほど、光栄なことはないですねぇ。

そして札幌教会が、2004年の9月20日、ちょうど献堂記念の聖日を先週この聖日に持たれたのではないでしょうか?素晴らしく前面が木で、そして白い壁で、北海道らしい教会堂で聖会が持たれ、私のような者が招かれたこと、心から感謝しております。

ああ実に小田先生(司会)は何をされても、スムーズに、こう流れるようにされる先生で、音楽の得意な先生ですから、なおのことそうなのですが、私はちょっと無骨な者ですので、聴きにくい部分もあると思いますが、しばらくみことばに付き合っていただきたいと思います。

☆説教  
説教題「あなたには欠けたところが一つある」(マルコ10:17−27)
 
マルコの福音書の10章の17節から27節までを、新改訳聖書で交読したいと思っています。ちょっと先まで行きますが、27節と言うのは、中途半端でありますが、そこで留めておきたいと思います。交読をいたします。

17節「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか』」。

18節「イエスは彼に言われた。『なぜ、わたしを「尊い」と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません」。

19節「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺きとってはならない。父と母を敬え』」。

20節「すると、その人はイエスに言った。『先生、私はそのようなことをみな、小さい時から守っております』」。

21節「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』」。

22節「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである」。

23節「イエスは、見回して、弟子たちに言われた。『裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう』」。

24節「弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。『子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう』」。

25節「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい」。

26節「弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。『それでは、だれが救われることができるのだろうか』」。

27節「イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです』」。

1)21節をもう一回見てください。
21節「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』」。

財産を捨てなさい、放棄しなさい、手放しなさい。その財産というのは、富める青年にとっては、自分を幸せに安全に囲ってくれる、自分の社会的な立場を保証してくれる象徴ですね。今ある自分・将来の自分を作り出してくれる大切な財産と言うもの。それを捨てて、私に従ってきなさい(と言われるのです)。
      
実はこの「捨てなさい」というテーマは、マルコの福音書の後半全部を覆っています。
マルコの福音書の前半部分というのは、イエスを信じて、イエスを信頼して、イエスに期待してイエスの所に集まって来る。これが中心テーマです。
ところが、その後半に至りますと、一転してトーンが変わります。そして、「捨てる」と言うことばが何回も出て来ます。

ちょっと8章の29節を見て頂きたいと思いますが、8:29に、前半部分、つまり、イエスを信じて、イエスに信頼して、イエスに期待してイエスの所に集まって来る、その前半部分の最終的な締めくくる文章が出て来ます。

8:29「するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか』。ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです』」。
     
キリスト、油注がれた救い主、すべてのカギを握っておられるキリストとして、人々はこのお方を信頼し、このお方に期待し、このお方の所に集まって来た、というのが、もう前半のすべての集約がこの8章29節にあるのです。しかし、人々が興味本位で、イエスさまの回りに集まって来るという傾向もありました。
その中で、真にイエスさまを信頼し、弟子としてイエスさまに従ってくる、この弟子たち、本当の意味でイエスに信頼して来る人たちに対して、イエスさまは後半で「捨てなさい」というこの大きなテーマを持って来られます。
34節をちょっと見て頂きたいと思いますが、

8:34「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、(私に信頼するだけではだめだ。私に期待するだけではだめだ。)自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい』」。

というのが、見事なまでにご自身の十字架の道と重なって、ご自身の十字架の道は31節にありますが(注***人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない)、この31節と重なって、この後半に、自分を捨て、自分の十字架を負い、ついて来る――信頼だけではなくして、捨てるものを捨てて、ついて来るようにイエスさまはおっしゃいました。しかもそこには、「だれでも」とあるように、弟子たちを一旦召されたイエスさまは、ここでもう一度弟子たちを本当の意味で召される、新しいテーマでありました。

@前半の課題は、イエスさまがいかなる方であるかということを、よーく把握することでありました。このお方にいかなる力があるか、このお方が神を、神の愛を顕しておられるのか、そういうことに注意を集中すること。
Aそして、注意を集中したら、イエスさまは私たちにあるチャレンジを投げ掛けて来られる。それが、自分を捨てて、主に従いなさい。(***これが後半の課題)。

この2つはどうしても福音書で外せない2つなのですね。私たちは、イエスさまのもとに来て主を信頼して重荷を下ろします。しかし、マタイの福音書のあの11章でさえ、重荷を降ろした後に、主とくびきをひとつにして、主から学びなさいと書いてありますね。(***マタイ11:29参照)。

