題 名: 6/3怒りを委ねる 詩篇109:1〜10, 21〜31 |
氏 名: T・Y |
作成日時: 2012.06.04 - 22:36 |
6/3怒りを委ねる 詩篇109:1〜10, 21〜31 ☆お知らせ ●来週の礼拝、藤本牧師は日本伝道隊の岡山・相生での聖会で不在になります。代わりに黒川先生が礼拝説教をしてくださいます。 実は昨年2011年というのは、内村鑑三の生誕150年でした。日本のキリスト教会を語る上で、内村鑑三を抜きに語ることはできませんが、黒川先生は「内村鑑三と再臨運動」という本を今年の春、教文館から出版されました。 是非そのことも含めて、再臨のこと、内村鑑三のことを礼拝でお話くださいということを、快く引き受けてくださいました。6月と7月で連続2回、先生がお話してくださいますので、ぜひ期待してお出でいただきたいと思います。 当日、書籍も少し割引きで販売できると思いますが、日本の教会を考えたときに外すことのできない新しい歴史を、黒川先生は奥さまと一緒にいろいろ訪ね歩いて収集したり、写真も沢山載っていますので、ぜひお買い求めいただければと思います。 来週フェロシップがあります。フェロシップの時にも、少しその本を絡めて内村鑑三の話をしてください、という交渉をこれからするのですけれども(笑)、多分してくださいますでしょう。 ●第60回林間聖会、今年も箱根(富士箱根ランド)で行われます。7/31(火)〜8/2(木)、いろいろ案内をお送りしますけれども、是非まだ一度も行ったことがないという方はお越しいただきたいと思います。今年はナザレン教団の福江等先生をお迎えしております。 ●ラブローフは、年に4回募金箱を回収し、今までワールドビジョンを通じて、発展途上国のために捧げて来ました。今回は下作延の小学生の女の子の心臓移植のための募金とします。渡米したからと言って、手術が受けられる訳ではない。1カ月ぐらい待って、その間にドナーが現れなければ、渡米した意味もない。いろんなことが重なりますけれども、お祈りに覚えてお捧げください。いつもの東日本大震災の箱に入れてくださったものもそちらの女の子にお渡ししたいと思います。 ●内郷教会の金成先生から、今年の被災地支援活動のニュースレターが届いています。掲示板にもありますが、窪倉兄が印刷してくださいました。オリーブのコンサートやマッサージの写真も出ております。ロビーにありますので、是非被災地を覚えていただくためにお持ちください。 ●先週ご案内致しました、日本聾唖学校のチャリティー映画会「アメイジング・グレイス」が、6月15日の金曜日に、場所は日比谷公会堂で開かれます(夕方6時20分開演、5時50分会場)。 イギリスの奴隷貿易廃止法案をイギリス議会で通過させるために奔走したウィリアム・ウィルバーフォースという人物の物語で、讃美歌「アメイジング・グレイス」を作詞したジョン・ニュートンも背景に存在していますが、とても良い映画です。 指定席2000円、自由席1600円の券を加藤兄が持って来ておられますので、今日礼拝の後、ロビーで販売致します。 ●春に特伝のコンサートをしてくださいました浜田兄、今日礼拝に来ておられますけれども、7/1(日)にすみだトリフォニーホールでバッハの『マタイ受難曲』の演奏会があります。券は浜田兄か教会の牧師の方で手配できますので、『マタイ受難曲』を一回も聞いたことのない方、ぜひお求めください。ご案内は後ろの掲示板に貼ってあります。 演奏を担ってくださる東京バロック・スコラーズですが、12月にクリスマス・オラトリオを高津教会を舞台に行います。70人規模の合唱団ですから、これはちょっと難しいです。 ちょうどアドベントに入った時期の土曜日に、例えば1時半からと3時半からの2回に分けた公演でやっていただくようになると思います。来るのは私たちだけではなくて、相当な規模で来ますので、ぜひこれも楽しみにしていただきたいと思います。 ●「天の窓」が今日(週報に)挟まれています。「天の窓」というのは、「(新)天の窓 あらたな門出」です。いろいろ協力してくださる方々を本当に心から感謝しております。編集委員の方々、特に最後まとめてくださったのは田中兄ですけれども、本当に感謝致します。 ☆始めのお祈り 幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。