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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   イエスに出会った人々(7)――父親
イエスに出会った人々(7)――父親
   マルコ9:14−29

 このマルコの9章は、実におもしろい場面転換をします。2節に「高い山の上で」とはじまり、9節で「山を降りながら」と展開して、そして14節の「弟子たちのところへ帰ってくると」――これが山の下です。章全体が、山の上と山の下という構成です。
 それは、天上の世界と下界ぐらい差がありました。山の上で、イエスさまは、3人の弟子たちの見ている前で、御姿が変わりました。御衣が非常に白く光輝くのです。シナイ山で神様と対面したモーセがそうでした。そこにエリヤとモーセがともに現れて、雲がわき起こって、神様の声がします。そこは非常に霊的な世界でした。山の上、それは、イエスさまにとっても、弟子たちにとっても、すばらしい霊的な世界でした。
  しかし、山から下っていくうちに、だんだん現実の世界に接近し ます。12節でイエスさまはご自身の十字架に触れます。栄光のイエスさまを待っていたのは、十字架です。それが現実なのです。そして、山の下に降りてくると、紛れもないこの現実の世界が目の前に広がっていました。
 
 今日は、父の日ですから、この出会いを選びました。そこは父が苦悩する山の下に広がる現実の世界です。

 10年ぐらい前に、家庭内暴力の息子をお父さんが金属バットで殺害したという痛ましい事件がありました。息子は、中学1年の頃から、激しい家庭内暴力に走りました。お母さんとお嬢さんは、いのちの危険を感じて、別居。お父さんは、息子と二人で住んで、料理や洗濯もしました。カウンセリング相談所の先生は、親は強く出てはいけないと言われ、お父さんは、息子を受け入れてきました。しかし、もうこれ以上受け入れられないという絶望の朝、寝ている息子の顔をタオルで被して、「ごめんな」と一言、そして撲殺しました。
  拘置所に入ってから、何もいわないのに、このお父さんを支える会ができました。160人です。自分を支えてくれる人がこんなにいる。しかし、息子を支えることができたのは、私一人なのに、その私が息子を殺した、とお父さんは苦しい思いを告白し、刑が確定したら、一生償いを背負うとおっしゃいました。
 何という事件だというと思います。おおよそ、父の日にはふさわしくない話だろうと思いますが、しかし、今朝読んでいただいた息子と父親の姿と似ています。問題を抱える息子、苦悩する父親です。家庭内暴力、そして息子を殺すというのとは、ずいぶん違いますが、しかし、どこか共通点があります。
 裁判で、父親は、寝ている息子に殴りかかる瞬間の自分、その心臓の高鳴り、など克明に答弁していました。子どもの頃の小さなかわいい顔、思い出。息子を愛する思いと、この暴行に疲れ果てた父親。これが他人だったら、なんていうことはないのです。息子を愛するが故に、勘当するるわけにも行かず、その暴力に耐え、そして、憎しみからではなく、依然として愛を胸にもったまま、息子のいのちを絶ちに行ったというのです。恐ろしく複雑です。そして、これが山の下の世界の現実なんだろうと思います。
 聖書の中では、父親は息子の病と闘っていました。この子が幼い頃から、父親は息子の問題を背負ってきました。息子の病は18節にありますように、悪霊、悪の力が背後にあります。これまでの戦いで多くの傷を負って、22節に「私たちをあわれんで、お助け下さい」とあるように、息子の問題は、自分の問題でもあるのです。
 いや、似ているのは、そればかりではありません。人々の論じ合う姿です。14節「その回りに大勢の人の群れがおり、律法学者たちが弟子たちと論じあっていた」。それから、この問題を取り扱うのに四苦八苦している人々もいます。18節「お弟子たちにはできませんでした」。無能な人々、不可能な問題、悩める親子、野次馬、そして、「私たちをお助け下さい」と全部をさらけ出す父親です。

 さて、イエスと出会った人々、というシリーズですから、この意味深い物語の中で、特に、父親がイエスさまと会話している箇所から、学びたいと思います。
 9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
 9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
 9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
  
 この出会いの中心にあるのは、人生の発想の転換です。まず、父親はイエスさまにこう言います。「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、助けてください」。父親は、イエス様をじっと見て、はたしで、この方に出来るのだろうか、そう考えて、遠慮がちに言ったに違いないのです。ある意味で、当然です。弟子たちは、さんざんためしてみて出来なかったのです。父親の観点は、はっきりして言います。それは、イエス様ができるかどうか、ということ。
 ところが、イエス様は、この父親の発想を逆転しておっしゃいます。23節「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」。問題は、わたしができるかどうかじゃない。問題は、あなたが私を信じることができるかどうかだ。わたしには十分できる。問題は、わたしの能力ではない。問題は、あなたの信仰だ。
 これは、強烈な発想の転換でした。23節「信じる者には、どんなことでもできるのです」。それは、信じる者の能力を云々しているのではありません。そうだとしたら、「信じる者は、どんなことでもできる」と記されているはずです。イエスさまがおっしゃったのは、「信じる者には」「信じる者の上には」、神の力が及ぶ、ということです。「どんなことでも、神にはできるのです」。
 神には「お出来になる」「できる」・・・これこそ、私たちの希望です。神には、救うことができる。人の心を変えることも、罪を赦すことも、あなたを清めて、揺るがない霊をあなたの心の中に作ることもできる。神には癒すことも、生かすこともできる。神には、導くことも、備えることも、すべてお出来になる。これこそ、私たちの希望なのです。
 イエス様は、示してくださいました。神にできるかどうか、そんなことが問題なのではない。問題は、あなたがその神を信じるか、信じることができるか、それが問題なんだ、と。

