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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   イエスとの出会い(3)――ツアラトにおかされた人
イエスとの出会い(3)ツアラトにおかされた人
    マタイ8:1−3

 ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることができます。」
 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。

 福音書の記述の中で、マタイもマルコもルカにおいても、イエスさまは宣教の働きの一番最初で弟子たちを召しておられ、その次にイエスさまと直接に出会っているのが、この男性なのです。弟子以外では、イエスさまとこの男性の出会いが、どの福音書でも一番最初に詳しく記されています。それほど重要であり、それほどインパクトがあったのでしょう。

1)彼はらい病を患っていました。このことに触れずに、この出会いを語ることはできません。皮膚が犯されていく病気です。進行すれば、指がなくなってしまったり、耳や鼻や目までもが失われたりすることが起ります。
 今日ではこの病気は「ハンセン氏病」と呼ばれています。ノルウェーのハンセンという人が「らい菌」という病原菌を発見し、それによって起る病気であることを解明したことからそう呼ばれるようになったのです。つまりこれは細菌の感染によって起る病気です。
 この言葉、新しい新改訳聖書では、ヘブル語ツアラトをそのまま使っています。それは論議に論議を重ねて、あまりにも難しいので、ヘブル語をそのまま使うことにしたのです。この言葉が、どうして訳すのに難しいか?たとえばこういう問題があります。まず病名の特定は難しい。最近の研究では、聖書で「らい病・ハンセン病」としているものが、実は「らい病・ハンセン病」以外の病気も含めて言っているのではないか、ということがわかってきたからです。皮膚を冒す病気は、ハンセン病の他にもあります。だからすべてひっくるめてハンセン病だと断定してしまった、ということがあるでしょう。それが当時の医学の限界です。すべてツアラトと出てきたから、イコール「ハンセン病」ということにはならないだろうと思うのです。
 そこで、新共同訳では「重い皮膚病」と訳しました。これも問題と言われるようになってきた。それは、これが仮にハンセン病だとすると、その症状は、皮膚だけに現れるのではないからです。顔の表情が変わってしまわれたり、手の指が失われていたり、関節が曲がったままになっていらしたり、歩けなくなる方もいます。そうするとここを「重い皮膚病」と訳すのは、やはりこれもまた十分ではない。
 さらには、「重い皮膚病」と言えば、現代では、たとえば、「アトピー性皮膚炎」を連想することでしょう。となると、アトピーの人のことか、という偏見が生まれてくる。
 この言葉の翻訳はどんなにむずかしいことか!そして、その難しさは、日本特有です。新約聖書でさえ、ヘブル語のツアラトを用いていることでわかって頂けると思います。新約聖書はギリシャ語ですから、原語はレプラです。しかし、この言葉さえ使えないのです。レプロシー・イコール・らい病、という響きがあるからです。それほど、らいに対する、恐ろしいまでの偏見が日本には根強いのです。
  いのちのことば社の本で、『生きる−元ハンセン病患者谷川秋夫の77年−』という本があります。偽名です。家族に迷惑がかかるのを避けるためです。谷川秋夫さんは、小学生の時に発病しました。肘に水疱ができたそうです。しかもその傷がなかなか治らない。また、皮膚の所々が、全然痛みというものを感じない。つねっても、ひっかいても、感覚というものがない――そんなことで始まるのです。中学入試もそれで落ちました。だんだん症状がひどくなり、見た目にも薄気味悪がられるようになります。そして診断が下ります。
 家を出て、土蔵に住むのです。そして昼は決して外に出ない生活をしばらくします。14歳の時です。ある日、6歳上の兄が母親に愚痴っているのを窓越しに耳にしてしまいます。「こんな家やったら、嫁の来てもないわ」。そして秋夫さんはついに、瀬戸内海の長島という小島に造られた療養所に行き、そして63年
  「代われるなら、代わりてやりたしと、わずらうわれを、抱き泣きましし、かのときの母」
 聖書の世界にも、同じような偏見がありました。それが、マタイの福音書の最初の奇跡の背景にあります。この人物は、町から離れたところに、隔離されて生きていました。レビ記を見ますと、自分で「私は汚れた者です」と言わなければなりませんでした。この病気の人は、見ただけですぐにハンセン病患者だとわかる。イエスさまの後についてきたおおぜいの群衆は、おもわず足が止まったことでしょう。
  何という対照でしょう。一方で、群衆がいます。山上の垂訓を聞くことができました。イエスさまの教えに感動した人たちです。ところが、ここにいるのは、主イエスの前に進み出ることすらもはばかる人です。教えを聞くことなど、とうてい適わない人です。