(文語訳マタイ5章3節)***この日の交読個所は新改訳で1〜16節 恵み深い天の父なる神さま、あなたによってこの年も5月まで支えられ、今日は愛する兄弟姉妹とともに、6月の第一の聖日を迎えることができた恵みを心から感謝致します。 どうか今日礼拝にいらっしゃれない、お仕事をしておられる方、体に不自由を覚えて、あるいは心に苦しみを抱きながら、あるいは老いの不自由さを抱えながら礼拝にいらっしゃることのできない方にも、あなたが等しく憐れみを注いでくださり、その場が礼拝の場となり、ともに祈りをささげる恵みを加えてください。 少し気温の変動もあり、やがて蒸し暑い梅雨がやってまいります。どうか私たちの健康を支えてください。この不自由を感じる肉体、疲れやすい身体を抱えて、私たちは日々さまざまな問題と通しております。心を支えてください。そして何よりも信仰の力を私たちに与えてくださり、私たちの背後には私たちのすべての問題を知っておられ、私たちを愛してくださり、その全能の力をもって私たちを助けてくださるあなたを覚えることができるように、そのために特別に礼拝のときを私たちに祝福をもって満たしてください。 週報にさまざまな祈りと願いが記されていますが、あなたが聞き届けてくださいますように。私たちは会ったことはありません。しかし、高津区の女の子が心臓移植のため、今一生懸命募金を募っています。どうかその働きを担っている者たちがが支えられますように。また女の子の健康が支えられ、無事渡米し、待っている期間、手術、回復期と、長い長い道のりでありますけれども、あなたがお守りください。そして、支える者たちの励ましとして、この女の子を輝かせていてください。 被災地の教会も今日もお守りください。私たちの教会を通して、あるいは私たちの教会員を通して、さまざまになされる伝道の働き、音楽の働き、それらすべてをあなたが御手に握りしめて用いてください。 しばらくみことばに耳を傾けます。私たちの心にあなたのメッセージを届けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。 ☆聖書個所 詩篇109:1〜10、21〜31 1私の賛美する神よ。 黙っていないでください。 2彼らは邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き、 偽りの舌をもって、私に語ったからです。 3彼らはまた、憎しみのことばで私を取り囲み、 ゆえもなく私と戦いました。 4彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。 私は祈るばかりです。 5彼らは、善にかえて悪を、 私の愛にかえて憎しみを、私に報いました。 6どうか、悪者を彼に遣わしてください。 なじる者が彼の右に立つようにしてください。 7彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、 その祈りが罪となりますように。 8彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、 9その子らはみなしごとなり、 彼の妻はやもめとなりますように。 10彼の子らは、さまよい歩いて、 物ごいをしますように。 その荒れ果てた家から離れて、 物ごいをしますように。 ***** ***** 21しかし、私の主、神よ。 どうかあなたは、御名のために 私に優しくしてください。 あなたの恵みは、まことに深いのですから、 私を救い出してください。 22私は悩み、そして貧しく、 私の心は、私のうちで傷ついています。 23私は、伸びていく夕日の影のように去り行き、 いなごのように振り払われます。 24私のひざは、断食のためによろけ、 私の肉は脂肪がなく、やせ衰えています。 25私はまた、彼らのそしりとなり、 彼らは私を見て、その頭を振ります。 26わが神、主よ。私を助けてください。 あなたの恵みによって、私を救ってください。 27こうして、これがあなたの手であること、 主よ、あなたがそれをなされたことを 彼らが知りますように。 28彼らはのろいましょう。 しかし、あなたは祝福してくださいます。 彼らは立ち上がると、恥を見ます。 しかしあなたのしもべは喜びます。 29私をなじる者が侮辱をこうむり、 おのれの恥を上着として着ますように。 30私は、この口をもって、大いに主に感謝します。 私は多くの人々の真ん中で、賛美します。 31主は貧しい者の右に立ち、 死刑を宣告する者たちから、 彼を救われるからです。 ☆説教 怒りをゆだねる 数日前に、TVでミャンマーの非暴力民主化指導者、アウンサン・スーチーさんが講演しておられるのを見ました。講演場所はタイと書いてあったので、ああようやく国外へ出ることが許されたという、何とも言えない感動の思いで私は見ていました。 20年以上自宅軟禁で、たびたび自宅前で塀越しに演説する姿を、私たちは見て来ましたけれども、スーチーさんが海外に出ることができたのは24年ぶりだそうです。 ご主人は彼女がオックスフォード大学で学んでいた時の後輩で、確かチベット研究か何かの専門家、イギリス人です。がんを患い、やがて亡くなるのですけれども、ご主人は最後まで入国が許されない。スーチーさんが出国すれば、絶対に再入国はあり得ない。そうなると、ミャンマーの民主化運動は途絶えてしまうということで、このご夫妻は最後まで再会することはできませんでした。彼女がいつも頭にしている白い花の髪飾りは、ご主人からのプレゼントでした。 1991年にノーベル平和賞を受けた時、もちろん受賞式には出席できませんでしたけれども、ニュースではスーチーさんは今月、ノルウェーを訪問して、改めて受賞できなかったノーベル平和賞の受賞講演をされると(TVの報道で)言っていました。 美しい人だと思います。その美しさは容姿ではなく、正義の怒りに燃えた(強さから来る)美しさです。とても潔い方だと思いますけれども、しかしこの軍事政権の悪に対する怒りを内に秘めたまま、あれだけ熱く清らかなことばを発することのできる方というのは難しいと思います。 そういう美しさを、キリスト教世界では、たとえば、公民権運動の指導者キング牧師にも見ましたし、あるいは同じクリスチャンの、拉致被害問題と戦う横田早紀江さんにも私たちは見ました。 美しく怒ることができる人たち。その怒りは、悶々としていながら、堂々としている。内に熱く燃えていながら、暴力的に暴発しない。 今朝は、「神の人モーセ」のシリーズを少し中断して、怒りの感情について詩篇から見てみたいと思います。 今日読んでいただきました109篇、ちょっと長いですが、このダビデの詩篇は、礼拝の交読には絶対に使われないものです。 それは、ダビデの怒り、憤りが、非常に熱くストレートに発せられているからです。それは、一見しますと、イエスさまが山上の垂訓でおっしゃった「敵を愛しなさい」と言う教えと全く逆のようにも思えます。 しかし、人生の、あるいは人間社会のある状況下で、私たちにとって、109篇に表れているようなダビデの怒りの詩篇が逆に慰めとなり、ダビデの憤りの詩篇が逆に私たちの力になるということを、今日は覚えていたただきたいと思います。 怒りは、神さまが私たちに与えてくださった感情であることに間違いありません。聖書の中には、神の怒りという表現が、356回出てきます。 神殿で商売をし、私利私欲をむき出しにしていた人々に、怒りをぶつけられたイエスさまは、4つの福音書全部に包み隠さず記されています。 私たちの怒りという感情が、罪の故に歪んでいたとしても、それでも怒ることは喜ぶことと同じように、正当な人間の感情です。怒らない人はいない。そんなことを考えながら、怒りという感情について、少し詳しく見てみましょう。 1)怒りという感情が問題になる場合が多々ある。 たとえば、怒りの背景に、自分の欲望があり、自分の思いがあり、自分のエゴがあり、自分のこだわりがある場合、怒りの感情は往々にして問題になります。聖書の中にいくらでも出て来ます。 たとえば、旧約聖書のアハブという王さまは(***T列王16:30)、自分の宮殿のすぐそばに、ナボテという人の立派なブドウ園がありました。それを王宮から毎日眺めながら、それをぞっこん惚れこんでしまったのです。アハブはそれを自分に譲ってくれと交渉します。ところが、ナボテは、旧約聖書の律法通りに、先祖から受け継いだ土地を王さまであっても私は譲ることはできないと断ります。(***同21:1〜3) アハブはものすごく不機嫌になります。聖書には、「激しく怒った」と記されています(***同21:4)。彼はベッドでふて寝をして、顔をそむけて、食事も断ります。そして悪妻イゼベルの助けを借りて、ナボテを殺してそのブドウ園を取り上げます。 そういう人物もいれば、ヨナのように、神さまの命令で、自分がしたくない預言をしながら、人々が悔い改めて神さまに立ち返って、神さまの裁きがとどめられた(***ヨナ3:10)時に、敵国ニネベが回心し、その裁きを免れたことに不機嫌になって、憤りを感じる預言者もいるわけです。 