題      名: 祈りバトン
氏      名: fujimoto
作成日時: 2004.09.16 - 01:30
祈りのバトンを受ける


 数週間前、アテネオリンピックのハイライトシーンの特集を見ていました。みなさんも、さまざまな場面に感動を覚えたことでしょうが、私には男子一万メートルが心に残りました。テレビのコマーシャルにも登場していたエチオピアのゲブレシラシエという選手がいます。一万メートルで五輪二冠、世界タイトル四回、さらに世界記録更新一八回という輝かしい経歴を持っています。テレビのコマーシャルは実に上手でした。ゲブレシラシエが複数登場して、自分が自分を抜いて、世界記録を何度も更新してきた歴史を映像で伝えていました。
 一万メートルの決勝に出場したのは、エチオピアからは三
選手です。先頭集団を走ってきた三人ですが、最後の一周に入るとき、三一才になるベテランのゲブレシラシエが、若手の一人の背中をちょっと押しました。それはスパートに入る前、「俺はいいから、おまえたち、先に行ってくれ」と言わんばかりでした。それから、エチオピアの若手二人が猛スパートをかけます。あっと言う間に独走態勢です。感動的だったのは、その若い二人が、猛スパートをかけながらも、何度も「いっしょに来てくれ」と視線を送って、大先輩ゲブレシラシエをふり返るのです。
 レースは、ベケレとシヒネが金と銀をとります。五位に終わったゲブレシラシエは、引退していきました。世代交代です。大先輩は、「おまえたちに任せた」と後輩の背中を押し、若手は何度も振り向いて大先輩を気遣いながら、世界記録更新というバトンを受け取って、全力で走ります。
 ヨシュアは、イスラエルの指導者としてのバトンを、大先輩モーセから受け取ったばかりでした。モーセはヨルダン川の向こう側で死にました。イスラエルの民を率いて、約束の地を占領するという仕事を、ヨシュアは受け継いだのです。彼は心勇めて、ヨルダン川を渡りました。しかし、渡りきったヨシュアと民を待ち受けていたのは、そびえるエリコの城でした。難攻不落を世界中に轟かせていたエリコの城が岩のように立ちはだかっていました。
 さあ、その巨大なエリコをヨシュアは見つめながら、彼は武者震いし、プレッシャーを感じます。受験生が自分の夢みた志望校の門を眺めているように。社会人が、初めての大仕事を目の前にしているように。家を買う人が、契約書を前に最後の決断をしているように。病気の人が、手術室をくぐるときのように。人生の半ばで、新しい仕事につく人のように。この私に、この城を崩すことができるだろうか。この私に、この課題を乗り越えることができるだろうか。ヨシュアは空を見上げて思いました。「やるっきゃない」。そして、げんこつを堅く握りしめ、眉間にしわを寄せていました。
 そのときです。
 「ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた」(五・一三)。
 その方は、既に剣を抜いていました。そして、ヨシュアの行く手を塞ぐように、彼の前に立ちはだかった。ヨシュは、尋ねます。
 「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵ですか」
  抜き味の剣を持って、我らの前に立ちはだかるとは、その剣の意味は何だ? 味方か? それなら、邪魔はしないでもらおう。敵か?:それなら、おまえを倒して越えていこう。
 答えが返ってきます。
 「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ」
  主はおっしゃいました。わたしは、おまえが考えているような味方でも敵でも、そのどちらでもない。わたしは、主の軍の大将だ。ヨシュア、おまえではない。わたしが大将だ。このイスラエルを率いて、勝利に導き、すべての責任を負っているのは、おまえではない、このわたしだ。
 さて、この主の軍の将、ヨシュアに何を告げますか。エリコ攻略の作戦ですか。準備の方法ですか。勿論、それもあります。六章に詳しく書いてあります。しかし、一番最初にヨシュアが告げられたことは、彼の大先輩モーセが燃える芝に近づいたときに言われたことと同じことでした。
 「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」(一五節)。
 何が言いたいのでしょう。あなたの人生の中心に祈りを置きなさい。そこを聖なる場所とし、しもべのように靴を脱いで、わたしの前にひざまずきないさい。
 この出来事を機会に、ヨシュアは祈りの人となりました。戦いの人ではなく、モーセと同じく、祈りの人となりました。これを機会に、ヨシュアは神中心の人となりました。