2)しかし彼は、主を礼拝します。2節
 彼は、ひれ伏します。拝みます。この「ひれ伏す」という言葉をマタイ福音書は大事な場面でしばしば語ります。あのクリスマスの記事の中で、東の国から来た学者たちが、幼な子主イエスをひれ伏して拝んだとあるのはこの言葉です。28:17で、復活した主イエスに会った弟子たちがひれ伏したとあります。これらはいずれも、主イエスをひれ伏して拝む、つまり礼拝するということです。らい病を患っているこの人は、主イエスの前に進み出て、主イエスを礼拝したのです。しかも「主よ」と呼びかけています。イエスさまを主と呼び、礼拝しているのです。
 つまり、イエスさまの教えに耳を傾けてきた群衆ではなく、み前に出ることさえはばかられるこのらい病の人こそが、まず主イエスを礼拝している、ということです。
 そして彼の信仰は単純かつ絶大でした。そういうことがここに描き出されているのです。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります」。不思議な表現です。「治してください。いやしてください。きよくしてください」というお願いではないのです。原文を直訳すれば「もしあなたが望むなら、あなたは私を清くすることができます」となります。「もしあなたが望むだけで」、つまり新改訳聖書にあるように「お心一つ」、それだけで、あなたは望むだけで、私をいやしてしまう力があります、という絶大な信仰を表明しているのです。
 私たちは、ここから礼拝者の信仰を学びます。お言葉一つで、お心一つで、あなたの意志一つで、私の人生もこの世界も、変わってしまいます。そう信じているから、讃美歌を歌い、祈るのです。この男性が抱いていたのは、生半可な思いではありません。
 
3)主は手を伸ばされ、この人に触りました。
 イエスさまは病気を癒される時、いつも手を触れた    わけではありません。でも、この時は、手を差し伸べて、この人に触れました。だれも触れない、いや触れてはならない病気にかかった人、主は触れてくださいました。そしておっしゃいます。「わたしの心だ。きよくなれ」
 「わたしの心だ」と主はおっしゃいました。それは一体どんな心なんでしょう。この人を深く憐れみ、それだけでありません。この人のせつなる信仰に向き合うところの愛です。ひと言で言えば、この人に対する愛です。主の手が、私たちに差しのばされ、私たちに触れます。

 アメリカの雑誌に、娘に超未熟児の子どもが生まれたお父さんの投稿記事が載っていました。わずか600g。はじめて対面したときの驚きが詳しく記されていました。新生児のICUという特殊な環境です。自分の指輪をとって、その子につければ、腕まで全部通ってしまうほど小さかったと。その身体に痛々しく点滴が二本つながれていたというのです。
 その子には、お父さんがいなくて、お母さんである娘もショックで上手に接することができなくて、その時、看護婦さんから言われたそうです。
 「おじいさんでも、おばあさんでも、毎日病院にいらっしゃることができなら、ぜひ来てください。そして、小さくてもか弱くても、いらっしゃったら、この子の背中を指先でそっとなでてください。そして、触るたびに言うんです。愛しているよ。大切な大切なあかちゃんと」。
  看護婦さんは、こうおっしゃったそうです。
 「あかちゃんは、触れられている感触と、愛情を注ぐ声を一つのこととして理解します。そして、自分が愛されている、大事にされているとわかること、それがこの赤ちゃんにとって生きる力になるのです」。
 なるほど、愛情をもって触れられた感覚と、同時に「愛しているよ」という声が一つになったときに、あかちゃんは自分が大切な存在だということを自覚していくというのです。 
 少なくとも、このハンセン病の男性にはそうだったに違いありません。イエスさまのやさしい手の感触、そして「わたしの心だ、きよくなれ」との声は、一つでした。それが一つになって、イエスさまが自分をどんなに愛しておられるのか、この方の心がどれほど自分を大切にしているのかが、わかったはずです。
 イエスさまの心は、これから先、あらゆる場面であらわれます。わたしの心だ。あなたが神の民となること、あなたが神の国に入ること、あなたが神の愛を受け取ること、あなたが神の平安の中を生きること。さあ、それを受け取れ、といわんばかりに、主は彼に手をさしのべて、彼に触れました。それが、礼拝でありますように。その主の愛を受け取る、ことができますように。

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DATE: 2005.05.12 - 08:03

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