・私たちは、礼拝で主に迎えられ、主に赦され、主の恵みに憩います。しかし、次の瞬間、礼拝の場からこの世に世の光として送り出される、派遣される。イエスさまの恵みをこの身で表現しながら、私たちがこの世界で生きることを期待されます。
・私たちは祝されて、恵みを与えられます。しかし、 次の瞬間、私たちは砕かれる。砕かれて、初めて用いられます。
・聖餐式の時に、牧師はパンを取り上げ、「これが主のみからだである」(と言います)。イエスさまは同じように私たちの人生を取り上げ、「あなたはわたしの愛する子だ」と私たちを重んじてくださる。しかし次の瞬間、イエスさまはさまざまな試練を通して私たちを裂き、私たちのいのちを他の人への祝福として渡されていきます。
・私たちはただ信仰によって義とされます。しかし、次の瞬間、自分を捨てて主に従っていきます。

福音書の後半は、イエスさまがおっしゃった「自分を捨てる」ということはどういうことなのだろうということが、延々と書いてあります。自分と言うけど、昔は己(おのれ)と言ったけど、それは何なのだろうか?皆さんは自分のいったい何が問題なのだろうかと考えたことがあります?
                
私はあるとき、教団の何かの委員会で食事をしていた。私の前に座ったK先生が「先生って、みんなから嫌われているんだよ」(笑)。「えっ?」食事の席ですよね、「えっ?」と言ったときに、「先生、知らないの?」(大笑)と言われたのですね。「我が家では妻から藤本禁止令というのが出ているのだ」とおっしゃるのは、私のどこが問題なの!(笑)。そうすると、K先生がおっしゃるのは、「先生ねぇ、自分の問題ってなかなか自分ではわからないんだよ。先生の問題はねぇ、次から次とアイデアを思い浮かべて、それを立ち上げて仕事として創り出す。だから先生のそばにいるといつの間にか何か仕事を押し付けられているようだ。そして藤本は一向に責任を取らずに(笑)、何か風船、アドバルーンだけ立ち上げてそのまま去って行くような傾向が先生にはあるんだよ(大笑)。」

私は実はK先生とは、とても仲良くしていて、先程も携帯にお電話がかかって来て、お孫さんが今日生れたのですね。高津教会ではずっと、お嬢さんが高津教会に来ておられるので、先程生まれたと、それほどの仲良しなのですが。

ただ、人は、自分のことを知らない。いったい、イエスさまは、私たちの何がそんなに問    題だとおっしゃっておられるのか?ちょっと9章を見て頂きたいと思います。9章は十字架の話を聞いた弟子たちの姿なのですが、ちょっと33節と34節をご一緒に読みたいと思います。

9:33「カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。『道で何を論じ合っていたのですか』」。

9:34「彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じあっていたからである」。

イエスさまは十字架に向かって進んでおられるのです。しかし弟子たちは、そのイエスさまの後に付きながら、12人の中でだれが一番偉いかということを延々と論じている。他の福音書(***ルカ22:24)を見ますと、なんと最後の晩餐の席上でもだれが一番偉いかということを話しているのですね。マルコの福音書の10章(***35〜37節)に行きますと、ヤコブとヨハネのお母さんが、(***マタイ20:20〜21)ヤコブとヨハネという息子たちを連れて来て、イエスさまのもとに(ひれ伏して)、「あなたが御国の位につく時に、二人を特別扱いにして、あなたの右と左に座らせてくれ」と(いう意味のお願いをするのですが)、まあ子どもを思う母親の気持ちはよくわかりますよ。だけどそこまでして、子どもたちに栄光の座を与えたいのかと思うような、自我、厄介さが出て来ますよね。

私は、母が長話をする、姉が長話をする、私の人生は、どうしたらその長話を避けられるかという、これを課題として考えつつ生きて来た(笑)。姉と話すときはいつもすでに足が他の方を向いています。他の方向を向いているのですけれども、全然気が付いてくれないで延々と話されるのですが。

割とね、延々と話される人の話を聞いていると、やたらと「私」という主語が多いですね。―――だから僕は言ったんだ。そんなことは僕には分っていた。どうして、君は僕の言うことに耳を傾けなかったんだ。―――偉そうに「僕が僕が」、「私は私は」と延々とこう来ますでしょう。弟子たちは互いにそうだったのですね。霊の世界のど真ん中に座っている「自分」というもの(が、見えます)。

たとえば、今マルコの福音書の9章を開いていますが、9章の今度は38節を見てください。

9:38「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、止めさせました』」。

まあ、これを私たちの教団に例えて言うならば、「一生懸命札幌の駅前で伝道している人を見たけれども、インマヌエルではないので止めさせました」というのと同じですよ(笑)。
自分の仲間という仲間意識、仲間意識が強い事はとっても素晴らしい事です。結束できる。ともに戦い、荷をともに担う、ともに慰め合う。しかし、いつの間にか、その仲間意識が排他的になる場合もある。―――「あなたの名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、止めさせました。」―――イエスさまはとっても、怒られますね。でも自分のいったい何が問題なのか?

