題      名: 6/17神の人モーセ(20)契約
氏      名: T・Y
作成日時: 2012.06.19 - 22:43
6/17神の人モーセ(20)契約

☆お知らせ

●今日は、七尾聖書教会、元インマヌエル七尾キリスト教会からT姉が東京にいらっしゃったついでに、七尾教会の古い村井姉(***それ以前に高津教会にご家族で転会された)に会いたいということで、来てくださいました。(歓迎の拍手)

私(藤本牧師)は7/15に七尾聖書教会に行きますが、昨年12月にインマヌエルの七尾教会が、七尾聖書教会と合流しました。その時に、七尾教会の方々の籍を全部移した、七尾聖書教会のその転会式に私が伺うはずだったのですが、12月だったのでちょっと無理でした。年明けてになりますけれども、7/15に改めて、皆さまにご挨拶に伺いたいと思っております。

●私たちの教会では年に4回、四季に一回、聖餐式を行います。7月の第一の聖日は聖餐式を行いますので、特別に覚えていただけると感謝です。

●6月も終わりになりますので、上半期感謝献金を実施します。神さまが満たしてくださることを信じております。

☆始めのお祈り

主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
主よ。あなたはあわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます。(この日の交読詩篇86篇より11節と15節)

恵み深い天の父なる神さま、今朝は初めての方々も含めて共に、礼拝の恵みに与ることができ心から感謝致します。私の心を一つにしてください(11節)。この心のうちには、喜びも悲しみも、心配事も思い煩いも恐れも、先週のことも今日のことも明日のことも、実に多数含まれています。自分のこと、家族のことに対する問題に、日本のこと近隣のこと、どうかこの礼拝の場において心を一つにして、あなたを見上げ、あなたを信じ、あなたを恐れることができますように。

あなたは、あわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられます(15節)。ですから、どうか私たちの小さな心が、さまざまな事柄で潰れてしまうことがないように、決してしぼんでしまうことがないように、あなたの恵みとあなたの愛を、不思議なことばで言い尽くすことのできないあなたの平安を点火してください。

あなたは礼拝に来た者たちを守ってくださるお方であります。礼拝に来た者たちを手ぶらで帰すことのない方です。ですから、ちょっと難しい聖書の話かもしれませんが、必ず聖霊が私たちの心に語りかけを与えてくださいますので、皆が等しく恵みに与ることができるように導いてください。

鷺沼教会でギデオンの奉仕をしておられる橋正義兄の上にも届いてください。また入院を前にしておられます石井兄の上にもあなたが届いてください。他の多くのご高齢の兄弟姉妹とともに、いつも私たち教会家族の皆も、日本中この蒸し暑い季節も守ってください。

しばらく聖書のみことばに耳を傾けます。どうか私たちの心を砕いて、柔らかくして、みことばのいのちを吸収することができるようにお助けください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

☆聖書個所    出エジプト19:1〜11

1エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野に入った。
2彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。
3モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。
 4あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
5今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
6あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
 これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
 7モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、主が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。
8すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行います。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。
9すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。
10主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。
11彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。

☆説教    神の人モーセ(20)契約

初めてお出でになった方にはちょっと申し訳ないのですけれども、ずっとモーセのシリーズで礼拝でお話をしています。今日は20回目になりまして、出エジプト記の19章からお話を致します。

モーセという人物は旧約聖書最大の人物であって、そして、奴隷となっていたイスラエルの民をエジプトから連れ出して荒野を旅する――この出エジプト、Exodus (エクソダス)という出来事は旧約聖書で最大の出来事です。荒野を旅している間に、19章の2節にこうあります。

2彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野に入り、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。

この山、シナイ山が出エジプト記のクライマックスになります。
出エジプト記というのは、モーセの誕生から始まります。当時エジプトで、奴隷のイスラエルの人口が増大し勢力が増して来た。これを何とかしなきゃいけない。弱体化するために、エジプトの王はお産婆さんにへブル人の家に男の子が生まれたら、それを死産させるように命令した。(出エジプト1:16)

しかしモーセは、神を信じ神を恐れるお産婆さんによって、何とか生き延びる。家で生活する訳ですけれども、だんだん大きくなって怪しまれる。モーセのお母さんは葦の葉で編んだかごにモーセを載せて、葦の茂みに隠す。(同2:3)