 父親は、なんと返事したでしょうか。「信じます。不信仰なわたしをお助けください」。信仰の問題を突きつけられたとき、父親は、奇妙な返答をします。信じるけど、不信仰/不信仰だけど、信じるというのです。このアンビバレントな気持ち、私たちにもよくわかります。自分の信仰には、時に明確でない部分があるからです。
 以前、こんなことがありました。いつもお世話になっている病院でのことです。名前が呼ばれて、中に入って、またそこのカーテンの前で待ちます。前の人が、向こう側で、医者と話しています。どうやら、消化器系の調子がすごく悪くて、病院で検査したらしいのです。レントゲンをとったのか、胃カメラの写真か、それを見ながら、たぶんお医者さんは、入院とか手術の可能性とか、話していました。お医者さんは、「わかりましたね。いいですね」と繰り返し、いろいろ説明していらっしゃるのですが、患者さんの方は、そう言われても、わかるも何も、よくわからないのです。何がベストで、何がどうなるのか、どれくらい痛いのか……。その人は、最後にひとこと言いました。「よろしくお願いします」。その気持ちは、外で聞いてるわたしにも伝わってきました。「よろしくお願いします」
 私は、父親が言った「信じます。不信仰な私をお助けください」という訴えは、この「よろしくお願いします」と同じではないだろうかと思うのです。何がベストで、その先何がどうなるのか、よくわかりません。どこをどう信じていいのか、考えているうちに、自分は果たして信仰があるのか、それとも不信仰なのか。そんなことを分析して、考えていても仕方がありません。
 「わかりました。私は信仰の弱い者ですが、よろしくお願いします」。そう言って、父親は、子供をともかくイエス様にゆだねたのです。難しい問題を主にゆだねることによって、信仰が回復したのではないでしょうか。信仰があるから、心に平安だ、ゆだねることができる、のです。しかし、この場合は、難しい問題と格闘している自分自身の小さな、弱い、形をなしていない信仰なのですが、家庭の問題と共に自分自身を主の御手にゆだねたとき、父親の心に信仰がかたちをなしたのではないでしょうか。一歩踏み出して、主にゆだねたとき、信仰が立ち上がってきたのではないでしょうか。

 ハドソン・テーラーという有名なイギリスの宣教師(中国の奥地)にこんな話が残っています。初めての宣教旅行で、中国へ行く途中、彼の乗っていた船が島の入り組んだ海域を通ります。帆船でした。ところが、突然風がやんで、船は徐々に浅瀬に流されていきます。船長は、帆をおろさせて、一生懸命に舵取りをして、オールをこがせるのですが、着実に、船は、危険な方へ流されていきます。
 船長が、宣教師のところにきて、祈って神様の助けを得るよう頼みました。ハドソン・テーラーは言います。
 「わかりました。帆をあげなさい。そうしたら祈りましょう」
  船長は、風もないのに帆をあげる訳にはいかない、言いました。「いいや、あなたが帆を張らないのに、祈っても無駄です」――そうハドソンテーラーは船長に言いました。
 船長は「わかりました」と一言、そして船員に帆を張るように命じたのです。それから、テーラーは、船室にこもって、祈りはじめました。しばらくして、船長が急いでやってきた言ったそうです。
 「もう祈るのはやめてください。これ以上風が吹いたら、船が今度はコントロールを失ってしまう」 
 どうしようか、こうしようか、あれやこれや、迷っていないで、「よろしくお願いします」といって、帆をあげて、主にゆだねました。そのとき、主は力を現してくださったのです。

 イエス様にはお出来になるのです。どんなことでもお出来になるのです。問題は、あなたの信仰です、とイエス様に言われたとき、どうします? 確かに、小さな信仰かも知れません、未熟であるかも知れません、疑いのささやきも聞こえてくるかも知れません、決して強い揺るがない信仰とまでいかないかもしれません、でも、この父親に倣おうではありませんか。「信じます。不信仰な私をお助けください」。そういって帆を張るのです。「弱い信仰ですが、よろしくお願いします」。そういって、家族の問題を、主の前に差し出すのです。この素直さを主よ、与えてください。

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DATE: 2005.06.24 - 23:43
LAST UPDATE: 2005.06.24 - 23:44

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