あのう、私たち夫婦はとっても仲の良い、愛し合ってる、助け合っている夫婦ですが、血液型から言うと最悪の組み合わせで(笑)、妻はA型で、私はB型なんですよ。皆さんは血液型なんて関係ないと思いでしょうが、私は血液型信奉者(大笑)、そのうち「きよめと血液型」という本を出します(爆笑)。あのねぇ、その方の出身教会を聞くよりも先に血液型を聞いておいた方が身のためなのです。

私は以前そんなことを考えたこともなかった。でもある時、TVで特集していて、一番B型が多いのはどこだと思います?B型が多いのはインドですね。インド人とは付き合えない。ごめんなさい。そんなこと言っちゃいけない。私は短い間、宣教しに行ったのですけれども、自分でカレー食べていて、「日本人って何食べるの?」「日本人って珍しいものを食べるんですよ。ウニだとかイクラだとか」。そういう話をし始めると、「はぁ?」と言って、カレーを食べているのですよね。さっき質問したのは君だろう。こっちが一生懸命答えているのに、君は何の関心もないのね(という感じです)。

女性だとすぐサリーのお店に連れて行かれて、「あなたもインドに来たのだから、サリーの一つも買いなさい。」と、いろんなサリーを見せてくれて、「ところで日本人はどんな洋服を着るの?」と、そして着物の話をするでしょう?すると、次の瞬間、何にも聞いていない。だから、どこまで行ってもカレーはカレーなのですよ。

数年前にケンタッキー・フライド・チキンがインドに入りました。それで私は興味深かったので食べに行った。とうとうケンタッキー・フライド・チキンがインドに入ったか!やっぱりカレー味ですよね(ええっ!)。もうカレーから抜けられないのかと思うぐらい。まあ文化によっていろいろですよね。

今日私は羽田はまだ33度。京急に乗りながら、暑いなぁと思ったその一群は中国人です。もううるさい、うるさい。どうしてこんなにしゃべるのかと思うぐらい、世界で一番身勝手な人種かな?(笑)そう言ってはいけないのですが、私は実はそう思っているのですね。70%がB型ですよ。(へぇー!)ねっ、B型というのは、自分の主張をとうとうと言いながら、最後に「あくまでこれは私の意見ですけどね」と言うのですね。役員会でとうとうと自分の意見を、場をわきまえずにとうとうと言って、最後は「自分の意見ですけど」(と言っておらえるのはご自身のこと?***T・Y)。自分の意見を言う前に周りの雰囲気を感じろ!!(笑)、ほんとに私はB型です(爆笑)。

O型も難しいんですよ。O型の本というのを読んでいましたが、血液型をそれぞれ、血液型の話をしてもしょうがないのですけれども、桃太郎という(昔話の中の人物にあてはめてみて)、桃太郎がA型だったら、もし桃太郎がO型だったら(という血液型診断です)。O型だったら、桃太郎は猿を味方につけ、キジを味方につけ、最終的には鬼が島の鬼も味方につけなきゃ気が済まない。それがO型だと。そして最後は鬼が島で大宴会を開くと、これがO型の人なのだと言うのです。O型の人と一緒にいますとね、もうこれは諦めた方がいいよというのを一緒にするのです(笑)。そしてそれが平和、それが和解、それが慰め、それが…というタイトルで行かれるとですね、これはちょっと、どこの世界にも水と油というものがあるのだから、もう少し考えて頂戴よねと(言いたい)。これはマイナーな問題。

自分のいったい何がそんなに問題なのか?

先日、アメリカのキリスト教雑誌に、こんな話が載っていました。
車が二台、信号を待っていた。信号が青になったのですが、前の車はなかなか動かない。後ろの車に乗っていた女性は、軽くクラクションを鳴らします。それでも動かないんです。
もっとパーって鳴らして、それでも動きません。
     
ようやく信号が黄色になる頃に、あわてて前の車は発進して、なんとか渡り切るのですけれども、彼女は出遅れて、結局もう一度待たされるはめになりました。彼女は窓を開けて、思いっきり去っていく前の車に狂ったように怒鳴りました。車の中で、いきり立って、ハンドルを叩いて、体を揺らして、カンカンに怒っていました。
       
それを見ていたのが、彼女の車の後ろについたパトカーです。パトカーは、赤色灯を照らして、スピーカーで、女性に降りるように言います。

これには、彼女はますますかっか来て、警官にくってかかります。あまりの剣幕で、警官を侮辱したので、侮辱罪で手錠をかけられて、パトカーに乗せられて、警察署にぶち込まれてしまいます。