そこで水浴びに来たエジプトの王女に拾われるのです(同2:5)。そして彼は最初の40年間エジプトの王宮で育ち、エジプトの文化のあらゆる善いものを吸収しますが、突然彼は過ちを犯して、40歳にして遠くへ逃亡します(使徒7:23)。荒野に逃げて遊牧民として家族を持って、そこでもう40年の歳月を過ごす(同7:30)。

ある日モーセが羊を追って、荒野に行った時、燃える柴だけがあり、その中から神さまの声が聞こえて「モーセ、モーセ」と語りかける(出エジプト3:4)。その場所がホレブ、つまりシナイ山のふもとでありました。ということは、3章でモーセに声をかけた神は、19章で再びモーセに声をかけるのです。

以前は羊の群れを牧してこの場所に来た。今は百万の民を率いてこの場所に来た。とても感慨深く自分の人生を振り返ったに違いありません。そして、出エジプト記というのは40章ありますが、ちょうど半分の19章から最後40章まで、ずっとこのシナイ山での出来事が記されています。その後も荒野の旅路はあるのですが、それは民数記に引き継がれていきますので、事実上出エジプト記では、ここからクライマックスに入ると考えられたらいいかと思います。そのクライマックスに何があったか、その入口の部分を見てまいりますが、それは契約です。

キリスト教とはどういう宗教かと言いますと、私たちはさまざまに答えることができますが、一番神学的に正しい答え方があるとすれば、それは契約宗教だと答えざるを得ないです。それは聖書に明らかです。

聖書の前半部分を旧約聖書、後半部分を新約聖書と言います。
旧約聖書というのは、紀元前2000年ぐらいから、紀元前400年ぐらいの間に書かれたというのがその膨大な資料にあります。
新約聖書というのは、紀元後大体40年から黙示録は大体紀元後90年後頃書かれていますから、どちらにしろ今から4000年ぐらい前の文書から2000年ぐらい前の文書、これが聖書ですが、イエス・キリストを真ん中に挟んで、旧約と新約に分かれる。

この「約」というのは何かといえば、“契約”というものです。(旧約つまり)古い契約と(新約つまり)新しい契約。ですから聖書はどういう書物かと言われれば、契約の書物だと言わざるを得ないことは明らかですね。
契約というのは、二者の間に交わされる約束事ですね。(出エジプト19章)5節をちょっと見てください。ここに“契約”という言葉が出て来ますが、5節を一緒に読んでみましょう。

5今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

2,3の約束事が記されています。まぁ、後でじっくり見ることにして、私たちにも売買契約とか、何とか契約などと存在します。人と人との契約も約束事ですから、重なる部分も沢山あります。でも聖書の語る神と人との契約というのは、ある意味で人と人との契約とちょっと違います。
もう少しストレートに言いますと、時代は古代オリエント、古代オリエントの契約にはいくつかの特色がありました。その特色をある程度押えておくというのは、私たちの理解に役に立つと思います。

古代オリエントの契約というのは、実は二者の契約でも、対等関係の契約ではありませんでした。必ず大きな国があわれみをもって小さな国に近づき、さまざまに手を差し伸べた事実に基づいて契約は始まります。
そして、契約を結ぶと、これまで以上に大きな国は小さな国の面倒を看る、という約束になります。そして小さな国は大きな国の規定に従う。

そういう時代背景を考えますと、出エジプト記19章のこのイスラエルの人々は、旧約聖書の契約をよく理解しただろうと思います。つまり旧約聖書の契約は自分から選ぶものではない。自分たちが交渉するものではない。
神さまは一方的に私たちを助けていてくださったということに気が付いて、神さまが私たちに「わたしと契約を結びなさい。あなたにさらに大いなる恵みを与える」と言われた時に、私たちがそれを受け取るかどうか。

しかし、それを受け取るという時に、単純に「はい、ありがとうございました」と帰ることではない。なぜなら、約束事だから。神さまから祝福を受け取るということは、神さまのみこころに従って生きる民へと変えられていく、という条件が付いています。

ですから5節に――もう一回見てください――「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの“契約”を守るなら……」というのは、「わたしの“契約の規定”を守るなら、あなたがたはわたしの宝となる」という風に言い換えられます。

これを前提にして、3つのポイントで契約とはどういうものなのかを(学んでまいりますが、)ちょっと難しいかもしれませんけれども、でも人間社会の契約がありますので、ご理解いただけるかなと思います。

