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::: 高津教会 説 教 :::


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Name   fujimoto
Subject   キリストこそ、私たちの平和
キリストこそ、私たちの平和

 金曜日の夜、民放で「ヒロシマ」と題して、大きな特集が組まれていました。戦争の歴史的背景、原爆投下の背後にあったもの、兵器そのもの、被害の現実、そして現在と。これほどまでに、インパクトのある特集番組を見たことはありませんでした。戦後60年、映像と取材の力を結集すると、これほど見事にまとまるのか、と。
 原爆投下の当日、さまざまな人の証言を下に、そしてその被害の実態を含めて、証言とCGを使いながら、見事に再現されたあと、なんと番組は大胆にも、アメリカから一人の男性を連れてきました。原爆の開発に携わり、爆弾を投下したエノラゲイに乗っていて、投下後のキノコ雲を撮影した人物でした。そして、被害者の日本人との対談です。
 対談は、その惨劇を目の当たりにし、自分も味わって、その惨劇を60年間、片時も忘れたことのない日本人と、遠く空から爆弾を落として、戦争を集結させたと思っているアメリカ人の、大きなギャップを露呈していました。その意識のギャップの大きさに圧倒されます。彼は人の命を奪うには弾丸一発も、原子爆弾も同じだという見解でした。単なる道具だというのです。そこには、原爆が、人が決して作ってはならない、使ってはならない、人類を破滅に導く恐ろしい、悪の兵器だという認識が仰天するほど欠落していました。
 そして、彼は一つの言い逃れのように、戦争は難しい、真珠湾攻撃にしろ、ヒロシマに落とされた原爆にしろ、それはあまりにも悲惨なことだと。確かにそうでしょう。確かにそうなんです。しかし、それでも私たちが納得できないのは、「難しい」を言い訳に、悪を肯定することはできないのです。満州事変、そして日本軍によるアジアの侵略、沖縄の地上戦の悲劇、ロシアの参戦と、その後の日本人シベリア抑留。広島、長崎への原爆投下。ベトナム戦争、東欧の民族紛争、アフリカの部族紛争、イラク戦争と。   
  あらゆる戦争は、「より安定した平和」を達成するために、「平和」を掲げてなされてきたという、立派なへりくつがあります。国内の経済的政治的安定のために、外的をつぶすために、領土を拡大して安定した国家を作るためにと、あらゆる戦争は、自由や安定や平和を掲げてきたに違いありません。そんなへりくつを肯定してはいけないのと同様、戦争のどさくさに紛れて、戦争の罪深さに目をつぶってはならない、これが、私たちクリスチャンです。
 私たちは、戦争の中でなされたさまざまな悪行を戦争を理由に肯定してはならないのです。どこまでも言っても、その罪深さから目を背けてはならないのです。それがクリスチャンの姿ではないでしょうか。
 しかし、目を背けないだけではない、そうイエスさまはおっしゃいました。「平和を造る者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」戦いを避けるだけでなく、平和を造りなさいと。これが、どんなに複雑なことでしょう。私たちの国は、戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法を持つ平和国家です。実際には自衛隊は世界有数の軍事力なのですが、しかしあれは軍隊ではないことになっています。そのように、軍隊を放棄し、戦争をしないと宣言する、それが平和を実現する道だ、というのが、日本国憲法の精神でしょう。私たちクリスチャンは、このことを、本当にその通りだ、と無条件に受け入れることが多いのです。軍隊があるから、軍備を持つから戦争が起るんだ、「剣を取る者は剣で滅びる」と主イエスも言っておられるではないか、ということです。
 けれども、考えなければならないこともあります。戦後60年、この国が平和を享受してきたのは、この憲法を持っていたからと言うよりも、アメリカとの同盟関係の中で、アメリカの軍事力の傘の中にいたからではないでしょうか。パックス・ロマーナという言葉があります。「ローマによる平和」という意味です。二千年前の主イエスの当時、ローマ帝国の支配が確立したことによって、地中海沿岸世界にローマの軍事力で平和が保たれていたのです。第二次大戦以後の世界の平和は、これになぞらえて、パックス・アメリカーナと呼ばれます。アメリカの軍事力によって平和が維持されているという面が確かにあるのです。ソビエトが崩壊したとき、多くの民族紛争が東欧諸国を揺るがしました。そんなことを見るにつけ、この世界の平和は、軍事力によって守られているという現実を無視することはできません。軍隊があるから戦争が起る、とも言えるけれども、軍隊が平和を守っているという面もまた確かにあるのです。
 そのような中で、軍隊を持たない、戦争を放棄するというわが国の憲法は、世界にあってどのように理解されるのでしょうか。自分だけが戦争はしない、と宣言していれば世界に平和が実現するのか?、そう詰め寄られてもしかたがありません。しかしだからと言って、一部の人たちが言っているように、憲法を改正し、日本も軍隊を持って、交戦権を確立することが、平和を実現する道であるのでしょうか。決してそうではありません。特に侵略の歴史を持つ日本にとっては、あってはならない道でしょう。
 問題は残ります。つまり、争いを避けても、平和は実現しない、かといって、争いに身を投じても、決して平和は実現しない、という、この世界のジレンマです。
  さて、こうした難しさに対して、イエスさまはおっしゃいました。「平和をつくる者は幸いです」。その後、なんと、その人は「神の子と呼ばれる」、そうおっしゃったのです。神の子と呼ばれる――まさに神のような人だ、ということです。そして、そう呼ばれるのにふさわしい方が、主イエス・キリストご自身です。この方こそが、平和を実現なさる方なのです。それはどのようにしてでしょうか。

 エペソ2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
  2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、
  2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 実に象徴的です。実に本質的です。主は、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、十字架において敵対していた双方を一人の新しい人に造り上げたというのです。
 十字架の死において敵意が滅ぼされるとはどういうことでしょうか。ここには、人間の敵意は、罪から生まれるという洞察があります。私たちが人に対して敵意を抱き、隔ての壁を築いてしまう、それは私たちの罪によることなのです。たとえ自分が正しいとしても、そのことが人に対する敵意となって現れる時、私たちは罪に陥っているのです。罪のとりこになっているのです。
 そして聖書は、罪というのは、その根本にあるのは神に対する敵意だと教えています。私たちの、神様に対する、また隣人に対する敵意、罪を、主はご自分の身に引き受けて滅ぼし、のみならず、神様との和解、平和の内に生きる新しいいのちを与えていてくださるのです。その霊的な現実を見つめていくのが、私たちの平和です。敵意は、十字架の中に飲み込まれることができるのです。

 マーティン・ルーサー・キング牧師の言葉には、まさにそのような平和を作る人の思いが表現されています。

 「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。
 なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。
 私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。
 真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。
 国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。
 しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。」。
                
 「あなたがたをも勝ち取る」、それは、あなたがたを友として勝ち取るということです。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということです。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」 によって実現していくのだというこの言葉は、まことに、「平和を実現する者」の言葉です。
 そして彼がこのように語ることができるのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪を身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さっていることを知っているからです。
 そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができるのは、父なる神様が主イエスを死者の中から復活させ、死の力にも勝利していて下さることを知っているからです。
 彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子となったのです。キング牧師は39歳で暗殺されました。しかし、主イエス・キリストの復活によって、神の恵みが死の力に勝利したことを信じる私たちは、彼のこの言葉を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていくのです。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。その幸いにあずかることができる。

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DATE: 2005.08.19 - 18:19

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