もちろん、しばらくして釈放されます。カンカンに怒って疲れ切った女性に、警官は謝ります。
「いや、悪かったな。何も逮捕することはなかったと思う。でも一応調べさせてもらったけど、あんたは白だな」。          
「白に決まっているでしょう。私は何もしていない。あの交差点で、私は前の馬鹿な車にはめられただけでしょう」。

すると、警官が言いました。
「そんなことはわかっているよ。俺が疑ったのは、そんなことじゃない。あんたの車のバンパーには、聖書の言葉のステッカーが2つも貼ってあったぞ。よく見たら、車のトランクのところには、キリスト教の魚のマークもあるじゃないか。俺は、単純に、あんたの様子を見て疑ったんだよ。こいつは、クリスチャンじゃない。この車は、盗難車だろうって。それで車から降りてもらっただけだよ」。

私たちもクリスチャンという車を運転しているのですよね。だけど、周囲から見たら、なんであそこまで正当な主張を振りかざすのだろうと。もういいじゃないと(思いますよね)。何を言っても自分の意見を通す。自分がほとんどの場合、正しいと思っている。言われたことは、言い返す。そりゃあ、正しい主張は正しいでしょう。でもそれをどうしてごっくり飲みこめないのか?自分の問題性でありますね。そして、その問題ある自分がどっかりと腰を据えて、あらゆることを考え、祈る。自分の問題性に気が付かなければ、私たちはイエスさまがおっしゃった「自分を捨て」ということばが分からない。

2)21節「あなたには、欠けたところが一つあります」

2番目に10章の21節に戻っていただいて、もう一回ご一緒に読みましょうか。

10:21「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい』」。

イエスさまは非常に奇妙なことをおっしゃる。それが「あなたには、欠けたところが一つある」。富める青年に欠けたことがあるとしたら、それがたった一つであるはずがない。一つであるとしたら、それはとっても奇妙な会話で、欠けたところが一つもないキリストと、人類史上欠けたところが一つしかない青年の会話。この青年には欠けた所が腐るほどある。ただ彼の最大の問題は、自分の欠けを意識していない。

イエスさまは彼に十戒を話されますよね。
19節「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え』」。

20節「すると、その人はイエスに言った。『先生、私はそのようなことをみな、小さい時から守っております』」。

これが彼の最大の問題ですね。あの山上の説教を語られたイエスさまでしたならば、あきれて、彼に迫ることができた。あなたは確かに盗んではいない。しかし嫉妬心をもって他人の物を見るなら、それは盗みに等しい。あなたは人を殺してはいないかもしれない。しかし、他人に激しく怒るなら、それはその人を殺したも同然だ。あなたは姦淫はしていないかもしれない。しかし情欲の目を持って異性を見るなら、それは姦淫に等しい。もう次から次にこの青年に迫ることができたはずですが、イエスさまはそうはおっしゃらなかった。

「あなたには、欠けたところが一つある。」――これがイエスさまのいつくしみです。山ほどある問題を全部引っ剥がして、さらけ出して、「これがお前だ。だからおまえはうまくいかない。だから下の方で信仰がいつまでもうろうろしている。」と、そう主はおっしゃらない。これが私は聖会の憐れみだと思うのですね。聖なる神の御前に立って、聖会を催して、そして欠けた所の指摘をされたら、それはそれは全部引っ剥がして、だからあなたはその程度だと言われるのは、私たち全員です。でもイエスさまはそうはおっしゃらない。

「あなたには欠けた所が一つある。」というのは、沢山ある中から、今一番問題になっている事柄を主は指差す、。一つ指差す――それが主の慈しみですね。そして、一つ指差されたその問題を、私たちがどう受け取るかというのはものすごく難しい。

私が大学4年生の時、まあ、高校2年生の時に献身したいなと思って、大学の進路を考えたのですが、大学の4年生の時にものすごく試されました。当時、就職活動は秋で、秋になりますと、大学中が就職の話で持ち切りです。学生食堂でも、喫茶店でも、その話ばかりです。どちらかといえば、くだらない話で、どこどこの面接では、どんなケーキとお茶が出たとか、どこどこの内定では、いくらの支度金が出たとか、そういう話ばかりですね。

就職活動をしていなかった、つまり神学校に行こうと考えていた私は、話の仲間に入る隙間がない。友達は聞くのです。「おまえはどうするんだ?」。「牧師になる」。すると、必ず返ってくる質問が「そんなんで生活して行けるのか?」。考えると、そういえばうちの両親も牧師だったけど、結構厳しい時もあったなぁ。生活していけないのかもしれないと(正直思いました)。