1)神さまは私たちをご自身の翼に載せて運んで来られた(4節)

4あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

鷲(わし)の翼に載せて、あなたがたを運んで来た――これは、神さまがイスラエルの民を、奴隷とされていたエジプトから救い出して、ここまで荒野を導いてくださったすべてのことを表現しています。
奴隷状態――いうなればこの世界で私たちは、心を縛る罪深さの奴隷になります。不安、悲しみの奴隷になります。思い煩いの奴隷になり、罪の責め苦に追い立てられ、そして究極的に死という(ものの)奴隷、その恐れから逃げることができない。

私たちはかつて自分が――「罪と死の奴隷」というのは聖書の表現(***ローマ6章)ですけれども――「罪と死の奴隷」であることを知りませんでした。教会に来てそんなこと言われると、俺は奴隷なのか(笑)、なんでそういうものの言い方をするのか(と思いました)。

私はわしの習性はよく知りませんけれども、わしというのは高い山の絶壁に巣を作りますね。そこで子育てをするのですけれども、雛が卵からかえって、親鳥は運んで来て雛はぎゅうぎゅう詰めになり、でも雛は居心地はいいのです。でもそこは崖であることには変わりはない。雛は外の世界は知らない。そこの巣という世界で十分に満足しながら、そこが崖っぷちであることを知らないのです。
親鳥はやがてその雛を巣から出すために、巣の上を飛び交う。という表現が同じように聖書の中にあるのです(***申命記32:11、ヨブ39:27〜28)。

でも雛がいきなり飛ぶというのは恐らく不可能に近いです。
ツバメがかえれば、先ず巣から地面に降りるところから始まります。地面に落ちた雛は、少し高い所にもう一回飛ぶという所から始まります。でも、いきなり崖から落ちるというのは、わしはまだそこまでの飛行能力は付いていないです。
じゃ親鳥の翼に載せるというのは、翼に載ったら羽ばたけないだろうと私たちは思いますね。これは日本語の訳ではそうなのですけれども、翼の真ん中に載せるという意味なのです。つまり背中に載せる。
神はイスラエルの民を、また私たちを、ご自身の背中に載せて運んで来たという実績、事実が先ず語られているわけです。

私たちは母の日の礼拝で、イザヤ書でよく使われる「背負う」という表現を学びました。これをもう一回見てみようと思うのですね。イザヤ書の46章の3節〜4節(交読)。

3わたしに聞け、
 ヤコブの家と、イスラエルの家の
 すべての残りの者よ。
 胎内にいる時からになわれており、
 生まれる前から運ばれた者よ。
4あなたがたが年をとっても、
 わたしは同じようにする。
 あなたがたがしらがになっても、
 わたしは背負う。
 わたしはそうしてきたのだ。
 なお、わたしは運ぼう。
 わたしは背負って、救い出そう。

これは私たちが神の背に載って――いつ載ったのか?胎内にいる時から荷われており、生まれる前から――運ばれている――年をとっても同じようにあなたを背負う。わたしはそうしてきた――と記されています。神さまご自身の翼に載せられ、ろくろく飛ぶことができないのがイスラエルの民であり、また私たちです。
私たちは背負われて、運ばれていった。そうしてイスラエルの民は、海に直面して、逃げ場を失った時、荒野をさまよって、食料や水に枯渇した時、あらゆる試練の中で、彼らは救い出され助け出されて来た。

私たちがキリストの救いに与るというのは、そういうものだろうと思います。つまり自分が身を委ねている巣が、実は崖っぷちに付いているということも知らずに、自分は本来もっと羽ばたけるということもわからずに、自分の世界の中だけで閉じこもっている、えらく満足しているのが私たちです。
そこから救われて大空へと言われても、私たちには飛ぶ力がない。私たちはキリストの翼に載せられ、運ばれ、死の危険から救い出されていく、いやそればかりか、それからも運ばれていくというのが、契約の大前提にある。

2番目は、しかし、神さまは私たちを罪と死の危険から救い出し、背中に載せるだけでよしとされたのではない。
2番目に見ていただきたいのは、生まれたときから荷われ、白髪になってもなお背負うとおっしゃる神さまは、私たちを危険や過ちや罪深さから救い出すだけでなくして――