なぜアハブは怒ったのか?なぜヨナはそれほど不機嫌になったのか?それは、自分の思いが通らないからです。 私たちは自分たちの子どもであったとしても、時には自分たちの配偶者であったとしても、自分たちの思い通りに動いてほしい、自分たちの願うようになってほしいと思います。 結果、その計画が叶わないない時に、恐らく怒りの80%はこれに当たると思いますが、私たちは裏切られ、そして同時に怒りの感情を持ちます。 あるいは、怒るのに正当な理由があったとしても、どのように怒るかで問題にされているのがダビデです。 彼が、サウルのもとを逃げて、ダビデを慕う仲間と一緒に荒野を逃げ回っていた時に、かつて自分が世話をしたことがあるナバルを思い出し、この逃亡期間、自分のことを助けてくれるに違いないと思って、ナバルの所に自分の部下を送ります。 ナバルは、ダビデのことをコケにして、最近主人の所から脱走する奴隷が増えているそうじゃないか、そんな奴隷の面倒を見る気はさらさらないと馬鹿にします。(***Tサムエル25:9〜11) そのとき、普段、寛容なダビデが逆上します。これはちょっと聖書を開いてみましょう。Tサムエルの25章の13節です。25章の9節からちょっと長いですが、読んで行きます。 9ダビデの若者たちは行って、言われたとおりのことをダビデの名によってナバルに告げ、答えを待った。 10ナバルはダビデの家来たちに答えて言った。「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている。 11私のパンと私の水、それに羊の毛の刈り取りの祝いのためにほふったこの肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」 かつてナバルはダビデの世話になっているのです。でも今はこういう態度です。その報告を聞いた時に、 13ダビデが部下に「めいめい自分の剣を身につけよ」と命じたので、みな剣を身につけた。ダビデも剣を身につけた。四百人ほどの者がダビデについて上って行き、……」 とあるのは、ダビデはナバルを一網打尽にしてしまおう、という憤りに燃えて上って行く訳ですね。 幸い、ナバルの妻、賢いアビガイルという人物が、事の次第を知ってやってくるダビデを迎えて説得します。その説得が31節、これはご一緒に読んでみたいと思います。 31むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人さまの心の妨げとなりませんように。主がご主人さまをしあわせにされたなら、このはしためを思い出してください。」 と言って、復讐に燃えるダビデをなだめるのです。理由はもっともなのです。しかし、その憤りをどう発揮するかで、アビガイルは、ご主人さまの心のつまずきとなり、妨げになるのではないでしょうか、ということをダビデに言っているのです。 復讐に燃える怒り、たとえそれが正当なものであったとしても、恨みをはらすために、相手に向かって爆発したときに、それは罪深い怒りになる。 2)ダビデは怒りをどのように対処したのか ダビデの109篇の詩篇に戻っていただいて、見てみましょう。ダビデの怒りがどれほど激しいものであったか、よくわかると思います。ちょっと6節から10節までざぁっと読んで行きます。ダビデを馬鹿にし、ダビデを追い詰めた人物のことを、ダビデは(神に)こう訴えます。 6どうか、悪者を彼に遣わして下さい。 なじる者が彼の右に立つようにしてください。 7彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、 その祈りが罪となりますように。 8彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、 9その子らはみなしごとなり、 彼の妻はやもめとなりますように。 10彼の子らは、さまよい歩いて、 物ごいをしますように。 その荒れ果てた家から離れて、 物ごいをしますように。 強烈です。つまりダビデは、私を貶めた人は早死にしますように(笑)、誰かやって来て、彼の仕事をその人物から取ってしまいますように、彼の子孫はみなしごになりますように、彼の妻はやもめになりますように、その子どもたちは乞食になりますように、と言って(呪って)います。 