家庭教師の子どものお父さんが銀行のお偉いさんで「なぁ藤本君、うちの銀行に来ないか?」
と、推薦文書いてやる、紹介してやる。息子がお世話になっているから、といろいろ言ってくれるのですけれども。世界中がそういう風に動いているのか、これまでは自分が大学に入ってからは、自分は献身するんだ、献身するんだとばかり思っていたのですが、世の中の入り口に立った時に、自分が行こうとする道はこんなにマイナーな道なのかなぁと、自分だけ取り残されたような気がしました。

そんなときでした。アフリカのコンゴへ宣教へ行って、そこで殉教の死を遂げたビル・マチェズニーというイギリス人の書いたものを読みました。へたくそな訳なんですけれども、こういう文章なのですね。(お読みします)。

「私だって、朝食はベッドに運ばせて、ハムと卵をお皿にのせ、昼にはステーキを、一日終れば夕食を――そんなことを考える。

私だって、近代的な家に住み、各々の部屋に電話を置き、(1930年ぐらいです)、柔らかな絨毯を敷き詰めて、きれいなカーテンを床まで届かせ、愛らしい部屋を用意して、体が沈むソファーを置いて、小さなベッドを隅にすえ――私だって、そんなことを考える。

私だって、くつろいで一流のガウンを身にまとい、出かけるときには、流れるようなスーツをさっそうと身にまとい、クリスチャンが、最上のものを手にして何が悪いというのです。――私だって、そんなことを考える。

そのとき、我が主よ。私はあなたの声を聞く。
『我に従え。我に従え』。柔和で、謙虚なガリラヤのイエスのささやく声を耳もとで。
空の鳥も巣を造り、野原の狐も穴にすむ、しかし、わたしイエスには、枕する床もない」。

マッチェズニーは続けます。

「その声を聞いたとき、恥しさの余りで顔を覆い、涙と共に悔い改めた。
十字架にかかられた救い主、彼が40日40夜、荒野を何も食べずに、飲まずにさまよったとき、自分は何をしていたのだろう。

彼が十字架の上で、息をすることすら苦しい痛みの中で、息を吐くようにおっしゃた言葉、『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか分からないのです』。ああ、自分は、あのとき何処にいたのだろう。
『我に従え。我に従え』。柔和で、謙虚なガリラヤのイエスがささやく声が耳元で」。

マッチェズニーは、私たちがそうした洋服を、そうした家を持つべきではないと言っているのではありません。
事実彼は、そういう洋服を着ている人に支えられて、アフリカまで宣教に来ることができた。そういう素晴らしい家に住んでいる人たちの沢山の献金を頂いて、彼は宣教に来ることができたのです。
そして、彼を支えてきた人々は、彼に劣らぬ、清い神の子どもたちでした。
        
しかし、主がもし「あなたには欠けたところが一つある」 ――そうおっしゃって、指さされたら、アフリカのコンゴにいようが、ロンドンの大邸宅にいようが、その一つのことを捨てずして、主に従うことができないのです。
              
私は、マッチェズニーのように奮い立って献身しました。自分の将来を忘れて、主に従いました。そして、その後も、主は、「一つ、また一つ」と私が捨てるべきものを、私に欠けているものを指摘してくださる。

ところが、最近の自分にはますます問題を感じる。単純に言いますと、大学生の時にあれほどきっぱり潔く捨てられた、自分の将来の計画という何かこの大きな大きなことがら、それをいつも簡単にきっぱりと捨てられたのに、今の自分は小さな事にこだわる。
自分の説教のやり方、自分の牧会者としての姿勢。後身の指導にあたると言いますと、福田先生に怒られますけれども、神学校で教えながら、私は最近いつもこの話をするのですけれども、最近神学生に厳しくなりすぎていて、どんどん厳しくなる。
最初29歳で神学院の教師になった頃は、こんなに優しくいい加減な先生はいないんじゃないかと思うぐらい、私は優しかったと思うのですよ。ところが家に帰って漏らすことは、「最近の神学生ってどうしてああなんだろう?今の若い神学生はどうなっているんだ。あんなんで牧師としてやって行けるのだろうか?」と言って家内に言うと、家内が言うことばは「大丈夫よ、あんたもあんなんだったんだから」(大笑)。

あんなんだったんだから――ところが年齢が行きますとね、その若いころの自分の幼さ、できなさ、それが見えるようになってくる。私が思いますに、20代の方がはるかに大きなことをきっぱり捨てたのに、50代になってから、はるかに小さなことをなかなか捨てられない。そして開き直る。「どうせ俺はB型だ」と言ってね(笑)。これはねぇ、謙虚じゃないですよ。あたかも自分の教会を自分が背負って立っているかのように、そしてさまざまな意見がある中、教会を上手にまとめてるかのように、でかい面をする牧師というのは、自分ではうすうす気付いていながら、なかなかそこから解放されない。