 この祈りのシリーズを、今回をもって閉じようとしています。私たちは旧約聖書にあって祈る人々を学んできました。それぞれの置かれた状況で、彼らが何故、何を、そしてどのように祈ったのかを学んできました。そしてシリーズ最後は、祈りのバトンを受け取る、という題を付けました。

 オリンピックの話で始めましたが、最後もオリンピック関わる話で締めくくります。映画「炎のランナー」の主人公、エリック・リデルは一九二四年のパリ大会、一〇〇メートル走の英国代表でした。彼は、礼拝を重んじるために日曜日に開催された一〇〇メートル競技への出場を断念します。代わりに四〇〇メートル走で金メダルを取ります。映画ではそうでしたが、実際は四〇〇メートルリレーのアンカーだったのです。彼は最下位でバトンを受けて、なんとトップに躍り出て優勝してしまいます。そしてこの金メダリストは、すべてのキャリアを捨てて、中国に宣教師となって、生涯を捧げます。
 私もこれくらいのことは、映画で知っていましたが、じつはこの先に心痛める、またすばらしい話があります。エリック・リデル先生は、最後、日本軍の強制収容所で一九四五年に四三才の若さで天に召されます。彼は、収容所で共に過ごした一人の青年に宣教のバトンを渡します。青年の少年の名前は、スティーブン・メティカフ。
 リデル先生が亡くなる三週間前、冬場履く靴がなかったメティカフ青年に、ぼろぼろのランニングシューズをあげます。メティカフさんはこう記しています。
 「でもその靴は履けませんでした。なぜなら靴中が南京虫だらけだったからです。でも私は靴よりもすばらしいものをもらいました。宣教という『バトン』と福音という「聖火』です。もし生還できたら日本に宣教しようと思いました」と。
 彼がリデル先生から受け取ったのは、宣教のバトンであると同時に、祈りのバトンでもありました。背景にこんな事があったと証しをしておられます。収容所でリデル先生は聖書のクラスを開きました。みんなで山上の垂訓を学んでいるときに、メティカフさんはリデル先生に質問しました。「汝の敵を愛せよ」というイエスさまの教えにはリアリティーを感じられない。強制収容所の中で、これほど日本軍に苦しめられて、彼らを愛することなど、できるだろうか、と。
 そのとき、リデル先生はこうおっしゃったというのです。
 「私もそう思うところだった、でも次に続く言葉に気がついたんだ。『汝を迫害する者のために祈れ』という。私たちは愛する者のためには時間を費やして祈るが、イエスは愛せない者のために祈れと言われた。だから、君も日本のために祈れ。祈るとき、君は神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りは君の姿勢を変える」。
 「祈るとき、君は神中心の人間になる。……祈りは君の姿勢を変える」――リデル先生は日本のために祈り続け、そしてメティカフ青年もその祈りのバトンを受け継ぎ、やがて、一九五三年にOMF宣教師として来日し、三八年間、日本のために労してくださいました。
 かつてヨシュアがイスラエルの民を率いて、アマレク人と闘ったとき、その背後にあって、モーセは一日中祈りの手を挙げ続けました。勝利を得たあと、神はモーセに、この出来事を書物に書き記すように命じておられます。
 「このことを記録として書き物に書き記し、ヨシュアに読んで聞かせよ」(出エジプト一七・一四)。
  戦いの後で、ヨシュアがモーセの祈りの事実を聞かれたことでしょう。しかしそれでも、戦っていた自分たちが、軍隊を指揮していた自分が一番の功労者だったに違いありません。そこで神はモーセにおっしゃいました。戦いを率いたヨシュアに、出来事を読んで聞かせない。そして、この教えの意味を、今エリコでヨシュアは現実のものとして自分が体験しようとしているのです。そして、ヨシュアもまた、モーセのように祈りの人となり、祈りを通して神中心の人間になるためです。
 それから数十年後、そのモーセが死んで、イスラエルの民を今度はヨシュアが率いるようにバトンを渡されたとき、主はあらためてヨシュアに教えました。人生の戦いの将は、おまえではない、わたしだ。わたしの前で、あなたの足の履き物を脱いで、しもべの姿勢を取り、ひざまずき、わたしを礼拝し、わたしに祈れ。
 ヨシュアは、モーセから祈りのバトンを受けました。それをもって、彼は神中心の人間となったのです。私たちもまた、多くの信仰の先輩から、このバトンを引き継いできたのです。「祈りは君の姿勢を変える」――それが真実であることを知って、私たちもまた祈るのです。