2)その神さまは私たちと契約を結びたいとおっしゃった

契約を結ぶとは、神さまの側から言えばどういうことなのか、それが(出エジプト19章)5節の三行目――

5あなたがたは、すべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

「わたしの宝となる」――皆さん宝物を持っておられます? 私の宝物はないかもしれないと思いながら、地震で家が潰れそうになったら何を持って外へ出るか、火事になったら何を持って……、多分私はノートパソコンだと思います(笑)。そこに教会の大切な資料だとか、自分のこれまでのことが全部入っておりますので、とりあえずそれを持って出るかなと思いますけれども、もしかしたら自分の大切にして来たスプーンのセットだとか、マグカップだとか(笑)、いろんなものが人それぞれ宝です。宝というのは、何があっても守るのです。

神さまは、わたしの民となれ(とおっしゃる)――わたしは、あなたを死の危険から救い出すだけではない。わたしの民となりなさい。宝物のように、私はあなたを大切にする。

5節を読むときに勘違いしてはならないことがあります。それは、神さまはもしわたしの声に聞き従うならば、契約を結ぼう。そしてあなたがたをわたしの宝としようとおっしゃっているのではない。それが契約ではないです。

契約は大きな国が弱小の国に対して恵みのあわれみの手を差し伸べる。これまでもあなたがたを守って来ただろう。これまでもあなたがたを助けて来ただろう。あなたを死の滅びから救い出しただろう。――これはね、イスラエルの民の信仰、また私たちの信仰がきよくて正しいから契約を結ぶとおっしゃっているのではないのです。

イエスさまは、収税所で税金を集めている、当時のパレスチナの最悪の職業に就いていた、マタイという人物(に会われた)。彼は収税所で税金を集めていた。売国奴と人々から非難される彼に、イエスさまは一言「わたしについて来なさい」と声をかけられた。それはマタイの信仰でもマタイの資格でもない。いきなりおっしゃった。彼の心の寂しさを見抜くようにおっしゃった。「わたしについて来るか?」

しかし、イエスさまについて行くときに、十字架の恵みに与り、罪赦され、沢山の祝福に与ったとしても、それだけではない。イエスさまについていくということは、神の子どもとなり、神の民となり、やがて神の国を相続するのです。それはイエス・キリストの宝物にされることです。ついていくということは、イエスさまの心を知るようになり、イエスさまと共に、謙遜に愛の道を行くようになる。

私は日本では行ったことのない所が沢山あるのですが、アメリカのグランド・キャニオンには3回行ったことがあるのです。1回目はひとりで、2回目は父(藤本栄造牧師)を連れて、3回目は今は浜松の教会(http://homepage2.nifty.com/immanuel-hamamatsu/index.html)の田辺岩雄先生を連れて。

1回目ひとりで行った時には、ラスベガスのホテルに泊まっていて、一日ラスベガス観光遊覧飛行みたいなもので、セスナ機で、もうこんなになって揺れて飛びますので、皆さんげろげろに吐くのです(笑)。新婚旅行の方とか、日本人もいっぱいおられてみんな吐くのですが、ちゃんと酔い止めは売店に売ってるから飲んでおけばいいのに、というぐらい揺れます。3時間の飛行で、そして午後3時にはもう一回バッテリーを入れて飛行場に行って帰って来て、ラスベガスに6時に着く。それでも開いた口がふさがらないほどの絶景。グランド・キャニオンの光景というものは、開いた口がふさがらないのです。わぁ〜となります。まぁ、私は1回目はそういう風に帰って来た。

2回目父と泊った時に、せっかくだったらグランド・キャニオンのホテルに一泊しよう。そうすれば夕日が見れるから。これはねぇ、どんなに「一泊しないで日帰りで遊覧飛行は……」と言っても、わかってくれないのです。あれで十分だ。まぁそれはそうですよね。あの山を見たことのない訳ですから、見ただけで十分でしょう。気持ちは解るんですけれども、でも一泊しないと、夕方ゆっくり日が沈んで、あのグランド・キャニオンの絶壁に夕陽が当たる姿は見えないのです。私が父と泊った時には、夕陽を見た。