福田先生のように、「釧路の穴を埋めてくれ」と、「先生2週間で荷物まとめてね」って平気で言ってしまう自分。(ご自身で笑って)もう福田先生は嵐が心の中を吹きぬける(笑)、長崎出身ですから(ああ)。島田先生もあの暑い、火(肥)の国、熊本出身が函館ですものね。それに「行ってください」と言わなければいけない、その自分の何とも言えない傲慢さ。それに引き換え、「主の用なり」と、一つ返事で出かけて行く、若い先生方の潔さ。まあ、もちろん、年配の先生方がみんな私のようだと言っているのではないです。

だけど、申し上げたいことは、一つのことが欠けていると言われて、それから始まってイエスさまは次から次へと一つのことを指摘される。聖会の度に何か指摘されている。それで、だんだん捨てにくくなって行く、私たちのこの人間の難しさですね。

さて一つと言って指摘されて、しかしながらどうしても執着して、それが捨てられないがゆえに、イエスさまについて行くことを止めて行く、富める青年にとっての一つは、財産でした。イエスさまも、その捨てることのむずかしさを認めておられますよね。(マルコ10章)22節をちょっと読んで行きますね。

22節「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである」。

23節「イエスは、見回して、弟子たちに言われた。『裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう』」。

イエスさまも、その難しさを認めておられます。イエスさまが捨てなさいとおっしゃった要求があまりにも核心を突いていて、それはそれは難しい要求だったわけですね。そうなりますと、問題はやっぱり26節に行くと思うのです。

26節「弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。『それでは、だれが救われることができるのだろうか』」。
  
まあ、少し言い方を変えると、「だれが捨てることができるでしょうか?」ですね。イエスさま、そもそもあなたの要求が厳しすぎません?あなたは私たちに従えとおっしゃったときに、財産を捨てろとか、家を捨てろとかおっしゃらなかったじゃないですか。でもこの青年には、その一つのことと言って、それをもうキューっと指差される。他の選択肢をお与えにならない。「これが捨てられないんだったら、じゃこっちを捨てたら」とはイエスさまはおっしゃらない。

「これをあなたは捨ててほしい」と、この問題に対する執着、人が許せなかったり、あの人物の顔を見ただけで背を向けて他の方向に行く(笑)とか、父親が許せないという場合もあるでしょうし、聖会の度ごとに昔の失敗が頭をよぎるとか、人に裏切られた体験が頭を巡るとか、何度何度聖会に出てもその問題が頭を巡る。そしてイエスさまは変わらずに、この一つ、この一つ(と指差される)。そういうことが私たちの信仰生涯の中にはある。すると、最後は弟子たちと同じように、「イエスさま、そんなことをいったい、だれがそれを捨てて従えるでしょうか?」(と言うでしょう)。すると、イエスさまは、これで最後のポイントになりますが、何とおっしゃったのか?

3)「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」(27節)

27節「イエスは、彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです』」。

「イエスは、彼らをじっと見て言われた。-----」――これがいいですね。21節を見てください。「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。-----」――これと同じような表現ですね。

27節「イエスは、彼らをじっと見て(***いつくしんで)言われた。『それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです』」。

このことばにすべての望みがあり、きよめられることのカギがある。きよめられたいと願いながら、私は弱い、私は足りない、私にはできない、私は意志が弱い、私はあの人のようではない、私は忘れられない、私は捨てられない、私は癒されない…… と嘆く。結局、きよめられることを求めて、最後「私」に帰って行く。するとイエスさまは、「わたしを仰ぎなさい。それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも神にはできるのです」。

所詮、弟子たちにしても、富める青年にしても、私たちにしても、自分を捨てるなんてことはできない。しかし、神の恵みの力は、私たちの不可能を可能にする。そして、イエスさまがおっしゃった27節の前半のことば、「それは人にはできないことです。」と、(後半)「しかし、神にはそうではありません。」の、「人にはできない」ということばと「神にはできる」ということばの、この二つを対局するとしたら、どちらが難しいか?

私はクリスチャン・ホームに育ちましたから、神にはおできになるということを信じることはあまり難しくはない。私は全知全能なる神さまはいかなることでもできると、割と素直に言える。でも自分の人生を振り返って考えてみると、「それは人にはできない」ということが私にはよくわかっていない。

いつも私の頭の中には、「それくらいできていいんじゃない?」という、(笑)そっちです。あれもこれも大変で、「いや男で家族を養っているのなら、それくらいできて当然じゃない?」、会社でこうで、ああで、「会社何年務めているの?何年社会人やってるの?30年選手だったら、それくらいのことできて当然じゃない?」これが問題。信仰生活も、私さっき申し上げました。若い時はあれほどきっぱり捨てられたのに、大人になるとなかなか捨てられないと。なぜかと言えば、上に行けば上に行くほどですね、自分はこれくらいできるだろう。神学校があって、葬式2回やって、研究発表があって礼拝がある、それくらい行けるだろう。すぐ自分の頭の中でシュミレーションして、どこまでだったら行けるか、どこまでだったら行けないかと。それで霊的な信仰にかかわる仕事をこなそうとしている自分が一番厄介です。