彼の詩篇で言っていることは、その人物だけを神さま、さばいてくださいというだけでなく、その家そのものをさばいてくださいという、ものすごい怒りが彼の内側に燃えているということがよくわかります。怒りが激しいのは、彼が受けた傷が深かったからです。実に深かったからです。 16それは、彼が愛のわざを行うことに心を留めず、 むしろ、悩む者、貧しい人、 心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとしたからです。 その彼が誰なのかはどこにも記されてはいません。しかし、「愛を行うことをせず、むしろ、悩む者、貧しい人、心ひしがれた者を追いつめ、殺そうと」する――主よ、どうか、この軍事政権を裁いてください。主よ、どうか、北朝鮮の独裁体制を崩してください。そのためにはあの国で内乱が起きてもかまいません。主よ、どうか、あの国を何とかしてください――と、私たちが今祈るのと同じです。つまり、あなたが行動を起こしてくださらない限り、犠牲者は増えるばかりです、と(神さまに窮状を訴えているのです)。 ダビデには力も権力もありました。人脈もありました。軍隊も持っています。しかし、彼は復讐には出ません。傷ついた一人の人物として、彼は神さまに訴えます。ですから、1節にはこう始まります。 1私の賛美する神よ。 黙っていないでください。 この事態にあって、黙っていないでください。そして彼は、 4彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。 私は祈るばかりです。 ということは、彼は復讐はしないけれども、ひたすら祈る。神に復讐を祈る。怒りに満ちた苛立つ心が神さまに向いたとすれば、それは必ず正しい解決へと導かれていきます。怒りの中で祈り始めたならば、その怒りが暴走することはないでしょう。 いきなり、赦しなさいとは、話は一直線にはいきません。それほど深い傷を、ダビデは受けたのです。でも22〜24節を見ていただきますと、 22私は悩み、そして貧しく、 私の心は、私のうちで傷ついています。 23私は、伸びていく夕日の影のように去り行き、 いなごのように振り払われます。 24私のひざは、断食のためによろけ、 私の肉は脂肪がなく、やせ衰えています。 心身ともに傷つき、しかし彼は断食をする。自分の憤りを神さまのもとへ持って行き、そして祈り、断食をするのです。それは、ある意味で、心を静めて、熱くなる自分を制しているように見えます。 ちょうど、バレーボールでもバスケットでも、選手が動揺して、上手にプレーしていない時に、監督はタイムを取ります。少し落ち着いて、気持ちの切り替えをしますでしょう。 ダビデは自分の心と語ったに違いありません――自分はこの出来事で何を求めているのか、自分は正義なのか、それともエゴイズムのかたまりなのか、和解できる可能性があるのか、自分は復讐を求めているのか、自分にも同じような落ち度はないのか、罪はないのか、イエスさまならどんな行動をとられるか。 タイムを取って、少し考えてみるわけです。ダビデは自分の苛立つ心を神さまのところへ持って行った――自分の苛立つ心を制して、ダビデは祈った。 3)彼は、自分の持っている憤り、怒りを、逆上する思いを、復讐への衝動を神さまにゆだねます。 それは109篇で心に留めておくべきことなのですけれども、実はこの詩篇には「相手を赦す」という表現は出て来ません。一回もありません。 新約聖書には、もちろんのことながら、旧約聖書の怒りの解毒剤として、「赦す」という言葉がよく使われます。クリスチャンももちろんよく使います。 それを決定づけたのは、イエス・キリストの十字架上の言葉であることは、言うまでもありません。キリストは、 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と、自分は十字架にかかったまま、(為されるままで彼らを)赦して息を引き取られた。 それゆえ、クリスチャンというのは、敵を愛し、そして敵を赦すものだということを徹底的に教わってまいりました。 ダビデにとりまして、相手を赦すという思いに立つには早すぎました。いや、ダビデの心の中には、このような悪を赦すことが、果たして良いのか……。特に、私が最初に上げました、社会的に残忍な犯罪や不公正。あるいは、ますます心をかたくなにして、聞く耳を持たない相手。 そういう時に、赦すという所にポンと立ってしまうことが、果たして人間の感情の中で自然なことなのか。