次に田辺先生と泊った時に、ツアーに入った。するとツアーのガイドさんは、何時何分にこの岩壁が黄金に光る。それを順番に連れて行くのです。ツアーって違うなぁと思います。それで、私は今度行った時には、グランド・キャニオンの底まで行きたいなぁと思います。3時間かけて下り、3時間かけて上るのです。この次行く頃には、グランド・キャニオンの下のコロラド・リバーにカヌーに乗ってず〜っとこう行きたいなぁ……。
奥はいくらでもあるのです。その奥深さは計り知れない。

聖書の中で、私の大好きなことばで、「人知を超えたキリストの愛を知ることができますように」(***エペソ3:19)という、パウロののことばがありますが、「人知を超えたキリストの愛」というのは、私も皆さんもそこに行き着いたことはないのです。だから私たちは生きて生きて生きて、さまざまな苦労の中で祈り、(神さまに)答えていただき、より深きキリストの愛を知るようになるってどういうことか?それはどこまで行っても無限大に、人知をはるかに超えた神の愛です。

神さまが「わたしの宝となれ」とおっしゃっているのに、私たちは傲慢で自己中心で、あるいは弱く乏しい私たちですけれども、イエス・キリストと共に歩み、私たちは変えられて行くのです。
私たちはさまざまな恵みを与えられて生きています。必要が満たされる。病気が治る、仕事が祝される。でも(恵みは)それだけではない。
神さまは「わたしと契約を結びなさい。わたしの宝物となりなさい。あなたを大切にする。あなたはわたしの愛に答えて生きる者となりなさい」(とおっしゃっている)。

3)契約の目的

ここにもう一つ深く契約の目的が記されています。(19章)6節をご一緒に読みたいと思います。

6あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

ここに独特な表現が出て来ますね――あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
祭司というのは、神さまと人々との間に立って、人々が神さまの前に立てるように執りなすのが祭司の仕事です。
人々のさまざまなものを背負う祭司、そして人々・会衆の祈りや願いを自分の背に背負いながら神さまの前に立つ。そういう神さまの前に立つ人物でありますから、“聖なる”(という表現になります)。

神さまはイスラエルの国民全体を、ひとりじゃないのです、全部に「あなたがたを祭司の王国としたい」(とおっしゃる)。それはかつて神さまが創世記12章で、アブラハムにおっしゃったことと同じです。ちょっと一番最初の書物に戻って、聖書の一番最初が創世記ですので、創世記12章の1〜3節を交替に読みたいと思います。

1その後、主はアブラムに仰せられた。
 「あなたは、
 あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
 わたしが示す地へ行きなさい。
2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとしよう。
 あなたの名は祝福となる。
3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
 あなたをのろう者をわたしはのろう。
 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。」

1節にわたしと契約を結んで一緒に行こう。2節にそうすれば、わたしはあなたを祝福する。でも3節の一番最後はその先を行っていますね。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」。違う訳では、「あなたは祝福の源となる」。どういうことか?

神さまが私たちを救い契約を結ばれるのは、私たちをご自身の宝物とするためだけではない。私たちを祝福の源として、私たちから神さまの恵みが私たちの家族へ、そして私たちが遣わされる所どこであっても――それが学校でも会社でも――私たちが神さまの愛と平安を運ぶ器となるようにというのが、契約の最終的な目的です。

わたしはあなたを宝物とする。そしてあなたは祭司として用いられる。家族のために祈りなさい。周囲の人のために執り成しをしなさい。そのようにして、祝福の源となりなさい。私たちは神さまと契約を結ぶ時に、自分自身の救いと自分自身の幸せのためだけに契約を結ぶのではない。それは、この世界で世の光、地の塩として用いられるように、神さまの祝福が届くように(なるためです)。

さて、その時、もう一度出エジプト記に戻っていただいて、19章の8節、

8すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行います。」それでモーセは民のことばを主に持って帰った。

すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことをする」――とっても素直な回答です。
モーセを学んで20回目ですが、今まで散々不平を鳴らし、「こんな荒野に連れて来たのは、私たちを殺すためか」と、モーセに文句を言って来た民です。
神さまに向かって、「あなたは私たちを荒野で滅ぼすために、こんな窮地に立たせるために、私たちを救い出したのですか?」と(感謝も忘れて文句ばかりの)、問題課題がいっぱいあるこの民が、口をそろえて「私たちは神さまと契約を結びたい」と、“口をそろえて”(答えているのは)、随分な変わりようだと思います。