そもそも講壇に立って皆さんにお話しすることは、「それは人にはできないことですが、神はそうではありません」。「それは人にはできないことですが」という遜りの心がない限り、神の力は私たちの人生には及ばない。「私にはできない」、この自覚があって初めて私たちは主を仰ぐ。すると主はご自身の主権的な力をもって、私たちが何かをしていることができるようにしてくださる。私たちが「私には無理」という、この「私」に執着している限り、私たちは一向に捨てられないのです。

ヨゼフ・ツンという、ルーマニアの共産政権の中で生き残った、バプテストの牧師がいます。彼の教会は、ルーマニアで中心的な教会で、大きな千人規模の人間が集う、バプテストの教会です。ルーマニアの教会指導者と言っていいですね。チャウシェスク政権のもとで、さまざまな政府批判の発言をして、国家警察から目を付けられる。ついに逮捕されます。

ツンに対する警察の尋問が始まります。逮捕と言っても月曜から土曜日まで彼を逮捕して監禁して、(一日7時間)尋問して、日曜日には彼を帰す。そして礼拝の説教をさせてあげる。単純にルーマニアの警察政権が狙っていたことは、彼を精神的につぶしてしまうことです。

それが数週間続いたある日、ツン先生は耐えられなくなって、自分の書斎で泣き崩れて、「神さま、もうこれ以上、私には担うことができません」。
祈りの中で主の十字架が示されるのですね。そして、「あなたも自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしについて来なさい。」という主のことばが彼のたましいに響いて来る。

ツン先生は祈りました。「主よ、まさか、あなたは私にあの警察の尋問を受け入れよ、とおっしゃるのではないですよね」。「そうだ。それを受け入れなさい」。

ツン先生は戸惑いました。苦しみました。それはできない、それは無理です、できない、という自覚です。

その果てに彼は、主に願いました。「私にはできません。しかしもしそれがあなたのみこころなら、今まで私が味わったことがないような、あなたのみわざを私の心の内になしてください。あなたにはできるのですから」。

ツン先生は次の日、同じように呼び出されます。先生は、姿勢を正して尋問に向かいます。
昨日までと打って変って、勇気をもって臨んだ彼を警察はおどします。
「このままでは、おまえは処刑だぞ」。

すると、彼の口は、こう言っていた。
「わかりました。処刑というのがあなたがたの最終兵器ですね。何でも難しくなると、あなたがたはいつも人を処刑するという、最終兵器に訴える。しかし、私にも最終兵器はあるのです。あなたがたがそれを使うというのなら、私もそれを使います」。

「何言っているのだ。おまえの言う、最終兵器とは何だ」。
「あなたがたの最終兵器が処刑だとすれば、私の最終兵器は、殉教です。このいのちを投げ出すことです。私は死んだとしても、天国に行けるのですから、益になります。
しかし、その時点から、あなたがたは大変な問題を抱えるようになる。わかりますか。私が死ぬことによって、私のこれまでの説教を収録したテープ、私が書いてきた書物、すべてに殉教者の血が、降りかけられるのです。その血が降りかけられると、テープも書物もさらに力を得て、問題は今よりさらに大きくなるでしょう。死ぬことこそ、私の最終兵器です」。

もちろん警察は、正気の沙汰とは思えないこの発言に、一歩引いて彼を釈放します。
ツン先生は、こう述べています。
「自分のいのちを救うために、あらゆる綱にしがみついて いたときには、私は崖っぷちに立っていました。しかし、綱を掴む手をゆるめ、このいのちを全くキリストの御手に委ねたとき、私は真の自由を得ました」。

ツン先生の働きは私たちとは比べ物にならない。でも原理原則は同じでしょうね。このことが忘れられない、このことが許せない、このこと、この人、この問題、それらをいかにまとめるか、あらゆる手を使って、自分にはこれぐらいのことできるはずだと思いながら生きている間は、私たちはあくまでも崖っぷちに立っているにすぎない。

欠けた所が一つあると言われて、そのたった一つでさえ捨てることができない富める青年。そんな厳しい要求を出したならば、イエスさま、いったいだれが捨てることができるでしょうか、と言う弟子たちに、イエスさまはいつくしみの目をもっておっしゃった。

「それは人にはできないことですが、神はそうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」。(マルコ10:27)