ものすごく無理がないのか。矛盾を伴わないのか。赦すという時には、時間がかかります。 そんな時に、もう一つの選択肢をダビデは提示しています。ダビデは赦していない。しかし、彼は怒りを神にゆだねる。ダビデは自分の持っている憤りの感情を、神さまにゆだねます。そうすると、こういうことが起こります。21節をご一緒に読みましょう。 21しかし、私の主、神よ。 どうかあなたは、御名のために 私に優しくしてください。 あなたの恵みは、まことに深いのですから、 私を救い出してください。 私に優しくしてください。神よ。28節を見ていただきますと、 28彼らはのろいましょう。 しかし、あなたは祝福してくださいます。 彼らは私を呪うかもしれない。でも私がその呪いに呪いを返さず、呪いの思いをあなたにゆだねるなら、あなたは逆に私を祝福してくださる。もう一つあります。 31主は貧しい者の右に立ち、 死刑を宣告する者たちから、 彼を救われるからです。 「主は貧しい者の右に立ち」というのは、主は私を弁護してくださる(***詩篇16:8)。私たちが自分の持って行きどころのないその憤りの感情、それをもって相手に反論し、相手を叩き潰すということも、ダビデのようにできることも多々あるのです。しかし、ダビデはそれをしませんでした。 代わりにダビデは、祈ることで自分の感情に一つ間を置きます。その祈りは、断食を伴なったもので、彼はしおれた青菜のように、自分の心がしおれてエネルギーを失う(***詩篇102:4と11にも同じ表現)ことも覚えました。しかし祈りの中で、彼はやがて、自分の悶々とした思いを神さまにゆだねた時に、神さまは彼に優しく接してくださる。神さまは祝福してくださる。そして最終的には、裁きの神が私を弁護してくださる。 そうこうしているうちに、彼の口には、呪いのことばではなく、賛美のことばが戻ってきます。 30私は、この口をもって、大いに主に感謝します。 私は多くの人々の真ん中で、賛美します。 詩篇(109篇)の前半の非常に厳しいトーンが、傷つきつつも、悩みつつも、賛美に変わっていくダビデの心が、見事に描かれている詩篇です。 赦すということが大切なのは、それは、怒りを自分の心の中で憎しみに変えてしまわないためです。怒りというのは炭火だ(***ローマ12:20)と。それを自分の心の中に取り込むと、やがて燃え尽きるのは自分自身です。赦すことによって、悶々とした憎しみから解放されることですが、それは第一に、自分のためだと言ってもよいと思います。 しかし、時に、赦せない時もあるでしょうし、赦してはならないような悪もあるでしょう。赦すことですべてが解決される訳ではない。怒りがなければ、悪は増大して行くでしょう。時に、神が私たちに与えてくださった怒りの感情が、解決の糸口を与えてくれる場合もあるでしょう。 でも、そんな時にも覚えておきたいことがある。私たちはこの憤りの感情を、いつも主の御手にゆだねるということです。この憤りの思いを、自分の手に握って、それを振り回すことをしない。そんな人物を、神さまは優しくしてくださる。主は祝福してくださる。そしてそういう人物を主は弁護してくださる。 この方は、私たちが怒りの思いで燃え尽きてしまわないように、私たちに優しくしてくださり、沢山の祝福を与えてくださり、弁護してくださり、私たちがその悶々とした感情に引き回されることがないように、私たちを守ってくださるのです。 ☆お祈り 恵み深い天の父なる神さま、あなたは私たちを喜怒哀楽に富んだ人物として作ってくださいました。ですから、喜びも、賛美も、感謝も、私たちの心の自然な表現であるとすれば、同時に、不安も、恐れも、焦りも、いら立ちも、憤りも、人として自然な感情であるに違いありません。 でも往々にして、私たちは実に自己中心的で、その思いが歪んでいるがゆえに、自分の計画が思い通りにならないことだけで、私たちはイライラし、怒りの感情を持ってしまうものが多いものです。 どうか私たちの感情をあなたが制してください。そのために祈る者とさせてください。時に断食をして祈る者とさせてください。何よりもあなたにその思いをゆだねることができますように。そして、ゆだねた時に、主よ、あなたは向こうから走り寄って来て、私たちの肩を抱き、私たちに優しく接してくださり、私たちを祝福してくださり、私を弁護してください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。 |