先日、私は高いビルの上から、夕暮れ時にまっすぐな道を見ていました。ず〜っとその道路はまっすぐなのです。しばらくして、日が沈んで暗くなりますと、まっすぐな道路にいくつも信号がある。その信号にすべてきれいに車が3車線あって、止まって、車の後ろのブレーキ・ランプが真っ赤に輝く。するとこちら側は、赤い帯がきれ〜いにまっすぐに並ぶんです。向こうからは反対車線ですから、白いライトの帯がまっすぐに光るんですね。随分きれいだなぁと思いました。

これがインドだとそうはいかないのです。これが例えばフィリピンとかインドとか行きますと、例えばフィリピンは信号がないですね。信号がない国というのは、こりゃあすごい。どうぞご自由に(笑)ですから、もうクラクションの鳴らし方が半端じゃない。
クラクションというのは、ここに自分がいるぞという意味ですね。ここに自分がいるぞというのは、俺が通るから入れろ(笑)という意味ですね。そしてこちらの人のパーというクラクションは、おまえなんか入れるものか(笑)という意味ですね。もう、本当に何がしんどいって、これが一番しんどいです。

(そういう国では)車線ごとに車が並ぶなんてことはないですし、信号できれいに車が止まるっていうことはないですし、まぁ日本でもあまりないですけれども、まっすぐな道路もありませんし、私は(先日の夕暮れ時に)ビルの上から整然と並ぶバイクを見て、あぁ日本らしいなぁと思いました。

私たちは契約の論理といいますか、今ここで見ていただいた霊的なことを見落としてしまったら、車線もなくなる、信号もなくなってしまう。出て来るのは自分の願望だけです。そして人を押しのけ、自分の願望を通すだけのクラクションの世界。ともすると、教会のクリスチャンもそういう世界に入っていきます。

でももしここに神さまの契約という道筋を見ることができたら、自分がどんな試練の中にあっても、神さまは「あなたはわたしの宝物だ」とおっしゃる。
自分がどんなに自己中心でも、いやいや実は「あなたは祝福の源なのだ」。あなたが祈る時に、あなたは自分のことだけではない、日本の国を代表して、家族を代表して、職場を代表して、わたしに祈ることができる。それを見落としてはいけない。

自分の信仰を責めて、自分をつまらない者と思って、自分なんか宝物になれるか!(と思う者たちよ、)いやいやそうではない。
もともとあなたが立派だから、わたしはあなたを運んだのではない。あなたは生まれた時から荷われており、あなたは白髪になっても荷われる存在なのだということが分かりなさい。
それを捕えた上で、今自分の目の前に広がる自分の人生の局面を考えなさい。その大きな神との契約という流れを全部すっ飛ばして、今の局面の打開のために生きていたら、あなたの人生はとっても視野の狭いものになる。
「神さまはすべてのことを相働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)というみことばはせめてもの慰めで、それ以外は、自分の苦しみや苦難は自分の人生にとって何の意味があるかなんて(ことも)、全然見えて来ないよ。

私には何の資格もないのに、ただ恵みによって、十字架のゆえに罪と死の奴隷から救い出され(エペソ2:5)、のみならず神さまは契約へと導いてくださる。どんな人生の旅路にあっても、神さまは私を宝のように大切にしてくださる、という契約を結んでくださる。
私が宝とされたのは、私が祭司となり家族のために執り成し、社会のために、周囲の人のために、祝福の源となるように(であり)、こんな私でも祝福の源となるように、神さまは助けてくださる。

この契約の論理から目を離したら、信仰家族も教会も混然となって行き、皆が横入りするようになる。そういう意味で、私たちは整然と神さまの命令の道を生きていきたいと思います。

☆お祈り

恵み深い天の父なる神さま、ここまで今年も半年間、あなたはご自身の背に載せ、私たちを救い出し運んでくださったことを感謝致します。

今朝ここで改めて、「それだけではない。そういえば自分は神さまとの契約を結んでいるのだ。神さまは私を宝物のように大切にしてくださると教えてくださったのだ。私は祭司となって祝福の源のような存在として、召されているのだ」と、ふっと素直に心に受け止めることができるように助けてください。

その時、私たちの人生もまたこの教会も、どんな局面にあるかはわかりません。しかし、それにかかわらず、ただまっすぐにあなたを見上げることができるに違いありません。私たちを助けてください。イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。