このみことばに、私たちのきよめはかかっている。おおよそ、聖くない私たちは、聖なる神の御前に聖く生きようと思ったら、このことば以外に私たちが頼りとするものはない。主よ。どうか、一つでも、一歩でも、あなたに示されたことを捨てて、あなたのみそば近くを歩む者とならせてくださいというのが、今晩の私たちの祈りです。

☆終わりのお祈り
恵み深い天の父なる神さま、秋の静けさの漂うこの札幌の夕べ、遠くから近くからあなたの恵みを慕い求めて、この場に集まってまいりました。あなたはあなたの恵みを慕うものを優しく迎えてくださり、しかし同時に私たちの信頼と期待があるがゆえに、私たちの問題の一つに指を当て、その問題を明け渡すようにおっしゃったときに、どうか、それができない、それは無理だと言わずに、もしそれができるとしたならば、今までなかったようなあなたのみわざを私の心の中になしてください(と祈れますように)。
どうか私の心の中に、聖霊の息吹を吹きかけ、私の疑いを吹き消し、私の足りなさを覆ってくださり、あなたのみこころに沿うように、一歩踏み出すことができますようにと、今ここに座しているおひとりおひとりはあなたに向かって目を上げています。どうかその思いが真実であるならば、それをなしてください。主イエス・キリストの聖名によってお祈り致します。アーメン。

☆小田先生(恵庭教会牧師)による導きと聖会T終会のお祈り

締めくくりのひととき、神さまの御前に心を沈め、またひとりひとりにふさわしく、自分でなければ分からないメッセージを受け止めておられると思います。短くお祈りの席を持ちましょう。皆で祈りたいと思います。が、人の祈りに任せたような祈りではなく、自分のたましいの声で、ことばで、イエスさまの声を聞いたメッセージに応答致しましょう。どう応答していいか分からない方もいらっしゃるかもしれませんが、お分かりの方は、ぜひ示されたことを告白し、そしておことばを信仰をもって受けとめようではありませんか。またはっきり分からない方にも、聖霊はその人にふさわしく教えてくださることを祈ります。如何でしょうか、しばらく一緒にお祈りしませんか?聖書のおことばを読んでからお祈りしましょうか。(ご一緒に先程の27節を読む)。信じましょう、委ねましょう、受けとめましょう。今座っているところは居心地がいいかもしれない。一歩踏み出すことは決して居心地が良くない。しかしそれは信仰の踏み出しです。紅海が二つに分かれるはずです。それではご一緒にお祈りしましょう。アーメン。

(めいめいのお祈りを一緒にした後で)
天のお父様、幸いなみことばのゆえに感謝します。みことばを語るために器を用いてくださったことを感謝致します。
できないのではない。神にはどんなことでもできますと約束を感謝を致します。何よりも、自分自身を、主よ、あなたの御前に捨ててお従いしていくことができるというこの大きなお約束を感謝致します。
みことばによって、慰められ、強められ、励まされただけでなく、今立ち上がって一歩踏み出すことができますように、具体的に捨てることができますように。できますように、神はできますから、主よ、みことばによって捨てることができますように、助け導いてください。
先生のご奉仕に、主よ、豊かに報いてください。また明日の集会のために、一層の期待とまた主による祝福を受ける時としてください。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン。

321番を歌いたいと思います。321番は、♪我に来たれ きよくせんとの 優しきみ声を われは聞けり 主よ我は 今ぞ行く 十字架の血にて きよめたまえ♪ 私はこの歌を歌いたいと示されていた時に、できたら立って歌いたいと思ったのですが、皆さん立ちましょうでは、ひとりひとりの気持ちが無くなってしまって、みんながやるんだからということになってしまうので、大変いいかどうか分からないのですけれど、立ちたい人は立って歌ったらどうだろうか、イエスさまについていくという自分の信仰の表現として、まあ今回のテーマでもあるのですけれども、自分を捨ててイエスさまについて行きますという信仰を、イエスさまに向かって表明する、人に向かってではないのですね。ですからむずかしいことですけれども、イエスさまに向かって表明する、そういう気持ちで立つのはどうかと思うのです。ただし、皆で立ちましょうではなく、自分は立ちたい、でも座っていることも別に何も悪い事ではありませんから、お座りのままで歌ってくださってもかまいません。でも一歩表明すると言うことは、できたら恵みの座を開きたいぐらいですけれども、しかし信仰がここにあるのではないでしょうか?人のために立つのでなく、まあ時には家族のために、何となく気恥ずかしくもなるでしょうが、「主よ、我は今」というのはふさわしいですね。ま、そんな気持ちでおります。(笑)皆さまにご判断をお委ね致します。ちょっと難しい判断かもしれませんが。どうでしょう、賛成?、賛成反対は関係ありませんが…(笑)。伴奏お願いいたします。(小田先生に従って殆ど全員立って歌う)。