題      名: みことばと共に行くアドベント(3)
氏      名: T・Y
作成日時: 2012.12.15 - 21:04
                    みことばと共に行くアドベント
                                第3週

                            担当:杉本直子

         ウェスレアン・ホーリネス教団            和歌山県・貴志川教会


12月17日(月) マタイ1:17
それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

 「だが、1つだけ確かなことがある。本書で紹介されている動植物や、その他の絶危惧種たちの生き延びる可能性が高くなればなるほど、私たち人間が生き延びる可能性も高くなるということだ。」これは、写真家ジョエル・サートレイのナショナル ジオグラフィック 絶滅危惧種写真集のまえがきです。背景を白か黒の1色に統一して被写体の美しさを余すことなく引き出した写真は、あまりの美しさに、言葉を失う。そしてこの名簿のあまりの悲しさに、言葉が出ない。
 同じように主は、私たち人間をこの上なく美しく創造して愛し慈しみ、そして憐れみ惜しんでご自身を滅亡の最後とされたことを覚える。
    
12月18日(火) マタイ1:18
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
  
 奇跡は起こらないという前提が、いかに人間の思考と世界観を狭めてしまうものかをC・Sルイスが面白く語っている。「毎年、神は自然の秩序の一部として葡萄酒をおつくりになります。すなわち、水と土壌と日光という素材を果汁に変えうる植物的有機体を創造されることによって、その果汁が適当な条件のもとで、やがて葡萄酒になるのです。ですからある意味では、神はたえず水を葡萄酒にかえておられるわけです。なぜなら葡萄酒はすべての飲料と同じく、もとはと言えば水に他ならないからです。たった一度、ある年のあるとき、受肉の神はその過程を短縮なさり、一瞬にして葡萄酒をおつくりになりました。…」

12月19日(水) マタイ1:19
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 正しいとは、神の御心に沿うということだと思う。スザンナの美しい手紙がある。
 「…我らの主が…十字架を負いなさいと命じられたとき、すべての喜びや満足に別れを告げるように意図されたのではありません。しかし、主は、我らの視界をこの世界から永遠の世界へと広げてくださったのです。主は、どこに我々の喜びを置くべきか教えてくださったのです。我々の存在と同じく喜びが不朽のものとなるために、主の後をついて天へと昇るなら、肉体の欲を満足させるのではなく、むしろ切り詰めることを、突発的な感情に従うのではなく、むしろ正すことを、肉体のすべての欲望と魂の力とを主の掟に従わせることを教えてくださったのです。そして、我々の堕落した肉性と敢えて矛盾することなしには、このことを実行出来ないと知っておられた主は、この十字架を負って、肉に対して、世とサタンに対して、戦いを挑むようにおっしゃったのです。」

            

12月20日(木) マタイ1:21
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 「文化の交換は『我々はたとえ話す言葉がちがっても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ』という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ」とハルキ・ムラカミが書いていた。そのために「長い歳月にわたり、多くの人々が心血を注いできた」と。
 小さな領土を巡る喧噪の只中で、この静かな文章に、私たちの「救い」を思う。
救いは人間が考え出せない次元からやってきた。救いである神は人間の手で作られてはいない。しかしそれは、とてつもない時間を費やし、私たちに悔い改めを起こす心血が注がれて現れた。
      

12月21日(金) マタイ1:22
このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

 「言い訳するつもりはありませんが、対岸が見えてさえいたら、泳ぎきることができたかもしれません。」これは、イギリス海峡を世界で最初に泳ぎ切ったフローレンス・チャドウィックが、キァタリーナ島からカリフォルニア州沿岸まで泳ぎ渡ることを、あとわずか半マイルに来ていながら、ボートに引き上げられた理由だ。疲労でも、凍てつく海の冷たさでもなかった。それは、対岸というゴールが見えなかったということに他ならない。
 旧約聖書全体は、ゴールを見なかった預言者たちの働き、信仰を通して神が支配されていることを知らせる。だから、私たちは、信仰の創始者であり完成者であるイエスについて行かなくてはならない。

 12月22日(土) マタイ1:23
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 「私たちの目の前には、大勢の失業者の群れがいる。世界中至る所に、飢えと悲惨に悩む何百万もの子供たちがいる。それは、中国で飢えに苦しむ人々、インド、あるいはその他の地域で不幸にも抑圧に悩む人々である。また、あらゆる角度から見て、絶望的な窮境が語られている。しかしそれにもかかわらず、クリスマスがやって来る。私たちがそれを望もうと望むまいと、またそれに調和しようとすまいと、私たちは次のような言葉を聞かねばならない。キリスト、救い主がここにおられる。救いを受ける世界、それがまさに私たちの失われた世界である、と。」
 今日もボンヘッファーが生きた2つの大戦下と同じく、私たちは救われなければならない存在であり、クリスマスはそれを知らせている。