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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   聖餐式:おとどまりください
聖餐式:おとどまりください
            ルカ24:13−32

 イースターから1週間、この記事をごらんいただきましょう。よく言われることは、エマオの途上の出来事は私たちの人生に非常に象徴的だということです。物語は、13節にありますように「途上の出来事」です。どこかに向かう、そのために歩んでいく、私たちの人生の旅路の途上の出来事です。そして、その途上で、14節にありますように、私たちはいろんなことを「話し合い」ます、15節「論じ合います」、ああでもないこうでもないと考え込みます、悩みます。そこに復活の主が、15節「近づいてこられる」、そしていつの間にか「共に歩いておられた」のです。これが私たちの人生であり、これがよみがえって、今も生きておられるキリストの恵みです。ここから3つのことを心に留めて、聖餐にあずかりましょう。

1)途上の私たちは、どんな様子なのでしょうか。
 17節「イエスは彼らに言われた。『歩きながらふたりで話し合っているその話は何ですか。』するとふたりは暗い顔つきになって立ち止まった。」
 暗い顔つき、そして立ち止まる彼らに何があったのでしょうか。十字架の出来事がありました。20節、引き渡され、十字架につけられ、とおそらく彼らはこの悲惨な十字架を見ていたのではないでしょうか。暗いニュースに顔を暗くするのは私たちですが、それだけではない、その悲惨な出来事が自分の身の回りに起こったのです。それによって、彼らの望みが砕かれました。21節「望みをかけていた」――その方が、神の預言者が、自分が慕って頼りにしてきた御方が、死んだのです。終わったのです。今まで、主と共に一生懸命前向きに生きてきた、この二人の将来は終わったのです。暗い顔つきで、立ち止まって、当然です。
 そして、それによって、16節「彼らの目はさえぎられてしまいました」。もう、この悲しい出来事に完全に縛られて、他のことは見えなくなっていったのです。それが人生の途上で立ち止まる私たちです。
 そして、私たちは暗い顔つきで、ずーっと立ち止まっていてはいけない、それが人生だと言うことを知っています。チャールズ・ディケンズの『二都物語』にあるお医者さんが出てきます。20年間投獄されることになります。牢獄の苦悩を忘れようと、彼は靴の修理を覚えます。20年間、小さな、暗い、牢獄で毎晩、囚人仲間の靴の修理をこつこつとやっていきます。とうとうフランス革命がやってきて、彼は晴れて自由の身になるのですが、自由に生きることを忘れてしまった彼は、明るい日の光を怖がり、開けた世界を嫌がります。彼は、自分の家に屋根裏部屋を作りました。ちょうど、牢獄の部屋の大きさと同じぐらい。毎晩彼は、その部屋に入って、召使いに外から鍵をかけさせ、その部屋でようやく安心を得てい生きているという、悲しい人物です。それはいわば、暗い顔つきをして、人生の途上に何十年も立ちつくしている姿です。

 さて、そんな私たちに、復活の主は現れてくださいます。
2)主がどのように現れてくださるのか。
 まず、知らぬ間に、いつの間にか、いっしょに歩いておられました。15節 いきなり驚かすわけでもなく、いっしょに歩いて、詰問するわけでもない、責めるわけでもない、話しをして行れる。実に自然です。
 そして、実に興味深い記述があります。28節「彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。」
 電話のセールスってすごいですよね。わが家の子どもが中学、高校生の頃、毎日、教材、塾の案内がやってきます。もう、いい加減にしてくれ!と思って、「子どもは学校中退して、働いています」、だからかまわないでくださいといいますと、あちらはすかさず、「では、大検という道も?」と先に行かせてくれません。投資ビジネスの電話がかかってきます。「うちはそういうことに興味がありません」というと、「儲かる話しに興味のな人はいないでしょう」と離してくれません。とうとうわが家では、「うちは貧乏で、食べる物にも困っています」と突き放してようやく解放されます。まあ、商売だから熱心でしょう。
 では、イエスさまは熱心ではないのでしょうか? いいえ。ただ、強引な押しつけはないのです。ロンドンのセント・パウロ大聖堂にホールマン・ハントが1853年に完成した有名な聖画がかかっています。「世の光」と題された聖画です。イエスさまが、ランプを持って戸の外に立って、戸を叩いている。あの黙示録3:20「見よ。わたしは戸の外に立って叩く。誰もわたしの声を聞いてあけるなら、わたしはその人のところに入って、共に食事をする」――その状況をハントは描いているのです。
 よく見ると、扉の外には取っ手がありません。中の人があけない限り、無理矢理イエスさまは入ることをなさらないのです。しかし、イエスさまは、私たちの心の扉が開くのをひたすら、そこで待っておられます。そして私たちの心の扉を叩かれます。わたしを迎えなさい。あなたのところに迎えなさい。
 今朝、主が私たちを聖餐のテーブルに招いてくださいます。これは、主が備えてくださった食卓です。それは、やがて私たちがみな神の国の食卓に、多くの聖徒と共に、私たちが先に見送った愛する者たちと、信仰の先輩方と、共にあずかる、神の御国の晩餐を、その一部を地上で先に味わうのです。これは、主が備えてくださった、主のテーブルです。
 しかし、聖餐のテーブルに近づくとき、私たちは主からの呼びかけを聞く、扉が叩かれる音を聞きます。わたしを招きなさい。あなたの心に。わたしを迎えなさい。わたしをあなたの心の中に、あなたの生活のただ中に、わたしを迎えなさい。暗い顔をして途上にたたずむあなたの悩みの中に、試練の中に、人間関係の中に……
         
3)福音書を見ますと、招かれて共に座してくださる主は、単なる客人とはなりません。
  いつの間にか、イエスさまはテーブルの主催者となっておられるのです。30節「彼らと共に食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。」
  その時、弟子たちの目が開かれて、主だということがわかったのです。それと同時に、彼らの心の中に暖かい燃えるものを感じたのです。不思議ではないですか。主が聖書全体の中からご自身の復活について説明されているときも、彼らはそれがイエスさまだとわかりませんでした。いっしょに歩いているときも、聖書を詳しく学んでいるときも、わからないのです。ところが共に食卓について、裂かれたパンにあずかったとき、「ああ、イエスさまだ。ここにイエスさまが共にいて下さる」ということがわかったのです。
 プロテスタントの世界で、神学的な表現で、教会はどういうふうに定義されているのでしょう。教会とは? 教会とは、キリストを信じる者の集まりで、そこで聖書が説き明かされ、洗礼式と聖餐式が正しく執行されるところ。
  教会とは、聖書のみことばから神の語りかけを聞くだけのところではありません。教会に託された奥義は、聖餐の恵みで、このテーブルを主ご自身がもうけてくださり、パンと杯を祝福し、私たちの目を開いて、ご自身が共にいて下さることをわからせてくださるのです。
  これが聖餐の恵みです。聖餐の恵みは、暗い顔つきで途上にたたずむ、疲れた失望におとしめられた私たちのために、主が開いてくださるのです。主は、私たちの前でパンをさき、私たちの目を開き、「わたしが共にいるではないか」と、「わたしをあなたの人生に招け」とおっしゃってくださいます。その時、私たちの心はうちに燃える、不思議に燃えるのです。なぜなら、見えなくなった主は、心のうちにおられることに、彼らは気がついたからです。
 中世の頃、聖餐は、司祭たちの儀式で、信徒はただ見ているだけでした。難しいラテン語の式文を聞かされ、独特な儀式を見るのです。しかし、聖餐は見つめるものではありません。それは食するもの、それは自分があずかるものです。それをコミュニオンと呼びます。交わって、食して、主イエス・キリストと一つとなるのです。主は外に立っておられる方ではなく、主はあなたの中に生きておられるのです。そして、共に食する兄弟姉妹とも一つとされます。

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DATE: 2005.04.05 - 22:53

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